そんな人の流れを縫うように、益田龍一は歩いていた。ある時は物陰に潜み、ある時は小走りに。
その視線が追うものは、悠々と闊歩する神の背中。
事の起こりは、至って些細な出来事だった。
益田を―――もとい、薔薇十字探偵社を頼ってきた依頼人を、榎木津が追い返してしまったのだ。席に着かせ、茶を出して、依頼内容を聞き出した所だったのに。
探偵直々に叩き出したものを追いかけて引き止める訳にも行かず、益田は扉と、憤然としている榎木津とを見比べて、結局榎木津に抗議した。
「何するんすかぁぁ!あのおじさん泣いてましたよ!」
「自分の嫁も繋いでおけない男なんか泣かせておけ!そんな事位で神に手間をかけさせるな!」
「手間なんかかからないじゃないですかぁ、どうせ僕が全部やるんですから」
「そうそう、マスヤマがしょうもない真似ばっかりしてるからああ云う輩が来るんじゃないか!やめなさい」
『ああ云う輩』の仕事をこなして日々の糧を得ている益田からしてみれば、たまったものではない。特に浮気の証拠探しなどは益田の得意分野であり、主要産業なのに。依頼人の男が出て行った扉を未練がましく見つめていると、榎木津が窓を指差してからからと笑った。
「外を見ろ!こんなに明るくて、暖かい!お前が隠れる場所なんかこの国の何処にも無いんだぞ。コソコソ追いかけて覗き見するなんて絶対に無理なんだ。だからみっともない真似をしない」
「そ、そんな事無いですよ。僕ぁ尾行は得意なんですから。春夏秋冬年中無休でやらせて貰います」
「いーや、無理だ!無駄だ!こんな話をしていることがそもそも無駄だ。下僕を叱っていたら喉が渇いたじゃないか。和寅ー、お茶!」
ひとしきり騒いだ榎木津は、和寅を探してすたすた歩いていってしまった。もやもやと釈然としないものを胸に残した益田を残して。
榎木津に散々罵倒されるのにはもう慣れたものだが、仕事を奪われた上アイデンティティまで否定されては黙っていられない。とはいえ、何を云っても話にならないので、結局黙っているしか無いのだ。
黙っているしか無いのなら、行動で示すのみだ。
益田をちょっとした反抗に走らせたのも、やはりこの気候の所為であろうか。
それから数日を経て、話は此処に至る。
榎木津がぶらりと出かけたのを、さも何事も無かったように見送った益田は、急いで鞄の中から衣装一式を取り出した。せっせと着替える益田を、和寅が冷めた眼差しで見つめている。
「止めておいたほうが良いと思うがねぇ」
「止めないでください和寅さん、これは僕の矜持の問題なんですっ」
「益田君に矜持なんてものがあった事のほうが驚きだよ」
この日のために誂えた春物の外套。日頃の益田の服装と結びつかないうぐいす色のそれは、出社時はおろか、外出時にすら着た事がないおろしたてだ。
長い前髪を撫で付けて、さらに念のため深く帽子を被る。勿論帽子も新品だ。首にはふんわりと膨らんだスカーフを巻いて、不自然でない程度に口元を隠した。
「どうですか、百貨店で買ったんですよ」
「色柄が変わっただけでいつも通りとても怪しいよ」
「おっとこうしちゃいられない、急がなくちゃ」
窓の外を見下ろすと、榎木津がすたすた歩いていくのが見えた。引き返して来る様子は無い。
階段を駆け下りて、ビルヂングから飛び出した。とは言え、出て来た所を見つかったら意味がない。そっと様子を伺い、遠くの榎木津が背中を向けているのを見計らうと、人ごみに紛れ込んだ。見失わない程度に、なおかつちょっと振り向かれた程度では顔が解らない程度の距離を探し、益田は歩調を緩める。春風を含んでなびく栗色の髪は、格好の目印だ。益田はスカーフの下でにやりと笑った。
「逃げたり隠れたりだったら、榎木津さんにも負けない気がするなぁ」
強風に煽られ捲れ上がった外套の裾を、慌てて押さえる。長い丈の中はいつも通りの服装なのだ。
榎木津は一度として振り向くことなく、春風を切って歩いている。桜の花びらが顔にかかったのか、ぷるぷると首を振っている事もあった。
悠然と大股で進んでいるので、益田は時折歩を速めて引き離されないようにしなければならなかった。足の長さの違いが恨めしい。
