「うわぁ…っ!」
悲鳴と共に飛び起きる。布張りのソファから、申し訳程度に掛けていた毛布がずるずると滑り落ちていった。ずっと眠っていた筈の益田は、尖った肩を上下させてぜぇぜぇと息を切らしている。走り回った後のような息遣いだが、顔面は蒼白だ。
未だ夜明けは遥か遠く、事務所の中は真っ暗だった。何かに怯える小動物めいた動きで、忙しなく辺りを見回していた益田は、やおら立ち上がると電気を点けて回った。豪奢なシャンデリアは勿論、部屋の隅に立つスタンドライトや、卓上のランプに至るまで。草木も眠る刻限に、神保町の夜に浮かび上がる薔薇十字探偵社はまるで灯台のようだ。不必要なまでに明るくなった室内で、益田は再びソファに座り込んだ。ほうと吐いた溜息すらも響き渡る程静かな夜。遠くから聞こえる犬が争う声に、益田は飛び上がるほど驚いた。実際飛び上がったのかもしれない。現に彼はよろける足で、秘書が眠っている部屋の扉に縋り付いたのだから。
「か、和寅さん、和寅さん」
遠慮がちなノックの音。しかし返事が無い事が解ると、徐々に打音は強くなっていく。益田が幾度目かの涙声を上げた時、薄く開いたドアの向こうからようやく寅吉が顔を出した。当たり前だが寝巻きに着替えており、五月蠅そうに眉間に深い皺を寄せている。
寝起きらしく、低く曇った声で益田に問う。益田はと云うと、寅吉の登場に一瞬顔を晴らしたが、直ぐに元のような情けない様子に戻ってしまった。
「なんだ益田君…まだ三時じゃないか…」
「良かった起きてくれた、助けてください」
「助…?なんだって?」
怪訝そうに顔を顰めた寅吉に、益田がさらに詰め寄った。鬼気迫る表情と、真剣そのものの声で訴える。
「―――恐ろしい夢を見たんです!」
「………………………ハァ」
「ちょ、ちょっと、閉めないでくださいよう!来る!目がいっこしか無い大入道が来る!」
寅吉にドアを閉められて、益田が錯乱した悲鳴を上げる。幾ら叩けど縋り付けど、扉が再び開く事は無く、代わりに眠そうな声が答えた。
「私ゃ六時には起きるから、もう少し寝かせてくれ…宜しく」
「もう少しって…あと三時間もあるじゃないですか!和寅さん!和寅さぁん!」
大袈裟な泣き声は静寂に溶けた。かつん、と未練がましい音を最後に、益田はふらふらとソファに戻る。うろうろしているうちに夜気は座面から体温を奪い去った後で、ひやりとした感触すら益田を脅えさせた。
床に落ちていた毛布を拾い上げ、頭から被って身体に巻きつけた。毛足の長い其れは、膝を抱えた益田をすっぽりと包み込む。
瞼を閉じれば夢の続きが始まってしまいそうで、益田は瞬きすらも恐れながら身を縮こまらせていた。布に阻まれる秒針の音が遅い。早く朝になって欲しいのに。寅吉が目を覚ますのは朝の六時だ。否、太陽が昇ってさえくれればもう少しマシなのだ。早く。早く。早く。
ばたん、と扉が開く音がして、益田ははっと顔を上げた。
「和寅さ…!」
しかし、先程益田を拒否した扉は相変わらず閉て切られたままである。代わりに、栗色の髪を乱した榎木津が驚いた顔でこちらを見ていた。
「うわっ、座敷童かと思った。座敷オロカだ」
「え、榎木津さん…」
拍子抜けするとともに、頭から毛布がずるりと落ちた。榎木津はじろじろとそんな益田を眺めながら、洗面台の方へ歩いていく。どうやら便所を使いに起きたようだった。暫しの間を置き、濡れた手を服の裾で適当に拭きながら戻ってきた。
「洗った手、服で拭いたら和寅さんにまた怒られますよ…」
榎木津は益田を一瞥し、するりと寝室の扉を潜った。ばたりと扉が閉まり、また益田は一人になる。膝に顔を埋めて深々と溜息をついていると、また乱暴に扉が開いた。
「なんで引き止めない!」
「うわぁ、吃驚した!」
