今日の益田龍一は、明らかに様子が可笑しい。
妙にそわそわ気忙しいのは、別に構わない。いつもの事だ。
だが、未だ何もしていない(するつもりも無い)のに、
近くを通ろうとするだけで大袈裟に身を引いたり、肩をぎゅうと縮ませたりする。
1歩近づけば、2歩下がる。
3歩近づけば、無理やり用事を思い出して、子鼠のように小走りで逃げ出してしまう。
逃げられると苛苛するのが神の常である事は、十分に知っている筈なのに。
「…だぁから、逃げ隠れは無駄だと何回云ったら解るのだ!」
「うわあああ!」
―――そんな訳で、捕まえられた訳だ。
足早に帰ろうとした所を、階段の陰で待ち構えていた榎木津に。
薄っぺらな体に両腕を回して抱き込んでしまえば、油が切れた人形ほどにぎしりと固まってしまう筈の益田が手足をじたばたさせて逃れようと力の限り暴れている。
やはり、妙だ。
抵抗を止めない益田をぎりぎりと締め上げていた榎木津は、それとは違う「違和感」に気づいて眉を顰めた。
その正体を突き止めるべく、動物的な勘で益田の首筋に鼻を埋める。
肌寒い廊下に響き渡る「いやああ」という妙な悲鳴が萎んでいくのと同時に、榎木津がぽつりと呟く。
「…黴臭い」
「云われなくても知ってますよう、あああ」
がくりと項垂れて揺れる黒髪からは、慣れた石鹸の匂いがする。
草臥れたようなシャツからも似たような匂いがするはずだが、湿りの抜けていないような、奇妙な気配を帯びていた。
「黴臭いぞマスヤマ!」
「2回も云わないでください…あああだから梅雨は嫌いなんですよう、洗っても部屋に干すから乾かないし、部屋の中には湿気が篭って蒸すし…騙し騙しやってましたけどもう着替えが尽きて、今日びシャツも安くないじゃないですか、ねぇ」
善良な一般市民である益田は、榎木津のように大量の衣服を所有している訳では無いのだ。
ぐったりと項垂れる下僕の襟は着用者と同じく何処かよれていて、榎木津はすんと鼻を鳴らした。
「だから逃げ回ってたのか、馬鹿め。カビ馬鹿め」
「まだカビは生えて無いですよ!ああでもこの天気が続いたら時間の問題かなぁ…やっぱり気になりますよねぇこの臭い、榎木津さんはきれいな服を着てますけどあんまりひっついてたら伝染りますよ」
益田は続く雨のようにじめじめとぼやく。
まだ僅かに湿った布越しに伝わる体温が生暖かいと、榎木津は思った。
■
次の日は長雨が嘘のようにからりと晴れた。
今日の空のようにしゃんと爽やかな洗い上げのシャツを前に、益田が目を瞬かせている。
「え、和寅さん、これ頂けるんですか」
「お礼なら私じゃなく先生に云うんだね。うちの従業員に黴生した服着てられると困るとさ」
「だからまだカビは生えてませんって!やーでも嬉しいなぁ」
シャツを肩に合わせ、浮かれた益田はくるりと回る。
柔らかな裾が空気を含んで膨らんだ。
「榎木津さん、ありがとうございます」
「ふん」
益田の方をちらりと見たきり、榎木津は探偵椅子に深く腰掛けて窓の外を見ている。
何時もならば高らかに「神からの賜り物だぞ!」とでも云いそうなものだが。
―――今日の榎木津礼二郎は、明らかに様子が可笑しい。
―――
6月は邪魅と、生乾き益田の季節です。
妙にそわそわ気忙しいのは、別に構わない。いつもの事だ。
だが、未だ何もしていない(するつもりも無い)のに、
近くを通ろうとするだけで大袈裟に身を引いたり、肩をぎゅうと縮ませたりする。
1歩近づけば、2歩下がる。
3歩近づけば、無理やり用事を思い出して、子鼠のように小走りで逃げ出してしまう。
逃げられると苛苛するのが神の常である事は、十分に知っている筈なのに。
「…だぁから、逃げ隠れは無駄だと何回云ったら解るのだ!」
「うわあああ!」
―――そんな訳で、捕まえられた訳だ。
足早に帰ろうとした所を、階段の陰で待ち構えていた榎木津に。
薄っぺらな体に両腕を回して抱き込んでしまえば、油が切れた人形ほどにぎしりと固まってしまう筈の益田が手足をじたばたさせて逃れようと力の限り暴れている。
やはり、妙だ。
抵抗を止めない益田をぎりぎりと締め上げていた榎木津は、それとは違う「違和感」に気づいて眉を顰めた。
