「今夜抱きますよ」と言われた。
煎餅布団の上で、益田は膝を抱えている。隙間無くびっちりとカーテンを閉め切った部屋の中で、自分の手の甲だけがじんわりと白かった。
「どういうつもりなんだろうなぁ、青木さん…」
いつものように薔薇十字団の3人で酒を酌み交わした別れ際のことだった。ふらつく腕を掴まれて、青木は確かにそう言った。酔っ払いの戯言と見過ごすには、彼の瞳は真摯すぎて。結局是とも否とも言えぬまま、気づけば何事も無かったかのように、彼の丸い後頭部は雑踏の中へ消えていた。夜闇のように暗い目の中に、呆然としている自分の姿が映っていたのは憶えている。
「結局風呂まで入っちゃったしぃ」
肌が火照るのは湯に温められた所為ばかりでは無い。夏も過ぎ去り、今夜の風は冷たすぎた。芯まで身体を温めなければ眠れない。飲み屋で酒精や煙草の匂いまで染み付いてしまったし、石鹸で隅々まで身を清めたのは其の為だ。他意など、無い。
とはいえ剥き出しの爪先が冷えてきて、益田は足先をもじつかせた。布団に入っていれば足も冷えないだろうか。けれど青木が入って来た時、自分が布団に入っているというのは、如何にも据え膳然としていて非常に宜しくないと思う。新婚初夜の新妻でもあるまいし、布団の上で正座しているというのも大層具合が悪い。こうしていても埒が明かぬし、持ち帰った仕事でも片付けてしまうか…いや、やはり駄目だ。こんな夜更けに煌々と明かりがついていては、待っていたと思われてもおかしくない。結局益田は、布団の上で三角座りをしている以外に落ち着かないのだ。
することもなく部屋を見渡して気が付いた。こういう場合、部屋の鍵はどうするべきなのだろう。開け放しておくのは具合が悪い。階段を上る足音が自室の前で止まり、ゆっくりと扉が開けられるのを想像するだけで憤死しそうだ。しかもその瞬間はいつ訪れるか判らない。心の準備をする為にも、矢張り鍵は閉めておくべきだ。そう思った益田は立ち上がり、内鍵を落とす。ガチャリという音がしたが、益田は鍵を握ったまま立ちすくんでしまった。
鍵を閉めたということは、開けなければいけないということだ。古来夜這いというものは、室内に引き入れた時点で合意と看做されるものだと言う。自分がこの鍵を開けた瞬間、青木に何をされても一切文句は言えないということになる。拒否するなら開けなければ良いだけのことなのだが、寒風吹きすさぶ中わざわざ此処まで来た青木を無下に拒絶するのは完全に礼儀に反している。改めて返事をして断るにしても、ドア越しでは可哀想だ。想定される会話の内容からして、近隣住人の目を考えてもやはり一度は彼を部屋に入れる必要がある。煮え切らない施錠音がひっきりなしに廊下に響いていたが、益田はそれにも気が付いていない。
「勘弁してくださいよ…」
結局益田は元通り布団の上で座り込むに至っている。眠ってしまえば問題は先送りになるかと思ったが、青木の声が耳の奥で反響して眠ることも出来ない。膝を抱えてゆらゆらと揺れながら、なにひとつ解決していない問題を取り出しては仕舞い込む作業を続けていた。
榎木津相手ならば、こんな悩みを抱えさせられることもない。その他の部分においてはこれ以上悩みが多い男も居ないが、こと榎木津相手の色事においては、益田は悩む暇すら与えられた事もなかった。風呂に入っていようがいまいがお構いなしだ。石鹸の匂いがするだの、酒臭いだの、動物的な感想を述べられる事には閉口するが、榎木津から与えられる五感全てに煽られている益田にとって自分のことなど二の次だ。鍵の問題にしても、そもそも榎木津はこの部屋になど来たことは無い。万が一来ることがあったとしても、鍵を閉めてなどいれば大声でカマだの何だの言いながらドアを破壊せんばかりに叩きつけられることは容易に想像できる。