榎木津は憤慨した様子でずかずかと――靴など履いていないのに何故かこういった状況では榎木津の足音はやたら威圧的だ――歩いてくると、益田の真横にどかりと腰掛けた。
毛布を着たまま面食らっている益田を、鳶色の瞳が睨めつける。益田は毛布を頭から被り直して、その視線から逃れた。
「僕を差し置いて夜明け前からトラトラトラって、真珠湾かお前は」
「榎木津さんは起こしたって起きないじゃないですかぁ。起こしたら起こしたで怒るし」
「お前も僕の下僕だったら、いい加減匙加減を覚えるべきだ!面白い事だったら起きるし、下らない事だったら凄く怒る」
「だから起こさなかったんですよ、榎木津さんにとってこれ以上下らない事は世界中探したってそうそう無いでしょうから」
ぼやきながらも益田は毛布の端を引き込んで、とうとう蚕の繭のような格好になってしまう。榎木津はつまらなそうに両足を机の上に投げ出して云った。
「怖い夢を見たんだって?」
「聞いてたんですか」
「聞こえたんだ。トイレ行こうかなーでも面倒だなーと思ってたらお前のしょうもない泣き声が」
榎木津の上半身が、布包みになった益田に倒れこむ。
中から青白い手が現れて、捲れた裾を落ち着かない手つきで元に戻した。
「僕なんかのために、榎木津さんに迷惑かけられません」
「……」
榎木津は無言のまま眉をすがめて、恐らく益田の膝がある辺りに触れる。
丸くて、硬いそれは僅かに震えていた。
「…どれくらい怖い夢だった?ちょっと僕に聞かせなさい」
「ええっ、絶対に嫌なんですけど!」
「僕の眠りを妨げたんだ、面白い話じゃなかったら承知しないぞ!」
「面白い訳無いじゃないですか、怖い夢だって云ったでしょう!」
「ろくろ首だって怖いけど面白いじゃあないか、首が伸びるなんて相当面白い!面白すぎる!怖くて面白いものは世の中に幾らでもあるのだ!」
毛布越しに肩を揺さぶられて、益田は辟易した。寝物語をせがむ子供のように目を輝かせる榎木津が目に浮かぶようだ。
仕方無しに益田は毛布を肩に落とし、榎木津を見やった。案の定大きな瞳がじっと自分を見ている。
「えーっと…何か僕が森みたいなところを歩いてる夢で…」
「ほう」
「昼なのか夜なのかも解らないくらい暗い所だったんですが、梟の声がしてたから多分夜だったんでしょうねぇ…」
「もう既に退屈だぞ、いつから怖くなるんだ?」
「これからですよ!そう、僕が枯葉を踏みながら歩いていると目の前に山小屋がですねェ」
聞いているのかいないのか定かで無い、榎木津の適当な相槌を挟みながら、益田はぽつりぽつりと語りだした。
なんだかんだで恐怖に飛び起きてから、三十分は経っている。細部は曖昧になりかけていたが、言葉に詰まると榎木津が怒るので、思い出せない箇所はそれとなく辻褄を合わせながら、どうにか話を紡いだ。
元々が夢の話だ。眠っている間は凄まじい現実感を伴っていたとしても目覚めてしまえば荒唐無稽で、挙句脚色まで交えるものだから最早本来の姿は失っている。身振り手振りで一生懸命に話す益田がそれに薄々気づきだした頃、窓の外はぼんやりと明るくなっていた。
悲鳴と共に飛び起きる。布張りのソファから、申し訳程度に掛けていた毛布がずるずると滑り落ちていった。ずっと眠っていた筈の益田は、尖った肩を上下させてぜぇぜぇと息を切らしている。走り回った後のような息遣いだが、顔面は蒼白だ。
未だ夜明けは遥か遠く、事務所の中は真っ暗だった。何かに怯える小動物めいた動きで、忙しなく辺りを見回していた益田は、やおら立ち上がると電気を点けて回った。豪奢なシャンデリアは勿論、部屋の隅に立つスタンドライトや、卓上のランプに至るまで。草木も眠る刻限に、神保町の夜に浮かび上がる薔薇十字探偵社はまるで灯台のようだ。不必要なまでに明るくなった室内で、益田は再びソファに座り込んだ。ほうと吐いた溜息すらも響き渡る程静かな夜。遠くから聞こえる犬が争う声に、益田は飛び上がるほど驚いた。実際飛び上がったのかもしれない。現に彼はよろける足で、秘書が眠っている部屋の扉に縋り付いたのだから。