その正体を突き止めるべく、動物的な勘で益田の首筋に鼻を埋める。
肌寒い廊下に響き渡る「いやああ」という妙な悲鳴が萎んでいくのと同時に、榎木津がぽつりと呟く。
「…黴臭い」
「云われなくても知ってますよう、あああ」
がくりと項垂れて揺れる黒髪からは、慣れた石鹸の匂いがする。
草臥れたようなシャツからも似たような匂いがするはずだが、湿りの抜けていないような、奇妙な気配を帯びていた。
「黴臭いぞマスヤマ!」
「2回も云わないでください…あああだから梅雨は嫌いなんですよう、洗っても部屋に干すから乾かないし、部屋の中には湿気が篭って蒸すし…騙し騙しやってましたけどもう着替えが尽きて、今日びシャツも安くないじゃないですか、ねぇ」
善良な一般市民である益田は、榎木津のように大量の衣服を所有している訳では無いのだ。
ぐったりと項垂れる下僕の襟は着用者と同じく何処かよれていて、榎木津はすんと鼻を鳴らした。
「だから逃げ回ってたのか、馬鹿め。カビ馬鹿め」
「まだカビは生えて無いですよ!ああでもこの天気が続いたら時間の問題かなぁ…やっぱり気になりますよねぇこの臭い、榎木津さんはきれいな服を着てますけどあんまりひっついてたら伝染りますよ」
益田は続く雨のようにじめじめとぼやく。
まだ僅かに湿った布越しに伝わる体温が生暖かいと、榎木津は思った。
■
次の日は長雨が嘘のようにからりと晴れた。
今日の空のようにしゃんと爽やかな洗い上げのシャツを前に、益田が目を瞬かせている。
「え、和寅さん、これ頂けるんですか」
「お礼なら私じゃなく先生に云うんだね。うちの従業員に黴生した服着てられると困るとさ」
「だからまだカビは生えてませんって!やーでも嬉しいなぁ」
シャツを肩に合わせ、浮かれた益田はくるりと回る。
柔らかな裾が空気を含んで膨らんだ。
「榎木津さん、ありがとうございます」
「ふん」
益田の方をちらりと見たきり、榎木津は探偵椅子に深く腰掛けて窓の外を見ている。
何時もならば高らかに「神からの賜り物だぞ!」とでも云いそうなものだが。
―――今日の榎木津礼二郎は、明らかに様子が可笑しい。
―――
6月は邪魅と、生乾き益田の季節です。
「うわぁ…っ!」
悲鳴と共に飛び起きる。布張りのソファから、申し訳程度に掛けていた毛布がずるずると滑り落ちていった。ずっと眠っていた筈の益田は、尖った肩を上下させてぜぇぜぇと息を切らしている。走り回った後のような息遣いだが、顔面は蒼白だ。
未だ夜明けは遥か遠く、事務所の中は真っ暗だった。何かに怯える小動物めいた動きで、忙しなく辺りを見回していた益田は、やおら立ち上がると電気を点けて回った。豪奢なシャンデリアは勿論、部屋の隅に立つスタンドライトや、卓上のランプに至るまで。草木も眠る刻限に、神保町の夜に浮かび上がる薔薇十字探偵社はまるで灯台のようだ。不必要なまでに明るくなった室内で、益田は再びソファに座り込んだ。ほうと吐いた溜息すらも響き渡る程静かな夜。遠くから聞こえる犬が争う声に、益田は飛び上がるほど驚いた。実際飛び上がったのかもしれない。現に彼はよろける足で、秘書が眠っている部屋の扉に縋り付いたのだから。
「か、和寅さん、和寅さん」
遠慮がちなノックの音。しかし返事が無い事が解ると、徐々に打音は強くなっていく。益田が幾度目かの涙声を上げた時、薄く開いたドアの向こうからようやく寅吉が顔を出した。当たり前だが寝巻きに着替えており、五月蠅そうに眉間に深い皺を寄せている。
寝起きらしく、低く曇った声で益田に問う。益田はと云うと、寅吉の登場に一瞬顔を晴らしたが、直ぐに元のような情けない様子に戻ってしまった。
「なんだ益田君…まだ三時じゃないか…」
「良かった起きてくれた、助けてください」
「助…?なんだって?」
怪訝そうに顔を顰めた寅吉に、益田がさらに詰め寄った。鬼気迫る表情と、真剣そのものの声で訴える。
「―――恐ろしい夢を見たんです!」
「………………………ハァ」
「ちょ、ちょっと、閉めないでくださいよう!来る!目がいっこしか無い大入道が来る!」
