なんと豪奢な髪だろうか。
真っ赤な絨毯敷きのフロアで出会った彼女に対する益田の第一印象は其れであった。
踵のある靴を履いている所為もあって、全体的にすらりとした印象だ。絹のシャツをふっくらと押し上げる柔らかそうな胸から続くのは、これまた女性らしくふっくらとした腰周り。肌も目鼻立ちも整っているが、その顔は憂いに曇っている。探偵などに縋らざるを得ないのだ、無理も無い。
しかし何よりも彼女の美しさを印象付けるのは、腰まで届く栗色の髪であろう。其れは光を跳ね返しながらゆるやかな波を打ち、華奢な背中を丸ごと覆っている。彼女が益田に深々と頭を下げた時、髪が肩からすとんと流れてほのかな甘い香りを漂わせた。
(こぉんな綺麗な奥方を差し置いて浮気なんて考えられないなぁ)
応接間に向かって益田を先導する彼女の背でふわふわと揺れる髪を目で追いながら、益田は思った。女性の足取りは心なしか重く、どうやら結果を聞くまでも無く薄々感づいているようだ。
益田も仕方が無いので、やぁこれは立派な壺ですねぇ、等と関係の無い事を云ってはみたものの、屋敷全体に重く垂れ込める空気を変えるのに、何の足しにもならぬまま客用のソファに腰掛ける羽目になってしまった。
せめて出来るだけ事務的に、益田はばさばさと机上に書類と写真を並べていく。彼女の夫が、彼女ではない女性と並んで歩き、肩を組み、公言出来ないような場所に消えていく一連の様子。女性の口元から、「ああ…」と落胆のような、感嘆のような、納得したような吐息が漏れた。
「綺麗な黒髪」
女性にしては少しハスキーな声が、ぽつりと呟く。つられて目を落とせば、確かに浮気相手の女性は黒い髪をしていた。益田の拙い写真でも解るほど艶やかな黒髪を、肩のあたりで切り揃えている。きつそうな目尻に似合わぬ甘えた声で調査対象を引っ張りまわしているのを益田は見た。その時も黒髪は輪が出来るほどに輝いていたはずだ。目の前で俯く女性とは、まさに正反対。昼と夜、空と海ほども違う。
「えーと、この日は貴女に出張と云って出て行ったそうですが、ご主人はこの黒髪の女性と」
「判っております」
彼が戻り次第直ぐに財産の整理を、とぽつぽつと云う女性が、長い栗毛をかきあげて耳にかけた。顕わになった顔は益田の想像よりも冷静そうで、少し安心する。云ってはなんだが、あまり芯が強そうなタイプに見えなかったので、夫の不貞を嘆き悲しむ事もあるかと思ったのだ。無論内心ではそうなのかもしれないが、表に出さないで居てくれれば益田としても知らない振りが出来る。
なので益田は彼女が泣き出さないうちに、さっさと報告と料金の請求を済ませてしまった。あまり事務的すぎると怒り出す客も居るが、彼女はその度にはい、はいとついてきてくれ、全ての作業は滞り無く済んだ。
益田が書類を束ねていると女性は一旦席を立ち、紅茶を注いで戻ってきた。意匠のこらされた白いカップを満たす暖かな液体には、輪切りのレモンが浮いている。
仕事も終わったし、依頼人の相談に乗る位なら良いだろう。アフターケアというやつだ―――益田は紅茶を有難く受け取り、女性も益田の横に腰掛けた。ミルク色の紅茶よりもさらに淡い色合いの髪が少し遅れてふわりと益田の肩に触れ、思わずどきりとする。見れば女性の視線は、束ねた紙片の一番上に置かれた調査対象と浮気相手のツーショット写真を、食い入るように見つめていた。
「や、すみません」
慌てて裏返そうとする益田の手を、もう一つの手が押し留めた。柔らかく、白い。