榎木津が角を曲がる時は、益田は少し身を屈め、塵箱などの遮蔽物の影から様子を伺った。無いとは思うが、角の向こうでにやにやしていないとも限らない。身を隠す障害物が少ない通りを歩く時はわざと迂回し、先回りして榎木津が通り過ぎるのを見計らってから合流した。なにせ相手は神なのだ。どんな予想外の行動に出るか解らない。
そうこうするうちに榎木津は、河川敷に辿り着いた。雪解けの清浄な水を含んだ川が、春の日差しを受けて眩しい。水面に浮かぶ桜の花びらが、くるくると回りながら川下へと消えていく。
並木に身を潜める益田の目の前で、榎木津は土手に横になる。若草が萌える地面は柔らかく暖かいだろう。そよそよと揺れる野の花に頬をくすぐられながら、榎木津は大きな欠伸をして目を閉じた。
「昼寝って…」
少しはゆっくり出来そうだが、いつ目を覚ますとも限らない。あまり潜んでいると、榎木津には気づかれないかもしれないが通行人が怪しむ。益田はそっと木陰から出た。さも散歩途中の青年を装って、ゆっくりとした足取りで河原を歩きながら時間を潰す。川辺の花を愛でるふりをしてしゃがみこんだり、鳥口の所作を真似て両手で四角い枠を作り、写真の構図を決める真似をした。その指が、自然に榎木津を中心に切り取る。
薄緑色の絨毯に寝そべる榎木津は、一枚の絵画のように春の景色に溶け込んでいた。道行く女学生の集団が眠る麗人を目ざとく見つけ、きゃあきゃあと歓声を上げる。他人の振りをしながらも、益田ははらはらした。
(あのおじさんは、僕の上司なんですよぅ)
名残惜しそうに去っていく彼女らとすれ違う時、益田は心の中だけで呟いた。一歩引いた所から客観的に見ていると、自分の事でも無いのに妙に気恥ずかしい。ふと見ると、黄色い声に気づいたのか、榎木津が身を起こそうとしている所だった。
慌てて身を隠し、動向を見守る。背中に草や土をつけたまま、榎木津は座り込んで川を眺めていたが、直ぐにふらりと立ち上がった。土手を上ってくる榎木津を見て、益田は慌てる。距離の目測を誤ってしまった。このままではかなり近くを通られてしまう。うずくまって出来るだけ身を小さく固め、帽子を深く被りなおした。
果たして榎木津は手が届きそうなほど近くを通ったが、一瞥もくれる事無く去った。寝ぼけたように半分目を閉じている。帽子の鍔の陰から、榎木津の髪に桜の花びらが付いたままになっているのが見えた。益田は一瞬手を出しかけ、すぐに引っ込めては歯噛みする。
(ああぁもう、いい歳して…)
榎木津の背中が大分小さくなったので、益田は立ち上がりその背を追った。街中に戻っていく。ふわふわと動く茶色い頭を、薄桃色の飾りが彩っている。その頭が建物の中へと消えた。益田も立ち止まり、看板を見上げる。
「甘味処かぁ」
幸いにも、彼は窓から見える席に座ってくれた。実際見栄えが良いせいか、飲食店などでは窓側の席で客寄せに使われる事が多い事を益田は知っている。美貌を花びらで飾った奇異な男に、道行く人が足を止めてくれるので益田としても隠れやすかった。
榎木津が注文したものは桜餅だった。繊細そうに見える白い手がつやつやの餅肌をわしと掴み、一口で食べてしまう所すら益田からは丸見えだ。頬を一杯に膨らませてもむもむと餡を噛んでいるのが、美しい造型と相まって通常以上に滑稽である。榎木津をはじめて見たに違いない野次馬が唖然としているのを見て、益田はスカーフの下で笑いを必死に堪えた。この場で、あの美しい男があんな表情をするなんて事を知っているのは自分一人なのだ。黙っていれば綺麗な男だという感想を、益田は訂正した。黙っていて、桜餅を食べていなければ綺麗な男だ。
店を出てきた榎木津は、当初と同じ足取りで進んでいく。この通りは、榎木津ビルヂングに繋がる道だ。益田は榎木津の背中を追うのを止めて、横道に入って駆け出した。調査終了。あとは尾行対象より先に事務所に戻って、何事も無かったような顔でお出迎えすれば良い。報告書を書くまでも無い、調査の証拠は全部自分の頭の中にあるのだ。
真っ赤な顔で駆け込んできた益田に、和寅がやはり冷めた目つきで水を渡してくれた。外套を脱ぎ捨て、帽子とスカーフと一緒に鞄に突っ込むと同時に、カウベルががらがらと鳴った。