寅吉にドアを閉められて、益田が錯乱した悲鳴を上げる。幾ら叩けど縋り付けど、扉が再び開く事は無く、代わりに眠そうな声が答えた。
「私ゃ六時には起きるから、もう少し寝かせてくれ…宜しく」
「もう少しって…あと三時間もあるじゃないですか!和寅さん!和寅さぁん!」
大袈裟な泣き声は静寂に溶けた。かつん、と未練がましい音を最後に、益田はふらふらとソファに戻る。うろうろしているうちに夜気は座面から体温を奪い去った後で、ひやりとした感触すら益田を脅えさせた。
床に落ちていた毛布を拾い上げ、頭から被って身体に巻きつけた。毛足の長い其れは、膝を抱えた益田をすっぽりと包み込む。
瞼を閉じれば夢の続きが始まってしまいそうで、益田は瞬きすらも恐れながら身を縮こまらせていた。布に阻まれる秒針の音が遅い。早く朝になって欲しいのに。寅吉が目を覚ますのは朝の六時だ。否、太陽が昇ってさえくれればもう少しマシなのだ。早く。早く。早く。
ばたん、と扉が開く音がして、益田ははっと顔を上げた。
「和寅さ…!」
しかし、先程益田を拒否した扉は相変わらず閉て切られたままである。代わりに、栗色の髪を乱した榎木津が驚いた顔でこちらを見ていた。
「うわっ、座敷童かと思った。座敷オロカだ」
「え、榎木津さん…」
拍子抜けするとともに、頭から毛布がずるりと落ちた。榎木津はじろじろとそんな益田を眺めながら、洗面台の方へ歩いていく。どうやら便所を使いに起きたようだった。暫しの間を置き、濡れた手を服の裾で適当に拭きながら戻ってきた。
「洗った手、服で拭いたら和寅さんにまた怒られますよ…」
榎木津は益田を一瞥し、するりと寝室の扉を潜った。ばたりと扉が閉まり、また益田は一人になる。膝に顔を埋めて深々と溜息をついていると、また乱暴に扉が開いた。
「なんで引き止めない!」
「うわぁ、吃驚した!」
榎木津は憤慨した様子でずかずかと――靴など履いていないのに何故かこういった状況では榎木津の足音はやたら威圧的だ――歩いてくると、益田の真横にどかりと腰掛けた。
毛布を着たまま面食らっている益田を、鳶色の瞳が睨めつける。益田は毛布を頭から被り直して、その視線から逃れた。
「僕を差し置いて夜明け前からトラトラトラって、真珠湾かお前は」
「榎木津さんは起こしたって起きないじゃないですかぁ。起こしたら起こしたで怒るし」
「お前も僕の下僕だったら、いい加減匙加減を覚えるべきだ!面白い事だったら起きるし、下らない事だったら凄く怒る」
「だから起こさなかったんですよ、榎木津さんにとってこれ以上下らない事は世界中探したってそうそう無いでしょうから」
ぼやきながらも益田は毛布の端を引き込んで、とうとう蚕の繭のような格好になってしまう。榎木津はつまらなそうに両足を机の上に投げ出して云った。
「怖い夢を見たんだって?」
「聞いてたんですか」
「聞こえたんだ。トイレ行こうかなーでも面倒だなーと思ってたらお前のしょうもない泣き声が」
榎木津の上半身が、布包みになった益田に倒れこむ。
中から青白い手が現れて、捲れた裾を落ち着かない手つきで元に戻した。
「僕なんかのために、榎木津さんに迷惑かけられません」
「……」
榎木津は無言のまま眉をすがめて、恐らく益田の膝がある辺りに触れる。
丸くて、硬いそれは僅かに震えていた。
「…どれくらい怖い夢だった?ちょっと僕に聞かせなさい」
「ええっ、絶対に嫌なんですけど!」
「僕の眠りを妨げたんだ、面白い話じゃなかったら承知しないぞ!」
「面白い訳無いじゃないですか、怖い夢だって云ったでしょう!」
「ろくろ首だって怖いけど面白いじゃあないか、首が伸びるなんて相当面白い!面白すぎる!怖くて面白いものは世の中に幾らでもあるのだ!」
毛布越しに肩を揺さぶられて、益田は辟易した。寝物語をせがむ子供のように目を輝かせる榎木津が目に浮かぶようだ。
仕方無しに益田は毛布を肩に落とし、榎木津を見やった。案の定大きな瞳がじっと自分を見ている。
「えーっと…何か僕が森みたいなところを歩いてる夢で…」
「ほう」
