この赤い屋根はさっきも見たな―――胸の前に写真機をぶら下げた鳥口は、ぼんやりと見た屋根から目を逸らして歩き出した。
やはり地図を借りてくるべきだったと、頭を掻きながら反省する。何故そうしなかったのかと云えば、職場で言いつけられた取材先の住所に見覚えがあったのだ。榎木津ビルヂングの所在地とほぼ相似した其処に、番地が違うだけでこうも辿り着けないとは。
「一丁目の次は二丁目の筈なのになぁ」
木の電柱に打ち付けられている錆の浮いた鉄板を所在無げに撫でている鳥口の指先に、ぽつりと水滴が落ちてくる。
おやと思い見上げた空はいつの間にか厚い雲に覆われて、見計らったように雨が降り始めた。咄嗟に背を丸めて、写真機を庇う。ぬるい雨は強さを増し始め、店舗や軒先には雨を避ける通行人が次々と飛び込んでいく。鳥口も足を速めた。
幸いにして、彼が目印にしていた白亜のビルはすぐ其処だった。建物内に飛び込んで足を止めた途端、浴びてしまった雨は冷えて彼の体温を奪い始める。大袈裟なくしゃみの後、鼻を啜り上げた鳥口は階上を見上げた。次いで、薄暗い廊下に足音が響く。馴染みの探偵事務所で少々雨宿りをさせて貰い、ついでに暖かい茶の一杯も馳走して頂こうという魂胆だった。
誰にも会う事無く、鳥口の足は重厚な扉の前に立った。ノブに手をかけて元気良く開こうとしたところで、鳥口は僅かに逡巡する。来客が居るかも知れないからだ。金文字の入った曇り硝子が邪魔で、中の様子は解らない。
そこで彼は、音がしないようにそっとドアを薄く開けた。室内は、鳥口が立つ廊下に劣らず薄暗い。話し声も聞こえないし、足音も無い。ただ留守では無いようで、人の気配を確かに感じる。鳥口はほっと安堵し、扉の隙間からするりと入り込んだ。そしていつも通り元気良く挨拶をしようとしたが、口から出かけた「どうもどうも」という声は言葉にならず、ただ言い淀んだ吐息だけが、酷い湿気を帯びた空気に溶けた。
ベルの音も止み雨音だけが支配する室内で、ドアノブから手を離す事もせずにぽかんと立ち竦む鳥口の目は、一点に釘付けになっていた。鳥口を出迎えたのは気の回る探偵秘書でも軽薄な探偵助手でも無く、ソファの背から生えたようにすっと伸びる白い背中―――背中というより、首だ。
絹の如くしっとりとした輝きを帯びる黒髪を割って、一点のくすみも無い首筋が見える。置き忘れられたかのように数本の細い髪が絡んでいるのが何とも云えない。僅かに俯いた首から続く肩は何も纏っていない。しばし呆けた後、鳥口はようやくはっと気がついた。ごし、という衣擦れに似た音がする。目の前で無防備に座っている人物―――鳥口は女性だと思った―――が、濡れた体を拭いているのだと遅まきながら理解したのだ。
自分の目的はおろか此処が何処だったかも忘れ、鳥口は慌てて背を向けた。
「どうもお邪魔しました!」
入ってきた時と裏腹に、どたばたと忙しない様子で飛び出した。カウベルの音がそれを追いかける。ひえぇ、とばつ悪げに声をあげる鳥口だったが、腕を誰かに捕まえられて更に驚いた。そちらを見ないように目を硬く閉じて、ただぺこぺこと頭を下げる。そのたびに髪の先から雫が散った。
「いや相すみません、まさか湯上りの女性が居るとは思いませんで!」
「…どうしたんですか、鳥口君」
雨の音と共に耳に届いたのは、自分を糾弾する甲高い声では無く、ただ疑問を浮かべた気安い口調であったので、鳥口は逸らしていた目をゆっくりと開いた。
濡れたシャツごと腕を掴む手は筋が浮き、不思議そうに自分を見上げてくる黒い瞳は紛れも無く。
「―――益田君?」
見慣れた男の其れであった。
■
事の顛末を聞いた益田がげらげら笑いながら適当に淹れた茶は、適当に淹れたなりの味がしたが、濡れた体を温めるという目的だけはとりあえず果たされた。鳥口の前に座っている益田は、相変わらず裸の上半身にタオルだけぶら下げた格好だ。客前ならば許されない。
ひとしきり笑って落ち着いた益田は、いつも通りけけけと硬質な笑いを零しつつ鳥口に話しかける。その口調はいかにも楽しげで、今は居ない探偵にも似ている。日頃の意趣返しとも思える。
「間違えちゃったんですか?僕を?女性と?鳥口君ともあろう男が?」
