「よく続いてる方じゃねェか」
木場が突然そう切り出したので、榎木津は顔を上げた。場末のおでん屋台では、眉目秀麗な探偵と筋骨隆々とした刑事の組み合わせは妙に浮いている。
指の形からして全く違う2人のグラスは、同じ酒で満たされていた。それをぐいと煽った木場が、箸先を榎木津に突きつける。
「お前んとこの小僧だよ、何だあの、ヘラヘラした、太鼓持ちみてェな」
「ああ、マスヤマか」
「上司の出鱈目に愛想尽かしする頃じゃねェのか」
榎木津は味噌のかかった大根をつついていた。マスヤマ――益田は、榎木津の出掛けに何かごそごそやっていたので恫喝の上蹴飛ばしてやった。けしからん事に、また何か内緒で仕事を請けて来たらしい。散らばった紙片を慌てて掻き集めていたが、無視して出てきたのだ。
思い出したら苛苛してきた。榎木津の箸が、大根にぐさりと突き刺さる。良く染み込んだ出汁がほとばしった。
「出鱈目なのはバカオロカだ。何度云っても憶え悪く変なコソコソした泥棒みたいな事ばーっかりする。探偵になりたいとか云っていたのに何の心算だか」
「何の心算って、探偵の心算だろうがよ」
「そんなだから殴られて帰ってきたりするんだ」
本当にバカだ、と付け足す。
口端に傷を作って帰った益田にそう云ってやった時、「酷いですよ榎木津さん、僕ぁ一生懸命」と半べそをかいていた。
「この通り、証拠も持ち帰りましたから」と写真機を掲げてへらりと笑う。切れた唇の紅さと八重歯の白さが印象に残った。
木場が見るのは、酒に唇をつけてぶくぶくと吹いている榎木津の不機嫌そうな横顔。
しばし眺めた後、大きな掌で榎木津の背中をばすばすと叩いた。
「何をする、馬鹿修」
「テメェにも並みの人間らしい部分があるんじゃねェか」
「豆腐が人間を語るな」
悪口の応酬にも木場は動じず、強面一杯に笑顔を浮かべている。何か秘密の宝物を見つけた子供のように。
押し殺せない笑いを零しながら、硝子球の瞳を向けている榎木津に云う。
「そのマスヤマとか云う小僧に、何か思う処が在るんだろ」
「バカ。すごい愚か者。すぐ泣く。」
ああ今日は目出度ェな、親父酒。と言い置いて、木場はこうも云った。
「そのバカで愚かですぐ泣く手下を―――憎からず思ってやがるな」
「…修ちゃん酔ってるのか?」
云っている意味が解らない。
マスヤマが何だって?
憎からず、と云われれば憎くない。憎かったら傍に置いてない。時々途方もなく苛苛させられる。目の届かない処で勝手なことをしている時。勝手に傷を作った時。僕の云う事を、全く判っていない時。
これは当たり前の所有欲ではないのか。
ということは、ぼくはマスヤマを所有したいのか?
逃げも隠れもするが、自分を探して来た時と同じに、最後は必ず戻ってくる彼を、今以上に。
「結構じゃあねぇか、偶にはお前も振り回されろ!」
ざまぁみやがれ、とでも言いたげに笑い続ける木場の大きな背中を、革靴が踏みつける。榎木津の右足だ。
思わぬ攻撃にテーブルへ倒され、衝撃に耐えかねた酒瓶がごろごろと転がっていく。「テメェ何しやがる!」と木場は喚いたが、榎木津は聞いていなかった。
靴底越しに伝わる背中の筋肉は分厚く、堅い。違うな、と思った。彼の背中はもっと薄い。感触はどうだったろうか。綿のシャツに隠されたその背に触れさせろと云ったら、また泣くだろうか。
(マスヤマめ)
伸びかけの前髪の隙間からちらちらと覗く黒い瞳を思い出す。自分から此処に来たくせに、弟子でいいと云ったくせに、本意ではないと諦めて流される風な色をしている。
なのにそれは何時もほんの少し、期待を帯びていて。
だから彼の眼を見ると、蹴飛ばしてやりたいような、期待に応えてやりたいような、妙な気分にさせられる。
他の誰でもない、馬鹿で愚かですぐに泣く、あの男の前だけだ。後にも、きっと先にも。
「―――生意気ダ!」
発言とは裏腹に、その口元は楽しげに持ち上がっている。
下僕なんかに惹かれている事、木場修なんかに気づかされた事、腹が立つ事は幾らもあるが―――
(こんなに愉快な気分なのはどうしてだ!)