「本当に、綺麗な黒髪」
あえかな吐息とともに、左耳に直接低音が吹き込まれ、益田は思わずくらりとなった。邪心を振り払って、探偵らしい顔と声を作って答える。
「そうですね、確かに。妻のある男性とどうにかなっちゃって散々金品貢がせてる女性ですから心根はどうか知りませんが、髪はまぁ綺麗でした」
「貴方も、黒髪なのね…」
先細りの指先が、ついと益田の前髪を掬った。桜色の爪に頬のラインをつうとなぞられて、産毛がそそけだつような微妙な感覚に襲われる。思わず身を引けば、それ以上に近づかれ、気がつけば益田の背は布張りのソファにぴたりと押し付けられていた。天井が見えるはずの視界には、か弱い筈の女性に乗り上げられたという残酷極まる現実が広がっている。
逃れようと頭を振り、益田はぞっとした。流れ落ちた長い髪が、檻のように益田を覆っている。
「ま、待ってください奥さん!僕の髪なんか所詮男の髪ですよ、触ったら堅いし、貴女の栗毛の方がずっと素敵ですとも。ですから、ですからって云うのも変かな、と、とにかく落ち着いて」
喋ろうとして息を吸うたびに、胸の奥を髪の匂いが満たす。今の益田にとっては、毒の霧にも等しい。背面のベルトに噛ませた乗馬鞭など、女の髪の威力に比べれば児戯も同然だ。
益田の唇に細い指がそっと押し当てられ、ついに唯一の武器さえも封じられた。
「静かになさって、ねぇ、黒髪の探偵さん―――」
子どもを寝かしつけるような口調に交じる、色の気配。柔らかな髪と共に顔が降りてくるのに、益田は身動ぎすら出来ない。爪先も、指先一本すら動かせない。目をぎゅっと閉じることすら。
(―――あ)
その瞬間、風船が弾けるように、益田の意識がはっと覚めた。
「―――瞳が、違ったんです」
「あっそう」
益田の決死の独白は、榎木津に一蹴された。
床に直接正座させられて、膝から下の痺れはもう腿まで上がってきている。其処を榎木津につつかれて、益田はああっと苦悶に喘いだ。
「だ、だってあんな豪華な栗色の髪、僕ぁ榎木津さん以外で初めて見ましたよ。髪質まで似ててもう舞い上がってしまったというか」
「あっそう」
「ぎゃあっ!」
痺れている箇所を思い切り撫で上げられた。通常なら慰撫ともとれる仕草は、今の益田にとっては拷問に過ぎない。よくわからない種類の虫が皮膚の内側を走り回っているような不快感は、耐えられるものではない。
ともかく目が覚めてからは、益田自身どうやって逃げてきたかよく憶えていない。まぁどうにか女性を引き剥がしたのだろうが、屋敷を飛び出して、やたら広い庭を抜けてから振り向きもせず一目散に逃げ帰った。多少泣いていたかもしれない。事務所に戻るなり榎木津に記憶を視られ、正座させられ、この有様である。踏んだり蹴ったりだ。
目の前に鎮座まします神の機嫌が治るまで、益田の悲痛な訴えと榎木津による罰は続けられた。
永劫にも思える苦しみに溺れる益田にとっての唯一の救いは、自分が悲鳴を上げるたびにくるくるとよく動く、唯一無二の鳶色の宝玉。
(2つありますけどねぇ)
内心冗談を云えるだけの余裕を看破されたのか、さらに神の御手による天罰が追加された。
――――
萩中様リクエスト『依頼人の奥様に食べられかける益田とその記憶を視て嫉妬する榎木津』でした。ありがとうございました。
これにてリクエストお題達成です!お付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました!
