いつも通りビルヂングの扉に手をかけた益田は、後ろから声をかけられた。
振り向くと目に入ったのは、視界を埋め尽くす真っ赤な薔薇。大きな薔薇の花束は、むせかえるような香気を発している。
それを抱えているのは小柄な女性だった。恥らうように伏せられた睫が影を落としている。大和撫子然としたつややかな黒髪が靡き、白いワンピースからすらりと伸びた足首が眩しい。
「はい?」
「此れを」
ずい、と差し出され、反射的に益田は花束を受け取った。
しっとりと瑞々しい花弁にはまだ朝露が残っており、鼻腔を擽る香りも鮮烈だ。腕一杯の薔薇と女性を見比べると、彼女の瞳は潤み、頬も薔薇色に染まっていた。
これはもしかすると、もしかするのではないだろうか。つい益田の口元が緩む。
「此れを…」
「はい!」
きっと顔を上げた女性の表情が真剣さを帯び、益田も一旦崩れた相好を引き締める。
束ねられた真紅の薔薇が、さわさわと揺れた。
「―――榎木津礼二郎さんに渡してください!」
益田の朝一番の落胆はともかく、花束は無事受け取られ、大きな花瓶に活けられた。
沈み込む益田をよそに、和寅は満足げに花の匂いを嗅いでいる。
「うーん良い香りだ。こりゃ朝摘みですな」
「何が朝摘みですか。僕のほのかなドキドキも一緒に摘み取られちゃいましたよ」
「花束を抱えて告白に来るご婦人の心当たりも無いだろうに、期待だけはいっちょ前だな益田君よ。まぁなんにしろ、花に罪はありゃせん」
「そうなんですけどー」
込められた思惑を知ってか知らずか、大輪の薔薇達はしらりとした荘厳さをもって咲き誇っている。
そこから視線を落とせば、添えられていた白い封筒が置いてあり、いよいよ益田の気鬱を高めた。中に封じられた同じく白い便箋に、美貌の探偵への愛の言葉が綿々と綴られているであろうことは想像に難くない。
益田は寝室への扉を見やった。
「…そう云えば榎木津さんはまだ寝てるんですか?」
「うん、寝ておいでだね。なんなら寝室に直接お届けするかい?命の保証はしないけど」
「冗談じゃないですよ、誰が虎穴に生肉持って入るような真似を」
言いかけた途端、勢い良く扉が開く。
「煩いぞマスヤマ!食べる所も無いのにうだうだ云うなこの自意識過剰オロカ!」
「ぎゃっ」
ずかずか歩いてきた榎木津が、益田の頭を引っぱたいた。とんだ地獄耳だ。
はたかれた部位を擦りながら見上げた榎木津は、机上の花瓶と益田の頭上とを見比べている。
「誰だその女の子は」
「誰だって、僕こそ知りませんよぅ。いきなり声かけられて、榎木津さんに渡してくださいって」
「こんなもんも添えられてましたぜ」
和寅が手渡した封筒を、榎木津はぺらりと開いた。中には益田の予想通り純白の便箋が入っている。
鳶色の瞳が内容を追いかけるのを見て、益田は何故か緊張した。自分が書いた訳でも無いのに。
榎木津は否とも是とも云わず、只「ふぅん」とだけ云ってから、益田の座っているソファの足を蹴飛ばした。
「出かけるぞっ」
「エッ、僕もですか!?」
「誰が鍋や釜と出かけると云った。出かけると云ったら出かけるんだから変な事をいちいち云わないでお供しなさい」
前を行く榎木津に、益田は慌てて付いていく。
事務所の扉を閉める時にちらりと目に入った薔薇の赤が、鮮烈に目に焼きついた。
榎木津の背を追うのに夢中になっているうち、いつの間にか2人は街の喧騒を離れていた。ただ歩いているだけでも妙に速い榎木津に、益田は付いていくのがやっとだ。
「何処まで歩くんですかぁ」
「うだうだ云う間に足を動かせ。そら、もう着いた」
「着いたって…何も無いじゃないですか」
辺り一面何も無い。秋には黄金の稲穂を波打たせる水田も、田植え前の今は見渡す限りの野原にしか見えない。
立ちすくんできょろきょろ辺りを見回す益田を無視し、榎木津は田圃に飛び降りた。