精々、振り回してもらおうじゃないか。
うふふ、という含み笑いが、やがて大きなものになっていく。
色を変えた夜の闇を、神の高笑いが引き裂いた。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
――――
榎木津→益田に挑戦したけどあまりいつもと変わらない。
桜の木のように堂々と立ち、ふわふわと軽そうな栗色の髪が揺れている。
きらきら輝く飴色の瞳は、世界の全てすら見渡せそうだと思う。下僕の浅薄な心中ならば尚更だ。
その視線は僕を突き抜けて、何処か知らない世界を視ている。
貴方が壊した世界は今、少しづつ組み立てられている。
認めるしかないのだ、其処には貴方が居なければ。
なのに貴方は待ってくれない。意気揚々と、何処までも走っていってしまうから。
貴方に名前を呼ばれたなら、僕は何処でも付いて行く。
「マスヤマ!」
そんな貴方に、僕は。
柳の木のようにゆらゆらと立ち、しっとりと重そうな黒髪が靡いている。
妄信に鈍った黒い瞳は、僕の背中ばかり追っている。神の心中も判らない癖に。
その視線は僕の表層で立ち止まり、狭い世界の物差しに閉じ込めようと躍起だ。
お前が作り直した世界は今、一寸の揺らぎで又崩れそうだし。
認めたくは無いが、此処に僕が居てやらねば。
だけど僕は待ってやらない。意気消沈のポーズで、何時までも立ち止まっているな!
お前は名前を呼びながら、僕に何処でもついて来い。
「榎木津さん」
そんなお前に、僕は。
――――
面霊気を読み直して「榎木津→益田もあって然るべき」と思い、
とりあえず榎木津と益田について壷ポエム風に(…)整理。
正反対の2人が交差する瞬間を狙う日々です。
日が傾きはじめ、京極堂の軒先にも暗い影が落ち始めた頃。
「やっぱり此処にいた」
すら、と障子を開けたのは益田だった。四方を古書に囲まれた座敷に居るのは、この世の災難を煮詰めて飲み干しでもしたような顔をしている中禅寺と、猫のように背中を丸めて眠っている榎木津である。本の頁を捲る指が止まり、やっと迎えが来た、と言った。
「早く持って帰ってくれ、邪魔で敵わん」
「元より其の心算なんですけどね、折角大人しく寝てるし少々休憩させてもらおうかなーなんて」
嗤いながら座り込む益田に、中禅寺はやれやれと頭を振った。勝手に座布団を引き寄せて、居座る気配すら見せている。
「前にも云ったが、榎さんに似てきたね。それも悪い処ばかり」
「滅相もない、僕ぁこの人みたく我儘じゃあありません。さっきも其処で奥様にお会いして」
お茶でも如何?って言われたんですがいえいえ僕ぁ主人を迎えに来ただけですのでお気遣いなくと言って礼儀正しく入ってきたんですから、と胸を張る。
中禅寺は眉を顰め、「そう云う所が」と言いかけて止めた。話を聞かないという点まで似てしまっている気がしたからだ。飼い主とペットは似るというが、探偵と探偵助手にも適応するのだろうか。ちらりと見た益田の顔は、生憎以前と変わることなく黒髪に覆われ、吊った目をしていた。顔に何か付いているとでも思ったのか、その手が尖った顎をなぞる。
「こんな男の我儘なんて聞いてやらなくていいのに」
「いやぁもう慣れました。最近では僕の対応もソツがないもんです。ツーと言えばカーと言いますか、喉が渇いたと言えば茶と言いますか」
身振り手振りで茶を出す仕草までしてみせる益田は少し得意げですらある。褒めたわけでは全く無い。喉が渇いたなら飲み物の類を出すのも当然だと思うが、以前は干菓子でも出していたと言うのか。茶も出していないのに妙に滑りの良い益田の舌は留まることを知らない。
