雲がゆっくりと流れる空を目指して、榎木津ビルヂングが聳えている。
その入り口の前で、益田龍一は困窮を極めていた。中に入りたくても入れないのだ。鍵が閉まっている訳ではない、益田の足を止めるものは他にあった。
その柔らかい生き物は、益田の脛の辺りに絡み付いている。右足を抜き出せば左足に、左足を進めようとすれば右足に。螺旋を描くような動きで、彼の歩みを妨げているのだ。うっかりすればそのしなやかな尾を踏みつけてしまいそうで怖い。結果前にも後ろにも進めず、益田はその場でたたらを踏んだ。
「ちょっ…あぁっ!危ないなぁもう!」
泣き声交じりの声を聞きつけたのか、暗い階段の上から白い貌がひょこりと飛び出す。榎木津礼二郎は眉を寄せて階段下の様子を観察し、「あっバカオロカが変な踊りをやっているのか」とだけ呟き、階段を降り始めた。その足取りはさも面倒そうであったが、益田の足元に纏わり付くものを見つけると、鳶色の瞳を見開いて駆け下りてくる。
うははは、とご機嫌な笑い声に益田は尖った肩をびくつかせたが、足元の生き物―――大きな猫は、構う事無く益田のズボンに首の後ろを擦り付けた。
「おお、にゃんこじゃないか!全体黒いのに足先だけ白くて、靴下を履いているみたいだぞ。かぁわいいなぁ。そら、こっちに来なさい」
喜色満面とはこのことか。整った容貌にとろけるような笑顔を浮かばせた榎木津は、白い指先をひらひらと猫の鼻先に躍らせた。
しかし猫の丸い目はちらりと一瞥だけしたものの、榎木津には興味を持たず立ち竦む益田の左足に長い尾を絡めている。榎木津はきょとんと目を丸くして、行き場のない指先を見つめている。
「あれ」
「助けてくださいよぅ榎木津さん、こいつ昼からずっと付いてきてるんです。足にまつわりついて全然離れなくて、僕ぁ何回もこけそうになりました」
「転ぶのはマスヤマが下ばっか見て歩いてるからだろうが、にゃんこの所為にするんじゃないっ」
「酷いなあもう。下ばっかり見てて気づいたんすけど、この猫首輪も何もしてないんですよ、野良かな」
まだ若いであろう猫の被毛はしっかりと強そうではあったが、確かに野良めいて埃っぽく薄汚れていた。身体も大きくはあるが、腹のあたりなどは肉付きが薄い。そんな身体が何度も密着した所為で、綿のズボンの膝から下は心なしか煤けている。
榎木津は眉間に皺をこしらえて何事か考えていたが、すくりと立ち上がると益田の脇を擦り抜けて歩き出した。
「榎木津さん、何処へ」
「今夜は和寅が居ないから、京極の所で何か食べて来る」
「あっ良いなぁ、僕も仕事終わりでお腹空いたし御相伴した、うわっ!」
軽い悲鳴に榎木津が振り向けば、追従しようとした益田の足を、黒い背中が引き止めている。ちょっと、とか、もう、などと云ってもがく声に交じって、みゃあと高い泣き声が上がった。
痩せた男と痩せた猫の奇妙なやりとりを、道を行く人々がちらりと見てはくすくす笑って通り過ぎて行く。
榎木津の革靴の先がたんたんと石畳を打ちつけた。
「鈍臭い!ご飯作るのは僕じゃないけど迷惑だからもう置いていく!」
「えぇー待ってくださいよ!仕様がないなぁ」
益田は身を屈めて両手を伸ばし、猫を掬い上げた。それなりにずしりと重い。赤子を抱き直すように猫を腕に収めると、榎木津の横に並ぶ。
「やっとちゃんと歩ける。お待たせしました、行きましょ」
「マスヤマはにゃんこを抱くのが下手すぎる、そんな抱き方じゃ居心地悪いぞ」
「その時は車通りの少なそうな道に離してやりますよ。事務所に閉じ込める訳にもいかないでしょう」
眉を下げて笑う益田の顔をちらとだけ見て、榎木津はすたすた歩き出す。
白いシャツの腕に抱かれた猫は益田の予想を裏切り、逃げようともせず平たい胸の前でごろごろと喉を鳴らしていた。
「ひゃっ、こそばゆい」
