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2024/11/27 21:26 |
10.色仕掛け

この赤い屋根はさっきも見たな―――胸の前に写真機をぶら下げた鳥口は、ぼんやりと見た屋根から目を逸らして歩き出した。
やはり地図を借りてくるべきだったと、頭を掻きながら反省する。何故そうしなかったのかと云えば、職場で言いつけられた取材先の住所に見覚えがあったのだ。榎木津ビルヂングの所在地とほぼ相似した其処に、番地が違うだけでこうも辿り着けないとは。

「一丁目の次は二丁目の筈なのになぁ」

木の電柱に打ち付けられている錆の浮いた鉄板を所在無げに撫でている鳥口の指先に、ぽつりと水滴が落ちてくる。
おやと思い見上げた空はいつの間にか厚い雲に覆われて、見計らったように雨が降り始めた。咄嗟に背を丸めて、写真機を庇う。ぬるい雨は強さを増し始め、店舗や軒先には雨を避ける通行人が次々と飛び込んでいく。鳥口も足を速めた。
幸いにして、彼が目印にしていた白亜のビルはすぐ其処だった。建物内に飛び込んで足を止めた途端、浴びてしまった雨は冷えて彼の体温を奪い始める。大袈裟なくしゃみの後、鼻を啜り上げた鳥口は階上を見上げた。次いで、薄暗い廊下に足音が響く。馴染みの探偵事務所で少々雨宿りをさせて貰い、ついでに暖かい茶の一杯も馳走して頂こうという魂胆だった。
誰にも会う事無く、鳥口の足は重厚な扉の前に立った。ノブに手をかけて元気良く開こうとしたところで、鳥口は僅かに逡巡する。来客が居るかも知れないからだ。金文字の入った曇り硝子が邪魔で、中の様子は解らない。
そこで彼は、音がしないようにそっとドアを薄く開けた。室内は、鳥口が立つ廊下に劣らず薄暗い。話し声も聞こえないし、足音も無い。ただ留守では無いようで、人の気配を確かに感じる。鳥口はほっと安堵し、扉の隙間からするりと入り込んだ。そしていつも通り元気良く挨拶をしようとしたが、口から出かけた「どうもどうも」という声は言葉にならず、ただ言い淀んだ吐息だけが、酷い湿気を帯びた空気に溶けた。
ベルの音も止み雨音だけが支配する室内で、ドアノブから手を離す事もせずにぽかんと立ち竦む鳥口の目は、一点に釘付けになっていた。鳥口を出迎えたのは気の回る探偵秘書でも軽薄な探偵助手でも無く、ソファの背から生えたようにすっと伸びる白い背中―――背中というより、首だ。
絹の如くしっとりとした輝きを帯びる黒髪を割って、一点のくすみも無い首筋が見える。置き忘れられたかのように数本の細い髪が絡んでいるのが何とも云えない。僅かに俯いた首から続く肩は何も纏っていない。しばし呆けた後、鳥口はようやくはっと気がついた。ごし、という衣擦れに似た音がする。目の前で無防備に座っている人物―――鳥口は女性だと思った―――が、濡れた体を拭いているのだと遅まきながら理解したのだ。
自分の目的はおろか此処が何処だったかも忘れ、鳥口は慌てて背を向けた。

「どうもお邪魔しました!」

入ってきた時と裏腹に、どたばたと忙しない様子で飛び出した。カウベルの音がそれを追いかける。ひえぇ、とばつ悪げに声をあげる鳥口だったが、腕を誰かに捕まえられて更に驚いた。そちらを見ないように目を硬く閉じて、ただぺこぺこと頭を下げる。そのたびに髪の先から雫が散った。

「いや相すみません、まさか湯上りの女性が居るとは思いませんで!」
「…どうしたんですか、鳥口君」

雨の音と共に耳に届いたのは、自分を糾弾する甲高い声では無く、ただ疑問を浮かべた気安い口調であったので、鳥口は逸らしていた目をゆっくりと開いた。
濡れたシャツごと腕を掴む手は筋が浮き、不思議そうに自分を見上げてくる黒い瞳は紛れも無く。