「ただいまぁ」
「どうも先生、今日はどちらまで」
「うん、ちょっと」
ちょっと、だって。益田は噴き出しそうになる。
込み上げて来る笑いを噛み殺しながら立ち上がり、榎木津の前ににじり寄った。榎木津は眉を顰め、不審そうな顔をしている。それすらも快感だ。
「なんだカマ、にやにやして。気持ち悪い」
「うふふぅ、榎木津さぁん。頭に花びらついてますよッ」
いつに無く気安い手つきで、髪に落ちた花を落としてやった。その指先で、得意げに自分の頭上を指す。榎木津が記憶を視る際に視線を送る辺り。榎木津の行動は全てしっかりと記録されているのだ。それを視てこの男は何と云うか、益田は楽しみで仕方が無い。「コソコソ着いてくるなんてなんというオロカ!」と拗ねるだろうか、「勝手についてくるなッ!」と怒るだろうか。どちらにしても、この点については自分の勝ちだ。
しかし榎木津は大きく目を見開いたままで、益田に小さな紙袋を手渡した。
「ふぅん、まぁいいや、これ土産」
「はぁどうも、ありがとうございます」
記憶を視られた様子は無い。益田は釈然としないながらも、袋を開けてみた。中から現れたのは、ピンク色の餅米と塩漬けの葉の緑が眩しい和菓子。
「あ、桜餅…」
「食べたそうにしてただろう」
「そうですか?じゃあ頂きます…って、アレ?」
少し間が空いて、益田は榎木津に詰め寄った。
「…って、僕が居る事知ってたんじゃないですか!」
「知らないと思ってたのか!さすがオロカ、察しが悪いな!」
「そんな馬鹿な、えっ何時から!?」
「カマがカマらしく服の裾押さえてるところから」
「嘘ォ!」
それはすなわち、最初からという事である。
榎木津は自分がいることを承知の上で、あっちこっち歩き回っていたというのか。けれど益田の見る限り、榎木津の視線が一瞬でも自分が居る辺りを捉えたことなど無かったし、誰かが「尾行者が居ますよ」と口添えした様子も無かったのに。
「でもでも、絶対に榎木津さんこっち見ませんでしたよ!今日は僕の尾行人生に残るいい仕事の自信もあったんですよぉ!?」
「だから止めておけと云ったのに…諦めたまえよ益田君。君の負けだ」
益田はソファにへたりこんで、うわぁんと泣き声を上げた。榎木津はようやく益田の記憶を覗き込む。白いシャツの背中を常に追いかける像が視える。だから彼は気づかなかった。榎木津の2つの瞳を避ける過程で、数十、数百の瞳に曝されていたということに。
春風に沿って歩く通行人の記憶、河原で遊びまわる子どもの記憶、甘味処のウインドウに張り付く人々の記憶、その全てに映り込んでいる、うぐいす色の外套。
幾ら尾行に自信があるか知らないが、街行く全ての人間の目、ひいては神の目から逃れる事など出来はしないのだ。
桜餅を掌に乗せ、うじうじしている益田に榎木津の声がかかる。何処までも律儀に着いてきた彼に、今日一日ずっと云いたかった言葉だ。
「お前あの外套似合ってないぞ。一緒に歩いてて、とっても恥ずかしい」
――――
縦列デート。(@江古田ちゃん)な、長っ…。
眠りの世界からいきなり引きずり出され、益田は混乱する。視界一杯に広がる見慣れた天井が仄白くて、今は夜なのか、朝なのか、判らなくなった。肌寒い空気の中で頬だけがじんじんと熱い。
呆然としていると、目の前にぬうと何かが現れた。寝ぼけた頭でも、見間違いようのない栗色。
「榎木津さん」
「起きたか、バカオロカ」
鳶色の瞳を焦点に、次々と記憶が目覚めてくる。
ここは探偵社で、自分は此処に泊まったのだった。下宿に帰る体力も残っていない程に疲れ果てて。目を閉じたと思ったら目が覚めていた。久しぶりに深く深く眠っていたと思う。掛け布団代わりの外套がいつの間にか滑り落ちた事にすら気づいていなかった。
そこまで思い出した処で、頬が熱いのは屹度、榎木津に頬を打たれたのだと思い至った。途端に熱さが痛みに変わり、頬を押さえる。
「煩い!天罰だ!」
益田が此処で寝ているのは珍しい光景ではない筈なのに。榎木津がこんな早朝に起きている事の方が余程珍しい。
