和寅とか呼ばれていた先住者に声をかけられ、益田は「どうも」と言ってへらりと笑った。
民間人に好かれる警察官は諦めたが、これからは好かれる探偵になる―――探偵助手どころか、弟子からのスタートではあるが―――のだ。同僚と言うかは微妙だが、これから同じ釜の飯を食う事になるかもしれない。上手くやっておきたい。
しかし和寅はそれには応えず、お盆をくるくると円盤のように繰りながら頬を膨らませた。
「うちにはこれ以上口のついたものは要らないと言っているのに、先生ときたらもう」
勝手場に消えていく背中を、凍りついた笑顔の侭見送る。返す言葉が無い。
幼少のみぎり、捨て犬を拾った時親に言われたことを思い出す。僕ぁ犬か。じゃああなたは小姑か。
一拍遅れで苛立ちが込み上げ、誰もいない事務所で益田はひとりじだんだを踏んだ。いくら探偵秘書とは言え、いくら同僚とは言え、いくら先輩とは言え。
…あんな、子どもに!
―――最初こそそう思ったものだが、実際付き合ってみると和寅は良く出来た少年だった。
榎木津とは親子程も歳が離れているが、良く言えば破天荒、悪く言えば出鱈目な彼の言動にも付き合い、時には受け流しつつ適当に上手くやっている所などは見習いたい所存だと、探偵の地雷を踏みがちな益田は思う。
利発と言うか、歳の割にこまっしゃくれた処があるのは環境の所為か。時々彼が物凄い大人に見えることすらある。
いつも益田などより余程慣れた手つきで茶を供するので一度厨房を覗いてみたら、蜜柑箱に乗って作業していたので思わず笑ってしまった(無論怒られた)。
そんな和寅がいつだったか備品として益田専用の湯呑みを買ってくれた時は、感動で涙すらしたものだ。
そんなこんなで3人になった薔薇十字探偵社だが、今朝は少々様子が違っていた。
床一面に障子紙が広げられ、応接机の上には絵の具やらクレパスが散乱している。何か白いものがずしりと鎮座していたので、何かと思ってよく見たら巨大な心棒にぎっちり巻き取られた、これまたやたら長い糸だった。
それらに囲まれて、珍しく目を覚ましている榎木津と和寅がなにやら格闘している。
「何やってるんですか2人して」
「タコだっ!」
天を突く神の指先は赤く青く汚れている。その指で触ったのか、すっと高い鼻を一条の線が横切っていて様にならない。
「凧だよ。最初は部屋で作ってたんだけど」
先生に見つかっちゃって―――見れば榎木津は嬉々として障子紙を切り出している所だった。
そこら中に散らばっている紙片を拾い上げると、猛々しい風神雷神図から満開の桜まで、図柄は様々だった。妙に上手い。
形も一般的な凧らしい四角形から、自由闊達と言えば聞こえはいいもののてんでバラバラの形のものまである。こんな凧が飛ぶのだろうか。
和寅はソファにあぐらをかいて、竹ひごに糊を塗っている。
「どうして凧なんか、もう2月ですよ」
「正月は本家の用事やら何やらで忙しかったんでね、暇を見てと思ってたら今頃に」
榎木津ビルヂングの三階には、時々子どもの声が飛び込んでくるのを思い出した。益田は気がつかなかったが、凧が横切ったこともあったかもしれない。
和寅の膝小僧をなんとなく見つめる。老成したような彼のそれは子どもらしく柔らかそうだった。
和寅は立ち上がり、風通しの良いところに凧を並べていく。それに気づいた榎木津が、いてもたっても居られないように奇声を上げた。
「糊が乾いたらもう飛ばせると思います」
「じゃあ明日だな、明日!楽しみだなぁ、もう寝ようかな」
「いやいやいや、待ってくださいよ。明日は雨だって話ですよ」
見れば空には今にも泣き出しそうに垂れ込めた灰色の雲。開け放された窓からは、冷たい風が入り込んできて凧をカタカタと震わせた。
「じゃあ仕様がないですな。まぁ凧はいつでも揚げられます」