大人しく運ばれているのに飽きたのか、猫は揺れる益田の前髪に前足を伸ばしたり、鼻先を益田の襟足に突っ込んだりして遊び出した。その度に長い髭が首や耳元をくすぐり、益田はけけけと笑い声を上げる。少し陽が傾いたために丸みを増した猫の瞳孔にじっと見上げられ、益田としても悪い気はしない。
「どうしましょうねぇ榎木津さん、こいつ僕にやたら懐いてますよ。野良がこんな懐くなんて知りませんでした、捨て猫かなぁ。うちの下宿動物飼うの駄目だしなぁ、事務所で飼ったら駄目ですかねぇ。和寅さん怒るかな…うわっ、口舐めた。吃驚したぁ。ざらっとしましたよざらっと」
組んでいる両腕の指先で顎下をくすぐってやれば、耳に心地よい鳴き声が聞こえる。
少し後ろを歩いているために知らなかったが、眩暈坂を上るにつれて、榎木津の眉間に刻まれた皺が深くなっていった。坂の先にある古本屋の主人もかくやと思しき不機嫌さだ。その足が砂利を思い切り踏んだかと思うと、勢い良く益田の方を振り向く。
「おい、マスヤマ…」
「あっ!」
と、猫がぴくりと鼻先を擡げたかと思うと、前触れもなく益田の腕を飛び出した。音も無く地面に降り立ち、榎木津の横を走り抜けていく。
探偵の肩越しに見送る先には京極堂があり、掲げられた「骨休め」の向こうからはもうもうと煙が上がっていた。
「なんだろうあの煙…あっまさか大量の本が燃えているんじゃ」
「バカオロカめ、今は夕食時だぞ。庭先が燃えるなんてアレに決まっている!」
軽い足取りで駆ける猫に続いて、榎木津も駆け出す。益田もよろめくような足取りで後に続いた。
2人を出迎えた中禅寺の顔は、本当に店が焼けたのかと思う程の仏頂面である。襷で纏めた藍色の袖から痩せた腕が伸びていた。背後で立ち上り続ける煙の根元には七厘が置かれ、じりじりと焦げる魚が香ばしい匂いを放っている。
「やぁやぁ京極!美味そうだな!」
「美味そうだからって君らには関係無いだろう。自分達だけじゃなく」
あんなものまで連れて来て。
中禅寺がつい、と流した視線の先には2匹の生き物。燃え上がる炎を遠巻きに見ているのは、先住者である石榴と、益田が抱きかかえて連れて来た猫だった。
きらきらと輝く緑の瞳を見て、背を丸めた益田が恨めしそうに呟く。
「あんなに僕に懐いてたのにい」
「あの様子じゃ益田君に懐いてた訳では無いね、益田君からする魚の匂いに懐いてたんだ。大方昼に鯵の開きでも食べたんだろう」
益田のシャツの首元を、骨ばった指がとんと突いた。
「醤油が飛んでるぜ」
「うわあ…」
うなだれる益田の横顔を見下ろして、榎木津はふふんと笑う。
「絶対可笑しいと思ったんだ、マスヤマににゃんこが懐くなんて。お前だけにゃんこを抱いて歩いてずるいぞ」
「にゃ…猫だって僕に懐くことくらいあるかもしれないじゃないですかぁ」
いつの間にかそこら中に付いていた猫の毛を払い落とす益田の耳元に、榎木津が尖った鼻朶を埋めた。
「うん、本当に魚臭いな!鱒山だな」
「だから誰なんですかそれはぁ、もおぉ、急にご機嫌良くなっちゃうんですから」
耳元に触れる栗毛がくすぐったくて、益田は身を捩った。
そんな彼らを見て、店どころか中野一帯が焼失でもしたように恐ろしい顔をしていた中禅寺は庭に降り、焼きあがった魚を皿に取っている。2匹の猫がその周囲を取り巻いているが、下駄履きの足先は慣れているのか事も無げに歩いて戻ってきた。
「丁度七輪も出ているし、君達にも馳走してあげよう。魚は無いけどね」
人の悪い笑みを浮かべた中禅寺が、ぐるりと2人を見回して、最後に益田の前で視線を止める。
「益田君、餅は好きか」
榎木津の眉がぴくりと動く。
良いですねぇ醤油まぶして海苔なんか巻いてあったら最高、と答える途中の黒髪を、神の拳がぽかりと打った。
――――
真宏様リクエスト「やきもちを焼く榎木津」でした。ありがとうございました。
また猫の話か…!引き出し少なくてすみません。タイトルはサンボマスターです。