「―――益田君?」

見慣れた男の其れであった。





事の顛末を聞いた益田がげらげら笑いながら適当に淹れた茶は、適当に淹れたなりの味がしたが、濡れた体を温めるという目的だけはとりあえず果たされた。鳥口の前に座っている益田は、相変わらず裸の上半身にタオルだけぶら下げた格好だ。客前ならば許されない。
ひとしきり笑って落ち着いた益田は、いつも通りけけけと硬質な笑いを零しつつ鳥口に話しかける。その口調はいかにも楽しげで、今は居ない探偵にも似ている。日頃の意趣返しとも思える。

「間違えちゃったんですか?僕を?女性と?鳥口君ともあろう男が?」
「うへぇ、もう勘弁してくださいよ。肩から上しか見えなかったし、やけに髪長く見えたんですもん。ていうか探偵事務所にいきなり半裸の男が居るなんて思いませんから」
「半裸の女性が居る方が有り得ないでしょうよ。榎木津さんまだ寝てますし。髪が長く見えたのは濡れてたからかなぁ。肌の色が抜けてたのは寒かったからでしょ」

衝立には湿ったシャツとネクタイが引っ掛けてある。干しているつもりのようだ。
鳥口と同じく突然の雨に見舞われた益田は探偵と秘書の留守を良い事に、濡れた服を思い切り脱いで体を拭いていたらしい。客が来たらどうするのだと鳥口が問うと、電気も点いていないのに入ってくる無法者など鳥口位のものだと一蹴された。
頭を拭いていたタオルを落とし、鳥口は妙にしみじみと益田を見つめる。気楽そうに足を組む姿はいつも通りの確かに彼に違いない。立ち上がってソファの後ろに回りこみ、まだ湿り気を残した益田の後ろ髪を割った。再び現れた首筋は、体毛の薄さも手伝って清らかな百合の茎のような印象すら与えている。

「うーん益田君と思って見るとそれ程でも無いけど、やっぱり綺麗な首だなぁ」
「何気に失礼な事云われた気がするなぁ…男の首が華奢でもしょうがなくない?」
「いや何かの役に立てましょうよ、こうやってちょっと俯いて項だけ晒してれば、益田君天下取れます!」

天下って、と云ってまたけけけと笑う。そんな益田を神妙な面持ちで見下ろしていた鳥口は、さも名案を思いついたようにぽんと両手を打った。

「そうだ、大将に見せましょう!」

今度驚いたのは益田の方だ。体ごとぐるりと振り向いた勢いで、髪が元通りに項を隠す。

「見せましょうって…見せてどうするんですか」
「大将はさぞ目が肥えてるでしょうから、あの人の目に適えば間違い無い。天下もすぐそこですな」
「だから何なの天下って!」
「首で事件を解決する敏腕助手とか幾らだってあるじゃないすか、腕によりをかけて提灯記事書いちゃいます。繁盛間違いなし」
「ろくろっ首じゃないんだから…」

がくりと脱力したことで、益田の首が強調される。鳥口は嬉々として更に首筋を曝け出した。後れ毛の一本にまで気を遣いながら、彼なりに最大限色気が出るよう努力したようだ。
そのままでお願いしますよ、と言い残し、無理やり項垂れた益田をソファに座らせたまま鳥口は榎木津の寝室のドアを拳で叩いた。どんどんどん、と大きな音が立つ。

「大将ー!起きてくださーい!!」
「ちょっ、鳥口君」
「益田君はそのまま!大将ー!あーさですよー!」

歌うような大声を上げながら、リズミカルに扉を叩く。ひっきりなしに響くどかどかという打音は、益田をひやひやさせた。俯いた額に冷や汗が滲む。益田の背後で聞こえていた幾度目かの「たーいしょー」に続き、寝室の内鍵が乱暴に開く音が聞こえた。これだけでも解る、相当機嫌が悪い。普通の人間でもこんな起こし方をされたら不快に違いないのに、熟睡していた榎木津の機嫌はいかばかりのものか、想像するのも気が滅入る。
地獄の釜が開くようにゆっくりと扉が開き、半分だけ開いた扉から怒っているとも寝ぼけているともつかぬ顔をした榎木津が現れた。