「昼なのか夜なのかも解らないくらい暗い所だったんですが、梟の声がしてたから多分夜だったんでしょうねぇ…」
「もう既に退屈だぞ、いつから怖くなるんだ?」
「これからですよ!そう、僕が枯葉を踏みながら歩いていると目の前に山小屋がですねェ」
聞いているのかいないのか定かで無い、榎木津の適当な相槌を挟みながら、益田はぽつりぽつりと語りだした。
なんだかんだで恐怖に飛び起きてから、三十分は経っている。細部は曖昧になりかけていたが、言葉に詰まると榎木津が怒るので、思い出せない箇所はそれとなく辻褄を合わせながら、どうにか話を紡いだ。
元々が夢の話だ。眠っている間は凄まじい現実感を伴っていたとしても目覚めてしまえば荒唐無稽で、挙句脚色まで交えるものだから最早本来の姿は失っている。身振り手振りで一生懸命に話す益田がそれに薄々気づきだした頃、窓の外はぼんやりと明るくなっていた。
悲鳴と共に飛び起きる。布張りのソファから、申し訳程度に掛けていた毛布がずるずると滑り落ちていった。ずっと眠っていた筈の益田は、尖った肩を上下させてぜぇぜぇと息を切らしている。走り回った後のような息遣いだが、顔面は蒼白だ。
未だ夜明けは遥か遠く、事務所の中は真っ暗だった。何かに怯える小動物めいた動きで、忙しなく辺りを見回していた益田は、やおら立ち上がると電気を点けて回った。豪奢なシャンデリアは勿論、部屋の隅に立つスタンドライトや、卓上のランプに至るまで。草木も眠る刻限に、神保町の夜に浮かび上がる薔薇十字探偵社はまるで灯台のようだ。不必要なまでに明るくなった室内で、益田は再びソファに座り込んだ。ほうと吐いた溜息すらも響き渡る程静かな夜。遠くから聞こえる犬が争う声に、益田は飛び上がるほど驚いた。実際飛び上がったのかもしれない。現に彼はよろける足で、秘書が眠っている部屋の扉に縋り付いたのだから。
「か、和寅さん、和寅さん」
遠慮がちなノックの音。しかし返事が無い事が解ると、徐々に打音は強くなっていく。益田が幾度目かの涙声を上げた時、薄く開いたドアの向こうからようやく寅吉が顔を出した。当たり前だが寝巻きに着替えており、五月蠅そうに眉間に深い皺を寄せている。
寝起きらしく、低く曇った声で益田に問う。益田はと云うと、寅吉の登場に一瞬顔を晴らしたが、直ぐに元のような情けない様子に戻ってしまった。
「なんだ益田君…まだ三時じゃないか…」
「良かった起きてくれた、助けてください」
「助…?なんだって?」
怪訝そうに顔を顰めた寅吉に、益田がさらに詰め寄った。鬼気迫る表情と、真剣そのものの声で訴える。
「―――恐ろしい夢を見たんです!」
「………………………ハァ」
「ちょ、ちょっと、閉めないでくださいよう!来る!目がいっこしか無い大入道が来る!」
寅吉にドアを閉められて、益田が錯乱した悲鳴を上げる。幾ら叩けど縋り付けど、扉が再び開く事は無く、代わりに眠そうな声が答えた。
「私ゃ六時には起きるから、もう少し寝かせてくれ…宜しく」
「もう少しって…あと三時間もあるじゃないですか!和寅さん!和寅さぁん!」
大袈裟な泣き声は静寂に溶けた。かつん、と未練がましい音を最後に、益田はふらふらとソファに戻る。うろうろしているうちに夜気は座面から体温を奪い去った後で、ひやりとした感触すら益田を脅えさせた。
床に落ちていた毛布を拾い上げ、頭から被って身体に巻きつけた。毛足の長い其れは、膝を抱えた益田をすっぽりと包み込む。
瞼を閉じれば夢の続きが始まってしまいそうで、益田は瞬きすらも恐れながら身を縮こまらせていた。布に阻まれる秒針の音が遅い。早く朝になって欲しいのに。寅吉が目を覚ますのは朝の六時だ。否、太陽が昇ってさえくれればもう少しマシなのだ。早く。早く。早く。
ばたん、と扉が開く音がして、益田ははっと顔を上げた。
「和寅さ…!」
しかし、先程益田を拒否した扉は相変わらず閉て切られたままである。代わりに、栗色の髪を乱した榎木津が驚いた顔でこちらを見ていた。
「うわっ、座敷童かと思った。座敷オロカだ」
「え、榎木津さん…」