そう言った和寅の表情が一瞬残念そうに歪んだのを益田は見た。歳相応の子どもらしい顔。
声をかけようとした時、榎木津が威風堂々と叫んだ。その手には障子紙の切れ端と凧糸。
「ならばてるてる坊主だッ!」
ぼくたちは明日凧を揚げたいのだ、晴れさせちゃえば関係ない、そう言った榎木津はわしわしと和寅の髪を掻き回している。多分撫でているのだろう。
やめてくださいよ先生、という和寅の声が少し弾んでいると思うのは、大人から見た都合の良い妄想か。
益田もソファの端に腰掛けて、十何年ぶりかのてるてる坊主製作に励むことになった。
「親子みたいですなあ」
和寅がそう評した、3つのてるてる坊主。
榎木津が作ったものはてるてる坊主にしては不穏当なまでに巨大で、和寅が作ったものは小作りだが丁寧だ。益田のものは少し頭が大きすぎて、うつむき加減になってしまった。
それらは並べて事務所の窓に吊るされ、神保町を見下ろしている。
その後片付けも終わらぬうちに依頼者が来て、「お子様ですか」という問いに答えようとする益田を阻んで「和寅も作ったが、この大きなやつはぼくが作った!あの一番普通のやつが下僕の」などと榎木津がわざわざ言ったため、益田は言い訳に苦心する羽目になってしまった。
明日キレイに晴れますように。
ついでで良いので、願わくば、彼が大人になった時も、ここに居られますように。
良く晴れ渡った空の下を、黒衣の男と猫背の男が歩いている。
散歩する2人は其処だけ切り取ると決して爽やかな組み合わせではなかったが、青空に抱かれた河原を吹き抜ける空っ風が清々しい午後だった。
猫背の男―――関口は天空を横切るものに気づき、顔を上げた。鬱々としていた表情に、少し光が差す。
「見ろよ京極、凧だぞ。凧は正月のものだと思っていたが、こうして観るとなかなかいいものだね」
黒衣の男―――中禅寺はきゃっきゃと言う歓声に気づき、河原を見下ろした。途端に、空が落ちてきたような表情。
「見たまえ関君、そんな暢気な事を言っていられなくなる無惨な光景だぞ」
河川敷を走り回っているのは、子どもが1人。それから、大きな子どもが2人。
――――
何の前触れも無くアニメ魍魎の子ども和寅。口調がわかりません!
親子設定の榎木津+益田+和寅から派生して夫婦設定の榎益榎が増えると思っていた時期もありました…。
和寅が子どもな所為か、榎木津のキャラの所為か、アニメ薔薇十字はやたら耽美。
調査対象は未だ出てこない。
路地に身を潜めながら益田は深い溜息を吐く。息は白く曇り、視覚的に益々寒さを強調させる。朝から降り続いた雪は止む気配を見せず、たまに人が通る端からその足跡は薄く消えていく。
このところ暖かかったので、春が訪れたのかと思い油断していた。普段使っていた冬の外套は洗濯に出してしまっていたので、今日の益田は警察時代に買ったものを着ている。黒く厳ついシルエットは傍目には立派であったが、普段使いには重すぎる上にやたらと水を吸いやすく、防寒能力は大したことはなかった。履きこんだ革靴の隙間からは水が染み込んできて足が冷たい。
こうもり傘にも雪が積もり、益田は時々それを払い落とさねばならなかった。傘の柄を持ち続けていた指先は痛むほどに冷え、益田の口元からはまた溜息が零れた。帰っちゃおうかな、という呟きが空に溶ける。
けれど益田は帰るつもりなど無かった。依頼を受けてから2週間、警戒心の強い調査対象が、今日やっと女と会ったのだ。彼も油断していたのだろう。
折角の好機を活かさぬ手はないと思ってはいるものの、この寒さは身に堪える。人通りも極端に少ないので、男一人で長時間ぼうっと立っていたら目立って仕方ない。益田は適当な路地に隠れ、様子を伺うより他になかったのだ。
傘の上にぱさぱさと雪の降る音がする以外は、しんと静まり返っている。益田は傘を握りなおし、雪と同じ冷たさにまでなった腕時計と、彼らが姿を消した入り口とを見比べた。