「五月蝿い」
「やっこりゃどうも大将、おはようございます」
「神の眠りを妨げるとは、焼き鳥になる覚悟あっての事だろうな」
「まぁ夕食の献立は後にして、ちょいと大将に見て頂きたいものがあるんですわ」

さっこちらへ、という声と共に、2人分の足音が益田の背後から迫る。ぴたりと止んだ其れから伝わってくるのは静かではあるが紛れも無く怒気で、益田は膝の上で拳を固めた。首で支える自分の頭がやけに重い。
鳥口はと云えば、榎木津を促して白い首を示したところだった。

「どうでしょう、これ」

しん、と静かな室内に、雨音がざぁざぁと篭る。榎木津は何も云わない。立ったまま眠っているのかと2人が不安になった頃、ようやく榎木津が口を開いた。

「こんなもんのために、僕を起こしたのか」
「へぇ?」
「マスヤマの生っ白い首なんか見せるために僕を起こしたのかって聞いているんだッ!」

ソファの座面をがつんと下から蹴り上げられて、益田は飛び上がった。ソファごと引っ繰り返りそうになり、ほうほうの態で逃げ出しかける。勿論許される筈も無く、革のベルトを捕まえられて、益田は床に四つん這いの格好で倒れこんだ。反射的にお手上げのポーズをとった鳥口も、そのまま隣に並べられる。

「だ、だから嫌だって云ったのに…」
「云ってないですよ、見せてどうするんですかとは云ってましたけど」
「ゴチャゴチャ五月蝿いぞ下僕ども!」

榎木津が吼える。本当に眠っていたようで、湿気で膨らんだ栗色の髪はあちらこちらに跳ねている。滑稽であるはずが、怒りで毛が逆立っているようにも見えて益々若者2名――特に益田――を脅えさせた。

「丁度良いから首を刎ねてやる」
「止めてくださぁい!仏蘭西革命じゃないんですから!」
「そ、そうです。僕らぁ単純に益田君の首を評価して頂きたかっただけで」

いつの間にか「僕ら」になっていることに益田が異議を唱える前に、榎木津が眉を顰めた。

「首ぃ?」
「なかなかに色気があると思いませんかね。立てば凡夫座れば下僕ですが、俯く姿は百合の花とは良く云ったものです」

榎木津の手が猫の子にするように益田の首を引っ掴んだかと思うと、ぐいと引き立てる。最早抵抗も諦めた益田は、後ろ首を掴まれたまま情けない様子で立っていた。

「女の人の首は僕も嫌いじゃない。日本髪結った時なんか悪くないね。女学生がおさげしてる後姿も良い、かわいい」
「ひええ」
「だがこれは女学生どころか女の人ですら無い、カマだぞ!牛肉が無いからって牛革の靴に醤油かけて食べるようなものじゃないか。血迷ったかトリ頭!」
「ですから僕ぁカマじゃないですってぇ」
「うーん、血迷った…そうですかねぇ…。普段隠れてるから良く見えたのかなぁ…」

鳥口は顎に手を当てて悩んだ素振りを見せている。榎木津は鳥口の返事を待たず、今度は益田の薄い体を裏返して自分に向けた。面食らっている益田の前髪を掴み上げて、後頭部に流す。

「普段隠れてるのが良いっていうなら、これでどうだ!」

薄い眉から生え際まで、なだらかな稜線を描く額が露になる。突然額を見せられた鳥口と、突然額を全開にさせられた益田。2人は同じように呆然としていたが、先に動いたのは益田だった。借りてきた猫のように無抵抗だった男が、突如として抵抗を始めたのだ。

