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2024/11/23 08:35 |
9.Repeat after me.
都会の喧騒から逃れるような路地裏で、一人の男がしゃがみこんでいた。両脇をコンクリートに阻まれた狭いスペースは、昼なお薄暗く、ひんやりとしている。屑箱の影に見え隠れする彼が、こんな場所にはおよそ似つかわしく無い美貌と気品の持ち主である事は表通りを行く人々は誰一人として知らない。
そんな男が何をしているのかと云えば、奇妙な侵入者を見上げる澄んだ緑色の瞳を、同じく透明な鳶色の瞳で覗き込んでいた。飽きもせず。
薄汚れた毛並みに埋もれた口が開いて一声高く鳴いたので、男の目は喜びでさらにきらきらと輝く。整った歯並びの奥から人ならざる声が上がった。
自分とは似ても似つかない姿の何者かが話しかけてきた事に驚いたのか、緑の瞳は怪訝そうに細められ、また鳴く。その発音を態と真似た奇妙な声との応酬が街の片隅で始まった。

「ニャーン」
「にゃあん」
「ニャアン」
「にゃーん?」
「何やってるんですか、榎木津さん…」

名を呼ばれ、男はちらりとそちらを向いたが、直ぐに視線を元に戻した。興味など無いのだろう。彼の名を呼んだもう一人の男ががくりと項垂れると、長い前髪が揺れて吊り気味の眦が隠れる。携えた籐の籠もまた揺れて、中に整然と詰め込められた食品やら何やらが僅かにその位置をずらす。
栗毛越しにひょいと見れば、灰色の毛並みをした猫もふっと頭を上げて、またにゃあと鳴いた。

「ニャア」
「やっぱりまた猫ですか、お好きですねぇ。愛でるのも結構ですけど程々にして帰らないと、和寅さんがまたぼやきますよぅ、主に僕に。夕食の支度が遅れるとか云って…」
「ニャア!」
「うわっ、ちょっ!」

男が叱る様に「鳴いた」かと思うと何の前触れも無く白い手が籠の中に突っ込まれて、黒髪の男は慌てた。止める間も無く、手は一匹の鯵を掴み出す。ぴかぴか輝く鱗を持つそれを、男は何のためらいも無く猫の前に置いた。
下僕を一喝した時とはうってかわった優しい様子で、緑の目に促す。

「ニャー」

恐らく、「食べなさい」と云ったのであろうと黒髪の男は思った。勿論猫の言葉――しかも物真似に過ぎない――など知る由も無いが、実際灰色の猫は新鮮そのものの身に飛びついて歯を立てたのだから。奪われまいとするように鱗に爪を立てる姿は、やはり野生を思わせる。
がつがつと音がしそうな程食いつく姿を見て男は満足したのか、すくりと立ち上がった。くるりと身を翻し、狭い通路を塞いでいるもう1人の男の脛のあたりを軽く蹴る。

「ニャッ」
「解りましたって、退きますから蹴らないでくださいよう」

追い立てられるように路地から抜け出して表通りに出れば、夕暮れのぬるい空気が首のあたりに絡む。目にかかった前髪に透かすようにして、人数分より一尾減ってしまった夕食の材料を未練がましく見ていると、夕日に透けて金色めいた髪を靡かせる男がするりと彼を追い越していった。
地に長く伸びた影は余計に四肢の長さを引き立たせ、作り物めいた身体バランスを強調している。黒髪の男のそんな感想を裏切って、前を行く神は人形にはとても出来ないしなやかな動作で振り向いた。ともすると雑踏に紛れてしまうほど所在無げに佇む人間を見て、目を細める。

「―――いつまで呆けているのだ、帰るぞ」

なんだか久々に人としての言葉を聞いた気がして、男は前髪を払って相手を見つめた。
赤く燃える夕焼けを背に、誘惑するかのような蟲惑を唇に乗せる主人は呆れるほどに美しいが、ほんの時々、或いは猫が人に化けているのではと思うのだ。



お題提供:『BALDWIN』様

―――
なんでしょうねこの榎木津は…。
猫に飼われる人間=益田萌えの話でした。



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2009/06/22 21:23 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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