そのままうずくまって何か摘んでいるので、益田も追従してみる。身を低くすると、薄紫色の可憐な野花がそこかしこに咲いていた。華奢な茎の先で、蝶の羽にも似た花弁が踊っている。榎木津の指先はそれらを摘み取っては、絡めていた。一輪一輪が束となり、輪となっていく。
「出来たぞっ」
「嗚呼懐かしい、花冠じゃないですか」
蓮華草で作られた大きな冠を、榎木津は得意げに頭上に飾る。ふわふわの栗毛に紅紫と若い緑が映えた。意外にもしっかりとした造りの其れを見て、こんな事まで器用なんだなぁ、と益田は思った。
冠を戴いたままなおも花摘みを止めない榎木津を見て、益田ははたと気がつく。
「出かけるぞって、花冠作りの為に出てきたんですか」
「それもある。田圃に水を入れる前に取らないと」
「そうだよって…僕ぁてっきりあの女性に返事に行くのかと思ってましたよ」
一杯の花束に込められた想い。
それらは腕に預かった時に少しだけ零れて、益田の胸を少し痛ませた。
綺麗な女性だった。大輪の薔薇にも、榎木津の横に立ってもひけを取らないほどに。
ふと目を上げると、花で飾った美貌が益田を見据えている。
「そんなに気になるなら、マスヤマが云って来い」
「え」
「僕は何処かの下僕みたいに、花束程度で誤魔化されるほど簡単じゃないって」
「そ、そんな殺生な。僕にはそんな無体出来ませんよう。赤ん坊と女性だけは泣かすなって僕の祖父も云ったような云わなかったような」
「ならお前も手を動かせ。今日の夕ご飯のおかずだぞ」
「えっこれ食べるんですか!?」
若芽を茹でて食べるのだと云う。
この男は上流社会でもっと良いものを食べている癖に、変な食べ物を好む。益田は花を掻き分けて、なるたけ美味そうな芽を探しては摘んだ。入れ物が無かったので、不承不承羽織っていたベストを提供する。遠慮も何もなく土の上に広げられ、一杯の若芽が積み上がった。こんもりと小山のように盛り上がった其れは、何だか摂りすぎの気もする。
「こんなものか、こんなものだな」
「茹でたら減るって云ったってこれはちょっと凄いですよ」
「いいから持ちなさい」
お気に入りの服が、風呂敷の様にぞんざいに扱われている。
益田は溜息を吐いたが、ふと気がついて前を行って畦道をよじ登る榎木津に声をかけた。
「榎木津さん冠!被ったままですよ」
「うん知ってるよ。和寅にも見せてやる」
「うん知ってるよじゃないですよ、外してくださいって」
子どもじゃないんだから。
30半ばには見えないものの、それでもいい大人が花冠で街を歩けば――しかも後ろにはベスト一杯に包んだ雑草を抱えた貧相な従者が控えている――いい笑い者だ。
振り向いた榎木津は冠に手をやって、じろりと益田を睨みつけた。
「なんだ、羨ましいのか。いいだろう。でもお前には作ってやらない。これは神の飾りだからな」
「要らないですから」
榎木津は再びぴょいと花畑に飛び降りて、適当に一輪の蓮華草を摘み取る。
それから益田の左手を取り、痩せた指の根元にくるりと巻きつけた。
「お前なんかには、これで十分」
薬指の根元で揺れる、春色の花弁。
その意味を問う前に、花冠の神はすたすたと先を行ってしまった。
「ちょっ、榎木津さん、これ」
透ける髪を彩る野花はそれぞれに可憐だが、どう見てもその姿は奇矯である。
けれど益田は、何故か隣に立って歩きたいような気分になった。
とりあえず置いていかれない様に小走りで追いかけると、風に遊ばれる花びらがこそばゆい。
(僕は何処かの下僕みたいに、花束程度で誤魔化されるほど簡単じゃないって)
自分は榎木津が思うよりずっと、馬鹿でオロカで簡単な男のようだった。
何故なら野の花一輪で、こんなにも簡単に。
蓮華草の花言葉:
「心が和らぐ」「私の苦しみを和らげる」「感化」(『花言葉事典』様)
「あなたは幸福です」「あなたは私の苦痛を和らげる」「私の幸福」(『花言葉ラボ』様)
点々と紅い痕が散っているのを見て、
嗚呼生きているのだ、と