拍子抜けするとともに、頭から毛布がずるりと落ちた。榎木津はじろじろとそんな益田を眺めながら、洗面台の方へ歩いていく。どうやら便所を使いに起きたようだった。暫しの間を置き、濡れた手を服の裾で適当に拭きながら戻ってきた。
「洗った手、服で拭いたら和寅さんにまた怒られますよ…」
榎木津は益田を一瞥し、するりと寝室の扉を潜った。ばたりと扉が閉まり、また益田は一人になる。膝に顔を埋めて深々と溜息をついていると、また乱暴に扉が開いた。
「なんで引き止めない!」
「うわぁ、吃驚した!」
榎木津は憤慨した様子でずかずかと――靴など履いていないのに何故かこういった状況では榎木津の足音はやたら威圧的だ――歩いてくると、益田の真横にどかりと腰掛けた。
毛布を着たまま面食らっている益田を、鳶色の瞳が睨めつける。益田は毛布を頭から被り直して、その視線から逃れた。
「僕を差し置いて夜明け前からトラトラトラって、真珠湾かお前は」
「榎木津さんは起こしたって起きないじゃないですかぁ。起こしたら起こしたで怒るし」
「お前も僕の下僕だったら、いい加減匙加減を覚えるべきだ!面白い事だったら起きるし、下らない事だったら凄く怒る」
「だから起こさなかったんですよ、榎木津さんにとってこれ以上下らない事は世界中探したってそうそう無いでしょうから」
ぼやきながらも益田は毛布の端を引き込んで、とうとう蚕の繭のような格好になってしまう。榎木津はつまらなそうに両足を机の上に投げ出して云った。
「怖い夢を見たんだって?」
「聞いてたんですか」
「聞こえたんだ。トイレ行こうかなーでも面倒だなーと思ってたらお前のしょうもない泣き声が」
榎木津の上半身が、布包みになった益田に倒れこむ。
中から青白い手が現れて、捲れた裾を落ち着かない手つきで元に戻した。
「僕なんかのために、榎木津さんに迷惑かけられません」
「……」
榎木津は無言のまま眉をすがめて、恐らく益田の膝がある辺りに触れる。
丸くて、硬いそれは僅かに震えていた。
「…どれくらい怖い夢だった?ちょっと僕に聞かせなさい」
「ええっ、絶対に嫌なんですけど!」
「僕の眠りを妨げたんだ、面白い話じゃなかったら承知しないぞ!」
「面白い訳無いじゃないですか、怖い夢だって云ったでしょう!」
「ろくろ首だって怖いけど面白いじゃあないか、首が伸びるなんて相当面白い!面白すぎる!怖くて面白いものは世の中に幾らでもあるのだ!」
毛布越しに肩を揺さぶられて、益田は辟易した。寝物語をせがむ子供のように目を輝かせる榎木津が目に浮かぶようだ。
仕方無しに益田は毛布を肩に落とし、榎木津を見やった。案の定大きな瞳がじっと自分を見ている。
「えーっと…何か僕が森みたいなところを歩いてる夢で…」
「ほう」
「昼なのか夜なのかも解らないくらい暗い所だったんですが、梟の声がしてたから多分夜だったんでしょうねぇ…」
「もう既に退屈だぞ、いつから怖くなるんだ?」
「これからですよ!そう、僕が枯葉を踏みながら歩いていると目の前に山小屋がですねェ」
聞いているのかいないのか定かで無い、榎木津の適当な相槌を挟みながら、益田はぽつりぽつりと語りだした。
なんだかんだで恐怖に飛び起きてから、三十分は経っている。細部は曖昧になりかけていたが、言葉に詰まると榎木津が怒るので、思い出せない箇所はそれとなく辻褄を合わせながら、どうにか話を紡いだ。
元々が夢の話だ。眠っている間は凄まじい現実感を伴っていたとしても目覚めてしまえば荒唐無稽で、挙句脚色まで交えるものだから最早本来の姿は失っている。身振り手振りで一生懸命に話す益田がそれに薄々気づきだした頃、窓の外はぼんやりと明るくなっていた。
「―――とまぁここで驚いて悲鳴とともに目が覚めて…あれ?」
ふと益田が肩口を見下ろしたのと同時に、扉が開く音がした。すっかりいつもの書生姿に着替えた寅吉が、益田に声をかける。
「おや驚いた、本当に起きている。どうせ眠ってしまうだろうと思っていたのに」
「僕を見捨てておいてそりゃあ酷いんじゃないすかねぇ」
「しかも先生まで居るじゃあないか、君が起こしたのかね」
「いえ、勝手に起きたんですが……いつの間にか寝ちゃってました」
