記憶の像に残る彼と目の前の彼は確かに同じものである筈なのに、重ねた其れらが噛みあわず、亀井は歯噛みした。
やっきになって重なる箇所を探したけれど、見つけるまでに与えられた時間はあまりに短すぎ、突然すぎた。結局の所彼―――益田は行ってしまった。その後姿すら、去り行く電車に吸い込まれる背中と一致せずに。
少年時代の亀井は曲がり角の向こうに消える猫の尻尾などを見かけると、走って追いかけずには居られない性質だった。捕まえたい訳では無く、ただ追いかけたい。猛追してくる子どもを見かけると、猫は大概逃げ出してしまうが、追跡者を見てきゅっと丸くなる猫の瞳や、風の如く塀の上を駆ける背中を見かけると胸がわくわくした。
長じた今となっては猫を見ても敢えて近づく事すらしなくなったが、くたびれたようなシャツに浮く肩甲骨のラインを見て、久々にそんな気持ちが芽生える。
休暇を待って、電車に飛び乗った。あの日去った彼が、荷物と思いを持って乗ったであろう電車に。
―――甘く見ていた。
東京の神田神保町、榎木津ビルヂング。界隈で一番大きな建物の3階。
其処まで解っているのに、結果として現在亀井は知らない街中で立ち往生している。電車の窓から確かに白亜の建造物が見えて、「嗚呼あれだな」と思っていたのに。あっちかこっちかと徘徊するうちに陽も傾き、散々歩いた風景も色を変え始めた。人が神隠しに遭う時はこんな気分なのだろうか。目的の場所には一向辿り着けないのに、駅にだけは確実に戻れる。人に聞いたり、タクシーを拾えば良いのだろうが、何故か後ろめたさを感じて出来なかった。猫を追うのにタクシーを使う者など居ない。
幾度目かに戻った駅前には、改札に吸い込まれる人の群れ。皆仕事を終えて家路につこうとしているのだろう。
「あれえ、亀ちゃん?」
輪郭を持たない音の群れの中で、すっと耳に入った声。
振り向けば其処には、大きくは無い目を丸くした益田が立っていた。綿のシャツにグレーのスラックスは見慣れたスタイルで、亀井は少し安堵したが腰に回したベルトに突き刺さっている乗馬鞭が意味不明で、また混乱する。
「あっやっぱりそうだ。そうじゃないかなって思ったんだよね、うわぁ偶然。どうしたのこんな所で。今日休みだったの?」
益田は両の指先を合わせて軽く跳ねた。女学生でもあるまいし。
益田の顔周りで揺れるものを見て、其処で亀井は齟齬のひとつに気がついた。
前髪だ。長く伸びた前髪が、半分位彼の顔を隠してしまっている。ただでさえ尖った輪郭が益々狭まって、女には見えないが、或いは女よりも頼りなく見せているのだ。
先日再会した時は此処まで鬱陶しく長くは無かったと思うが、気がついて居なかっただけだろうか。
ともかくも亀井は内心の動揺を隠し、無表情な声で応答した。
「あ、はい。休みで」
「いいなぁ休み。僕なんかもう今日も仕事だよ。まぁ殆ど自由業みたいなもんだけど」
あーあと溜息を吐きながら首の後ろを揉む仕草は警察時代にも良く見かけたものだ。亀ちゃーん肩揉んでー、などと調子良く近づいてくる先輩をやれやれと思って見ていた頃もあった。
「何で貴重な休み使ってこんな所まで来たの?観光?」
「ええ、まぁ…でも道に迷って」
全然何処にも行けませんでした、と云うと、益田はけらけらと甲高く笑った。
「駄目だよ東京来るんだったらちゃんと調べて来なきゃあ、最初散々迷った僕が云う事でもないけどさ。あ、帰る前に其処の角の洋食屋寄ると良いよ」
「益田さん」
「ハヤシライスがたまねぎ甘くて美味し…あ、何?洋食嫌い?」
「益田さんも道に迷ったんですか?」
ああまぁねぇ、と益田は指で頬を掻く。思いのほか手が大きく、指が長い。酒の肴に鍵盤楽器が出来るという話を聞いた事があったが、実際に弾くところを見た事は無かった。
「探偵になるぞーって一念発起して出てきたは良いけど、知ってるのなんて神保町と榎木津って名前だけだし。一ツ橋の方まで行っちゃった。まぁなんとか行き着いて、事務所転がり込んで、今に至る」
同じ場所に立ち、同じように都市に迷った――情報量で云えば亀井の方がまだ多い位だ―――益田と自分の違いは何だったろう。
そして唐突に、亀井は自分が辿り着けなかった訳を悟った。
「榎木津探偵」
「は?あぁ、うんそう。僕の雇い主っていうか、押しかけ先?会った事あるよね。折角亀ちゃん来てるしお茶でも一緒したいところなんだけど、帰らないとあのおじさん煩いんだよねぇ。自分はふらふら何処へでも行っちゃう癖に」
そう云う益田の視線は、亀井の肩越しに違う場所を見ている。恐らく彼の帰る場所であり、自分を拒んだ建物だ。灯台に導かれる船のように、燦然と輝く指針に向かって益田は導かれたのに違いないのだ。らしくもなく感情的な発想だが、そうとでも考えなければ、やりきれない。現に亀井は行き着けなかったのだ。或いは其処に益田が居れば到着する事も出来たのだろうか。今日の自分は、考えても仕様が無いことばかり考えている。
寄ってく?と云われたが亀井は首を振った。行ってしまえば、見たくも無いものを見る事になってしまう気がした。例えば、自分では無い人に向けられる知らない顔。この知らない街で、益田までもが知らない何かになってしまうのは耐えられない事だった。
「じゃあね亀ちゃん。こっち来る時は声かけてよ、僕ぁだいたい事務所に居るから」
その事務所が解らないのだ。
けれども亀井は其れを伝えることが出来ず、ええとかはいとか云いながら、益田の口元から覗く八重歯を見ていた。にっと笑った時に見えるパーツを、彼の雇い主とやらは知っているのだろうか。
「またね」とすら云えないうちに、益田が一歩身を引いた。へらへらと笑いながら行ってしまう。何故か過去の2度の別れよりもずっと切ない。
半身をこちらに向けてひらひらと振る其の腕をとってしまえば、華奢な腰を捕らえて抱き込んでしまえば、痩せた足を払って靴を奪ってしまえば。
果敢無い空想に一瞬意識を取られた隙に、暮れなずむ街並を埋める人の群れに、益田はすっと紛れるように消えた。
様々な人間が行き交うこの場所で、佇む亀井はどうしようもなくひとりだ。今や完全に沈む夕陽が残した最後の一条が亀井の目を射抜いた。
(僕は益田さんを取り戻したかったんだろうか)
取り戻す、という表現は適切では無いと思う。彼が自分のものだった事など、一度として無いのだから。
想いの名も知らぬ亀井がただひとつ解っている事がある。この街の中で、自分はもう二度と彼を見つける事は出来ないだろう。其れだけは確信として亀井の胸をきりきりと締め付けている。
――――
リカ様リクエスト『益榎益←亀井』でした。ありがとうございました。
もうなにもかもが捏造。亀井ごめん。