主人の居ないフロア内を、常夜灯が照らしている。
冷たい床に落ちる影は、ソファで眠る益田の形だ。安らかな寝息に合わせて、ゆっくりと上下する。時折身動ぎすると起こる衣擦れの音と秒針が時を刻む音色が、夜半の静けさを強調していた。
そんな時間を破壊するのは、何時だって。
だんだんだんだん。
「おーい、開けろー!だれかー!」
厚い扉をひっきりなしに叩く衝撃で、不規則にカウベルが揺れる。外からドアノブが乱暴に回され、鍵がそれに抵抗している。何よりも部屋中に響き渡る喚き声に、益田は薄く目を開けた。まだ視界も薄ぼんやりとして、覚醒しきらない身体の中でいち早く覚めた耳が逐一不協和音を拾ってしまう。
「…う…何…?だれか、和寅さ…あぁもう」
重い身体を叱咤して、しぶしぶ益田は起き上がる。滑り落ちた外套も、寝る前に揃えて脱いだ靴もそのままで、冷たい床を踏んで騒音の元凶へと近づいた。がたがたと揺れる摺り硝子に映る影を見るまでも無い。誰が戻ったかなど、目が覚めた瞬間から解りきっている。内鍵を外すと、その瞬間に扉が大きく開かれ、益田の鼻を強く打った。火花が散る。
「っ痛だぁっ!」
「うはははは、遅ーい」
熱い鼻朶を思わず押さえた手の間から、榎木津の顔が見える。ご機嫌だ。その頬は、探偵を待っていた橙色の明かりよりもなお赤い。酒精によって少し潤んだような瞳が輝いている。戸口を潜る足元は、雲を踏むように不安定だった。
「っ痛ー――…榎木津さん、酔ってますよね…」
「んー?酔ってないよ!僕が揺れているとすれば、それは世界が揺れているのだ!地球は回っているんだぞ、僕も回る!」
言うが早いか榎木津は両手を広げ、くるくると回りながらフロア内を歩き回り始めた。支離滅裂だ。痛みを通りすぎてじんじんと痺れる鼻から益田はやっと手を放し、踊り狂う榎木津を追った。足はふらついているし室内は暗い。転ばれでもしたら面倒だ。笑いながら逃げ回る榎木津に手を伸ばし、ようやくその腕を捕らえた。
「さあ捕まえましたよ、もう寝てください。暴れたら下の人に迷惑ですよ」
「ん?お前はマスヤマだな」
榎木津が目をしばたたかせるのを見て、益田はがくりと肩を落とした。今頃気づいたのか。まだよろよろと頼りない探偵を引っ張るように、早足で寝室を目指す。榎木津は数歩だけ大人しく付いて来たが、直ぐにぴたりと足を止めてしまった。益田は振り向く。
「ど、どうしたんですよ、気持ち悪いんですか」
「うふふふ」
にこお、と口角をもたげた榎木津の身体が、どさりと益田に倒れこんでくる。予期せぬ衝撃に益田はよろめいたが、膝を少し折って耐えた。肩口にのしかかった頭部が重く、酒の匂いがするのにくらくらした。
「うわっ!ちょ、何事ですか!」
その声に返事は無く、代わりに両腕が益田の背に絡む。突然の仕草に、益田の心臓がどくりと高鳴る。だが何か云う間もなく、両腕に力が篭った。
抱きしめるなどと生易しいものではなく、どちらかと言うと格闘技に近い程の強さで締め上げられる。悲鳴すら上げられないほどの力だ。華奢に見える身体の何処にこんな力があるのか。腰から逆に折れ曲がりそうだ。
「あだだだだだだ!!」
「うふふふふ」
酔いで力の抜けた美貌が近い。笑う口元からは、さらに強いアルコールの匂い。寝起きで暖かいはずの益田の体温よりも、密着した腕と腹の方が熱かった。相変わらず胸の内が煩い。ぎりぎりと軋む肋骨の痛みに涙が一筋零れたところで、益田はようやく開放された。
よろめいて倒れこんだ床はやはり冷たい。荒く息を吐く益田の頬を、榎木津の指先がつうと撫でる。
「な、なんですか、もう」
「―――うん、壊れてないな」
頬を染めたままの微笑みに、毒気を抜かれる。壊れてないなら良いやぁ、と呟いて、榎木津はゆらりと身を起こした。浮遊するような足取りで、呆然と見送る益田の眼前を通過し、寝室へ消えていく。ぱたり、と思いのほか静かな音で扉が閉まり、広い事務所内にはまた益田ひとりが残された。
「何なんですか…?」
唖然としたまま横たわっていた益田であったが、床に触れた背中が冷たいので、ゆっくりと身を起こした。橙色の常夜灯、時計の秒針。榎木津が消えただけで、夜はこんなにも静かだ。
動悸が少し収まった心臓のある辺りに手を当てて、益田は感慨深げに呟く。
「僕ぁ意外と丈夫に出来てたんだなぁ」
内と外から、益田を熱く苛む衝撃。
その間にあるものは、柔らかいけれど、しっかりと強い。
お題提供:『ラルゴポット』様
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ギリギリ!意味わからない!
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