昨日も普通に働いていた上、特に急ぐ先があるわけでもない益田の足取りもつられて早まる。歩道を埋める雑踏の横を幾台もの自動車がすり抜けていく。石畳を蹴る靴底、遠ざかるエンジン音、小さな会話が幾つも集まって雑然とした雰囲気を作っている。
ぷわっ。
喇叭のような音がした。だが忙しい朝のこと、其れに気を止める者は居ない。益田も音にすら気づかない様子で歩調を変えずに進む。踏みしめるリズムに合わせて重そうな前髪が揺れる。其れがびくりと跳ねたのは、背後から突撃喇叭の如き爆音が耳をつんざいたからである。
人々が皆足を止め、益田も振り向いた。一台の自動車が益田に鼻先を向けている。くすんだ色のビジネス街では異質な程に真っ赤な車体。ウインドウ越しに見える運転席の男は、栗色の髪を振り乱しながらしきりにハンドルを叩き続けている。
「…えっ、僕!?」
ざわめく人波から逃げるように、益田は助手席に飛び乗った。
それを認めると、運転手―――榎木津はアクセルを踏み込む。衆目の視線を一身に浴びながら発進した車の中で、益田は力が抜けたようにずるずるとシートを滑った。
「もうなんなんですか榎木津さん!吃驚するじゃないですかぁ」
「ビックリも栗ご飯も無い!僕が呼んでるんだから直ぐハイと返事をしなさい、これは世界の常識だぞ」
「車でパフパフやられたって解りませんって…」
窓の外に目をやれば、流れる景色はすでに平然と落ち着きを取り戻している。益田など最初から居なかったかのように淀みなく流れる通行人の群れは、現れては消えていった。
「榎木津さん今日は随分お早いですね。まさか僕を迎えに来てくれたんですか、なんて」
勝手に照れる益田を見もせず、榎木津は前方から視線を外さないまま答えた。
「半分当たりだいたいはずれ。今日は天気が良いからドライブにしようと決めて来たんだ。機嫌良く走ってたのに辛気臭く歩いてる下僕が居るじゃないか。あんなにしょぼくれて歩いてる男がうちに出入りしてるなんて恥ずかしい、恥ずかしすぎる!」
だから神の責任で回収した、と云われ、益田はがっくりと肩を落とした。云う程期待していた訳ではないので、まぁこれは所謂パフォーマンスというやつだ。見る者も無い道化を演じる下僕と神を乗せて、真っ赤な自動車は進む。
「まぁいいや、おいマスヤマ、お前何処か行きたい所はあるか?」
「行きたい所ですか?そうですねェ、あっそうだ。和寅さんが醤油の買い置きが無いって云ってたんですよ。ですから醤油買いに行きましょうよ。車だから荷物にならないし、ついでに酢とか買い込んじゃおうかなぁ」
さも名案かのように益田が両手を打ち鳴らしたのと同時に、榎木津はブレーキペダルを勢い良く踏み込んだ。車は急停止し、益田もつんのめる。車通りの多い道だったら危うく大事故だ。見れば榎木津が、大音量でクラクションを鳴らしていた時と同じ顔で益田を睨みつけている。
「僕の話を聞いていなかったのか耳無し芳オロカ!僕はドライブに行くと言ったんだぞ!」
「だ、だって榎木津さんが何処に行きたいかって聞くから」
「お前の世界は自分家と探偵社と乾物屋しか無いのか!歩き方だけじゃなく発想までしょぼくれているとは、見下げ果てたオロカ。乾物屋の店先にぶら下がっているスルメだってもっと世界を知っているぞ。あれは海から来たからな」
海もいいなぁ、と一人で納得した榎木津は、アクセルを踏んで発進した。再び景色が流れ出す。
スピードに乗る直前、助手席側に身を乗り出して、益田の耳元に低く囁かれた。
「気の利いた行き先が思いつくまで降ろしてやらない」
「そんなぁ」
急にドライブと云われても、益田などが思いつく場所などは高が知れている。榎木津の言い分では無いが、確かに世界が狭いと思う。思いを巡らせて見ても、現れる景色ひとつひとつが日常の枠を出ないものばかりだ。それでも妄想には自信があったので、並木を目で数えながら考える。窓を一杯に開けて海風を取り入れながら進む海岸線の道、緑萌える山間、白鳥なんかが優雅に水面を滑る静かな湖畔も悪くないかもしれない。雪深い箱根の山奥、榎木津と出会った。