「うへぇ、もう勘弁してくださいよ。肩から上しか見えなかったし、やけに髪長く見えたんですもん。ていうか探偵事務所にいきなり半裸の男が居るなんて思いませんから」
「半裸の女性が居る方が有り得ないでしょうよ。榎木津さんまだ寝てますし。髪が長く見えたのは濡れてたからかなぁ。肌の色が抜けてたのは寒かったからでしょ」
衝立には湿ったシャツとネクタイが引っ掛けてある。干しているつもりのようだ。
鳥口と同じく突然の雨に見舞われた益田は探偵と秘書の留守を良い事に、濡れた服を思い切り脱いで体を拭いていたらしい。客が来たらどうするのだと鳥口が問うと、電気も点いていないのに入ってくる無法者など鳥口位のものだと一蹴された。
頭を拭いていたタオルを落とし、鳥口は妙にしみじみと益田を見つめる。気楽そうに足を組む姿はいつも通りの確かに彼に違いない。立ち上がってソファの後ろに回りこみ、まだ湿り気を残した益田の後ろ髪を割った。再び現れた首筋は、体毛の薄さも手伝って清らかな百合の茎のような印象すら与えている。
「うーん益田君と思って見るとそれ程でも無いけど、やっぱり綺麗な首だなぁ」
「何気に失礼な事云われた気がするなぁ…男の首が華奢でもしょうがなくない?」
「いや何かの役に立てましょうよ、こうやってちょっと俯いて項だけ晒してれば、益田君天下取れます!」
天下って、と云ってまたけけけと笑う。そんな益田を神妙な面持ちで見下ろしていた鳥口は、さも名案を思いついたようにぽんと両手を打った。
「そうだ、大将に見せましょう!」
今度驚いたのは益田の方だ。体ごとぐるりと振り向いた勢いで、髪が元通りに項を隠す。
「見せましょうって…見せてどうするんですか」
「大将はさぞ目が肥えてるでしょうから、あの人の目に適えば間違い無い。天下もすぐそこですな」
「だから何なの天下って!」
「首で事件を解決する敏腕助手とか幾らだってあるじゃないすか、腕によりをかけて提灯記事書いちゃいます。繁盛間違いなし」
「ろくろっ首じゃないんだから…」
がくりと脱力したことで、益田の首が強調される。鳥口は嬉々として更に首筋を曝け出した。後れ毛の一本にまで気を遣いながら、彼なりに最大限色気が出るよう努力したようだ。
そのままでお願いしますよ、と言い残し、無理やり項垂れた益田をソファに座らせたまま鳥口は榎木津の寝室のドアを拳で叩いた。どんどんどん、と大きな音が立つ。
「大将ー!起きてくださーい!!」
「ちょっ、鳥口君」
「益田君はそのまま!大将ー!あーさですよー!」
歌うような大声を上げながら、リズミカルに扉を叩く。ひっきりなしに響くどかどかという打音は、益田をひやひやさせた。俯いた額に冷や汗が滲む。益田の背後で聞こえていた幾度目かの「たーいしょー」に続き、寝室の内鍵が乱暴に開く音が聞こえた。これだけでも解る、相当機嫌が悪い。普通の人間でもこんな起こし方をされたら不快に違いないのに、熟睡していた榎木津の機嫌はいかばかりのものか、想像するのも気が滅入る。
地獄の釜が開くようにゆっくりと扉が開き、半分だけ開いた扉から怒っているとも寝ぼけているともつかぬ顔をした榎木津が現れた。
「五月蝿い」
「やっこりゃどうも大将、おはようございます」
「神の眠りを妨げるとは、焼き鳥になる覚悟あっての事だろうな」
「まぁ夕食の献立は後にして、ちょいと大将に見て頂きたいものがあるんですわ」
さっこちらへ、という声と共に、2人分の足音が益田の背後から迫る。ぴたりと止んだ其れから伝わってくるのは静かではあるが紛れも無く怒気で、益田は膝の上で拳を固めた。首で支える自分の頭がやけに重い。
鳥口はと云えば、榎木津を促して白い首を示したところだった。
「どうでしょう、これ」
しん、と静かな室内に、雨音がざぁざぁと篭る。榎木津は何も云わない。立ったまま眠っているのかと2人が不安になった頃、ようやく榎木津が口を開いた。
「こんなもんのために、僕を起こしたのか」
「へぇ?」
「マスヤマの生っ白い首なんか見せるために僕を起こしたのかって聞いているんだッ!」
