ほんとは、とても心配していました。
階段を駆け上がる気配が近づいてきたかと思うと、事務所のカウベルが3日ぶりに騒がしい音を立てた。榎木津は3日前の朝とは違う服を着ているが、闊歩する靴だけは同じものだった。その靴先だけを視界に入れ、益田は顔も上げずに作業を続けている。
「ただいまぁ」
「ああ榎木津さん、お帰りなさい。もう、今度は何処に行ってたんですかぁ。本当に出たら出っぱなしの鉄砲玉なんですから」
「煩いぞマスカマ、僕は地面を這い回る下僕と違って忙しいのだ。お前こそ目を離せばこれだ。そんなものほっといて、神を労え!」
調査書の束をまとめながら、ようやく益田が顔を上げた。目にかかった長い前髪を掻き上げ、溜息を落とす。顔は見なかったが、ふんぞり返っていることだけは手元に落ちる影の形でわかっていた。
「わかりましたよもう、困った人だなぁ。和寅さん居ないんで大した事出来ませんよ?お茶ですか、珈琲ですか?」
「珈琲!熱いやつ。直ぐにだぞ」
「直ぐにったって、お湯が沸くのは待って貰わないと」
「待たないッ!直ぐと云ったら直ぐなんだ。うだうだ云ってないで早くするッ!」
帰ってきたらこれだ、とぼやきながら、益田は小走りで台所に向かった。ひんやりと薄暗い台所で、出来るだけ急いで薬缶に水を張り、火にかける。水が温まるのを待つ間に、ミルのハンドルを回して豆を挽く。がりがりと豆が鳴る音と、ハンドルを通して手に伝わる実の潰れる感触。辺りに漂う新鮮な珈琲豆の香りを味わいながら、ほうと息を吐いた。先程のやれやれと云った風情のそれではなく、安堵の意味を込めて。
心配していましたとか、探したんですよとか、あまり遠くに行かないでくださいとか。そんな事は云わない。云うべきでは無い。彼がどんなに束縛を嫌い、依存を疎んじるか知っているから。
(鬱陶しがられるだけだし)
ハンドルの手応えが軽くなり、豆を挽き終わったことを知る。探偵専用のカップを探す序でに、食器棚の影からそっと様子を伺ったが、すでに榎木津は其処に居なかった。ベルの音がしなかったので、きっと自室だ。遠出したので昼寝でもするのだろう、気まぐれな男だと思う。
「じっとしてないなぁ、あのおじさんは…」
益田は肩を竦めたが、3日ぶりに触れる白磁の手触りに、口元が緩んだ。
ほんとは、とても。
貴方に、会いたかったのです。
「3日経ってもオロカなやつだな」
榎木津はどかりと寝台の上に腰を下ろした。3日ぶりに触れる慣れた弾力。ドアの鍵はかけなかった。
自分の事を見ようともしなかった下僕に最初こそ腹が立ったが、叱り付けようとした途端に視えた映像に怒りが萎えた。
そこに映っていたのは薔薇十字探偵社のドアだった。金の金具が朝日を受けてきらめく事もあれば、摺り硝子が暗い夕闇に沈んでいる事もあった。何をしていても、視線は直ぐに扉の前で止まる。幾度も、幾度も。事務所を出たその後も、名残を惜しむように扉を見つめ、ビルヂングを出た後は夕焼け空を背景にした探偵社の窓が映っていた。
長い脚を組み合わせ、榎木津は自室の扉をじっと見つめている。
彼の下僕が3日間、ずっとそうしていたように。
――――ほんとは、お前がどんなに待ってたか知ってる。
お題提供:『ラルゴポット』様
――――
勝手に心配して勝手に拗ねる益田萌え。
「惜しいことをしたな」
大きな机から声がして、益田は顔を上げた。眠そうに半分目を閉じた榎木津が、三角錐の先端を白い指でつついている。
「惜しい、って何がでしょう」
「ジャズバンドに入るつもりだったんだろ」
ああ、と益田は納得した。確かに最初に此処に来た時、そんな事を云った気がする。
なんだかんだ云って無事に探偵助手―――見習い―――下僕―――になってからは生活ががらりと変わってしまい、そんな事を思い出す暇も無かった。
榎木津は三角錐から指を離して、空中でひらひらと振った。鍵盤をかき鳴らす仕草を模しているらしい。せわしなく動く指の隙間から暖かい日差しが差し込んで、綺麗だと思う。
音は聴いたことはないが、とぽつりと呟き、鳶色の瞳が益田を見た。
「手つきは悪くなかったぞ」
そう云われて、益田もつられて両手を構える。少し指先を丸めた、慣れた形。中指を軽く弾ませると、爪の先が木に当たってこつりと鳴った。この指は、しばらく鍵盤に触れていないことを思い出す。乗馬鞭の質感に慣れた手には、今は白弦が少し重く感じるかもしれない。かつて演奏前にしていたように、両手を軽く結んでは開いた。
「それで、何が惜しいんです?」
眼下に広がる町並みを見下ろしていた榎木津は、椅子ごとぐるんと回転して再び益田の方に向き直った。その目は相変わらず半分閉じられているが、少しだけ笑みの形をしている。
「お得意になってやったかもしれないのに」
「お得意に、ですかあ…」
榎木津自身ジャズクラブでギターを弾いていたこともあるくらいだから、演奏を聴きに行くこともあるのだろう。
薄暗いステージの上で、鍵盤の前に座り込む自分を想像した。グランドピアノでも、エレクトーンでも良い。スポットライトに照らされながら2色の弦を奏でる。一心不乱に、テーブルについた客たちを見ることもなく。
拍手と共に人々がくれる歓喜の視線に、愛しい飴色が含まれるのかすらも知らない。
益田はゆっくりと頭を振った。
「弟子が、いいです」
ふぅん、とだけ云った榎木津は、うとうとと目を閉じている。
窓から吹き込む風は、懐かしい春の匂い。
これが、あの日の僕が選んだ未来の形だ。
――――
益田が探偵助手になったのが3月だと思い出したので、忘れないうちに書いてみた。