当たり前の事を、思ったり、した。
騒がしい黒電話に呼び出され、和寅はぱたぱたと其れに向かった。電話応対も大事な秘書の役目だ。少し咳払いをして余所行きの声を出したが、相手が馴染みの男と知ると直ぐ、意気込みと同じく音域が下がった。
「はい薔薇十字探偵社――嗚呼なんだ、益田君か」
聞こえる声はいつも通り軽薄な調子ではあったが、少しくぐもっている。受話器などと云う異物を介しているからだろうか。
「和寅さんですかぁ、良かった。ちょっとお願いがあるんですけどぉ」
「厄介事は困りますなぁ。今先生もいらっしゃなくて私ゃ留守を預かってるんだ」
「直ぐ済みますから聞いてくださいよぅ。ちょっとお使い頼まれてくれませんか?」
持ち物とその届け先を告げ、電話はぷつりと切れた。
和寅はやれやれと首を振り、適当なずだ袋に依頼の品を詰めていく。
包帯。ガーゼ。消毒薬。水筒。幾ばくかの現金―――困ると云ったのに、矢っ張り厄介事じゃあないか。
榎木津に書き置きをしようとして、止めた。不本意ながらこう付き合っていると、益田の考えてる事のひとつやふたつ判るようになってしまうものなのだ。
小一時間電車に揺られ、着いた場所で和寅は「依頼人」を見つけた。傾いたような駄菓子屋の軒先に置かれた公衆電話にもたれかかって座り込んでいる。和寅が黙ってその前に立つと、俯いた顔がゆっくり擡げられ、へらりと微笑んだ。
「…和寅さぁん」
「あーあ、酷いなあ。私なんか呼んでないで病院に行けば良かったんだ」
ばらばらの前髪がかかった顔は、砂と土と、それから赤黒い滲みで汚れていた。綿のシャツも、ズボンも同様の有様だ。靴に至っては片方しか履いていない。
「無理ですよぅ、財布も取られちゃったんです。電話も駄菓子屋の婆さんに頼み込んで、やっと貸して貰ったんですから」
手酷くやられたものだ。鞄も持っていない。唯一残された持ち物と言えば、両手で抱きかかえている乗馬鞭位のものだ。こんなもので何が出来たというのか。むしろふざけた男と云われ、更に攻撃されるのが関の山と云った所だろう。
手拭に水を含ませ泥汚れを拭うと、大袈裟な呻き声と共にじわりと赤が広がった。
「痛たたっ、和寅さんもっと優しくやってくださいよう」
「生きてる証拠さね。先生のお言い付けを守らなかった罰だと思って我慢我慢」
手指と違って巻きづらい頭部に、和寅はぐるぐると包帯を回してやる。もう傷口は殆ど乾いていたが、やけに頭が火照っているのが気になった。吊り気味の細い目も何処か虚ろだ。
「あらら、熱が出てきた。この辺にして事務所に帰ろう。外じゃあ何も出来ん」
「否、僕ぁ直帰します。なので電車賃だけ貸して貰えません?」
「何戯けた事を言ってるのかね。ほら行くよ」
ぐい、と引き立てた身体から乾いた土がぱらぱらと落ちた。暴行の被害者然としたこの姿、警らに咎められるかもしれない。いざとなったら「人脈」を頼って何とかするしかあるまい。
けれど益田は靴を失った片足をどろどろに汚したままで、いやいやと首を振った。
「何が嫌なんだ。事務所にはもうちょっとマシな薬も置いてあるぞ」
「事務所には怪我が治ってから行きますから、帰らせてくださいよう」
和寅は絶句した。何がしたいのか判らない。
益田がしているのは悪戯が発覚して、仕置きを恐れて逃げ回る子どもの其れだ。
流れる血潮の感触で、掴んだ腕が熱い。
「馬鹿だねぇ、先生は全部お見通しなんだ。遅かれ早かれ解ってしまうことだのに」
「全部終わってたら笑い話ですから、僕ぁ面白可笑しく愚かぶってみせますよ」
学の高くない和寅にも解る。ぶるまでもなく、本当に愚かだ。
云っとくけどね、と和寅は益田の腕を引く。
「私ゃ先生に全部喋るよ。私ゃ益田君を見てしまったんだ、先生に怒られるのは私になってしまう」
「そっか、参ったなぁ。叱られちゃうなぁ」
あちらこちらに傷を滲ませたままに、同じ笑顔を張りつけて。