毛布を纏う益田の肩口に頭を預けて、榎木津はすやすやと寝息を立てている。寅吉が室内の明かりを消す度に、美しい寝顔は自然光に透けて、柔らかい印象を帯びていった。益田の夢語りは、いつしか本当に寝物語に変わっていたようだ。
暫しそれを眺めて、秘書と自称助手は顔を見合わせる。
「…どうするね、寝室にお運びするかい?」
「良く寝てるみたいですし、このままで良いんじゃないですか?どうせ起こしたって起きないんですから」
益田はそっと榎木津の頭を下ろし、座面に横たえると、肩に羽織っている毛布を脱いで榎木津に掛けてやった。
ふわぁぁ、大欠伸をひとつした益田の背中を寅吉が軽く叩く。
「しっかりおしよ、眠れない程悪い夢だったのかね」
「いやぁ、それはもう良いんですけど。結局殆ど寝てないもんですから」
目を擦りながら見下ろす先は、長い睫を伏せて夢より深い眠りに落ちた神の寝顔。
「現実にもっと怖い人がいたなぁそういえばって思い出しまして」
「これ、先生に云いつけるぞ」
「いやいや、勘弁してくださいって」
台所へ入っていく寅吉の背中に、益田が続く。今や朝日ばかりに満たされた事務所で、幸福な眠りに包まれる男が、一人ごろりと寝返りを打った。
牛鍋を囲む会食は終わり、下げられた鉄鍋の代わりに、厚手の湯飲みに煎れられた緑茶が運ばれてきた。柔らかな湯気を立てる其れを、司は節の立った手で持ち上げて、口に運ぶ。
途端に視界が白く煙り、しまったとばかりに身を引いた。金縁のフレームを取り外して確かめれば、案の定嵌め込まれた硝子は真っ白に曇ってしまっていた。ポケットからハンカチーフを取り出し、慣れた所作で拭い取る。霧が晴れるよりも簡単に、僅かな厚みを持つレンズは透明さを取り戻した。
司は事も無げに眼鏡をかけ直し、晴れた視界の向こうに益田の不思議な表情を認めた。薄く開いた程度の口元からは未だ八重歯は見えないが、やや細い吊り気味の眼がやけに興味深げにこちらを見ているのだ。
だから敢えてにこりと笑い、もっと幼い子供にそうするように、身を乗り出して益田に話しかけてやった。
「どうしたの、益田ちゃん」
「司さん、目悪いんですか?」
「んん?」
意外な質問だった。咄嗟に触れた弦は硬質だが、体温で幾分温まっている。
「今更だなぁ、目が良かったらこんなもの掛けてないよう」
「そんな柄モノのシャツ着てる人ですから、アクセサリーで掛けてるのかと思ってたんですけどね。ホラ僕も職業柄良く変装するじゃないすか、だから一本誂えようかと考えてまして」
益田は頭を掻きながら、けけけ、と決まり悪げに笑っている。司も誘われてくつくつと笑った。
臙脂色のタイを白いシャツに合わせた黒髪の男と、白や黄色の仏桑華が袖に身頃に咲き乱れる真っ赤なシャツを着て頭を五厘に刈った男。誰が見てもまともな組み合わせでは無い2人が、同じ鍋を突いている。かなり奇妙な光景だ。
間接的に彼らを繋いだ中間部の男は、今日は此処には来ていない。ふらりと事務所に現れた司が、益田を夕食にと連れ出したのだ。3人でこの店を訪れたりするうち、何時しかそれなりに仲良くなっていた。
榎木津の古い友人である司に、益田の方が気を遣って追従している事もあるのだろう。けれど、呼べばいそいそとついて来る姿はまるで子犬のようで、素直に好感を持った。榎木津はきっと認めたがらないだろう。何せ自分は彼を散々に扱う癖に、他人がちょっと甘い顔を見せるだけで噛み付いてくる男だ。
鬼の居ぬ間の何とやらだ、司は眼鏡を外して弦を折り畳むと、益田の眼前に差し出した。
「掛けてみる?」
「えっ」
益田は目をぱちぱちしながらも、其れを受け取った。橙色の明かりを浴びて、金色が更に艶を帯びる。
云われるがまま、不慣れな仕草でそっと其れを装着した途端、頭を殴られでもしたように大袈裟に仰け反って見せた。
「うわぁ、何だこれ。ぐらぐらします」
駄目だ駄目だと云いながらも、きょろきょろと周囲を見回しては視界の齟齬を楽しんでいる様子だ。壁に掛かった時計の文字板、卓の端に立て掛けられた品書き。司も頬杖を突いて、彼の様子を見ていた。補正を失った視力では益田の顔立ちまで判断する事は出来なかったが。
