カウベルの音もドアの金具が軋む音もいつも通りなのに、それに続く声だけが違っていた。
「ぉはようございまぁーす…」
「誰かと思ったぞ、益田君か?酷い声だな」
力なく笑う益田の声は、かさかさに乾涸びている。その音量も、隙間風の様にささやかなものに変わっていた。
毛糸の首巻を外しながら、骨の浮いた手で喉を撫でる。迫り出した喉仏の感触を確かめると、けほりと軽い咳が漏れた。
和寅も掃き掃除の手を止めて、少しばかり心配する素振りを見せる。
「風邪にしちゃあちょいと季節外れでないかい?」
「否、そんな、大した、もんじゃ、ないす」
粘膜が痛むのか、益田は切れ切れの声で答えるのがやっとだった。確かに顔色もまともだし、鼻水も出ていない。ただ声だけが労咳病みでもあるかのような悲惨さである。いつも通りにけけけ、と笑おうとしただけで喉が引き攣り、盛大に咳き込む始末だ。この調子では依頼人と話も出来ない。
「風邪じゃないなら何かねその声は。困るなぁ、先生にでも伝染されたら」
「それは風邪じゃないゾッ!」
蹴破るような勢いで、寝室の扉が開かれた。続いて2人の眼前に榎木津が飛び込んでくる。寝乱れた栗色の髪は好き勝手な方向に飛び出していて、怒った猫が毛皮を膨らませているのに似ていた。
目の前にずいと指先を突きつけられ、思わず益田は仰け反った。
「何故ならバカとオロカは風邪をひかないからだ。バカにつける薬は無いという位だからな、バカなだけでもうビョーキみたいなものだぞ。バカでオロカでその上風邪までひいたらもう」
「何回、バカって、云うんですかぁ…」
消え入りそうな声だ。引き絞るように発声する益田の表情は悲しげに歪んでいる。大袈裟に許しを請う時のそれに似た顔つきを榎木津が一瞥したかと思うと、すぅ、と両目が細められた。
「大方―――腹でも出して寝てたんだろう」
流れた視線が自分の記憶に留まった事に気づき、益田の顔から笑いが消えた。
病に弱った訳でもない頭で、揶揄する声音に含む意味を敏感に察してしまい、益田の顔に血が昇る。思い当たる点はただ一つ、剥き出しの腹部に散った、生温い快楽の残滓。
湯気が出そうな程、耳まで染めあげた益田の様子を見咎めたのは和寅の方だった。
「おいおい益田君、どうした事だね?顔が真っ赤だぞ」
「や、その、ちが」
「おお、これは酷い!熱がある!」
榎木津が更に距離を詰め、ぶつかる音がする程に額同士を寄せた。赤面を通り越して涙目の益田の口元から、声なき声が漏れる。その隙を突き、無防備だった左腕を捕らえた。
動揺からか、ふぁ、と情けない吐息が上がった。構わず、その身体を引きずるようにフロアを横切る。目指すのは、神の居室。
「寝室を貸してやろう。声が治るまで出てくるなッ!」
「えのきづさ…」
「なんて声だ!」
益田の身が寝台に投げ出されたのを確認すると、榎木津はバタリとドアを閉めてしまった。
扉の向こうに飲み込まれる直前の益田は、誰の所為で、と叫んでいたように思う。しかし大いに荒れたその声は、囁きのような音量で耳に届きかけた名前と共に、榎木津をより楽しませるだけで。
室内に朗々と響き渡る高笑いを、いつもの事と和寅は聞き流していたが、ふと眉を顰めて榎木津に声をかけた。
「…あれ、先生も一寸声おかしくないですか」
「ん、そうかな。そうかもな」
少しばかりかさつく痛みは、喉の渇きに良く似ている。昨夜の彼と同じく、渇きを癒したくて張り上げた声の名残。
厭ですよ集団感染なんて、と和寅は口元を手で覆う。
「何かお作りしましょうか、卵酒でも。益田君にも序でに作ってやるかなぁ」
少し考えた榎木津は、白い首筋を撫でながらにやりと笑った。
ひりつく痛みを治めるためには、これ以上のものは無いと思いついたのだ。
「―――暖かいミルクが飲みたい。蜂蜜入れて、うんと甘くして」
語尾を僅かにかすれさせた声は、成程確かに少し甘い。
お題提供:『ラルゴポット』様
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春コミ楽しかったです…!
プチオンリーに関わった全ての方に感謝を込めて今日は(も?)甘めで。あれ、甘め?うん、どうだろう…