調査対象は未だ出てこない。
「こぉら、バカオロカ!」
大声と共に無防備な背中に冷たい物がぶつかって、益田は飛び上がるほど驚いた。反射的に上げた悲鳴まで響き渡ってしまい、慌てて口を噤む。調査対象に見つかったかと一瞬考えたが、自分をバカオロカなどと呼ぶ者はこの世に一人しかいない。
振り向けばそこには、やはりというか何というか。
「榎木津さぁん」
「なにがヒャアァ、だ。ぼくが悪いことでもしたみたいじゃないか」
小作りな貌は毛糸の首巻に埋まって益々小さく見える。ざっくりとした網目のセーターに、厚手の綿パン。雪を割る足跡から続く足元は何故か運動靴だ。
その全てが真っ白である。冗談でなく全身白い。栗色の髪にまで雪が絡み付いて白い。発光でもしているかのような異様な存在感をもって、彼は立っていた。傘も差さずに。
自分の足元には雪の塊が落ちている。丸めた雪をぶつけられたのだな、と益田はようやく理解した。
「どうして此処に」
「こんなに街中真っ白いのに、バカオロカだけ真っ黒いので直ぐにわかったのだ。隠れている心算か知らないが、逆に物凄く目立っているぞ!慣れない事をするとそうなる」
「いやそう云う事じゃなくですねぇ」
兎も角も益田は榎木津を傘の下へと引き入れる。近くで見ると、睫は見惚れるのを通り越して呆れるほど長く、雪が乗りそうだ。冷たい髪に落ちた雪はふわりとして結晶のままの姿を保っている。少々勿体無いと思いながらもそれを手で払ってやった。
「こんな処まで来ても何もありませんよ、僕ぁ榎木津さんのお嫌いなコソコソ隠れる仕事をしている所なんですから。和寅さんに聞きませんでしたか」
「マスヤマが何してたって知らないよ。ぼくは来たいから来たのだ!」
うはははは、という高笑いを制するわけにも行かず、ただ益田は入り口をそわそわと伺っている。感づかれたのではないだろうか。まぁ2人で出てきて貰えればそれはそれで仕事がすぐに終わるのだが、と思ったが、扉が開く気配はなかった。
ほっとしたところに、冷たい掌が益田の頬にぺたりと沿わされる。
「ぎゃあ!」
「手が冷たい!」
榎木津の肌は、見た目だけでなく温度までも磁器のようだった。驚きで取り落としてしまった傘が、雪面に落ちる。その中にも訳隔てなく雪が降り注ぐ。慌てて拾い上げようとした益田の腕を、榎木津が取った。
「暖めろ」
そう云われて見つめ返した彼の瞳は、笑みと共に何処か真摯さを帯びていた。
外套のポケット、持ち歩いていたハンカチーフ。色々と探ってはみたものの、榎木津の手を温められそうなものは見つからなかった。逡巡した挙句、益田は母が子供にしてやるように、手で手を包み込む。触れた榎木津の手は、それでも自分の手より少し暖かいと思った。今は打ち捨てられた傘の柄で冷やされていたのだ。
「これじゃあ全然意味がないですね」
「別に良いよ」
今日のぼくは機嫌が良いんだ、と言って榎木津は空を見上げる。きっと雪が降っているからだと思った。つられて見上げた空は灰色に落ち込んで、途切れることなく雪を舞わせ続けている。益田の髪に、肩に、握った手に、それは落ちてくる。黒い外套に触れた雪は白く目立ったが、肌に落ちたものはすうっと薄くなって溶けた。
「雪よりは暖かい」
しんしんと降る雪の中、榎木津の頬に赤みが差しているのが寒椿に似ている。
何となく気恥ずかしくて、人の気配を気にする振りをして目を逸らした。
組み合わせた掌が少しずつ温度を分け合って、同じ温もりになっていく。
「お前顔が赤いぞ、変な奴め」
「寒いからですよう」
調査対象は未だ出てこない。
――――
せっかく雪が降ったので雪の話でも。
差し挟むスペースがなかったのでここで言うと、鍵盤楽器が出来る益田の手は綺麗だと思う。
―――あの日僕を突き動かした真摯な気持ちは、何処へ?