左右で違う奇妙な足音を引き連れる道中で、和寅は益田に何も聞かなかった。
彼の行為を弾劾するのは、秘書の仕事では無い。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
ふと見慣れた背中を見つけ、鳥口はペダルを踏む足を緩めた。からからと回る車輪を、その人の隣に沿わせる。
「どうも益田君」
「あぁ鳥口君、こりゃどうも」
声をかけられた益田は、帽子の鍔をちょっと持ち上げて会釈した。つられて鳥口も軽く頭を下げる。
尖った肩からぶらさげた鞄の中からは整頓された書類のような紙束と、乗馬鞭が覗いていた。
「調査の帰り?」
「そうだよ、もう今日一日朝からあっちこっち走り回って、クタクタ!見てこれ、足が棒みたい」
勿論傍目にはそうと解らないが、益田は太ももをぽむと叩いてみせる。そして、これから事務所に戻って報告書作らなきゃー嗚呼でももう駄目だ歩けない榎木津さんに怒鳴られてしまう、と云いながらよよと泣く真似をして両手で顔を覆った。態とらしく、指の隙間からゆっくり回るスポークを見つめている。
鳥口は足で自転車を止めた。
「…乗ってく?」
「うわぁ優しいなぁ鳥口君。なんか催促したみたいで悪いね」
嬉々として、ひらりと飛び乗る。後輪と背中にかかる重さに、鳥口は「うへえ」と声を上げた。
「―――尻が痛いよぅ鳥口君」
「其処は荷物を載せる所だからねぇ。荷物は痛いとか云わないもの」
走り出して暫くして、益田は音を上げた。鉄棒を申し訳程度に組んだ荷台は、薄い肉を通して益田の骨に食い込んでいる。それだけならまだしも、神保町までの近道は狙ったように悪路ばかりが続いた。大小の小石が車輪を跳ね上げる度、益田が大袈裟な悲鳴を上げる。
「足を立てればお尻が立たずと云うでしょう。何なら運転替わります?」
「で、君が後ろに乗るの?無理無理、こんな大きな男乗せて漕げませんよぅ」
「横乗りすれば痛くないっすよ」
「えぇー女の子じゃないんだから」
「もう、我侭だなぁ」
下手に仏心を出したばかりに、厄介なものを拾ってしまった。鳥口の口からまた「うへえ」が出る。
仕方ない、自分は降りて益田に漕がせるか。草臥れたサドルでも、荷台よりは幾分ましだろう。ペダルを踏みながら、後ろを振り向く。
「僕一旦降りるんで、益田君乗ってて良いよ」
「…いや、大丈夫。僕にはお構いなく、どうぞこのまま進んで。我侭云わないから」
「? そう云うならまぁ僕ぁ構いませんがね」
ハンドルを捻り角を曲がったところで、鳥口は思わず自転車を止めた。3度目の「うへえ」は溜息を含んで重い。
眼前には、長い長い上り坂が伸びていた。無闇な急坂と云う程でも無いが、果てが見えない道は見ただけで疲弊する。
「…益田君、これ知ってたでしょ」
「えっ何が?鳥口君、頑張ってねッ」
けけけと笑った益田は、女学生がそうするようにからかいを込めて鳥口の背を抱いた。全く嬉しくない。
鳥口は大きく息を吐き、顔を上げ、眼前の坂道目指してペダルを踏む足に力を込めた。
―――ペダルが重い。
試したことはないが、融かした鉛に足を沈めることがあるとすればそれに近いのではないか。
サドルから腰を浮かした立ち漕ぎに切り替え、手汗で滑るハンドルをしっかり握り、鳥口は坂の天辺を目指した。
荷台の荷物――益田が、ひょいと身を乗り出して話しかけてくる。
「大丈夫ですかぁ」
「大、丈夫に、見える?」
「この鞭に正しい使い方をさせてやればもうちょっと頑張れるかなぁ」
なんてね冗談冗談、と云いつつ、益田はいつの間にか取り出していた乗馬鞭を鞄に戻した。呑気なものだ。
この人の悪さ。この坂の先におわす神の言動に、やはり少し似ている。
ぜぇぜぇと咽びながら、鳥口は益田に声をかけた。
「歩いた方が早い、と思うよ。益田君、降りない?僕も自転車、押すから」
「大丈夫ですよぅ、僕ぁ鳥口君を信じてるから」