選びきれない選択肢を前にして、なし崩し的に持ち込まれる榎木津との夜が、今はただ懐かしくてならなかった。
膝に顔を埋めて、益田は声をくぐもらせる。
「いやだなぁ、もう…」
真っ暗な部屋の中、動くものは益田の輪郭だけで。
「…あれ?」
益田が異常に気づいたのは、明かりも点けぬ室内が薄明るくなった頃だった。
何事もなく正常に朝を迎えてしまったという、異常に。
「――――結局来なかったじゃないですかあ」
益田の恨みがましい声が降る。
青木はと言えば、狭いコンクリの階段に座り込んで、悪びれることもなく握り飯を頬張っていた。昼休みを狙ってやって来るとは、前職の経験も無駄ではなかったということか。口をもぐもぐさせながら、いかにも哀れを誘いたげに眉を下げる益田に「ごめんごめん」と適当に謝る。馬鹿正直に起きて待っていたようで、痩せた貌は青白さを増し、目の下にはうっすらと隈が刻まれていた。
「先輩と呑んでて忘れてた」
「忘れてたって…」
膝に置いていた包み紙と水筒をわざと脇に置けば、益田が座る場所はない。益田はもとより座り込む気などなかったようで、立ったまま青木を見下ろしていた。益田の身体で日光が遮られて、少し肌寒い。影が落ちた前髪が秋風に嬲られている。
「それは無いでしょう、僕の純情を弄んでおいて」
「純情って」
言うに事欠いて純情とは。思わず失笑が漏れたが、構わず2つめの握り飯を手に取った。
租借の合間に、益田のお喋りに生返事を返す。落葉のように降り注ぐ益田の言葉は、冗談めかして青木の不貞を責めているようでもあり、自分自身に言い訳をしているようでもあり、他の誰かに許しを請うているようでもあった。
青木はそれらを飲み込む事無く、飲み干した温い茶で洗い流してしまう。
「―――昼休みもう終わりなんで、帰りますね」
「酷い男だなあ」
酷いのはどっちだ。
指に付いた飯粒を歯でこそげ取り、青木の昼食は終了した。ズボンの膝をぱたぱたと叩いて、わざと益田の肩に掠めるように脇を擦り抜ける。不服そうに自分を追う黒い瞳に、一瞬だけ視線をくれてやって。
「思い出したかい」
誰が好きか。
すれ違い様に耳元に囁いて、それから青木は振り向きもしなかった。判っている、益田はもう追ってこない。赤くなったか青くなったか、彼の気配が遠ざかる。
道に迷った振りをして誰かが迎えに来るのを待っている。そんな男に与えたものは、一晩限りの猶予。
「バカオロカ、ね」
誰にともなく呟いた青年は、神様ほどに優しくは無い。
――――
自家チャットネタその2(「今夜抱きますよ」と言っておいて結局来ない青木様)
薔薇十字団いち心が男前だと思います。そんな青木が好き。
煎餅布団の上で、益田は膝を抱えている。隙間無くびっちりとカーテンを閉め切った部屋の中で、自分の手の甲だけがじんわりと白かった。
「どういうつもりなんだろうなぁ、青木さん…」
いつものように薔薇十字団の3人で酒を酌み交わした別れ際のことだった。ふらつく腕を掴まれて、青木は確かにそう言った。酔っ払いの戯言と見過ごすには、彼の瞳は真摯すぎて。結局是とも否とも言えぬまま、気づけば何事も無かったかのように、彼の丸い後頭部は雑踏の中へ消えていた。夜闇のように暗い目の中に、呆然としている自分の姿が映っていたのは憶えている。
「結局風呂まで入っちゃったしぃ」
肌が火照るのは湯に温められた所為ばかりでは無い。夏も過ぎ去り、今夜の風は冷たすぎた。芯まで身体を温めなければ眠れない。飲み屋で酒精や煙草の匂いまで染み付いてしまったし、石鹸で隅々まで身を清めたのは其の為だ。他意など、無い。
