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2024/11/23 08:04 |
7.差し伸べられた不器用な手

調査対象は未だ出てこない。
路地に身を潜めながら益田は深い溜息を吐く。息は白く曇り、視覚的に益々寒さを強調させる。朝から降り続いた雪は止む気配を見せず、たまに人が通る端からその足跡は薄く消えていく。
このところ暖かかったので、春が訪れたのかと思い油断していた。普段使っていた冬の外套は洗濯に出してしまっていたので、今日の益田は警察時代に買ったものを着ている。黒く厳ついシルエットは傍目には立派であったが、普段使いには重すぎる上にやたらと水を吸いやすく、防寒能力は大したことはなかった。履きこんだ革靴の隙間からは水が染み込んできて足が冷たい。
こうもり傘にも雪が積もり、益田は時々それを払い落とさねばならなかった。傘の柄を持ち続けていた指先は痛むほどに冷え、益田の口元からはまた溜息が零れた。帰っちゃおうかな、という呟きが空に溶ける。

けれど益田は帰るつもりなど無かった。依頼を受けてから2週間、警戒心の強い調査対象が、今日やっと女と会ったのだ。彼も油断していたのだろう。
折角の好機を活かさぬ手はないと思ってはいるものの、この寒さは身に堪える。人通りも極端に少ないので、男一人で長時間ぼうっと立っていたら目立って仕方ない。益田は適当な路地に隠れ、様子を伺うより他になかったのだ。
傘の上にぱさぱさと雪の降る音がする以外は、しんと静まり返っている。益田は傘を握りなおし、雪と同じ冷たさにまでなった腕時計と、彼らが姿を消した入り口とを見比べた。
調査対象は未だ出てこない。

「こぉら、バカオロカ!」

大声と共に無防備な背中に冷たい物がぶつかって、益田は飛び上がるほど驚いた。反射的に上げた悲鳴まで響き渡ってしまい、慌てて口を噤む。調査対象に見つかったかと一瞬考えたが、自分をバカオロカなどと呼ぶ者はこの世に一人しかいない。
振り向けばそこには、やはりというか何というか。

「榎木津さぁん」
「なにがヒャアァ、だ。ぼくが悪いことでもしたみたいじゃないか」

小作りな貌は毛糸の首巻に埋まって益々小さく見える。ざっくりとした網目のセーターに、厚手の綿パン。雪を割る足跡から続く足元は何故か運動靴だ。
その全てが真っ白である。冗談でなく全身白い。栗色の髪にまで雪が絡み付いて白い。発光でもしているかのような異様な存在感をもって、彼は立っていた。傘も差さずに。
自分の足元には雪の塊が落ちている。丸めた雪をぶつけられたのだな、と益田はようやく理解した。

「どうして此処に」
「こんなに街中真っ白いのに、バカオロカだけ真っ黒いので直ぐにわかったのだ。隠れている心算か知らないが、逆に物凄く目立っているぞ!慣れない事をするとそうなる」
「いやそう云う事じゃなくですねぇ」

兎も角も益田は榎木津を傘の下へと引き入れる。近くで見ると、睫は見惚れるのを通り越して呆れるほど長く、雪が乗りそうだ。冷たい髪に落ちた雪はふわりとして結晶のままの姿を保っている。少々勿体無いと思いながらもそれを手で払ってやった。

「こんな処まで来ても何もありませんよ、僕ぁ榎木津さんのお嫌いなコソコソ隠れる仕事をしている所なんですから。和寅さんに聞きませんでしたか」
「マスヤマが何してたって知らないよ。ぼくは来たいから来たのだ!」

うはははは、という高笑いを制するわけにも行かず、ただ益田は入り口をそわそわと伺っている。感づかれたのではないだろうか。まぁ2人で出てきて貰えればそれはそれで仕事がすぐに終わるのだが、と思ったが、扉が開く気配はなかった。
ほっとしたところに、冷たい掌が益田の頬にぺたりと沿わされる。

「ぎゃあ!」
「手が冷たい!」

榎木津の肌は、見た目だけでなく温度までも磁器のようだった。驚きで取り落としてしまった傘が、雪面に落ちる。その中にも訳隔てなく雪が降り注ぐ。慌てて拾い上げようとした益田の腕を、榎木津が取った。

「暖めろ」

そう云われて見つめ返した彼の瞳は、笑みと共に何処か真摯さを帯びていた。



外套のポケット、持ち歩いていたハンカチーフ。色々と探ってはみたものの、榎木津の手を温められそうなものは見つからなかった。逡巡した挙句、益田は母が子供にしてやるように、手で手を包み込む。触れた榎木津の手は、それでも自分の手より少し暖かいと思った。今は打ち捨てられた傘の柄で冷やされていたのだ。

「これじゃあ全然意味がないですね」
「別に良いよ」

今日のぼくは機嫌が良いんだ、と言って榎木津は空を見上げる。きっと雪が降っているからだと思った。つられて見上げた空は灰色に落ち込んで、途切れることなく雪を舞わせ続けている。益田の髪に、肩に、握った手に、それは落ちてくる。黒い外套に触れた雪は白く目立ったが、肌に落ちたものはすうっと薄くなって溶けた。

「雪よりは暖かい」

しんしんと降る雪の中、榎木津の頬に赤みが差しているのが寒椿に似ている。
何となく気恥ずかしくて、人の気配を気にする振りをして目を逸らした。
組み合わせた掌が少しずつ温度を分け合って、同じ温もりになっていく。

「お前顔が赤いぞ、変な奴め」
「寒いからですよう」


調査対象は未だ出てこない。


――――
せっかく雪が降ったので雪の話でも。
差し挟むスペースがなかったのでここで言うと、鍵盤楽器が出来る益田の手は綺麗だと思う。



 

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2009/02/27 19:59 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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