此処で云われても。本当に調子が良い男だ。そうは云っても、信じていると云われてしまうと頑張らざるを得ない。心なしか、ペダルを蹴る足に力が戻る。
ここぞと云う時に言葉の力を使われると鳥口は弱いのだ。
木々の影を抜けて、2人はようやく坂の終わりに辿り着いた。ふぅ、と顔を上げた鳥口は、自転車を止める。
「うへえ」
「何、どうしたの…うわぁ」
目の前で赤々と燃える大きな夕陽が、眼下に広がる町並みを照らしている。
緑の並木までも紅葉させる景色に二人して暫し見惚れた。
空一杯を染め上げるグラデーションは、何処までも広がって世界すら包むようだ。
「こりゃ壮観だなぁ」
「崖の功名ってやつすね。上って来た甲斐がありました」
こういう坂を、と云い置いて、鳥口は益田の痩せた腕を自分の胴に引き寄せた。苦労して進んできた上り坂と同じ角度の路面に、車輪を触れさせる。
「一気に駆け下りるのが爽快なんだよねぇ」
「えっもうちょっと居ましょうよ、ていうか危な、わ、あぁぁあぁぁ」
間もなく沈み行く丸い炎に、全速力で飛び込む。
帽子が吹き飛ばされそうな向かい風が、鳥口の歓声と、益田の叫び声を置き去りにした。
慣れた道に出れば、榎木津ビルヂングは直ぐそこだ。速度を落とし、自転車はすいすいと進む。人並みの向こうに、ひときわ高い建造物が聳えている。
「あ、鳥口君、もう此処で良いよ」
「えっ?大丈夫ですよついでだし。ビルヂングもう見えてるし」
「見えてるからこそですよ、榎木津さんに見つかったら」
「バァーーーーーーカオロカーーーーーッ!」
「うわっ」
降り注いだ大声にハンドルを取られ、2人を乗せた自転車が右へ左へ蛇行する。通行人が迷惑そうにそれを避けた。
何とか止まり、うっすらと朱色に染まった石壁を仰げば、夕焼け空を映す筈の窓を開け放ち、落ちそうな程に身を乗り出した榎木津が居た。鳥口は帽子を脱ぎ、合図を送る水平のように大きく振る。
「どうも大将!益田君をお届けにあがりました」
「ほらこれだよもぅ、榎木津さぁん、危ないですって!」
「あっ自転車!」
益田の嘆きも虚しく、榎木津は更にぐいと身を乗り出してきた。自殺者かと思い、足を止める者まで出てきている。
「僕も乗りたい!」
窓から榎木津が引っ込んだのを見て、慌てて益田は自転車から飛び降りた。鳥口もペダルを踏み込む。3階から彼が降りてこないうちに、この場を離れなければ。走り出した車輪を追って、益田が声をかける。
「鳥口君ありがとね!」
「益田君もご武運を!」
片手を上げて別れを告げ、鳥口は振り向かなかった。雑踏に紛れて、うひゃあとか云う情けない声が聞こえた気がする。
それぞれの家路に着く人々をすり抜けて駆ける自転車。運転者を動力に進む鉄の馬は、意思無しに走り、坂を上っていく事は出来ない。上れば上るほどに妙な眩暈を起こすあの坂も同様だ。
鳥口はそれに歯痒さを感じながらも、安堵する。益田を乗せた場所に想い人を積み込んで、無理にでも浚って行ってしまう事は無いのだから。
黒い着流しに身を包んだ彼に自転車があまりに似合わないので、鳥口は一人で噴き出した。
先程よりも少し軽く進む自転車の影が、紫色の絨毯を延べた道の上に長く伸びている。ライトが灯り、鳥口の進路に白い輪を作った。
映画版魍魎で関鳥敦が自転車に乗っているのが可愛かったので。20代男子の青春グラフィティ…。
主人の居ないフロア内を、常夜灯が照らしている。
冷たい床に落ちる影は、ソファで眠る益田の形だ。安らかな寝息に合わせて、ゆっくりと上下する。時折身動ぎすると起こる衣擦れの音と秒針が時を刻む音色が、夜半の静けさを強調していた。
そんな時間を破壊するのは、何時だって。
だんだんだんだん。
「おーい、開けろー!だれかー!」
厚い扉をひっきりなしに叩く衝撃で、不規則にカウベルが揺れる。外からドアノブが乱暴に回され、鍵がそれに抵抗している。何よりも部屋中に響き渡る喚き声に、益田は薄く目を開けた。まだ視界も薄ぼんやりとして、覚醒しきらない身体の中でいち早く覚めた耳が逐一不協和音を拾ってしまう。