そう云えば、益田が眠った時には榎木津は不在だった。ふと見ると榎木津は外套を着たままだ。帰ってくるなり眠っている益田を見つけ、頬を張り飛ばしたのだろうか。
朝の冷気が寝起きの身体に寒すぎて、益田は落ちている外套を引き寄せた。
「何の罰ですかもう、癇に障ったなら謝りますけどぉ、何も殴るこたぁ…」
「こんな処で寝てたら吃驚するじゃないか!」
「何でですか!いつも僕ぁ此処で寝てますよ。まさか床で寝ろって云うんじゃ」
「お前の寝相が悪いから」
戻ってきた時驚いた。
ソファから右腕を落としたまま、力無く横たわっている下僕の姿。
目を閉じて其処にある見慣れた貌が、夜明けの光で妙に青白く。
だらりと垂れ下がった腕を取って、その冷たさに驚いた。
成すがままにぐったりとする益田は、静かすぎるほど静かで。
「―――死んでるのかと思った」
事務所の窓から入り込む生まれたての朝陽に照らされた榎木津の髪が、金色に透けている。伏せられた睫まで金色だ。
それに隠れる大きな瞳が煌いて、なんだか泣いているようで。
益田はそっと手を伸ばし、榎木津の頭に触れた。彼が抵抗しなかったので、ふわりと撫でてみる。
「あの、僕ぁ卑怯ですから、危なくなったら逃げますし、一応まだ若くて、大きな病気もしてないですし、ですから」
死んだりしませんから。出来るだけ。
うん、とも、否、とも云わず只俯いている彼に、さらにかける言葉も見つからなかったので、益田は榎木津を撫で続けた。
日光がそのまま形を成したような柔らかな髪に包まれる指先が、いつの間にか温かい。
お題提供:
――――
空前の榎木津→益田ブーム(榎木津←益田も並行して)。
カウベルの音もドアの金具が軋む音もいつも通りなのに、それに続く声だけが違っていた。
「ぉはようございまぁーす…」
「誰かと思ったぞ、益田君か?酷い声だな」
力なく笑う益田の声は、かさかさに乾涸びている。その音量も、隙間風の様にささやかなものに変わっていた。
毛糸の首巻を外しながら、骨の浮いた手で喉を撫でる。迫り出した喉仏の感触を確かめると、けほりと軽い咳が漏れた。
和寅も掃き掃除の手を止めて、少しばかり心配する素振りを見せる。
「風邪にしちゃあちょいと季節外れでないかい?」
「否、そんな、大した、もんじゃ、ないす」
粘膜が痛むのか、益田は切れ切れの声で答えるのがやっとだった。確かに顔色もまともだし、鼻水も出ていない。ただ声だけが労咳病みでもあるかのような悲惨さである。いつも通りにけけけ、と笑おうとしただけで喉が引き攣り、盛大に咳き込む始末だ。この調子では依頼人と話も出来ない。
「風邪じゃないなら何かねその声は。困るなぁ、先生にでも伝染されたら」
「それは風邪じゃないゾッ!」
蹴破るような勢いで、寝室の扉が開かれた。続いて2人の眼前に榎木津が飛び込んでくる。寝乱れた栗色の髪は好き勝手な方向に飛び出していて、怒った猫が毛皮を膨らませているのに似ていた。
目の前にずいと指先を突きつけられ、思わず益田は仰け反った。
「何故ならバカとオロカは風邪をひかないからだ。バカにつける薬は無いという位だからな、バカなだけでもうビョーキみたいなものだぞ。バカでオロカでその上風邪までひいたらもう」
「何回、バカって、云うんですかぁ…」
消え入りそうな声だ。引き絞るように発声する益田の表情は悲しげに歪んでいる。大袈裟に許しを請う時のそれに似た顔つきを榎木津が一瞥したかと思うと、すぅ、と両目が細められた。
「大方―――腹でも出して寝てたんだろう」
流れた視線が自分の記憶に留まった事に気づき、益田の顔から笑いが消えた。
病に弱った訳でもない頭で、揶揄する声音に含む意味を敏感に察してしまい、益田の顔に血が昇る。思い当たる点はただ一つ、剥き出しの腹部に散った、生温い快楽の残滓。
湯気が出そうな程、耳まで染めあげた益田の様子を見咎めたのは和寅の方だった。
「おいおい益田君、どうした事だね?顔が真っ赤だぞ」
「や、その、ちが」
「おお、これは酷い!熱がある!」
榎木津が更に距離を詰め、ぶつかる音がする程に額同士を寄せた。赤面を通り越して涙目の益田の口元から、声なき声が漏れる。その隙を突き、無防備だった左腕を捕らえた。