「は、離してください榎木津さん」
「嫌だ離さない。罰を受けろ!」
「わかりました、離さなくていいですからせめてもう少し離れてください!」

顔が近いぃ、と泣き声を漏らす益田の顔がみるみる朱を帯びていくのを勝ち誇った顔で見下ろしていた榎木津は、思い出したように鳥口に向き直った。

「後ろ首なんかじゃこうはいかない、まだまだ素人だな鳥ちゃんは」
「成程、勉強になります。流石大将年季が違いますな」
「何の勉強ですかぁ!」

ふっと半分目を閉じた榎木津は、ひとつの住所を述べ上げた。この事務所と似てはいるが、末尾が僅かに違うそれを聞き、鳥口は今日の本来の目的を思い出した。自分の一部のようになっていた写真機が、ようやく存在感を取り戻す。
榎木津の踵がくるりと返り、寝室の扉に手をかける。もう片方の手で、益田の頭をボールのように掴んだままで。

「というわけで僕はもう一回寝る。今度起こしたら照り焼きにしてやるぞ」
「ハイどうもお世話になりました」
「ちょ、なんで僕まで寝室行きなんですかぁ!僕ぁ関係無いじゃないですか、離」

バタン、と扉が閉まり、鳥口は広々とした事務所に一人になる。ふっと窓の外を見上げればいつの間にか雲は晴れており、絶好の取材日和になりそうだった。
ちらりと閉て切られた扉を見て、「うへえ」と一声だけ呟いて、事務所を後にする。外に出れば、コンクリートが僅かに濡れているのが通り雨の事を思い出させるだけだ。やがてこれも渇き、雨の事が記憶の外に消えるように、取材先を探し始めた鳥口も、寝室に投げ込まれた益田がこれからどんな仕打ちを受けるのかなど、全く想像すらしなかった。



お題提供:『BALDWIN』様

―――
いろいろ考えましたが結局こんな話です…。もったいない。
益田の首も良いけどやはり額が好きです。額露出型の羞恥プレイが読みたい


 

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2009/06/26 18:56 | Comments(0) | TrackBack() | 益田
9.Repeat after me.
都会の喧騒から逃れるような路地裏で、一人の男がしゃがみこんでいた。両脇をコンクリートに阻まれた狭いスペースは、昼なお薄暗く、ひんやりとしている。屑箱の影に見え隠れする彼が、こんな場所にはおよそ似つかわしく無い美貌と気品の持ち主である事は表通りを行く人々は誰一人として知らない。
そんな男が何をしているのかと云えば、奇妙な侵入者を見上げる澄んだ緑色の瞳を、同じく透明な鳶色の瞳で覗き込んでいた。飽きもせず。
薄汚れた毛並みに埋もれた口が開いて一声高く鳴いたので、男の目は喜びでさらにきらきらと輝く。整った歯並びの奥から人ならざる声が上がった。
自分とは似ても似つかない姿の何者かが話しかけてきた事に驚いたのか、緑の瞳は怪訝そうに細められ、また鳴く。その発音を態と真似た奇妙な声との応酬が街の片隅で始まった。

「ニャーン」
「にゃあん」
「ニャアン」
「にゃーん?」
「何やってるんですか、榎木津さん…」

名を呼ばれ、男はちらりとそちらを向いたが、直ぐに視線を元に戻した。興味など無いのだろう。彼の名を呼んだもう一人の男ががくりと項垂れると、長い前髪が揺れて吊り気味の眦が隠れる。携えた籐の籠もまた揺れて、中に整然と詰め込められた食品やら何やらが僅かにその位置をずらす。
栗毛越しにひょいと見れば、灰色の毛並みをした猫もふっと頭を上げて、またにゃあと鳴いた。

「ニャア」
「やっぱりまた猫ですか、お好きですねぇ。愛でるのも結構ですけど程々にして帰らないと、和寅さんがまたぼやきますよぅ、主に僕に。夕食の支度が遅れるとか云って…」
「ニャア!」
「うわっ、ちょっ!」