「…う…何…?だれか、和寅さ…あぁもう」
重い身体を叱咤して、しぶしぶ益田は起き上がる。滑り落ちた外套も、寝る前に揃えて脱いだ靴もそのままで、冷たい床を踏んで騒音の元凶へと近づいた。がたがたと揺れる摺り硝子に映る影を見るまでも無い。誰が戻ったかなど、目が覚めた瞬間から解りきっている。内鍵を外すと、その瞬間に扉が大きく開かれ、益田の鼻を強く打った。火花が散る。
「っ痛だぁっ!」
「うはははは、遅ーい」
熱い鼻朶を思わず押さえた手の間から、榎木津の顔が見える。ご機嫌だ。その頬は、探偵を待っていた橙色の明かりよりもなお赤い。酒精によって少し潤んだような瞳が輝いている。戸口を潜る足元は、雲を踏むように不安定だった。
「っ痛ー――…榎木津さん、酔ってますよね…」
「んー?酔ってないよ!僕が揺れているとすれば、それは世界が揺れているのだ!地球は回っているんだぞ、僕も回る!」
言うが早いか榎木津は両手を広げ、くるくると回りながらフロア内を歩き回り始めた。支離滅裂だ。痛みを通りすぎてじんじんと痺れる鼻から益田はやっと手を放し、踊り狂う榎木津を追った。足はふらついているし室内は暗い。転ばれでもしたら面倒だ。笑いながら逃げ回る榎木津に手を伸ばし、ようやくその腕を捕らえた。
「さあ捕まえましたよ、もう寝てください。暴れたら下の人に迷惑ですよ」
「ん?お前はマスヤマだな」
榎木津が目をしばたたかせるのを見て、益田はがくりと肩を落とした。今頃気づいたのか。まだよろよろと頼りない探偵を引っ張るように、早足で寝室を目指す。榎木津は数歩だけ大人しく付いて来たが、直ぐにぴたりと足を止めてしまった。益田は振り向く。
「ど、どうしたんですよ、気持ち悪いんですか」
「うふふふ」
にこお、と口角をもたげた榎木津の身体が、どさりと益田に倒れこんでくる。予期せぬ衝撃に益田はよろめいたが、膝を少し折って耐えた。肩口にのしかかった頭部が重く、酒の匂いがするのにくらくらした。
「うわっ!ちょ、何事ですか!」
その声に返事は無く、代わりに両腕が益田の背に絡む。突然の仕草に、益田の心臓がどくりと高鳴る。だが何か云う間もなく、両腕に力が篭った。
抱きしめるなどと生易しいものではなく、どちらかと言うと格闘技に近い程の強さで締め上げられる。悲鳴すら上げられないほどの力だ。華奢に見える身体の何処にこんな力があるのか。腰から逆に折れ曲がりそうだ。
「あだだだだだだ!!」
「うふふふふ」
酔いで力の抜けた美貌が近い。笑う口元からは、さらに強いアルコールの匂い。寝起きで暖かいはずの益田の体温よりも、密着した腕と腹の方が熱かった。相変わらず胸の内が煩い。ぎりぎりと軋む肋骨の痛みに涙が一筋零れたところで、益田はようやく開放された。
よろめいて倒れこんだ床はやはり冷たい。荒く息を吐く益田の頬を、榎木津の指先がつうと撫でる。
「な、なんですか、もう」
「―――うん、壊れてないな」
頬を染めたままの微笑みに、毒気を抜かれる。壊れてないなら良いやぁ、と呟いて、榎木津はゆらりと身を起こした。浮遊するような足取りで、呆然と見送る益田の眼前を通過し、寝室へ消えていく。ぱたり、と思いのほか静かな音で扉が閉まり、広い事務所内にはまた益田ひとりが残された。
「何なんですか…?」
唖然としたまま横たわっていた益田であったが、床に触れた背中が冷たいので、ゆっくりと身を起こした。橙色の常夜灯、時計の秒針。榎木津が消えただけで、夜はこんなにも静かだ。
動悸が少し収まった心臓のある辺りに手を当てて、益田は感慨深げに呟く。
「僕ぁ意外と丈夫に出来てたんだなぁ」
内と外から、益田を熱く苛む衝撃。
その間にあるものは、柔らかいけれど、しっかりと強い。
お題提供:『ラルゴポット』様