とはいえ剥き出しの爪先が冷えてきて、益田は足先をもじつかせた。布団に入っていれば足も冷えないだろうか。けれど青木が入って来た時、自分が布団に入っているというのは、如何にも据え膳然としていて非常に宜しくないと思う。新婚初夜の新妻でもあるまいし、布団の上で正座しているというのも大層具合が悪い。こうしていても埒が明かぬし、持ち帰った仕事でも片付けてしまうか…いや、やはり駄目だ。こんな夜更けに煌々と明かりがついていては、待っていたと思われてもおかしくない。結局益田は、布団の上で三角座りをしている以外に落ち着かないのだ。
することもなく部屋を見渡して気が付いた。こういう場合、部屋の鍵はどうするべきなのだろう。開け放しておくのは具合が悪い。階段を上る足音が自室の前で止まり、ゆっくりと扉が開けられるのを想像するだけで憤死しそうだ。しかもその瞬間はいつ訪れるか判らない。心の準備をする為にも、矢張り鍵は閉めておくべきだ。そう思った益田は立ち上がり、内鍵を落とす。ガチャリという音がしたが、益田は鍵を握ったまま立ちすくんでしまった。
鍵を閉めたということは、開けなければいけないということだ。古来夜這いというものは、室内に引き入れた時点で合意と看做されるものだと言う。自分がこの鍵を開けた瞬間、青木に何をされても一切文句は言えないということになる。拒否するなら開けなければ良いだけのことなのだが、寒風吹きすさぶ中わざわざ此処まで来た青木を無下に拒絶するのは完全に礼儀に反している。改めて返事をして断るにしても、ドア越しでは可哀想だ。想定される会話の内容からして、近隣住人の目を考えてもやはり一度は彼を部屋に入れる必要がある。煮え切らない施錠音がひっきりなしに廊下に響いていたが、益田はそれにも気が付いていない。
「勘弁してくださいよ…」
結局益田は元通り布団の上で座り込むに至っている。眠ってしまえば問題は先送りになるかと思ったが、青木の声が耳の奥で反響して眠ることも出来ない。膝を抱えてゆらゆらと揺れながら、なにひとつ解決していない問題を取り出しては仕舞い込む作業を続けていた。
榎木津相手ならば、こんな悩みを抱えさせられることもない。その他の部分においてはこれ以上悩みが多い男も居ないが、こと榎木津相手の色事においては、益田は悩む暇すら与えられた事もなかった。風呂に入っていようがいまいがお構いなしだ。石鹸の匂いがするだの、酒臭いだの、動物的な感想を述べられる事には閉口するが、榎木津から与えられる五感全てに煽られている益田にとって自分のことなど二の次だ。鍵の問題にしても、そもそも榎木津はこの部屋になど来たことは無い。万が一来ることがあったとしても、鍵を閉めてなどいれば大声でカマだの何だの言いながらドアを破壊せんばかりに叩きつけられることは容易に想像できる。
選びきれない選択肢を前にして、なし崩し的に持ち込まれる榎木津との夜が、今はただ懐かしくてならなかった。
膝に顔を埋めて、益田は声をくぐもらせる。
「いやだなぁ、もう…」
真っ暗な部屋の中、動くものは益田の輪郭だけで。
「…あれ?」
益田が異常に気づいたのは、明かりも点けぬ室内が薄明るくなった頃だった。
何事もなく正常に朝を迎えてしまったという、異常に。
「――――結局来なかったじゃないですかあ」
益田の恨みがましい声が降る。
青木はと言えば、狭いコンクリの階段に座り込んで、悪びれることもなく握り飯を頬張っていた。昼休みを狙ってやって来るとは、前職の経験も無駄ではなかったということか。口をもぐもぐさせながら、いかにも哀れを誘いたげに眉を下げる益田に「ごめんごめん」と適当に謝る。馬鹿正直に起きて待っていたようで、痩せた貌は青白さを増し、目の下にはうっすらと隈が刻まれていた。
「先輩と呑んでて忘れてた」
「忘れてたって…」
膝に置いていた包み紙と水筒をわざと脇に置けば、益田が座る場所はない。益田はもとより座り込む気などなかったようで、立ったまま青木を見下ろしていた。益田の身体で日光が遮られて、少し肌寒い。影が落ちた前髪が秋風に嬲られている。