「大分榎木津さんのお考えも解るようになっちゃって」
その言葉を聴き、中禅寺の眉がぴくりと動いた。
「大きなことを言うね」
「まぁ中禅寺さん程じゃあないと思いますが、薔薇十字団随一という自負はありますとも」
「自負はあっても、自信は無いわけだね」
きょとんとしている益田と未だすやすやと眠っている榎木津を同時に見て、中禅寺はそう言った。榎木津が彼をバカだのオロカだの言うのも解る、と思うのはこんな時だ。榎木津曰く神である探偵になりたいと言う彼はやはり人間であり、榎木津の表層にばかり囚われ、一挙一動に振り回されている。まさに「取り憑かれた」ような妄信ぶりをこうも見せ付けられては、らしくもなく、手助けしてやりたくなるではないか。
僕が口を出すのも無粋だが、と前置きして中禅寺はその指先を寝転んでいる榎木津に突きつける。
「いいかね益田君、こいつは―――」
「だァれが我儘だッ!」
バネ仕掛けの玩具のような勢いで、榎木津が跳ね起きた。ぐるりと首を回し、益田と中禅寺を交互に見ていた鳶色の瞳は、最終的に中禅寺を睨みつけた。その頬には畳の跡が残っている。
「京極、あまり下僕を甘やかすな。こいつは直ぐ図に乗る」
「甘やかしているのはどっちだよ」
「知るか。おいバカオロカ、ぼくの居る所何処でもフラフラ現れて何の用事だ」
「夕食に呼びに来たんですよ。和寅さんがカレー作って待ってますから」
榎木津さんのご要望で、と言ったところで中禅寺が噴き出した。細い黒髪の隙間から、人の悪い笑みで榎木津を見上げている。榎木津は歯噛みして、不機嫌の矛先を益田に向けた。案の定益田は肩をびくつかせ、榎木津の心を苛立たせると同時に、少しだけ満足させる。
「慣れたとは随分な言い草だったな、カマの癖に」
「カマ関係ないじゃないですかぁ、僕ぁカマじゃないですから余計関係ないですよ」
「カマでもウマでもどうでもいい!」
榎木津の顔がずいと益田に寄せられ、益田は身を強張らせた。この美貌と強い瞳を直視するのには、どうしても慣れない。畳の跡が未だ消えてない、とどうでもいいことを思った。
すぅ、と榎木津が息を吸い込む。
益田は身構え、中禅寺は本を閉じた。古書に唾でも飛ばされては堪らない。
2人の予想通り榎木津は大声を出したが、予想と違った点もあった。
「喉渇いた!お茶!あと饅頭!粒餡は嫌だゾ!やっぱり紅茶!紅茶に饅頭は合わないから、やっぱりお茶でいいや!寒い!毛布借りてこい!座布団がないぞ!ずっと僕を好きでいろ!退屈だから何か面白いこと!肩凝った!眠い!枕!ん?やっぱり眠くないな、お茶早くしロ!早くーーーーー!」
「え?え?」
「2回は言わない!さっさとする!」
予想を超えた勢いで矢継ぎ早に繰り出された指示の数々に、益田は目を白黒させる。対応しきれない。実際後半は驚きで思考が止まってしまって何を言っているかも良く憶えていないのだ。お茶と、饅頭と、紅茶と…紅茶は要らないのだったか。
指折り数えておろおろする益田を榎木津が睨んでいるので、益田はとりあえず立ち上がって座敷を飛び出した。
ばたばたと益田の足音が遠ざかるのと入れ替えに、千鶴子がひょいと顔を出す。愛用している盆の上に、人数分の湯飲みを携えて。
「折角お茶を淹れたのに、もうお帰りになったの?」
「そのうち戻ってくるだろうから、その辺に置いてやってくれ」
走り回って喉が渇くだろうから、冷めた位が丁度良いだろう。
それにしても何だあれは。あれでは――通じるものも通じない。
自分は熱い茶を啜りながら、中禅寺はぶすくれている榎木津の横顔を見やった。その瞳は庭に、いや、下僕が転げるように駆け下りたであろう眩暈坂に向けられている。