男が叱る様に「鳴いた」かと思うと何の前触れも無く白い手が籠の中に突っ込まれて、黒髪の男は慌てた。止める間も無く、手は一匹の鯵を掴み出す。ぴかぴか輝く鱗を持つそれを、男は何のためらいも無く猫の前に置いた。
下僕を一喝した時とはうってかわった優しい様子で、緑の目に促す。

「ニャー」

恐らく、「食べなさい」と云ったのであろうと黒髪の男は思った。勿論猫の言葉――しかも物真似に過ぎない――など知る由も無いが、実際灰色の猫は新鮮そのものの身に飛びついて歯を立てたのだから。奪われまいとするように鱗に爪を立てる姿は、やはり野生を思わせる。
がつがつと音がしそうな程食いつく姿を見て男は満足したのか、すくりと立ち上がった。くるりと身を翻し、狭い通路を塞いでいるもう1人の男の脛のあたりを軽く蹴る。

「ニャッ」
「解りましたって、退きますから蹴らないでくださいよう」

追い立てられるように路地から抜け出して表通りに出れば、夕暮れのぬるい空気が首のあたりに絡む。目にかかった前髪に透かすようにして、人数分より一尾減ってしまった夕食の材料を未練がましく見ていると、夕日に透けて金色めいた髪を靡かせる男がするりと彼を追い越していった。
地に長く伸びた影は余計に四肢の長さを引き立たせ、作り物めいた身体バランスを強調している。黒髪の男のそんな感想を裏切って、前を行く神は人形にはとても出来ないしなやかな動作で振り向いた。ともすると雑踏に紛れてしまうほど所在無げに佇む人間を見て、目を細める。

「―――いつまで呆けているのだ、帰るぞ」

なんだか久々に人としての言葉を聞いた気がして、男は前髪を払って相手を見つめた。
赤く燃える夕焼けを背に、誘惑するかのような蟲惑を唇に乗せる主人は呆れるほどに美しいが、ほんの時々、或いは猫が人に化けているのではと思うのだ。



お題提供:『BALDWIN』様

―――
なんでしょうねこの榎木津は…。
猫に飼われる人間=益田萌えの話でした。




2009/06/22 21:23 | Comments(0) | TrackBack() | 益田
7.魅惑の首すじ
直接描写はありませんが益榎益っぽいです。





2009/06/20 21:58 | Comments(0) | TrackBack() | 益田
6.尾灯
次は、―――

目的の駅名を告げる車掌のくぐもった声が車内に響き、益田は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。眠っていただろうか。
認識はしていなかったが、意識の中にはがたんごとんと車輪が弾む音がずっと響いていたように思う。
目を開けた事で一層明瞭とした音と共に僅かに弾む車窓の外を、益田の知らない景色が流れて行く。
手持ち無沙汰だったので、片手に握り締めた切符をもう一度眺めた。幾つか目の乗り換え駅と、目的地の最寄り駅――神保町と云っていたから、恐らく此処が最寄り駅なのであろう――を結ぶもの。其処から先の事は、この小さな紙片には記されていない。線路の無い道を、益田が自分の足で進まなければならないのだ。
ごぉ、と音が大きくなり、益田は顔を上げた。トンネルに入ったようだ。硝子に見える物は流れる風景から、前髪を適当に切り揃えた冴えない男の顔に変わっている。
黒い瞳は唯ぼんやりとしていて、新世界へ挑む覇気などは全く感じられない。
これが自分だ。一度は決めた職を辞し、当て所無く―――無い訳では無いが、殆ど何も解らぬ場所で、よしんば辿り着けた処でその後の事は何も決まっていないのだから当て所無いのと変わらない―――電車に揺られる唯の男だ。
あの探偵も、電車に乗るのかなぁ――と考えているうちに、電車はトンネルを抜けた。街並みの上に広がる空の色は薄青い。今朝後にした神奈川の空と同じような色だ。箱根の空はもっと灰色がかっていたように思うが、あの時は真冬だった。雪はいつしか消え、代わりのように梅の木が紅白の花を付けている。
再び車掌の声が、同じ駅名を繰り返した。
益田は荷物を携えて、席を立った。電車は速度を落とし始め、覗き込んだ前方にはホームが見える。
帰りの切符は無い。数分も置かずに自分はあの場所に降りて、探すのだ。知らない街の中で、知らない世界の中で、唯一強く覚えている人物を。記憶の中では何時だって雪原に立つ彼を、雪の無い今探せるのだろうか。
不安とも期待ともつかぬつらつらとした想像を打ち切るように、電車は遂に止まった。乗り込んでくる男女とすれ違いに、益田の革靴がホームを踏む。
けたたましく鳴る発車のベルを聞いて、益田は振り向いた。自分が座っていた座席には何時の間にか他人が座り、嗚呼と思う間も無くドアは閉まる。ごとん、と云う重い音は、ゆっくりと、だが確実に速度を増す。
信号のように点滅したライトが両目を射抜き、益田は目を細める。益田の肌を撫でた尾灯の軌跡はぬくもりひとつ残す事無く、線路の向こうへと遠ざかって行った。