「それは無いでしょう、僕の純情を弄んでおいて」
「純情って」
言うに事欠いて純情とは。思わず失笑が漏れたが、構わず2つめの握り飯を手に取った。
租借の合間に、益田のお喋りに生返事を返す。落葉のように降り注ぐ益田の言葉は、冗談めかして青木の不貞を責めているようでもあり、自分自身に言い訳をしているようでもあり、他の誰かに許しを請うているようでもあった。
青木はそれらを飲み込む事無く、飲み干した温い茶で洗い流してしまう。
「―――昼休みもう終わりなんで、帰りますね」
「酷い男だなあ」
酷いのはどっちだ。
指に付いた飯粒を歯でこそげ取り、青木の昼食は終了した。ズボンの膝をぱたぱたと叩いて、わざと益田の肩に掠めるように脇を擦り抜ける。不服そうに自分を追う黒い瞳に、一瞬だけ視線をくれてやって。
「思い出したかい」
誰が好きか。
すれ違い様に耳元に囁いて、それから青木は振り向きもしなかった。判っている、益田はもう追ってこない。赤くなったか青くなったか、彼の気配が遠ざかる。
道に迷った振りをして誰かが迎えに来るのを待っている。そんな男に与えたものは、一晩限りの猶予。
「バカオロカ、ね」
誰にともなく呟いた青年は、神様ほどに優しくは無い。
――――
自家チャットネタその2(「今夜抱きますよ」と言っておいて結局来ない青木様)
薔薇十字団いち心が男前だと思います。そんな青木が好き。
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迂闊だった。
益田は只、己の手落ちを嘆くばかりだった。
頭を抱える彼の身を包むのはストライプ柄の綿シャツであり、彼は昨日も同じ服を着ていた。しかし違う点が一点。彼は今『素肌』にシャツを纏っているのだった。
夕べまでは確かに着用していた、白い紳士肌着。
それをうっかり忘れてきてしまっているのである。今は閉ざされた、彼の神たる榎木津探偵の居室に。
しかし不幸中の幸いと言うべきか、現在室内は無人だ。榎木津は朝からふらりと外出してしまい、これを好機と見た益田は和寅を――半ば無理やりに――使いに出すことに成功した。
榎木津の衣服と益田の衣服では、下着と言えど素材からして全く違うのだ。洗濯の時に気づかない筈がない。いい加減暗黙の了解とも言える二者の関係ではあったが、こういった形での露見はいかにもふしだらで宜しくない、というのが益田の見解であった。
誰も居ない今のうちに、どうにかして自分の痕跡を回収しなければ。
見る者もないフロアで、益田は慎重に榎木津の寝室に続くドアノブを回した。
差し込む陽光に、塵がキラキラと舞っている。
そう言えば日中この部屋に入るのは初めてだと益田は気づいた。昨夜もそうだったように、榎木津に手を引かれるのは決まって夜更けのことだ。そして朝日が昇る前にはいつも寝室を抜け出してしまう。知らない部屋の様だ。
気恥ずかしさを憶えるが、照れている暇はない。迅速に仕事をこなしてしまわねばならないのだ。
さっと室内に視線を配らせ、益田は「うわあ…」と声を上げた。
いつものこととは言え、寝台と言わず床と言わず、大量の衣服が散乱している。空き巣に入られた服屋です、と言われれば信じるだろう。着たものやら着ていないものやら、何もかも一緒くたにされている。
溜息をひとつつき、益田は床に膝をついて衣服の分類を始めた。量こそ多いが、色物や柄物さえはじいてしまえばあとは簡単だ。
何処にいても分かりそうに真っ赤なシャツ、榎木津以外誰が着るのかと思うほどの原色が眩しいジャケット。少女のように可憐な桃色の衣装まで出てきた。それを一番上に乗せる。
衣服の洪水に酔いそうな中、益田はふと一点で手を止めた。漆黒の、懐かしい艶のある生地。思わず持ち上げると、金釦が光を跳ね返してきらめいた。