動揺からか、ふぁ、と情けない吐息が上がった。構わず、その身体を引きずるようにフロアを横切る。目指すのは、神の居室。
「寝室を貸してやろう。声が治るまで出てくるなッ!」
「えのきづさ…」
「なんて声だ!」
益田の身が寝台に投げ出されたのを確認すると、榎木津はバタリとドアを閉めてしまった。
扉の向こうに飲み込まれる直前の益田は、誰の所為で、と叫んでいたように思う。しかし大いに荒れたその声は、囁きのような音量で耳に届きかけた名前と共に、榎木津をより楽しませるだけで。
室内に朗々と響き渡る高笑いを、いつもの事と和寅は聞き流していたが、ふと眉を顰めて榎木津に声をかけた。
「…あれ、先生も一寸声おかしくないですか」
「ん、そうかな。そうかもな」
少しばかりかさつく痛みは、喉の渇きに良く似ている。昨夜の彼と同じく、渇きを癒したくて張り上げた声の名残。
厭ですよ集団感染なんて、と和寅は口元を手で覆う。
「何かお作りしましょうか、卵酒でも。益田君にも序でに作ってやるかなぁ」
少し考えた榎木津は、白い首筋を撫でながらにやりと笑った。
ひりつく痛みを治めるためには、これ以上のものは無いと思いついたのだ。
「―――暖かいミルクが飲みたい。蜂蜜入れて、うんと甘くして」
語尾を僅かにかすれさせた声は、成程確かに少し甘い。
お題提供:『ラルゴポット』様
――――
春コミ楽しかったです…!
プチオンリーに関わった全ての方に感謝を込めて今日は(も?)甘めで。あれ、甘め?うん、どうだろう…
「薔薇十字団の仲間じゃないすか、変なこと云うなぁ」
そう云って、鳥口君は笑いました(酔っていたからかも知れません)。
だから僕も酔っていることにして、「ですよねェ」とへらへら笑って、話題を変えました。
その話が盛り上がったので、先程の馬鹿げた質問は、彼の頭には恐らく留まる事無く酒と一緒に抜けてくれる事でしょう。
とは云え概ね好意的な返事を貰った事は、僕も悪い気はしなかったので、良い気になってどんどんグラスを空けました。
翌朝僕の頭蓋を内側から叩く割れ鐘に似た鈍痛によって、昨夜の蛮行を反省しましたが、鳥口君に質問した事については後悔していません。
「どうしてそんな事訊くんだい?」
そう云って、青木さんは不審そうに僕の顔を見つめました。
悪いなぁとは思いますが、表情が失せると本当にこけしに似ています。
重い空気を何とかしようと、「厭だなァ青木さん、質問を質問で返すのは疚しい事がある証拠らしいですよ?」と誤魔化してはみましたが、青木さんはそう簡単ではありませんでした。
疚しい事があるのはお前の方だ、と言いたげにじっとこちらを見ています。青木さんのこういう処本当面倒臭いよなァ、と後悔することしきりでした。
どんどん沈む空気の中で、僕の張り付いた笑顔ばかりが上滑りする夜でした。
「別に一緒に居るつもりじゃないけれどね。同僚だからかな、しいて云えば」
そう云って、和寅さんは掃除に戻りました。
ゴキブリ男と酷い仇名で呼ばれる彼ですが、窓掃除をするその掌が行き過ぎた部分は、一層晴れやかに青空を映し出しています。
僕など居ないように黙々と拭き掃除を終えた彼は、よいしょ、と声をあげて水で満たされたバケツを持ってふらふらと歩き出しました。
和寅さんが消えた室内は、何だか妙に広く感じます。
磨いたばかりの窓硝子にそっと触れると、白い指紋が残ってしまいました。
「しまったな」と思いましたが、それだけです。拭えば消える指紋同様、彼との一連のやりとりが僕の心に残ることはありませんでした。
榎木津さんですか?
訊けるわけないじゃあないですか。
仮にですよ、訊いてみたとしますよ。僕だと思って考えてください。―――ほらね、良い答えなんか返ってこなかったでしょうが。
逆に良い答えって何でしょうねェ?「お前を手放したくないからだッ!」…嗚呼駄目だ、全然似てなかった。すみません。失敗です。僕の隠し芸なのになぁ。
僕ぁ負けると判ってる勝負はしない主義なんです。とっくにご存知でしょ?
――――
春コミ前でテンション上がりすぎて逆に陰気な話に…明日は益田分補給してきます!