「なんだそれは」
「え?」
「今は春だぞ、何処に雪があるんだ。幾ら車が速いからって冬には行けない。春には春の楽しみ方があるのに風情を解ってない男だな」
「あっ視ましたね、そんな事より前見て運転してくださいよぅ」
だって仕方ないじゃないか。あの景色は特別なんだ。屋根に重く積もった雪が融けてどさりと落ちるように、益田を連れ出す切欠の。
榎木津はハンドルを切った。
「決めた。今日はお花見」
「あ、嗚呼良いですねぇ。神宮なんか見頃じゃないですか」
2人を乗せた赤い自動車は走り、やがて桜の並木に辿り着く。儚いまでに淡いのに、空気まで染めるほどの色を纏った木々が大きく両手を広げている。榎木津が窓を開けたので、益田もそれに従った。車内の空気が入れ替わり、胸の奥まで春の匂いに満たされる。
風が吹く度にぶわぁと舞い上がっては、はらはらと降る花びらが、まるで。
「雪みたいだろう」
神に不可能は無いのだ、と榎木津が笑っている。初めて見た日から益田の心を惹き付けて離さない。
車内にまで吹き込んだ花弁の掃除が難儀そうだなぁ、と益田は思った。この雪は時が経てど、融けて消えたりしないものだ。
――――
無記名でのリクエスト「榎木津の車で出かける2人」でした。ありがとうございました。
映画版榎木津で想像したら面白い話かと(そんな面白さは求めていない)
事務所に戻る階段の途中で、榎木津は足を止めた。踊り場に何かが居る。近づけば、殆ど見えない目で見るよりも直ぐに何であるかは知れた。下僕がくたばっているのだ。顔を寄せると強い酒の匂いがして、榎木津は眉をすがめる。
猫のように丸まっているその腹を軽く蹴り上げれば、抵抗も無くごろりと仰向けに転がった。ばらりと崩れた前髪が顔を殆ど覆ってしまい、蒼い闇の中で幽鬼じみて見えている。
瞼がゆっくりと開き、黒い両の瞳が榎木津を捉えた。
「あぁ、榎木津さん」
「ああえのきづさんじゃない、こんな所で死ぬな。僕が通れないじゃないか」
「だぁいじょうぶですよ、長いおみ足で跨いで通れば良いじゃないすか。僕のことはお構いなく」
呟くその声は、酒精で曇っている。榎木津を見ていたはずの目は、今はもう開いているのかいないのかと言った風情でただぼんやりと宙を泳いでいた。
もう一度靴先でこづいてやっても、反応が無い。榎木津は暫くそれを見下ろしていたが、おもむろに身を屈め薄い胴体を抱え上げた。常ならば「うわぁ止めてくださいよう」等の無駄な抵抗をする筈の手足はただ成すがままにぶら下がり、虚脱した全身は木偶人形さながらだ。酔いで火照った身体と、熱い息が吐き出された事でようやく人間である事を確認すると、榎木津は一段飛ばしで事務所を目指した。肩に益田を引っ掛けたまま手探りで鍵を開け、身体ごとぶつかるように扉を開く。
月光を浴びて艶を帯びるソファは、益田がいつも寝床として使っているものだ。榎木津は一旦其処で立ち止まったが、踵を返し寝室のドアを開けた。留守中和寅が換えたらしい、洗いざらしのシーツが張られた寝台に投げ落とされても、益田は何の応答もしなかった。
「おい、マスカマ」
既に大分緩んだタイを引き抜き、シャツのボタンを外していく。じわりと汗ばんだ肌が少しずつ顕わになった。全て外してしまっても、益田の薄く開いた唇が言葉を発することはない。それどころか十指の先すら、是とも否とも云わず、ただ並んで其処にあるだけだった。
榎木津はその上に乗り上げて、心臓に耳を近づけた。伝わる鼓動は少し速いが、程度としては許容範囲だ。酔っ払っているらしい事を除けば、何処か身体に異常がある訳でも無さそうだ。掌でぺちぺちと頬を張り、「マスヤマ」と呼んでやる。添わせた自分の手と比べると、益田の肌は明らかに熱く、赤かった。髪の隙間から除く耳も同様だ。