「学生服」
それは正しく学生服だった。校章らしきものもそのまま付いている。行儀の良い詰襟から一直線に連なる金色の釦。長らく眠っていたものか少し吊り癖がついていたが、すっくりとした仕立ての中で袖口が少し擦り切れているのを見て、着用者の気配を感じた。
「あのおじさんにも学生のころがあったんだなあ、当たり前だけど」
肩口を持って目の前にかざし、少し榎木津の顔を想像してみたがイマイチ上手に決まらなかった。彼がこの服を着ていた時から十何年の時を経ているのだから当然と言えば当然だが、新鮮な驚きがあった。何の気なしに身に添わせてみると、腕はぴったりだったが肩が少し合わなかった。いつのものだろうか。まさか中学ということはないだろうが。
「高校ダッ」
「へえ、物持ちいいです…ね…」
あっと思った時には遅かった。事務所の内鍵を落とすのを忘れていたことに気づく。
恐る恐る振り向けば、いつから其処に居たものか、開け放っていたはずのドアにもたれ掛かった榎木津がにやにやと笑っている。
散らばった榎木津の衣装に囲まれて、学生服を抱きしめている――ように見える――この状況。誰にも申し開き出来ない。ましてや神になど。血の気が引いたが、条件反射的に浮かべた卑屈な笑顔を解くことが出来ない。
笑みを崩さぬまま、榎木津の爪先が益田の膝を軽く蹴った。
「カマだカマだとは思っていたが加えてヘンタイだったのか」
「ちが、ち、違います」
「違わなぁい!」
言うが早いか、積み上げられた衣服の海に埋められた。原色の波と、榎木津の残り香にくらくらする。
倒された拍子に本当に抱きしめる形になった制服の上から、榎木津の掌が胸を押さえた。
厚い生地を通しているにもかかわらず、着忘れた肌着の分彼の体温を近くに感じる様な気がして、瞼が熱くなる。
「ここで問題だ、変態下僕」
そうだ、この部屋は明るかったのだ。
「これを着た僕と、お前がこれを着るのと」
もう負けです。負けでいいです。言わないでください。その先を聞いたら、きっと。
目の端に写る桜色に、益田は桜吹雪の中に立つ若き榎木津の幻影を見た気がした。
――――
自家チャット宿題「学ラン」。本番誰か書いてください。
小さな幸せ=榎木津と益田に学ランを絡められたこと ということで…
益田は只、己の手落ちを嘆くばかりだった。
頭を抱える彼の身を包むのはストライプ柄の綿シャツであり、彼は昨日も同じ服を着ていた。しかし違う点が一点。彼は今『素肌』にシャツを纏っているのだった。
夕べまでは確かに着用していた、白い紳士肌着。
それをうっかり忘れてきてしまっているのである。今は閉ざされた、彼の神たる榎木津探偵の居室に。
しかし不幸中の幸いと言うべきか、現在室内は無人だ。榎木津は朝からふらりと外出してしまい、これを好機と見た益田は和寅を――半ば無理やりに――使いに出すことに成功した。
榎木津の衣服と益田の衣服では、下着と言えど素材からして全く違うのだ。洗濯の時に気づかない筈がない。いい加減暗黙の了解とも言える二者の関係ではあったが、こういった形での露見はいかにもふしだらで宜しくない、というのが益田の見解であった。
誰も居ない今のうちに、どうにかして自分の痕跡を回収しなければ。
見る者もないフロアで、益田は慎重に榎木津の寝室に続くドアノブを回した。
差し込む陽光に、塵がキラキラと舞っている。
そう言えば日中この部屋に入るのは初めてだと益田は気づいた。昨夜もそうだったように、榎木津に手を引かれるのは決まって夜更けのことだ。そして朝日が昇る前にはいつも寝室を抜け出してしまう。知らない部屋の様だ。
気恥ずかしさを憶えるが、照れている暇はない。迅速に仕事をこなしてしまわねばならないのだ。
さっと室内に視線を配らせ、益田は「うわあ…」と声を上げた。