益田の愚かさと間の悪さ、2人の似たり寄ったりな不器用さを思い、つい零れた溜息が湯気を吹き飛ばした。
「…こんな男の我儘なんて聞いてくれなくていいのに」
「我儘じゃない、命令だッ!」
これだから、と中禅寺は呆れ顔をし、それを見た千鶴子がころころと笑う。
沈み行く夕陽が益田の道行きを辛うじて照らしている刻限のことだった。
――――
益田かわいい(他に言うことはないのか)
中禅寺の出る話は台詞が増えて地の文が減ってしまうのが困ります。台詞が多いのはいつもだった。技量不足。
「それはこっちの台詞。なかなかこんな話出来る人いないすよ」
彼らが飲み屋の隅に席を取る時の決まり文句だ。
乱雑な喧騒の中に隠して、心に秘めたものを少しだけ並び立てる。それらを肴に、からかったり、囃し立てたり、慰めあったりするのだ。
宴の終焉と共に元通り仕舞い直す頃には、以前よりは整理がついている。整然とさせていれば、また暫くは惑わされることもない。少なくとも益田の方はそう信じていた。
やがてつまみも切れて、手持ち無沙汰な箸先で散らばった刻み葱を転がしていた彼らの耳に、柱時計が打つ音が聞こえた。
「もうこんな時間かあ、どうする?」
鳥口も伸びをして、酔いの回った頭で考える。少々呑み足りないが、財布の方が心細いのも事実だった。安酒とは言え、このまま行くと2,3日は水で暮らす羽目になるかもしれない。そう告げると益田は「鳥口君てば正直だなあ」と言って、けけけと嗤った。彼はこんな嗤い方を何時覚えたのだったか。
「じゃあ宅呑みにしようよ。実は今朝出掛けに実家から一升瓶が届いてね、あれきっと酒だから」
「うへぇ、そいつは私に鮒。つまみは缶詰でもあれば言うことないっすね」
「へえ鳥口君鮒が好きなんだ。って、それを言うなら渡りに船!」
ひとしきり笑いあった後、2人して飲み屋を後にした。
益田のもとに届いたという一升瓶だが、開けて吃驚。酒どころか、酢だった。益田は瓶のラベルをためつすがめつして呆然としているし、鳥口は笑い転げている。眺めていても酢が酒に変わるわけもなく、益田は瓶を抱えたまま引っ繰り返った。ごん、と鈍い音がしたが酔っているためか気にも止めない。
「なんで酢なんか送ってくるかなあー!」
「今度は味醂を送ってもらうといいすよ、アルコールには違いないし」
「甘露煮になっちゃいますって」
また笑う。寝転がったままで大笑いしていた2人だったが、ふと顔を上げた鳥口は、益田の動きが少しおとなしくなってきたことに気づいた。
「大丈夫すか益田君、呑み過ぎ?」
「いや、力抜けたら眠くなってきちゃって…」
這うようにして部屋の隅に畳んであった布団に近づき、もふりと飛び込んでそのまま動かなくなった。鳥口は慌てて、益田を引き剥がす。酔った状態でうつ伏せに眠ったら窒息する。ついでに抱きしめられていた酢の瓶も引き離す。
目も口も半開きでぐったりとしている益田を支えながら、足で適当に布団を広げた。
「しっかりしてってホラ、今布団敷いたから」
鳥口君やさしーい、等と言っている益田はもはや半分夢の中のようである。寝ぼけたような口調で、つらつらと繰言を述べていた。
「榎木津さんも酔っ払ってその辺で寝ちゃったりするんで、僕ぁいっつも苦労するんですよう。猫の子じゃないんで運ぶのも大変ですしい、起きてても余計煩いんで僕ぁもう生きた心地が、うわあ」
益田のお喋りは、鳥口が彼を布団に投げ落としたことで中断された。
未だぼんやりしている益田の首からタイを引き抜いてやる。痩せた喉元に少しばかり規視感を憶え胸が打ったが、今夜は月が明るすぎる。