お題提供:『BALDWIN』様

――――
初対面以上再会未満。
(※最初「神保町駅」と書いてしまっていたのですが、調べたら「神保町駅」が出来たのは昭和47年だそうです。過去の作品でも神保町の駅が出ているかもしれませんがもうその辺はどうにでもなれ(暴論)ということで…すみませんでした…)




2009/06/17 23:36 | Comments(0) | TrackBack() | 益田
8.いまさら
此処に来る時はいつも作業服だなぁ、と思う。外壁の白も美しいビルヂング内で、扉に据えられた金のノブひとつ取っても瀟洒な造りの事務所だ。我ながらどう見ても浮いており、出入りの水道屋か電気屋にしか見えない。
だが、浮いている位で丁度良いとも思っている。何せ此処は探偵を筆頭に、明らかに「普通」でない人種の集まりなのだ。馴染んでしまったが最後、最早自分が過ごしている愛すべき常識の世界には戻れまい。いくら自分が幾度と無くこのドアを潜っており、勝手知ったる他人の家ならぬ探偵事務所になっているとしてもだ。
からんからんと鳴るベルの音で顔を上げたのは、いつも通り掃除をしていた探偵秘書の男だった。

「おや、お久しぶりですな」
「こんにちは」
「今日はどう云った御用向きで?先生ですか、益田君ですか」
「直接話しますから大丈夫です、益田さんはいらっしゃいますか」

一応室内を見渡してみたが、太陽光を受けて光る三角錐が置かれた机にも、応接セットなのか仕事机なのか最早あやふやなソファにもその姿は無い。尋ねられた寅吉は得心した様子で、箒を持ったまま歩き出した。彼が進んで行く先は、探偵の寝室では無かったろうか。
首を傾げる僕の目の前で、寅吉は拳の裏を使ってコンコンと扉を叩いた。

「益田君起きなさい、益田君や。君にお客さんだよ」

やや間を置いてドアノブが回り、中から黒髪の男が現れた。
ベストもタイも付けておらず、綿のシャツは僅かによれていていかにも寝起きと云った様相だ。客と聞いて起きてきた筈なのに、ふわあぁ、と大欠伸までしている。僕の姿を認めると、涙を浮かべた目を擦りながら、おざなりにお辞儀をしてみせた。

「電気屋さんかと思ったら、本島さんでしたか。どうもおはようございます」
「ど、どうも」
「おはようございますじゃあないよ益田君。全くだらしない。彼だったから良いようなものの、本当のお客様だったらどうするんだい」