やがて益田は窓硝子に、いや、窓硝子に映る自分の姿に目を止める。冷たい硝子板に鼻先が触れそうなほど近づいて、見慣れた筈の顔を初対面の相手に会うように眺め、「似合いませんねぇ」と笑った。
芽生えたばかりの若枝に似た華奢な金縁は、日焼けした男の肌には堅気の商売では無いと思わせる独特の雰囲気を匂わせるに違いないが、黙っていれば真面目極まる青年の顔にはいささか派手過ぎるきらいがあると思う。もし彼が将来的に視力を落とし、眼鏡を求めるようになるとしたら、金メッキでギラギラしたものよりもシンプルな丸眼鏡が似合うかもしれない。柔和な印象で、益田が希望する人好きする探偵に―――
「―――司さん?」
益田はいつの間にか窓から視線を外していた。
「あぁ御免御免、どうしたの」
「どうも有難うございました、眼鏡返します」
「嗚呼そう、どう?良く見えた?」
「いやぁ僕には眼鏡要らないみたいです。物の輪郭がぼやけちゃって、頭痛くなってきました」
似合わない眼鏡を掛けたままで、ふらふらと頭を揺らした。それから、ふと気付いたように卓を超えて、しげしげと司の顔を覗き込む。不躾とも思える距離に司は思わず目を丸くしたが、焦点がずれている益田はそんな簡単な事にすら気付かない。
「このくらい近づかないと、人の顔も判らないんですねぇ」
誰よりも人との距離を気にする筈の男が、たかがレンズ1枚で。
何やら達成感めいた感情が身の内から湧き上がるのを感じたが、司はそれを隠して、益田の尖った輪郭から眼鏡をすっと外した。
「はい、おしまい。あんまり君の記憶がぐらぐらしてたら、エヅが心配するものね」
正常な視界で物凄く近くに見えるつるりとした顔に驚いたのか、益田は跳ねるように席に戻った。木の椅子が揺れてがたがたと不平を申し立てる。司が元通り眼鏡を掛けると、何やら面映げに茶を啜っている裸眼の益田がはっきりと見えた。
「眼鏡は便利だよ?これがあると益田ちゃんの可愛い顔が良ぉく見えるし」
「からかわないでくださいよぅ。あっ顔で思い出した、眼鏡ひとつで随分顔立ちって違って見えますね。やっぱり僕も一つ作ろうかなぁ」
「作るんだったら馴染みの店紹介しようか。益田って子が来たら伊達眼鏡見せてあげてって云っておくよ」
適当な紙の裏に店の住所を書いてやりながら、司が云う。
「でも眼鏡なんか掛けてないほうが、黒い目がよく見えて可愛いよ?」
日に日に上達する上滑った演技など看破する、表情豊かな黒曜石を、司はなかなかに気に入っている。彼の若者らしいこんな愛らしさも、榎木津は決して認めたがらないだろう。
―――
林檎様リクエスト「司×益田」でした。ありがとうございました。
折角なので眼鏡属性を活かしたく思い、「司の眼鏡は度入り」でひとつ。
途端に視界が白く煙り、しまったとばかりに身を引いた。金縁のフレームを取り外して確かめれば、案の定嵌め込まれた硝子は真っ白に曇ってしまっていた。ポケットからハンカチーフを取り出し、慣れた所作で拭い取る。霧が晴れるよりも簡単に、僅かな厚みを持つレンズは透明さを取り戻した。
司は事も無げに眼鏡をかけ直し、晴れた視界の向こうに益田の不思議な表情を認めた。薄く開いた程度の口元からは未だ八重歯は見えないが、やや細い吊り気味の眼がやけに興味深げにこちらを見ているのだ。
だから敢えてにこりと笑い、もっと幼い子供にそうするように、身を乗り出して益田に話しかけてやった。
「どうしたの、益田ちゃん」
「司さん、目悪いんですか?」
「んん?」
意外な質問だった。咄嗟に触れた弦は硬質だが、体温で幾分温まっている。
「今更だなぁ、目が良かったらこんなもの掛けてないよう」
「そんな柄モノのシャツ着てる人ですから、アクセサリーで掛けてるのかと思ってたんですけどね。ホラ僕も職業柄良く変装するじゃないすか、だから一本誂えようかと考えてまして」
益田は頭を掻きながら、けけけ、と決まり悪げに笑っている。司も誘われてくつくつと笑った。
臙脂色のタイを白いシャツに合わせた黒髪の男と、白や黄色の仏桑華が袖に身頃に咲き乱れる真っ赤なシャツを着て頭を五厘に刈った男。誰が見てもまともな組み合わせでは無い2人が、同じ鍋を突いている。かなり奇妙な光景だ。