丸い月がぽかりと浮かぶ夜をひとりで歩く。
夜風に剥き出しの耳朶を弄られて、外套の襟に顔を埋めた。今夜も寒い。
下宿は目の前だ。窓際は隙間風が吹き込むし、明け方は建物ごと包み込む冷気が忍び寄って来るが、外よりはマシだ。布団に包まれば自分の体温で少しずつ温められて眠ることが出来る。
足音が周囲の住居に反響してやけに大きく聞こえていた。鉄の階段はやたらと響くので、近所迷惑を慮り極力そっと自室を目指した。
ドアに刺した鍵を回し、かちゃりという手応えが指先に伝わるのを感じた益田はようやく息を吐いた。
歩行の延長の動きで靴を脱ぎ捨て、外套を落とし、タイを引き抜き、敷きっ放しの布団に飛び込んだ。全身が弛緩していくのを感じる。相当疲れていたのだと知った。
地の底へ引っ張り込まれるのに似た強烈な眠気を憶えるが、このまま寝たら明日着る服がない。歯も磨きたい。引き剥がすように身を起こす。
手始めにシャツの釦をひとつひとつ外すうち、益田はふと自分の胸元に目を留めた。白い布地に髪の毛が張り付いている。払い落とそうとしてはっと気がついた。目の前に垂れ落ちる自分の黒髪ではない。
指先で摘み取ったそれは、月明かりを受けてつやつやと輝いた。
透き通るような亜麻色。こんな髪を持つ者は、益田の知る限り一人しかいない。
「榎木津さんだ」
猫じゃあないんだから、と呟くついでに、今日益田を疲弊させた案件を思い出す。依頼人の女性は、私のじゃない長い髪の毛が出てきたんですぅ、とさめざめと泣いていた。益田はさぞお辛いでしょう理解ります理解りますと彼女を宥め、榎木津はそれをつまらなそうに見ていた。
何処でこんなものが移ったのだろう。なんとなく捨ててしまうのも悪い気がして、卓袱台の上にそっと置いた。そのうち風で飛ばされて、自分も忘れてしまえばいい。
けれど何故か目が離せない。思考はつらつらと、榎木津の事ばかりになっていく。
雪景色に一人やたらと映えた横顔のこと。「君は偉い」と言われ合わせた眼のこと。彼を探して歩いたあの日の景色。
「参ったなぁ、家でまで榎木津さんに振り回されたくないですよぅ」
誰に聞かせるでもない独り言。なのに勝手に口端が持ち上がるのを感じた。
誰の侵入する余地もない自分だけの場所にいても、彼の幻影が忍び寄る。
まるで本物の神のようだ。「ようだ」ではない、少なくとも、益田にとっては。
(滅相もない)
なんだか居た堪れなくなり、掌で顔を覆った。卑怯者に似合う仕草で、指の隙間から夜空を仰ぎ見る。
窓の向こうに見えるのは、やはり丸い月。黒い天鵞絨の布に開いた風穴のようだ。
満ちたと思えば、欠けていくしかない月。
その隣には、虚ろな目をした自分の顔が映っている。
月の如くうつろう心が欠けて行くのを怖れてか、或いは自分の領域がどんどん空に融けていくのを知ってのことか。
知らず胸を押さえた。
虚ろだった自分の裡を埋めるのは、尊敬も憧憬も信仰も飛び越える想い。
ならば、これは何だ?
少なくとも、恋ではなかった。
恋などという、有り触れた、何処にでもあるような。
恋などという、真綿に包まれる柔らかさをもって胸を締め付けられるような、この世の全てに背反してでも欲しいものがあるような、乱暴な感情ではなかった。
なかった、のに。
――――
クラスチェンジしちゃった益田。捨ててないのに捨てたと思って動揺すればいいと思います。
「本当に困ったものだなぁ」
「そう、困ったものなんすよ、師匠」
「僕が言ったのは君の話だよ、鳥口君」
うちは相談所でも託児所でもないのだよ、と言われてしまうと立つ瀬がない。
うへぇ手厳しい、と鳥口は首を竦める。
今日も中禅寺の機嫌は相変わらずで、本の頁を繰る指先まで無愛想だ。
藍染の着物から伸びた腕は今日も細い。
「何ごとかあるとすぐ家に来る」
「いやぁ、込み入った話になると耳が勝手に師匠の話を聞きたくなるといいますか」
「だから師匠じゃないと言うに」
しかも恋愛相談など、いよいよ僕の専門じゃない――――
中禅寺の乾いた声で「恋愛」などと言われると、何故か背筋がぎくりとする。
鳥口はそれを隠しつつ、いつもそうするように話を切り出した。
「そう言わないで助けると思ってお願いしますよ。叶わぬ恋に頭を痛める僕の友人を」
「頭を、ねぇ…」