矢張り客として認められていない。
益田がどさりとソファに腰掛けたので、つられて自分も座る。クッションに身を預けて、未だ眠たそうな益田に話しかけた。

「事務所改装したんですか?」
「へ、何でですか」
「益田さんが寝てた部屋は、榎木津さんの寝室だった所ですよね」
「そうですよ、と云うより、今もそうです」

意味を量りかねている僕と、細い目をしょぼしょぼさせている益田の目の前に、それぞれ冷たい水が置かれる。
有難く飲んでいると、寅吉がつまらなそうに呟いた。

「最近益田君は、先生の寝床で寝泊りしてるのさ」

含んだ水を噴き出しそうになった。どうにか堪えたものの、変な所に入ってしまい噎せている僕の頭上で、変な会話が続いている。

「いやぁ凄いんですよ実際、榎木津さんの寝台。何て云うんでしょうねぇ、クッションが凄い。その上布団は羽ですよ。綿じゃないんですよ。おまけにシーツはいつも清潔で、良ぉく眠れるんですねこれが」
「私ゃ君を安らかに寝かせるためにシーツを換えてる訳じゃ無いよ、全く。このソファが気に入ったって云ってたのに、贅沢は直ぐ憶えるんだから」
「いやいや確かにこのソファも素晴らしかったですよ、でもやっぱり寝心地が全然違いますねェ。まぁ縮こまって寝てますから実際寝てる面積としたらソファとそんなに変わらないですけど」

益田はさも楽しげにけけけ、と笑っている。僕はようやく気管の水を収めるところに収めたものの、驚きすぎて何の用事で来たのかすっかり忘れてしまった。忘れてしまう程度の事だ、大した用事じゃあ無かったのだろう。恐らく。
聞いたら面倒な事になる、と思った時には、既に僕の口は益田に向けて開かれてしまっていた。

「榎木津さんは何処で寝てるんですか!」
「何処でって、この中ですよ?ベッドの大半取って、すやすやとお休みです」

益田の華奢な指が寝室の扉を示し、頭をがんと殴られたような気持ちになった。変な事務所だとは思っていたが、こういう可笑しさは想定外だ。
馬鹿のように口をぽかんと開けたまま、部屋と益田とを交互に見ている自分に向かって、益田がきゃああと大袈裟な悲鳴を上げた。

「嫌だー本島さんったらいやらしい!何も無いですよう!寝てるだけですって」
「ね、ね、寝てるだけって、榎木津さんと、あの榎木津さんと…ですよね?」
「そうですよ。まぁ寝てる時はあの人も綺麗なもんです。寝言とか云うから寝ててやっと起きてる普通の人くらいですかねぇ」

目覚めて大分口の滑りが良くなってきたらしい益田が、首を傾げたり指先を捏ね回したりしながら説明する。その口調には後ろめたさはおろか、照れのひとつも感じられない。さも当たり前と云った様相ですらある。

「うら若き女性と同衾なんて云ったら流石の僕も丁重にお断りしますけど、相手はいくら美形ってったって30半ばのおじさんですからねぇ」

後頭部を掻きながら更に益田が続けた。それもどうかと思う、とも云えず僕も何となく頷く。
其処に何も云わず自分の職分を果たしていた筈の寅吉が現れ、箒で益田の頭を軽く小突く。

「折角起きたんだ、買い物にでも付き合いたまえよ」
「えええ、和寅さんと買い物に行くと長いんですもん。本島さんと行けばいいじゃないですかぁ」
「彼はお客さんだろう。ゆっくりしていってくださいよ。もし電話がかかってきたら、探偵は不在ですとか云っておいてくれれば大丈夫だから」

普通客は、訪問先で掛かってきた電話には出ない。
僕が何も云わないのを了解と解釈したのか、割烹着を着たままの寅吉と、益田――彼に至ってはいってきまぁすと手まで振って――は出て行ってしまった。
カウベルが鳴り止めば、辺りは静かなものだ。だだっ広いフロアに、たった一人取り残される。
見る物も無いので何となく座り込んでいると、丁度視線の中にあったドアノブが回り、ドアが開いた。中から現れたのは、薔薇十字探偵社の社主であり、探偵であり、最も普通からかけ離れた男。
鳶色の瞳は僕の姿を認めると、先程まで益田が座っていた席に座った。