覆い隠す前髪が不快で、榎木津はそれらを鷲掴み、一思いに捲り上げた。尖った鼻と薄く開いた目、薄い眉が一度に現れる。生え際まで真っ赤だ。
「マスヤマ」
何も映していなかった益田の瞳がきょろりと動いたかと思うと、じわりと水気を滲ませ、たちまち決壊するように涙を溢れさせた。止めるものもなく流れ、頬を伝い耳の辺りまで濡らしている。突然の事に、前髪を掴んだ手に力が入った。
呼吸をするばかりだった薄い唇が、ようやくかすかに動作する。
―――ずるい。
そんな形を取ったように、榎木津には見えた。
「ずるいって何だ」
「榎木津さんは、気安く触るじゃあないですか」
その度に僕が、どれだけ。
酔っている筈の益田は、やけにはっきりとそう云った。暴かれた額に月の光が落ちている。階段の窓よりも大きな寝室の窓から降る其れは、はらはらと流れる涙の一筋まで照らし出した。
長く華奢な指が力無く寝具に埋まっているのに、自然と目が行く。
「お前僕に触りたいのか」
「触りたいって云ったら、触らせてくれるんですかぁ?神様が、僕なんかに」
そう云ってうっすらと浮かべた笑みは、諦めに満ち、卑屈で、それでいて傲慢であった。
榎木津もふっと笑いを溢す。面白くも無いのに。
「オロカだな」
その声に答える者は無かった。益田の瞳は今や完全に閉じられ、意識すらも眠りの淵に落ちたようだ。清潔なシーツに涙を飲み込んだ暗い染みが出来ている。
前髪を握った拳を解き、くしゃりとかき混ぜると、幾筋かが水のようにさらりと零れ落ちる。指先でついと流せば、黒髪の束が少し血色の収まった頬にかかった。益田の上から身体をずらし、仰向けになる。吐息に交じっていた安っぽい酒の匂いが鼻について仕方ない。
「どんな悪い酒を飲んだんだ」
ぐでんぐでんに酔っ払ってでも、此処に帰ってきた癖に。冷たい床にうずくまって、偏執に酔った頭で何を考えて。
掌に食い込ませた髪の感触を思い出す。榎木津の猫っ毛とは全く異質な其れは、益田の狭い世界を守る結界だ。
「切り落としてやろうかな」
その案は実行されず、榎木津は布団に潜り込んだ。冷たいシーツから少しずつ、今は眠る益田の熱が伝わってきて、榎木津もいつの間にか眠ってしまった。
榎木津が目を覚ました時、寝台は空っぽだった。枕の形まで整えられて、人が寝ていた形跡すら無い。寝起きの不機嫌さを一気に加速させ、榎木津は寝室を飛び出した。
其処に居たのはいつも通り掃除をしている和寅と、不届き者。
「おはようございます、榎木津さん」
何事も無いかのように顔を上げた益田を見て、榎木津は硬直した。尖った顎のあたりを残して、長い前髪がぞろりと覆っている。
昨夜の出来事を何も知らない和寅が、溜息混じりに不平を溢す。
「陰気臭いから止めろと云ったんですがこれが聞かないんですわ」
へらりと笑った口元から覗く八重歯が、此れが益田である事を示す数少ない記号だ。
「酷い顔なんですよもう浮腫んじゃって。瞼とか特に凄くってもう、目のお化けみたいなんですよ。まぁ僕の場合そんなに見られた顔でもないんで気にしないっちゃ気にしないんですがこうしておけば目立たないでしょ?」
榎木津はそれには応えず、益田の頭上に視線を固定した。前髪で隠せない筈の記憶。
しかし其処に視える景色には幾つもの黒い筋が入り込み、取り払われたと思ったら、今度は水底から見上げた水面のように揺らめいている。
榎木津は自分がどんな顔をしていたのか、ついに知る事が出来なかった。
――――
檜扇様リクエスト「榎木津に前髪をくしゃっとかき上げられる益田」でした。ありがとうございました。
前髪萌えを詰め込んだ結果、陰気な話になってしまい申し訳ないことに…
「えっ榎木津さん、今なんて仰いました?」