記憶の像に残る彼と目の前の彼は確かに同じものである筈なのに、重ねた其れらが噛みあわず、亀井は歯噛みした。
やっきになって重なる箇所を探したけれど、見つけるまでに与えられた時間はあまりに短すぎ、突然すぎた。結局の所彼―――益田は行ってしまった。その後姿すら、去り行く電車に吸い込まれる背中と一致せずに。
少年時代の亀井は曲がり角の向こうに消える猫の尻尾などを見かけると、走って追いかけずには居られない性質だった。捕まえたい訳では無く、ただ追いかけたい。猛追してくる子どもを見かけると、猫は大概逃げ出してしまうが、追跡者を見てきゅっと丸くなる猫の瞳や、風の如く塀の上を駆ける背中を見かけると胸がわくわくした。
長じた今となっては猫を見ても敢えて近づく事すらしなくなったが、くたびれたようなシャツに浮く肩甲骨のラインを見て、久々にそんな気持ちが芽生える。
休暇を待って、電車に飛び乗った。あの日去った彼が、荷物と思いを持って乗ったであろう電車に。
―――甘く見ていた。
東京の神田神保町、榎木津ビルヂング。界隈で一番大きな建物の3階。
其処まで解っているのに、結果として現在亀井は知らない街中で立ち往生している。電車の窓から確かに白亜の建造物が見えて、「嗚呼あれだな」と思っていたのに。あっちかこっちかと徘徊するうちに陽も傾き、散々歩いた風景も色を変え始めた。人が神隠しに遭う時はこんな気分なのだろうか。目的の場所には一向辿り着けないのに、駅にだけは確実に戻れる。人に聞いたり、タクシーを拾えば良いのだろうが、何故か後ろめたさを感じて出来なかった。猫を追うのにタクシーを使う者など居ない。
幾度目かに戻った駅前には、改札に吸い込まれる人の群れ。皆仕事を終えて家路につこうとしているのだろう。
「あれえ、亀ちゃん?」
輪郭を持たない音の群れの中で、すっと耳に入った声。
振り向けば其処には、大きくは無い目を丸くした益田が立っていた。綿のシャツにグレーのスラックスは見慣れたスタイルで、亀井は少し安堵したが腰に回したベルトに突き刺さっている乗馬鞭が意味不明で、また混乱する。
「あっやっぱりそうだ。そうじゃないかなって思ったんだよね、うわぁ偶然。どうしたのこんな所で。今日休みだったの?」
益田は両の指先を合わせて軽く跳ねた。女学生でもあるまいし。
益田の顔周りで揺れるものを見て、其処で亀井は齟齬のひとつに気がついた。
前髪だ。長く伸びた前髪が、半分位彼の顔を隠してしまっている。ただでさえ尖った輪郭が益々狭まって、女には見えないが、或いは女よりも頼りなく見せているのだ。
先日再会した時は此処まで鬱陶しく長くは無かったと思うが、気がついて居なかっただけだろうか。
ともかくも亀井は内心の動揺を隠し、無表情な声で応答した。
「あ、はい。休みで」
「いいなぁ休み。僕なんかもう今日も仕事だよ。まぁ殆ど自由業みたいなもんだけど」
あーあと溜息を吐きながら首の後ろを揉む仕草は警察時代にも良く見かけたものだ。亀ちゃーん肩揉んでー、などと調子良く近づいてくる先輩をやれやれと思って見ていた頃もあった。
「何で貴重な休み使ってこんな所まで来たの?観光?」
「ええ、まぁ…でも道に迷って」
全然何処にも行けませんでした、と云うと、益田はけらけらと甲高く笑った。
「駄目だよ東京来るんだったらちゃんと調べて来なきゃあ、最初散々迷った僕が云う事でもないけどさ。あ、帰る前に其処の角の洋食屋寄ると良いよ」
「益田さん」
「ハヤシライスがたまねぎ甘くて美味し…あ、何?洋食嫌い?」
「益田さんも道に迷ったんですか?」
ああまぁねぇ、と益田は指で頬を掻く。思いのほか手が大きく、指が長い。酒の肴に鍵盤楽器が出来るという話を聞いた事があったが、実際に弾くところを見た事は無かった。
「探偵になるぞーって一念発起して出てきたは良いけど、知ってるのなんて神保町と榎木津って名前だけだし。一ツ橋の方まで行っちゃった。まぁなんとか行き着いて、事務所転がり込んで、今に至る」
同じ場所に立ち、同じように都市に迷った――情報量で云えば亀井の方がまだ多い位だ―――益田と自分の違いは何だったろう。
そして唐突に、亀井は自分が辿り着けなかった訳を悟った。
「榎木津探偵」
「は?あぁ、うんそう。僕の雇い主っていうか、押しかけ先?会った事あるよね。折角亀ちゃん来てるしお茶でも一緒したいところなんだけど、帰らないとあのおじさん煩いんだよねぇ。自分はふらふら何処へでも行っちゃう癖に」