「武蔵嵐山じゃないか、何故此処に居る?」
「ええと…留守番です」

武蔵嵐山では無いし、そもそも別の用件があって来た筈なのだが、訂正するのも面倒だし、意味が無いので中間を全て省略して現在の状況だけを答えた。どうやら、榎木津の機嫌を損ねずに済んだようだ。
皺の寄ったシャツとくしゃくしゃの髪が益田とだぶって見えて、つい目を逸らす。その行動が気になったのか、榎木津は僕の頭のあたりをじっと睨んだ。

「益山に会ったのか」
「ああ、はい。丁度そこに座ってて…ちょっと話しました」
「何を聞いた?」

ぎくり、と背筋が強張る。
益田の態度は決して後ろ暗いものでは無かった筈で、榎木津の質問にもきっと他意は無い。なのに悪い事を聞かれたような気になってしまったのは、きっと自分の受け取り方の問題だ。
益田が飲まなかった水を飲んだ榎木津が、僕の答えを待たずに云う。

「マスカマが僕と寝てて、何か不都合があるのか?」
「いや不都合なんて――ただ」

僕だって、近藤の手伝いで徹夜して、部屋に戻る体力も尽きた時等はあの雑然とした部屋で倒れるように眠り、結果あの山賊のような男と雑魚寝の形になってしまう事もままある。勿論申し訳無い気分になる事は一切、無い。相手が近藤で無くても、例えば益田であっても問題は無いだろう。
何故益田が榎木津の寝室から現れた時、僕は動揺してしまったのだろうか。答えなど、解りきっていた。

「彼は、榎木津さんの事が―――好きなんじゃないかな、と思ってましたから」
「なるほど」

榎木津がにやりと笑い、僕は肩を竦める。云ってはいけない事を云った。少なくとも、益田にとっては。
けれど榎木津は至って変わらぬ様子で、手慰みにグラスの縁を指で擦っている。

「そうだよ、ヤツは僕の事が好きだ」
「えぇっ!?」
「自分で云った癖に何を吃驚している、東武竹沢!」
「だ、だって、益田さんは何も無いって」
「一緒に寝たら何かしないといけないのか、顔に似合わずいやらしい男だな東松山は」

一日に2回もいやらしいと云われてしまった。不毛だ。
釈然としない気持ちでグラスの水を舐める僕を無視し、榎木津は更にクッションに深く埋もれる。

「僕だってにゃんこを抱いて寝たりしたい。にゃんこは良いぞーあったかくてやわらかくて。でも僕はにゃんこを撫でることはあっても何かしようなんて思わない。赤ちゃんだってお母さんと一緒に寝るじゃないか」
「はぁ、そうですね」

早苗と梢が手を繋いで、縁側で午睡している光景を思い出した。榎木津にも視えたのか、「かぁわいいなぁ」と喜び、整った顔を崩している。
僕もつられ笑いをしたが、榎木津がグラスを机に叩きつけるように置いたので、驚いた。たぁんという高い音。
顔を上げると、一瞬前とは別人のような顔をした榎木津が居る。

「―――益山が僕と寝なくなったら、僕の勝ちだ」

贅沢は直ぐに憶えてしまうと寅吉は云っていた。
彼が、心地の良い寝床を放棄する時があるとすれば。
想像したくは無かったが、その時既に僕の中には、軽薄な笑みを消し去った益田の顔が浮かんでしまっていた。



お題提供:『BALDWIN』様

―――
少し早いですが、シロさんお誕生日おめでとうございます。
「益田と榎木津が性的な意味でなく一緒に寝てるのが読みたい」との事でしたので書いてみました。
多分こういうことじゃ…榎木津…こんな…なんか…ううん……とにかくおめでとうございます!



2009/06/16 23:02 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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