「仕事に行くぞと云ったんだ!」
やはり聞き間違いでは無かったが、何かの間違いでは無いか。榎木津が仕事に行くと云っている。しかも探偵助手の自分を伴ってだ。雨が、いや槍が降るかと思ったが、天候は快晴だった。
益田が調査時に被るものと良く似た形の帽子を被った榎木津は、片手に革の鞄を携えている。探偵小説でもあるまいし大きな期待はするまいが、七つ道具の類でも仕込まれているのではと益田はワクワクしてしまった。
それにしても榎木津がここまで準備万端整えて臨む仕事とは一体どんなものか。帝都に跳梁跋扈する悪の怪人をすわ退治するものか、港で夜な夜な執り行われる闇のシンジケートの類を一網打尽か。何にしても大きな仕事になりそうである。益田は乗馬鞭を握る手に力を込めた。
「では行くぞ、マスヤマ!僕についてこい!」
「はい!」
カウベルの音に急かされて、2人して薔薇十字探偵社を飛び出した。
これこそが神たる探偵榎木津礼二郎と有能なる探偵助手益田龍一による、華麗なる事件の幕開け。
―――になる筈も無く。
2人が辿り着いたのは港でも、帝都ですら無い、ただただ広い野原であった。遮る物もなく、のびのびと風が横切るたびに柔らかい野草がさわさわと揺れる。草を食む牛の群れが遠くに点々と見えていた。
益田も来る途中から薄々おかしいなとは思っていた。草を踏みながら辿り着いた木陰で、恐る恐る榎木津にかねてからの疑問をぶつけてみる。
「あの、榎木津さん」
「なに」
「こっちの台詞ですよ。僕ぁ仕事に行くって聞いてきたんですが、このとってものどかな光景は一体なんなんですかぁ」
「そのとオリだっ。僕達の仕事はこれから始まるんだぞマスヤマ。僕は今から準備をするんだ、其処を空けなさい」
榎木津は油断ない動きで片膝を付き、革の鞄に手をかける。口金がぱちんと音を立てて開いた。大きく開いた鞄は、何やら地獄の口のようにものものしいものに見える。榎木津の白い手の甲が吸い込まれていくのを見て、益田は恐る恐る中を覗き込んだ。
果たして中から取り出されたのは、折りたたまれた麻の布だった。榎木津はさっと立ち上がると布をばさりと広げる。緑の絨毯の上に、淡いクリーム色の色彩が覆い被さる。あっけに取られている益田に目もくれず、靴を脱ぎ捨てた榎木津はその上にごろりと横たわった。
「ふう」
「ふう、じゃないでしょう!何やってるんですかぁ」
「何を突っ立っているんだマスカマオロカ。お前もこっちに来て、横になるの。早くする」
ちょいちょい、と指先だけで招かれる。益田は逡巡したが、仕方なく麻布の上に足を踏み入れた。布の隙間を通して飛び出した葉の感触がちくちくする。そっと横たわると、振り仰ぐ大樹の葉陰から落ちる日光がきらめいて美しい。榎木津が歌うように、やっぱり昼寝は麻に限るなぁ、と云ったので益田は飛び起きた。
「昼寝!? 今、昼寝って」
「昼間寝るんだから昼寝に決まっているだろう。解ったらオロカな質問をしない、僕はもう眠いんだから。もう寝るぞ。すぐ寝るぞ。はい寝た」
その言葉を最後に、榎木津は本当に何も云わなくなった。薄く開いた口元からすやすやと零れる吐息。吹く風が枝を揺らせばかき消えるほど儚く安らかなものだ。
「えぇー…」
手を伸ばして、革の鞄を覗き込む。人の頭ほどもある其の中身は、闇を飲み込んだかのように底知れず暗かった筈だが、何のことはない。中には何も入っていなかったのだ。そう思ってみると秘密も何も無い。ただのつまらない、何処にでもある鞄だ。失望を埋めるように、益田はとりあえず乗馬鞭を差し込んでみた。支えも無くぱたりと倒れた鞭が、逆に物悲しい。
益田の心中も知らず、榎木津は眠り続けている。髪に頬に木漏れ日を受けて輝く美貌が恨めしかった。
「しょうがないなぁ、もう…」
