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2024/11/23 08:55 |
1.私以外の誰かのために
「今夜抱きますよ」と言われた。



煎餅布団の上で、益田は膝を抱えている。隙間無くびっちりとカーテンを閉め切った部屋の中で、自分の手の甲だけがじんわりと白かった。

「どういうつもりなんだろうなぁ、青木さん…」

いつものように薔薇十字団の3人で酒を酌み交わした別れ際のことだった。ふらつく腕を掴まれて、青木は確かにそう言った。酔っ払いの戯言と見過ごすには、彼の瞳は真摯すぎて。結局是とも否とも言えぬまま、気づけば何事も無かったかのように、彼の丸い後頭部は雑踏の中へ消えていた。夜闇のように暗い目の中に、呆然としている自分の姿が映っていたのは憶えている。

「結局風呂まで入っちゃったしぃ」

肌が火照るのは湯に温められた所為ばかりでは無い。夏も過ぎ去り、今夜の風は冷たすぎた。芯まで身体を温めなければ眠れない。飲み屋で酒精や煙草の匂いまで染み付いてしまったし、石鹸で隅々まで身を清めたのは其の為だ。他意など、無い。
とはいえ剥き出しの爪先が冷えてきて、益田は足先をもじつかせた。布団に入っていれば足も冷えないだろうか。けれど青木が入って来た時、自分が布団に入っているというのは、如何にも据え膳然としていて非常に宜しくないと思う。新婚初夜の新妻でもあるまいし、布団の上で正座しているというのも大層具合が悪い。こうしていても埒が明かぬし、持ち帰った仕事でも片付けてしまうか…いや、やはり駄目だ。こんな夜更けに煌々と明かりがついていては、待っていたと思われてもおかしくない。結局益田は、布団の上で三角座りをしている以外に落ち着かないのだ。
することもなく部屋を見渡して気が付いた。こういう場合、部屋の鍵はどうするべきなのだろう。開け放しておくのは具合が悪い。階段を上る足音が自室の前で止まり、ゆっくりと扉が開けられるのを想像するだけで憤死しそうだ。しかもその瞬間はいつ訪れるか判らない。心の準備をする為にも、矢張り鍵は閉めておくべきだ。そう思った益田は立ち上がり、内鍵を落とす。ガチャリという音がしたが、益田は鍵を握ったまま立ちすくんでしまった。
鍵を閉めたということは、開けなければいけないということだ。古来夜這いというものは、室内に引き入れた時点で合意と看做されるものだと言う。自分がこの鍵を開けた瞬間、青木に何をされても一切文句は言えないということになる。拒否するなら開けなければ良いだけのことなのだが、寒風吹きすさぶ中わざわざ此処まで来た青木を無下に拒絶するのは完全に礼儀に反している。改めて返事をして断るにしても、ドア越しでは可哀想だ。想定される会話の内容からして、近隣住人の目を考えてもやはり一度は彼を部屋に入れる必要がある。煮え切らない施錠音がひっきりなしに廊下に響いていたが、益田はそれにも気が付いていない。

「勘弁してくださいよ…」

結局益田は元通り布団の上で座り込むに至っている。眠ってしまえば問題は先送りになるかと思ったが、青木の声が耳の奥で反響して眠ることも出来ない。膝を抱えてゆらゆらと揺れながら、なにひとつ解決していない問題を取り出しては仕舞い込む作業を続けていた。
榎木津相手ならば、こんな悩みを抱えさせられることもない。その他の部分においてはこれ以上悩みが多い男も居ないが、こと榎木津相手の色事においては、益田は悩む暇すら与えられた事もなかった。風呂に入っていようがいまいがお構いなしだ。石鹸の匂いがするだの、酒臭いだの、動物的な感想を述べられる事には閉口するが、榎木津から与えられる五感全てに煽られている益田にとって自分のことなど二の次だ。鍵の問題にしても、そもそも榎木津はこの部屋になど来たことは無い。万が一来ることがあったとしても、鍵を閉めてなどいれば大声でカマだの何だの言いながらドアを破壊せんばかりに叩きつけられることは容易に想像できる。
選びきれない選択肢を前にして、なし崩し的に持ち込まれる榎木津との夜が、今はただ懐かしくてならなかった。
膝に顔を埋めて、益田は声をくぐもらせる。

「いやだなぁ、もう…」

真っ暗な部屋の中、動くものは益田の輪郭だけで。

「…あれ?」

益田が異常に気づいたのは、明かりも点けぬ室内が薄明るくなった頃だった。
何事もなく正常に朝を迎えてしまったという、異常に。






「――――結局来なかったじゃないですかあ」

益田の恨みがましい声が降る。
青木はと言えば、狭いコンクリの階段に座り込んで、悪びれることもなく握り飯を頬張っていた。昼休みを狙ってやって来るとは、前職の経験も無駄ではなかったということか。口をもぐもぐさせながら、いかにも哀れを誘いたげに眉を下げる益田に「ごめんごめん」と適当に謝る。馬鹿正直に起きて待っていたようで、痩せた貌は青白さを増し、目の下にはうっすらと隈が刻まれていた。

「先輩と呑んでて忘れてた」
「忘れてたって…」

膝に置いていた包み紙と水筒をわざと脇に置けば、益田が座る場所はない。益田はもとより座り込む気などなかったようで、立ったまま青木を見下ろしていた。益田の身体で日光が遮られて、少し肌寒い。影が落ちた前髪が秋風に嬲られている。

「それは無いでしょう、僕の純情を弄んでおいて」
「純情って」

言うに事欠いて純情とは。思わず失笑が漏れたが、構わず2つめの握り飯を手に取った。
租借の合間に、益田のお喋りに生返事を返す。落葉のように降り注ぐ益田の言葉は、冗談めかして青木の不貞を責めているようでもあり、自分自身に言い訳をしているようでもあり、他の誰かに許しを請うているようでもあった。
青木はそれらを飲み込む事無く、飲み干した温い茶で洗い流してしまう。

「―――昼休みもう終わりなんで、帰りますね」
「酷い男だなあ」

酷いのはどっちだ。
指に付いた飯粒を歯でこそげ取り、青木の昼食は終了した。ズボンの膝をぱたぱたと叩いて、わざと益田の肩に掠めるように脇を擦り抜ける。不服そうに自分を追う黒い瞳に、一瞬だけ視線をくれてやって。

「思い出したかい」

誰が好きか。
すれ違い様に耳元に囁いて、それから青木は振り向きもしなかった。判っている、益田はもう追ってこない。赤くなったか青くなったか、彼の気配が遠ざかる。
道に迷った振りをして誰かが迎えに来るのを待っている。そんな男に与えたものは、一晩限りの猶予。

「バカオロカ、ね」

誰にともなく呟いた青年は、神様ほどに優しくは無い。




――――
自家チャットネタその2(「今夜抱きますよ」と言っておいて結局来ない青木様)
薔薇十字団いち心が男前だと思います。そんな青木が好き。



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2009/03/05 00:05 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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