カーテンの隙間から忍び寄る月明かりが、一本の白い筋となって横切っている。
それ以外明かりの無い室内を満たすのは、湿った水音と2人分の呼気だ。途方もなく長い時間をかけて榎木津の裡に呑み込ませた指先で感じる熱に、益田は追い詰められていた。じりじりと蠢く2本の指をぴったりと包む粘膜が熱い。この温度も、感触も、全てが益田にとって未知のものだ。
「…うっ、」
だから榎木津が少しでも声を上げるたび、益田は手を止めて様子を伺わなければならなかった。今の彼の表情は益田がどの場合でも見たことがない形に歪んでいたので、それが苦痛によるものか、そうではないのかが判別出来ない。性急すぎただろうか、不快な思いをさせただろうか。考えても解らないので、榎木津が息を吐くのを待って、再び指先を潜らせる。慎重すぎるほど、ゆっくりと。
中空を見上げていた榎木津の瞳がぎっと益田を睨んだかと思うと、肩に担いでいた長い脚が振り子のように揺れ、丸い踵が薄い背中を強く打った。
「痛だっ」
「うざったい!」
熱い息の下から、榎木津が吼える。汗で張り付いた柔らかな髪と、眦が赤く染まっている事を除けば昼間下僕を叱る時と同じ表情だったので、益田は少し安堵した。
それも束の間のことで、指を含んだ部分が急に収縮したことで益田は動揺した。榎木津が上体を起こしたのだ。羽織ったままのシャツがシーツと擦れ、衣擦れの音を立てる。
「いつまでやってるんだ、バカオロカっ、愚図!」
「愚図、って…」
益田は知らなかったが、気の短い榎木津にしては、実際良く耐えていた。
彼にしてみれば児戯に等しいような触れ合いや、鳥の羽のような接吻、生娘同然のおっかなびっくりな手つきにも好感すら覚えていたものだ。だが、いざ繋がるための準備となると余りに段取りが悪い。潤滑の為に用意された液も思うように入っていかず、益田の手首を伝って零れ落ちる方が多い位だった。慣らしているのかシーツを汚しているのか判然としない程のそれは時間と共に冷え切り、べちゃりとした不愉快な感触を榎木津に伝えている。
益田はと言うと、そんな榎木津の苛立ちは勿論の事、怒られている最中含ませた指は果たして引き抜くべきなのか否かと言うことすら思いつかなかった。
「す、すみません。手探りなもので、勝手が解らなくて」
「電気点ければ勝手が解るとでも云うのか」
この暗がりでも緊張で憤死しそうなのに、明かりの下で直視したら駄目だ。暴発する。益田は頭が落ちそうなほど首を振って拒否した。
益田にすれば奇跡そのものである榎木津の上半身が、蒼い闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
「だって厭でしょう、痛い思いするの」
益田は、自分の技巧には最初から期待していなかった。男同士の事では尚更だ。想像の世界ならともかく、現実に快楽を与え昇りつめさせる事はきっと難しい。ならばせめて、出来るだけ苦痛を与えないように。痛いからもうしたくない、と言われないように。入り込んだままの指の隙間から、また少し滴が零れた。
榎木津の踵が、再び背に触れる。今度は蹴られたのではなく、ぐいと引き寄せられた。ふらついて倒れこんだ拍子に、思いのほか近くで視線がかち合う。榎木津の声が、吐息交じりながらも明瞭に響いた。
「―――初めてなんだからどうしたって痛いんだ、だからもう、いい」
益田の胸の内で、心臓がばくんと跳ねた。頭に血が昇る。押し付けられた腿裏にか、色を帯びた両の瞳にか、赦しを得られた事にか、もしくはもっと下賎な、「初めて」という言葉に興奮したのか。顔が熱を持ちすぎて、瞼まで熱い。何か気の利いた事でも云って榎木津を安心させたかったが、何も言葉が出ない。ただぱくぱくと口を開閉させる益田を、榎木津が訝しげに見上げていた。
「あ、あの、あの」
「何だお前。金魚みたいな顔で金魚みたいな真似して」
「…夢、みたい、です」
やっとの思いで搾り出した言葉は、やはり格好がつかなくて。それでも榎木津は、益田の痩せた肩にその腕を回して微笑んだ。
「夢なものか」
僕はこれから痛い思いをするんだぞ。
益田は目を見開き、おどおどとして、それから「頑張ります」と、また場にそぐわない事を云った。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
――――
『4.神の愛し子』と対になる話です。2日連続で…何を…
下手だけどいたいけな益田等、(酷い)趣味をギチギチに詰め込んでみました。