首が楽になったのか、益田はふう、と深い息をひとつ吐いた。
「もう寝な」
明かりを消してやると、部屋は暗くなった。月光のためか、何処か蒼い。
もう眼を閉じている益田は、口元に薄い笑みを浮かべてぽつりと呟いた。
「…鳥口君といる時が、一番安心できるなあ…」
「お世辞はいいって」
お世辞じゃないのにぃ、という声はすぐに小さくなり、寝息に変わった。後顧の憂いも何もないかのように安らかに眠る益田の貌を、傍らに膝をついた鳥口が見下ろしている。すでに酔いは醒めはじめていた。
「仕様がないなぁ、益田君は」
益田の頭部をぽん、と叩いてやる。眠りに落ち始めた彼には、慰撫に思えたかもしれない。
鳥口は益田より少しだけ解っているのだ。益田が一番に求めているものは、此処に居る内はきっと見つからないということを。
心の全てを打ち明ける相手も。
安心出来る場所も。
心を預けて眠れる時間も。
―――しかしどうすれば益田が気づくのかまでは、鳥口にも解らない。だから受け入れる。それしか出来ない。
今は眠る益田の髪に白い光がかかっている。ばらりと額にかかった長い前髪をそっと捲った。それは正しく慰撫の仕草。
鳥口は立ち上がり、窓にかかるカーテンを静かに閉めた。
何もかも照らし出す程の月明かりから、益田を守るように。
「おやすみ」
暫定的な一番で居よう。自分か彼の、どちらかが辿りつくまでは。
――――
薔薇十字恋愛部ですが、『1.私以外の~』と合わせると益田がとんでもないやつに見える…。
鳥益、青益等の薔薇十字系統文は、榎木津への好意を自覚・無自覚の狭間でさ迷う益田を絡めて書いているつもりです。それにメンタル重視で付き合うのが鳥口、フィジカル重視で付き合うのが青木って感じでしょうか。あっでも鳥口と益田もやることやってたり…うーん未だよくわからない。深いです、益田。
そしていつになく長いキャプション(≒言い訳)
「なんですかこれ」
「見て判らないのか、ケーキだ。ケ・エ・キ」
何の用かは知らないが不承不承実家に帰っていた榎木津が戻った午後、薔薇十字探偵社の一角は甘い香りに満たされた。
こってりと塗られた雪のように白いクリーム、ふりかけられた粉砂糖はさらに白い。円く大きな土台の天辺にぐるりと王冠のように戴く赤い苺は、まだ濡れているような瑞々しさだ。
見るからに繊細そうなこの菓子を壊すことなく榎木津が持ち帰っただけでも、益田には奇跡のように思えた。
心なしか恭しい手つきで紅茶を淹れた和寅が、傷ひとつない表面にせっせとナイフを入れている。
「お土産に持たせて下さったそうで」
子供の使いじゃないんだと榎木津は不機嫌そうだったが、ふわふわのスポンジ台の隙間から赤い苺の断面が顔を出した時は手を叩いて喜んだ。
真っ白な皿に、倒れてしまわぬようにそっと盛り付ける。
「なかなか庶民の口には入らん高級品ですぜ、私ゃ値段を聞いて腰が抜けるかと思いました」
いやはや、と軽く首を振った和寅は自分の分の皿を持って立ち上がった。
「此処で一緒に食べればいいじゃないですか」
「こんなものお喋りしながら食べたらバチが当たる、自分の部屋でゆっくり頂きますよ」
では先生、ごゆっくり。
そう言い残して和寅は自室へと消えていった。後には探偵机につく榎木津と、ソファに腰掛けた益田、切り分けられたケーキが残される。
ちらりと様子を伺うと、榎木津は既にさくさくとケーキをフォークで切り出していた。益田も「いただきます」と手を合わせ、新雪のようなクリームに手をつける。最初は抵抗無く突き刺さったが、スポンジの弾力が心地よい抵抗を益田の手に伝えてきた。