いつものこととは言え、寝台と言わず床と言わず、大量の衣服が散乱している。空き巣に入られた服屋です、と言われれば信じるだろう。着たものやら着ていないものやら、何もかも一緒くたにされている。
溜息をひとつつき、益田は床に膝をついて衣服の分類を始めた。量こそ多いが、色物や柄物さえはじいてしまえばあとは簡単だ。
何処にいても分かりそうに真っ赤なシャツ、榎木津以外誰が着るのかと思うほどの原色が眩しいジャケット。少女のように可憐な桃色の衣装まで出てきた。それを一番上に乗せる。
衣服の洪水に酔いそうな中、益田はふと一点で手を止めた。漆黒の、懐かしい艶のある生地。思わず持ち上げると、金釦が光を跳ね返してきらめいた。
「学生服」
それは正しく学生服だった。校章らしきものもそのまま付いている。行儀の良い詰襟から一直線に連なる金色の釦。長らく眠っていたものか少し吊り癖がついていたが、すっくりとした仕立ての中で袖口が少し擦り切れているのを見て、着用者の気配を感じた。
「あのおじさんにも学生のころがあったんだなあ、当たり前だけど」
肩口を持って目の前にかざし、少し榎木津の顔を想像してみたがイマイチ上手に決まらなかった。彼がこの服を着ていた時から十何年の時を経ているのだから当然と言えば当然だが、新鮮な驚きがあった。何の気なしに身に添わせてみると、腕はぴったりだったが肩が少し合わなかった。いつのものだろうか。まさか中学ということはないだろうが。
「高校ダッ」
「へえ、物持ちいいです…ね…」
あっと思った時には遅かった。事務所の内鍵を落とすのを忘れていたことに気づく。
恐る恐る振り向けば、いつから其処に居たものか、開け放っていたはずのドアにもたれ掛かった榎木津がにやにやと笑っている。
散らばった榎木津の衣装に囲まれて、学生服を抱きしめている――ように見える――この状況。誰にも申し開き出来ない。ましてや神になど。血の気が引いたが、条件反射的に浮かべた卑屈な笑顔を解くことが出来ない。
笑みを崩さぬまま、榎木津の爪先が益田の膝を軽く蹴った。
「カマだカマだとは思っていたが加えてヘンタイだったのか」
「ちが、ち、違います」
「違わなぁい!」
言うが早いか、積み上げられた衣服の海に埋められた。原色の波と、榎木津の残り香にくらくらする。
倒された拍子に本当に抱きしめる形になった制服の上から、榎木津の掌が胸を押さえた。
厚い生地を通しているにもかかわらず、着忘れた肌着の分彼の体温を近くに感じる様な気がして、瞼が熱くなる。
「ここで問題だ、変態下僕」
そうだ、この部屋は明るかったのだ。
「これを着た僕と、お前がこれを着るのと」
もう負けです。負けでいいです。言わないでください。その先を聞いたら、きっと。
目の端に写る桜色に、益田は桜吹雪の中に立つ若き榎木津の幻影を見た気がした。
――――
自家チャット宿題「学ラン」。本番誰か書いてください。
小さな幸せ=榎木津と益田に学ランを絡められたこと ということで…
夕日もだいぶ落ち、明かりの灯った薔薇十字探偵社。そこに調査を終えた益田が戻ってきた。
「ただいま戻りました。いやーもう参っちゃいましたよ依頼人と旦那さんとその愛人が鉢合わせ…って、榎木津さんは?」
「先生ならお出かけだよ。またどうせ中禅寺さんのところでしょう」
和寅は拭き掃除の手を休めることなく答える。益田のほうを見ようともしない。
なぁんだそうか、と益田は言い、書類ケースの中からばさばさと報告書やら写真やらを広げ出した。
「他言無用」とわざわざ記された探偵社専用のケースは益田以外に誰も使っていないものだ。
以前物置からこれを探し出した益田が「これじゃどっちが探偵かわかりゃしませんよねェ、なァんて」と言いながらも機嫌よく積もった埃を払っているのを和寅は見た。