麻に覆われて背中に伝わる大地はふかふかとして、けれど瑞々しく冷たい。光の粒を撒き散らしながらさやさやと響く葉ずれの音色は遠い昔に聴いた懐かしさだ。眠る探偵の横顔を盗み見れば、冗談のように長い睫が萌える草に似た健全さで其処にあった。風が止んだ時にふと耳に届く榎木津の寝息が、益田をも眠りへと誘いこむ。
(仕事って何だったんだろう、やっぱり方便だったのかなぁ)
榎木津と共に探偵としての仕事が出来なかったことへの落胆と、そんな事など最初からどうでも良かったと思わせるほどのしみじみとした喜びに包まれて、益田の意識はゆっくりゆっくりと沈んでいった。
―――何だか腹が暖かい。
触れているのは腹だけなのに、其処から全身を優しく温めてくれる。なんだかふわふわと柔らかい。夢から覚めきらない頭が、ただ幸せだけを知覚する。
「うふふ、止めてくださいよぅ榎木津さん…」
「何だマスヤマ、気持ち悪いぞ」
はっと目を開けば、すぐ近くに鳶色の瞳があった。飛び起きようとしたが、榎木津の腕に肩を押えられる。
「馬鹿、動くな。逃げちゃうだろ」
「うぇ、逃げるって何が…あっ」
益田の薄い腹にくっついて、何か丸いものが居る。白と茶の毛並みに映える赤いリボン。榎木津はゆっくりと起き上がり、そっと其の毛玉めいたものを持ち上げた。毛玉からは手足が生え、三角の耳が飛び出している。眠りを阻まれ、不機嫌そうに揺れる尻尾をなだめながら、榎木津は其れをからっぽの鞄に仕舞いこんだ。分厚い革越しに、にゃあおう、と間延びした声が聞こえてくる。
「猫…」
「お仕事終わり!帰るぞマスヤマ!」
両腕で鞄を抱きかかえて進む榎木津に、寝ぼけた頭で付いていく。いつしか陽は傾き、牛の群れも居なくなっていた。
探偵社に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
「お帰りなさい先生、依頼人がお待ちですぜ」
「えっ、依頼人?」
和寅の肩越しにソファを覗き込むと、陰から赤いエナメルの靴が見えた。
榎木津はソファの前に膝をつき、鞄を開けて中を見せてやっている。
「やぁやぁ遅くなったね、でもこの通りちゃあんと連れて来たぞ」
「わぁ、私のにゃんこ!」
エナメル靴の少女は、鞄から猫を引きずり出した。猫は一瞬眩しそうに目を細め、少女の腕の中でごろごろと喉を鳴らしている。状況についていけずただ唖然としている益田に、和寅が囁いた。
「家族でピクニックに出かけた時に飼い猫が逃げちまったそうで。探しに行こうにも女の子の足には遠いし、詳しい場所も解らない。其処で先生が連れて来てやろうって息巻きましてね」
猫を重そうに抱きかかえた少女は、ぴょこりと頭を下げた。猫と揃いの赤いリボンが、柔らかい髪の根元で跳ねる。
「探偵のおじさん、どうもありがとう!」
少女は顔中を笑顔にして、益田の脇をすり抜け、事務所の扉から出て行った。弾む靴音が遠ざかっていく。
榎木津は窓に張り付いて彼女を見送っていたが、やがて顔を上げた。
「どうだマスヤマ、コソコソ他人のいざこざを嗅ぎまわるよりよっぽど健全な仕事だっただろう!」
「そうですねえ…女の子も喜んでましたし。まぁこんな仕事ばっかりじゃ僕ぁ食っていけませんけども」
「そう云うと思ってちゃんと報酬も貰ってあるのだ。そら、口を開けろ」
反射的に口を開けると、榎木津の指先が唇を掠めた。何か放り込まれた。苺ミルクの味が口中を甘く染めていく。
「でもそうならそうと早く云ってくださいよぅ。僕ぁ公然とサボタージュしてるみたいで気が気じゃなかったんですから」
「本当は僕ひとりで十分な仕事だったんだけど、マスヤマが行きたいかと思ったんだ。神の慈悲だぞ、有難く受けなさい」
榎木津も「報酬」を口に含んで笑っている。
同じ風を浴びて、同じ場所に横たわり、同じ夢を見て、同じ甘さを感じる。終わってみれば、なかなかに幸福な一日だ。
――――
蒼月様リクエスト「外で昼寝する榎木津と益田」でした。ありがとうございました。