『2.命の熱』の続きです。未読の方は、先ずそちらからお願い致します。
視界が回るとか、目がちかちかするとか、そんな事は無い。
ただ浮かんだ涙で天井がぼやけたり、流れてきた汗が目に入って痛いという事はある。
熱で頭が痛むのか、塞がりかけた傷口が痛むのかは計りかねたが、益田の現状はこんなものだった。
身動きするのも面倒臭く、煎餅布団に包まって体力の回復を待っている。時折窓の外から聞こえてくる子どもらの笑い声や、豆腐屋の間延びした喇叭だけが益田の退屈を少し慰めた。
「あぁー…しんどい」
転んだ時に砂で擦った掌の刷り傷、降って来る何人もの足から頭を庇った両腕に幾つか出来た青痣、靴を失って歩き回ったために浅く擦れた左足の裏、少し深く切ってしまった眉上の辺り。
迎えに来た和寅を振り切って行った病院で知らされた、益田が負った怪我は意外と少なかった。
この長い前髪も少しは身を守る役に立ったのだろうか。益田はぼんやりした視界をすだれのように覆う前髪を弄った。
擦り傷はかさぶたになり、痛々しかった痣も色を変えてきた。あとは眉骨を掠めた切傷と、何処からか侵入した菌による得体の知れない熱さえ下がれば、体調はほぼ万全なものとなる。
外に出られる。神保町に行ける。事務所に入れる。探偵に会える。そして、自分が如何に酷い目に遭ったものかを調子交じりに話せる。バカオロカと言って貰える。
この数日、益田はそんな事ばかり考えていた。また、神が見るであろう自分の失態を少しでも忘れてしまえたらとも考えた。代わり映えしない天井の木目を数えてみても記憶が上書きされるわけでなし、うっかり飲み込んだ砂の味や身を切った熱さまでも思い出してしまうだけだ。面白くも無い。
ほう、と溜息を付いた益田は、ふと瞬きをした。扉にとりつけられた鍵が回っている。大家が家賃を取りに来たのだろうか。それは不味い、なにせ病院で診療代と薬代を取られたきり仕事をしていないのだ。
せめて自分がより重篤な病人に見えるよう、温んだタオルを額にかけ直した。
「すみませぇん、今僕ぁ見ての通りの状態でして、助けると思って家賃もう少し待ってもらえたら」
「見ての通り、カマが寝込んでる」
はっとして目を開ければ、布団の脇に立った榎木津が益田を見下ろしている。昼と無く夜と無く見続けた安下宿は常と全く変わらないのに、同じく良く見ている筈の榎木津が現れただけで、演劇舞台のように非現実的な空間になってしまった。
非現実の中、布団に横たわっている自分が唯一日常を残しているのが何だか申し訳ない気がして、益田は半分身を起こす。
「榎木津さん、何で此処に。どうやって入って」
「正直に大家さんに云ったゾ。あの部屋に潜んでいるカマオロカは僕の下僕なので、鍵を貸してくれって」
力が抜けてまた枕に倒れこんだ。榎木津の美貌は初対面の人物には特に受けが良い。どうせその無駄にキラキラした鳶色の瞳に見つめられてしまえば(さらに笑みまで湛えていれば完璧だ)仮に彼が「自分は借金取りで今から借金のカタにお宅の店子を連れて行ってバラす」と云っていたとしても、鍵の一本や二本喜んで渡してくれるだろう。
云うに事欠いてカマオロカはひどい。今度大家に会った時にどんな顔をすれば良いのだろう。
益田の心中も知らず、榎木津は薬を飲むときに使った水の残りを勝手に飲み干して顔を顰めている。
「ぬるっ」
「嗚呼すみません、今お茶出します。粗茶です、が」
益田は立ち上がりかけたが、急に動いたせいで立ち眩みがした。がくりと落ちた膝が布団と、榎木津の膝に触れる。はっとして顔を上げると、ぼやけた背景の中榎木津の顔だけがはっきりと近い。その視線が、自分の眉上に注がれているのを知って、益田は手で其処を覆った。まだ皮膚が出来上がりきっていない、擦過傷を残した掌。触れ合った2つの傷が、早まった血の巡りによってずきずき痛んだ。
「す、すみません」
「何を謝る」
「え」
「謝るって事は悪い事をしたって思ってるな。それを僕に赦して貰おうと思っている、だから謝るんだ。何を謝る」
硝子の瞳があまりに近い。愚かな自分と、馬鹿な記憶とを同時に視られているようだ。
だらしなくよろめいて倒れかけた事、勝手に仕事を請けていた事、勝手に怪我をした事、仕事に行かなかった事。
幾つもの背信が現れては、益田の両の瞳から伝い落ちた。
「すみません」
「また謝る」
「赦さなくて、良いです」
「なんだって?」
赦してくれなくて良い。
その代わりにどうか、その御手で罰をください。
二度と、もう二度と、貴方から逃げたりなどしないように。
溢れる涙が傷口を押える手を伝って、畳の目に染み込んでいく。
もう片方の目を、榎木津の親指がぐいと乱暴に拭った。
「鬱陶しいナキヤマめ。泣いたら怒るぞ」
「怒ってくださいよう」
「怒ったらお前、喜ぶじゃないか。喜ぶんじゃあ罰にならない」
「そんなあ」
榎木津が益田の肩を押し、布団に倒された。一瞬どきりとしたが、期待に反して上から掛け布団を被せられた。
遠くで喇叭の音が聞こえる。
「明日までに全部治して来い」
「ええっ、無理ですよ!僕の傷口ご覧になったでしょ、今でこそ塞がりかけてますけどその当初は鮮血がドバーってもう」
「やる前から無理とか云うなッ!だからお前はオロカだって云ってる」
榎木津が立ち上がった。帰るのだろう。益田は首だけをそちらに向けた。
「ごめんなさい」
「あっまた謝った!」
「ち、違うんです。反省じゃなくてこれは、所信表明と云いますか」
かさぶたで引き攣る手をそっと伸ばし、榎木津のズボンの裾を軽く掴む。
「申し訳無いんですけど僕にも生活がありますんで、仕事は此れからも勝手に請けるでしょうし、怪我することもあるかもしれないんです。だからすみません。でも、もう逃げたりしませんから。僕の出来る範囲で、貴方の傍に居させてください」
分不相応なお願いしてごめんなさい―――また謝ってしまった。
掴んでいないほうの足がすっと持ち上がり、布団の上から益田の腹を軽く踏む。
苦しくない程度の重さを感じながら見上げると、ふくれっ面の榎木津と目が合った。
「当たり前の事いちいち云うな、バカオロカ」
陶磁器のように完璧な肌がほんの少し薔薇色を帯びるのを見て、
嗚呼生きているのだ、と
当たり前の事を、思ったり、した。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
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榎木津→益田楽しすぎる。
榎木津が益田の失くした靴を取り返して来る予定でしたが、2本連続で悪い意味でトレンディな榎木津になってしまうので中止しました。
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