役目を終えた雑巾をバケツに落とし、和寅は益田をしげしげと眺める。
「健気だねェ、他人事ながら涙が出るよ」
「でしょう?僕ぁ依頼人に好かれる探偵助手になろうと」
「そっちじゃないよ」
益田がここに来てからずっと、変わらず続く朝のことを思い出す。
「いつも第一声が「榎木津さんは?」だ」
「え。え、そうですか?」
「そうだよ全く。居るか居ないか位見ればわかるだろう、そんなに広い事務所じゃないんだから」
「いや万が一ってこともあるでしょう。奥で寝てるとか、隠れてるとか。」
「先生がいないと何か困ることでもあるのかね」
「まさか!いや困ることも多いんですけど今なんかは別ですよ。榎木津さんがいない方がこっちの仕事がはかどりますし、ねェ。和寅さんも喋ってないで掃除の続きをしててくださいよ。僕ぁあの人が戻ってこないうちにこれを片付けてしまわないと」
そう言う益田の手は書類を束ねたり縦にしたり横にしたりしているだけだ。仕事をしているフリをしているのだと、すぐに知れた。
彼をからかいたくなる雇い主の気持ちもわかる。
「そうだね、出来るだけゆっくりやった方がいいよ。先生に叱って貰える」
「ンな、何言ってるんですかもう、僕にもお茶くださいよ!」
丸い月が浮かぶ時間帯になって、ようやく榎木津が戻ってきた。
「ただいまァ!…なんだ、馬鹿がいないな」
「益田君なら帰りましたよ」
薬缶に水を注ぎながら和寅はくつくつ笑う。背中越しに、なァんだとつまらなそうな声。
――――
和寅だけが知っている互いの不在に萌え。
「ただいま戻りました。いやーもう参っちゃいましたよ依頼人と旦那さんとその愛人が鉢合わせ…って、榎木津さんは?」
「先生ならお出かけだよ。またどうせ中禅寺さんのところでしょう」
和寅は拭き掃除の手を休めることなく答える。益田のほうを見ようともしない。
なぁんだそうか、と益田は言い、書類ケースの中からばさばさと報告書やら写真やらを広げ出した。
「他言無用」とわざわざ記された探偵社専用のケースは益田以外に誰も使っていないものだ。
以前物置からこれを探し出した益田が「これじゃどっちが探偵かわかりゃしませんよねェ、なァんて」と言いながらも機嫌よく積もった埃を払っているのを和寅は見た。
役目を終えた雑巾をバケツに落とし、和寅は益田をしげしげと眺める。
「健気だねェ、他人事ながら涙が出るよ」
「でしょう?僕ぁ依頼人に好かれる探偵助手になろうと」
「そっちじゃないよ」
益田がここに来てからずっと、変わらず続く朝のことを思い出す。
「いつも第一声が「榎木津さんは?」だ」
「え。え、そうですか?」
「そうだよ全く。居るか居ないか位見ればわかるだろう、そんなに広い事務所じゃないんだから」
「いや万が一ってこともあるでしょう。奥で寝てるとか、隠れてるとか。」
「先生がいないと何か困ることでもあるのかね」
「まさか!いや困ることも多いんですけど今なんかは別ですよ。榎木津さんがいない方がこっちの仕事がはかどりますし、ねェ。和寅さんも喋ってないで掃除の続きをしててくださいよ。僕ぁあの人が戻ってこないうちにこれを片付けてしまわないと」
そう言う益田の手は書類を束ねたり縦にしたり横にしたりしているだけだ。仕事をしているフリをしているのだと、すぐに知れた。
彼をからかいたくなる雇い主の気持ちもわかる。
「そうだね、出来るだけゆっくりやった方がいいよ。先生に叱って貰える」
「ンな、何言ってるんですかもう、僕にもお茶くださいよ!」
丸い月が浮かぶ時間帯になって、ようやく榎木津が戻ってきた。
「ただいまァ!…なんだ、馬鹿がいないな」
「益田君なら帰りましたよ」
薬缶に水を注ぎながら和寅はくつくつ笑う。背中越しに、なァんだとつまらなそうな声。
――――
和寅だけが知っている互いの不在に萌え。