ソファの座面をがつんと下から蹴り上げられて、益田は飛び上がった。ソファごと引っ繰り返りそうになり、ほうほうの態で逃げ出しかける。勿論許される筈も無く、革のベルトを捕まえられて、益田は床に四つん這いの格好で倒れこんだ。反射的にお手上げのポーズをとった鳥口も、そのまま隣に並べられる。
「だ、だから嫌だって云ったのに…」
「云ってないですよ、見せてどうするんですかとは云ってましたけど」
「ゴチャゴチャ五月蝿いぞ下僕ども!」
榎木津が吼える。本当に眠っていたようで、湿気で膨らんだ栗色の髪はあちらこちらに跳ねている。滑稽であるはずが、怒りで毛が逆立っているようにも見えて益々若者2名――特に益田――を脅えさせた。
「丁度良いから首を刎ねてやる」
「止めてくださぁい!仏蘭西革命じゃないんですから!」
「そ、そうです。僕らぁ単純に益田君の首を評価して頂きたかっただけで」
いつの間にか「僕ら」になっていることに益田が異議を唱える前に、榎木津が眉を顰めた。
「首ぃ?」
「なかなかに色気があると思いませんかね。立てば凡夫座れば下僕ですが、俯く姿は百合の花とは良く云ったものです」
榎木津の手が猫の子にするように益田の首を引っ掴んだかと思うと、ぐいと引き立てる。最早抵抗も諦めた益田は、後ろ首を掴まれたまま情けない様子で立っていた。
「女の人の首は僕も嫌いじゃない。日本髪結った時なんか悪くないね。女学生がおさげしてる後姿も良い、かわいい」
「ひええ」
「だがこれは女学生どころか女の人ですら無い、カマだぞ!牛肉が無いからって牛革の靴に醤油かけて食べるようなものじゃないか。血迷ったかトリ頭!」
「ですから僕ぁカマじゃないですってぇ」
「うーん、血迷った…そうですかねぇ…。普段隠れてるから良く見えたのかなぁ…」
鳥口は顎に手を当てて悩んだ素振りを見せている。榎木津は鳥口の返事を待たず、今度は益田の薄い体を裏返して自分に向けた。面食らっている益田の前髪を掴み上げて、後頭部に流す。
「普段隠れてるのが良いっていうなら、これでどうだ!」
薄い眉から生え際まで、なだらかな稜線を描く額が露になる。突然額を見せられた鳥口と、突然額を全開にさせられた益田。2人は同じように呆然としていたが、先に動いたのは益田だった。借りてきた猫のように無抵抗だった男が、突如として抵抗を始めたのだ。
「は、離してください榎木津さん」
「嫌だ離さない。罰を受けろ!」
「わかりました、離さなくていいですからせめてもう少し離れてください!」
顔が近いぃ、と泣き声を漏らす益田の顔がみるみる朱を帯びていくのを勝ち誇った顔で見下ろしていた榎木津は、思い出したように鳥口に向き直った。
「後ろ首なんかじゃこうはいかない、まだまだ素人だな鳥ちゃんは」
「成程、勉強になります。流石大将年季が違いますな」
「何の勉強ですかぁ!」
ふっと半分目を閉じた榎木津は、ひとつの住所を述べ上げた。この事務所と似てはいるが、末尾が僅かに違うそれを聞き、鳥口は今日の本来の目的を思い出した。自分の一部のようになっていた写真機が、ようやく存在感を取り戻す。
榎木津の踵がくるりと返り、寝室の扉に手をかける。もう片方の手で、益田の頭をボールのように掴んだままで。
「というわけで僕はもう一回寝る。今度起こしたら照り焼きにしてやるぞ」
「ハイどうもお世話になりました」
「ちょ、なんで僕まで寝室行きなんですかぁ!僕ぁ関係無いじゃないですか、離」
バタン、と扉が閉まり、鳥口は広々とした事務所に一人になる。ふっと窓の外を見上げればいつの間にか雲は晴れており、絶好の取材日和になりそうだった。
ちらりと閉て切られた扉を見て、「うへえ」と一声だけ呟いて、事務所を後にする。外に出れば、コンクリートが僅かに濡れているのが通り雨の事を思い出させるだけだ。やがてこれも渇き、雨の事が記憶の外に消えるように、取材先を探し始めた鳥口も、寝室に投げ込まれた益田がこれからどんな仕打ちを受けるのかなど、全く想像すらしなかった。
お題提供:『BALDWIN』様
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いろいろ考えましたが結局こんな話です…。もったいない。
益田の首も良いけどやはり額が好きです。額露出型の羞恥プレイが読みたい