ケーキは美味だった。上品な甘さと、遅れてやってくる苺の酸味が交じり合って疲労した身体にじんわり広がる。クリームはこってりしているかと思ったがそれは一瞬のことで、呆気ないほどさらりと溶けて快い余韻だけが残る。ぼそぼそした菓子を嫌う榎木津の為にか、スポンジにはシロップが染み込んでいた。予想を裏切る滑らかな舌触りにしばし陶然となる。
暖かな紅茶を口に含めば、知らず柔らかな吐息が胸の底から零れた。
「美味しい」
適度な食事に加え、こういうのも偶には悪くない。悪くない所か、大歓迎だ。
(榎木津さんもおとなしいし)
ふと探偵机に目をやれば、榎木津はケーキを食べるのを止めていた。頬杖をついて、こちらを見ている。逆光ではっきりと顔は見えないが、どうも益田を見ているらしかった。
「? 榎木津さん…?」
目が合った――と思う――ところで首がこきりと傾いて、「旨いか」と問いかけてきた。
「え。ええ、旨いですよ。流石ですね、いつもこんないいもの食べてるんですか」
「もっと食べるといい」
予想外の発言に、益田は紅茶を噴き出しそうになった。食べるなと言われることはあるかと思ったが。
「ええっ、結構ですよ。榎木津さんのお土産じゃないですか」
「そうだぼくの土産だ。だからぼくが良いと思ったように使う!」
颯爽と立ち上がり、すたすたと歩き出したかと思えば益田の真横に腰掛けた。その手には半分ほど残ったカットケーキが乗った皿がある。苺は先に食べてしまったのか、残っていなかった。
優雅ではあるが何処か性急な手つきで、榎木津のフォークがスポンジを切り取った。それがぬっと口元に差し出され、益田は仰け反った。
「ホラ、食べなさい」
「ええぇ!?」
二度吃驚。
蟲惑的な香りが鼻腔を擽るが、益田はそれ処ではなかった。単純に意味が判らない。気まぐれにしても、度が過ぎている。油断して口に入れた瞬間、鋭利な先端で喉を一突きにされるのではないかとすら思った。
「いいですいいです、結構です。僕ぁこういったものは食べつけなくて、胃がもたれるというか」
「良く言う」
榎木津らしからぬ平板な声にはっとした。金属の柄に似た光が、榎木津の瞳から放たれている。
「あんな顔をしておいて」
笑みの失せた顔は、益田の抵抗力を削ぎ落とす。
「そんな」
物欲しそうな眼でもしていたというのか。誰が?僕が?
……まさか。
眼前に突きつけられた銀の食器は、益田の心臓を貫く槍のようで。
益田は言葉を忘れたように、それでも首をひたすら横に振った。
その顎を取られる。顎骨に直に伝わる指の感触が痛いほどだ。
思わず戦慄いた唇に、しっとりしたクリームが触れる。
「ぼくが、くれてやると言っているんだ!」
半ば無理やりに口内に含まされた。
舌の上に感じるフォークの冷たさと、柔らかなスポンジのコントラストに、頭が眩む。砂糖の味の奥から湧き上がる、焼け付くような甘さ。
上目遣いで見上げた榎木津の顔は、まるで溶かすような熱を含んでいて。見てはいけないものを見たと思いながらも、益田は眼を逸らすことが出来なかった。
勘違いしてしまいそうだ。
現状で満足しているなんて、全くの嘘なのだと。
貴方が僕を、――――――なのだと。
ケーキの欠片を飲み込んだ後も、どうしたものか判らず銀食器を咥えたままの益田に榎木津の声がかかる。
「マスヤマ」
「うぐ、ふぁい」
「お前外でケーキ食べるな。食べるなら此処にしなさい」
「ええっ!?」
無茶苦茶な命令を下す榎木津はいつものように笑っているので、益田はまた何も判らなくなった。
――――
甘いものは別腹。
王道BL展開に挑戦→そして失敗を繰り返すブログです。