そう云う益田の視線は、亀井の肩越しに違う場所を見ている。恐らく彼の帰る場所であり、自分を拒んだ建物だ。灯台に導かれる船のように、燦然と輝く指針に向かって益田は導かれたのに違いないのだ。らしくもなく感情的な発想だが、そうとでも考えなければ、やりきれない。現に亀井は行き着けなかったのだ。或いは其処に益田が居れば到着する事も出来たのだろうか。今日の自分は、考えても仕様が無いことばかり考えている。
寄ってく?と云われたが亀井は首を振った。行ってしまえば、見たくも無いものを見る事になってしまう気がした。例えば、自分では無い人に向けられる知らない顔。この知らない街で、益田までもが知らない何かになってしまうのは耐えられない事だった。
「じゃあね亀ちゃん。こっち来る時は声かけてよ、僕ぁだいたい事務所に居るから」
その事務所が解らないのだ。
けれども亀井は其れを伝えることが出来ず、ええとかはいとか云いながら、益田の口元から覗く八重歯を見ていた。にっと笑った時に見えるパーツを、彼の雇い主とやらは知っているのだろうか。
「またね」とすら云えないうちに、益田が一歩身を引いた。へらへらと笑いながら行ってしまう。何故か過去の2度の別れよりもずっと切ない。
半身をこちらに向けてひらひらと振る其の腕をとってしまえば、華奢な腰を捕らえて抱き込んでしまえば、痩せた足を払って靴を奪ってしまえば。
果敢無い空想に一瞬意識を取られた隙に、暮れなずむ街並を埋める人の群れに、益田はすっと紛れるように消えた。
様々な人間が行き交うこの場所で、佇む亀井はどうしようもなくひとりだ。今や完全に沈む夕陽が残した最後の一条が亀井の目を射抜いた。
(僕は益田さんを取り戻したかったんだろうか)
取り戻す、という表現は適切では無いと思う。彼が自分のものだった事など、一度として無いのだから。
想いの名も知らぬ亀井がただひとつ解っている事がある。この街の中で、自分はもう二度と彼を見つける事は出来ないだろう。其れだけは確信として亀井の胸をきりきりと締め付けている。
――――
リカ様リクエスト『益榎益←亀井』でした。ありがとうございました。
もうなにもかもが捏造。亀井ごめん。
いつに無く平和な午後を過ごし、衣だけでなく足取りも軽い。帰りの道程も心なしか近く感じる。
折角なので甘い物でも食べて帰ろうか。確か途中で甘味処の前を通った筈だ。
仕事も終わっているし、自分への褒美と言う事なら問題はあるまい。
ひょこりと顔を出した所で、益田は眉を潜めた。
何故か目的のビル1階周辺に、人だかりが出来ている。
余程店が繁盛しているのかと思ったが、人の集まり方を見るにそういう訳でも無いようだ。
入店待ちの整然とした行列ではない。
どちらかと言うと、動物園で檻の周りに群がる観客を想起させた。時折黄色い歓声も聞こえてくる。
通り過ぎる振りをして、何気なく列の隙間から店内を覗き込んだ。
「げ」
磨かれた窓硝子の向こうには、事務所に居る筈の探偵が座っていた。
頬杖をついて物憂げな様子は、何処に出しても恥ずかしくない美丈夫そのものであり
通常の彼を知らない通行人などではひとたまりもないだろう。
一体何を、と思い見ていると、理由はすぐに知れた。
彼のもとに運ばれてきたのは、細長い容器にうず高く盛り付けられたデザートだった。
白く滑らかなクリームに真っ赤に熟れた苺がふんだんに飾られて、目にも鮮やかな色彩。
所謂ストロベリーパフェというやつだ。
衆人の関心を一身に集めていると気づいていないのか、はたまた気にしていないのか。
榎木津は嬉々として長いスプーンを突っ込み、クリームを掬い取っては口に運ぶ。
口端に付着したそれを舌で舐め取ったり、苺を口に含んでうっとりと目を細める度、
人ごみの中からは溜息交じりの歓声が上がった。
「何やってるんですか、榎木津さん…」
一心不乱にパフェに食らいついていた榎木津が、急に窓の外に視線を向ける。
ある者は歓喜の悲鳴を上げ、ある者はウインドウに近づいた。後ずさったのは益田位のものだ。
完全に目が合ってしまった。
右手にスプーンを握ったまま、榎木津がずかずかと歩いてくる。
観衆に隠れるようにして、益田は慌てて逃げ出した。
少し離れた処で振り向くと、群れ集う人の頭の間から窓硝子をバンバン叩いている彼の姿が見えた。
何か叫んでいるようだが、全然聞こえない。
何も見なかったことにして、建物を背に益田は駆け出した。
すみません榎木津さん、後でお叱りは幾らでも受けます。
ビルヂング1階のテーラーをパーラーと思い込んで書き始めた(…)お礼文です。
榎木津×エチオピヤ人R15。五徳猫ネタバレ及び性描写を含みます。ご注意。