間接的に彼らを繋いだ中間部の男は、今日は此処には来ていない。ふらりと事務所に現れた司が、益田を夕食にと連れ出したのだ。3人でこの店を訪れたりするうち、何時しかそれなりに仲良くなっていた。
榎木津の古い友人である司に、益田の方が気を遣って追従している事もあるのだろう。けれど、呼べばいそいそとついて来る姿はまるで子犬のようで、素直に好感を持った。榎木津はきっと認めたがらないだろう。何せ自分は彼を散々に扱う癖に、他人がちょっと甘い顔を見せるだけで噛み付いてくる男だ。
鬼の居ぬ間の何とやらだ、司は眼鏡を外して弦を折り畳むと、益田の眼前に差し出した。
「掛けてみる?」
「えっ」
益田は目をぱちぱちしながらも、其れを受け取った。橙色の明かりを浴びて、金色が更に艶を帯びる。
云われるがまま、不慣れな仕草でそっと其れを装着した途端、頭を殴られでもしたように大袈裟に仰け反って見せた。
「うわぁ、何だこれ。ぐらぐらします」
駄目だ駄目だと云いながらも、きょろきょろと周囲を見回しては視界の齟齬を楽しんでいる様子だ。壁に掛かった時計の文字板、卓の端に立て掛けられた品書き。司も頬杖を突いて、彼の様子を見ていた。補正を失った視力では益田の顔立ちまで判断する事は出来なかったが。
やがて益田は窓硝子に、いや、窓硝子に映る自分の姿に目を止める。冷たい硝子板に鼻先が触れそうなほど近づいて、見慣れた筈の顔を初対面の相手に会うように眺め、「似合いませんねぇ」と笑った。
芽生えたばかりの若枝に似た華奢な金縁は、日焼けした男の肌には堅気の商売では無いと思わせる独特の雰囲気を匂わせるに違いないが、黙っていれば真面目極まる青年の顔にはいささか派手過ぎるきらいがあると思う。もし彼が将来的に視力を落とし、眼鏡を求めるようになるとしたら、金メッキでギラギラしたものよりもシンプルな丸眼鏡が似合うかもしれない。柔和な印象で、益田が希望する人好きする探偵に―――
「―――司さん?」
益田はいつの間にか窓から視線を外していた。
「あぁ御免御免、どうしたの」
「どうも有難うございました、眼鏡返します」
「嗚呼そう、どう?良く見えた?」
「いやぁ僕には眼鏡要らないみたいです。物の輪郭がぼやけちゃって、頭痛くなってきました」
似合わない眼鏡を掛けたままで、ふらふらと頭を揺らした。それから、ふと気付いたように卓を超えて、しげしげと司の顔を覗き込む。不躾とも思える距離に司は思わず目を丸くしたが、焦点がずれている益田はそんな簡単な事にすら気付かない。
「このくらい近づかないと、人の顔も判らないんですねぇ」
誰よりも人との距離を気にする筈の男が、たかがレンズ1枚で。
何やら達成感めいた感情が身の内から湧き上がるのを感じたが、司はそれを隠して、益田の尖った輪郭から眼鏡をすっと外した。
「はい、おしまい。あんまり君の記憶がぐらぐらしてたら、エヅが心配するものね」
正常な視界で物凄く近くに見えるつるりとした顔に驚いたのか、益田は跳ねるように席に戻った。木の椅子が揺れてがたがたと不平を申し立てる。司が元通り眼鏡を掛けると、何やら面映げに茶を啜っている裸眼の益田がはっきりと見えた。
「眼鏡は便利だよ?これがあると益田ちゃんの可愛い顔が良ぉく見えるし」
「からかわないでくださいよぅ。あっ顔で思い出した、眼鏡ひとつで随分顔立ちって違って見えますね。やっぱり僕も一つ作ろうかなぁ」
「作るんだったら馴染みの店紹介しようか。益田って子が来たら伊達眼鏡見せてあげてって云っておくよ」
適当な紙の裏に店の住所を書いてやりながら、司が云う。
「でも眼鏡なんか掛けてないほうが、黒い目がよく見えて可愛いよ?」
日に日に上達する上滑った演技など看破する、表情豊かな黒曜石を、司はなかなかに気に入っている。彼の若者らしいこんな愛らしさも、榎木津は決して認めたがらないだろう。
―――
林檎様リクエスト「司×益田」でした。ありがとうございました。
折角なので眼鏡属性を活かしたく思い、「司の眼鏡は度入り」でひとつ。