「僕なんかじゃあもう慰めにもならない。そこで目先を変えまして、師匠のお言葉を頂戴しようかと」
実際鳥口は煮詰まっていた。
お調子者の仮面で、不器用にも想いを隠しこんでいる友人のことだ。
叶わぬ想いと半分諦めた者同士傷を舐め合うようにして、酒を酌み交わしたり枕を交わしたり色々としてきたが、もう限界だと思う。
関係が辛くなった訳ではないが、あまりにも発展性がないのだ。
自分と寝た翌朝、想い人のいる勤め先へふらふらと出掛けていく痩せた背中を見送る度に、鳥口はそう思ってきた。
このままでは互いの、否、彼の為にならない。
されど自分の頭では妙案が思いつく筈もなく、気づけば足はここに向いていたというわけだ。
とはいえ全て明かしてしまうのも大変不味いように思い、虚実織り交ぜながら話を進める。
中禅寺はそのたびに嗚呼とかなんとか返事をしていたが、本を捲る手を休めることはなかった。
「…と、いうわけなんですが」
「成程。偶然にも僕は良く似た話を知っているよ」
「本当ですか、そいつは好都合」
光明が見えた気がして、ぱっと顔を上げる。
中禅寺の鋭角な顎が、笑いを堪えるように震えているのは気のせいだろうか。
「あくまでも僕が知っている話の事だが―――本人達が思う程難しい話じゃないね」
「そうなんすか、これ以上なく難しい話のように見えましたが」
「そこだよ。本人が『難しい話』と思っているのが善くない。難しいと思い込むから難しくなるんだ。その結果簡単なとっかかりを見逃す」
その想い人がどうでもいい者を本当に近くに置きたがるのか、とかね―――言ったところで明らかに中禅寺が噴き出したように見えた。
「君の友人は相当重症なようだ、鳥口君がいくら『難しく考えすぎだ』と言ったところで無理だろう。ここまで来るとどちらかと言うと憑物落としに近い」
「えっまさか、やってくれるんですか、師匠!」
「君がその友人とやらをここに連れてきて、先達の話は全てこいつの事です―――と言ってくれるのなら構わないが」
「うへぇ、そりゃ駄目だ」
前髪を振り乱して泣いて怒る姿が目に浮かぶ。
短く刈り込んだ後頭部をがりがりと掻いていると、中禅寺の眉間の皺が少し深くなった。
「惚れた腫れたの話は当人同士の問題とは言うけれどね、何だかんだで周囲に飛び火して参るよ」
関係ない話だと思っても、つられて浮いたり沈んだりさせられる。
鳥口はうんうんと頷いた。
酔って赤らんだ頬が、一挙手一投足に浮かれていたと思えば、途端に沈み込むのを思い出す。
どうにも出来ないとわかっていても、少しでもその気鬱を軽くしてやりたいと思ってしまう。
その結果、2人揃って出口のない袋小路に迷い込んでしまったのだが。
途切れた会話の隙間を、乾いた紙の音が埋めている。最初に口を開いたのは中禅寺だった。
「…まぁ益田君のことは心配要らないだろう。榎木津も子供じゃないんだ、いつまでも好きな子を苛めて喜ぶようなこともあるまいよ」
「だといいんですけどねぇ」
「ところで鳥口君」
「はい」
「…『友人』の話はもういいのかね?」
「あ」
しまった。
中禅寺は人の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。
「いやその、これはっ…ゲホッ」
急に大声を出したせいか咽てしまった。
苦しむ鳥口を前に、中禅寺はくつくつと笑いを溢す。
本当に託児所めいてきたなぁ、と言いながら立ち上がった。
「お茶を淹れてあげよう。茶菓子はないが」
「は、いいですいいです!胸一杯です」
「それを言うなら腹一杯だろう。そこまで行くともはや芸術だね」
畳の目を滑るように去る背中を勝手に目が追いかける。
確かに喉はカラカラだが、本当に胸が一杯なのだ。
中禅寺からはいつも古書の匂いがする。
古書に囲まれたこの部屋に居ると、全方向から彼の気配を感じ取ってしまうからだ。
こんなのはらしくないと思いながら、鳥口はこの胸苦しさに慣れた自分を感じる。
慣れるほどに此処にいたいと思う。傍にいたいのだと。
あの『友人』も、いつも同じ気持ちでいるのだろうか。
開いたままの障子から吹き込んだ夕暮れの風が、主のない本の頁をパラパラと浚った。
――――
鳥→敦子と平行して、鳥→秋彦も好き。この状況を表す上手な言葉が思いつかない。
どっちにしても幸せになってほしいので、番外編的に書いてみました。