「か、和寅さん、和寅さん」
遠慮がちなノックの音。しかし返事が無い事が解ると、徐々に打音は強くなっていく。益田が幾度目かの涙声を上げた時、薄く開いたドアの向こうからようやく寅吉が顔を出した。当たり前だが寝巻きに着替えており、五月蠅そうに眉間に深い皺を寄せている。
寝起きらしく、低く曇った声で益田に問う。益田はと云うと、寅吉の登場に一瞬顔を晴らしたが、直ぐに元のような情けない様子に戻ってしまった。
「なんだ益田君…まだ三時じゃないか…」
「良かった起きてくれた、助けてください」
「助…?なんだって?」
怪訝そうに顔を顰めた寅吉に、益田がさらに詰め寄った。鬼気迫る表情と、真剣そのものの声で訴える。
「―――恐ろしい夢を見たんです!」
「………………………ハァ」
「ちょ、ちょっと、閉めないでくださいよう!来る!目がいっこしか無い大入道が来る!」
寅吉にドアを閉められて、益田が錯乱した悲鳴を上げる。幾ら叩けど縋り付けど、扉が再び開く事は無く、代わりに眠そうな声が答えた。
「私ゃ六時には起きるから、もう少し寝かせてくれ…宜しく」
「もう少しって…あと三時間もあるじゃないですか!和寅さん!和寅さぁん!」
大袈裟な泣き声は静寂に溶けた。かつん、と未練がましい音を最後に、益田はふらふらとソファに戻る。うろうろしているうちに夜気は座面から体温を奪い去った後で、ひやりとした感触すら益田を脅えさせた。
床に落ちていた毛布を拾い上げ、頭から被って身体に巻きつけた。毛足の長い其れは、膝を抱えた益田をすっぽりと包み込む。
瞼を閉じれば夢の続きが始まってしまいそうで、益田は瞬きすらも恐れながら身を縮こまらせていた。布に阻まれる秒針の音が遅い。早く朝になって欲しいのに。寅吉が目を覚ますのは朝の六時だ。否、太陽が昇ってさえくれればもう少しマシなのだ。早く。早く。早く。
ばたん、と扉が開く音がして、益田ははっと顔を上げた。
「和寅さ…!」
しかし、先程益田を拒否した扉は相変わらず閉て切られたままである。代わりに、栗色の髪を乱した榎木津が驚いた顔でこちらを見ていた。
「うわっ、座敷童かと思った。座敷オロカだ」
「え、榎木津さん…」
拍子抜けするとともに、頭から毛布がずるりと落ちた。榎木津はじろじろとそんな益田を眺めながら、洗面台の方へ歩いていく。どうやら便所を使いに起きたようだった。暫しの間を置き、濡れた手を服の裾で適当に拭きながら戻ってきた。
「洗った手、服で拭いたら和寅さんにまた怒られますよ…」
榎木津は益田を一瞥し、するりと寝室の扉を潜った。ばたりと扉が閉まり、また益田は一人になる。膝に顔を埋めて深々と溜息をついていると、また乱暴に扉が開いた。
「なんで引き止めない!」
「うわぁ、吃驚した!」
榎木津は憤慨した様子でずかずかと――靴など履いていないのに何故かこういった状況では榎木津の足音はやたら威圧的だ――歩いてくると、益田の真横にどかりと腰掛けた。
毛布を着たまま面食らっている益田を、鳶色の瞳が睨めつける。益田は毛布を頭から被り直して、その視線から逃れた。
「僕を差し置いて夜明け前からトラトラトラって、真珠湾かお前は」
「榎木津さんは起こしたって起きないじゃないですかぁ。起こしたら起こしたで怒るし」
「お前も僕の下僕だったら、いい加減匙加減を覚えるべきだ!面白い事だったら起きるし、下らない事だったら凄く怒る」
「だから起こさなかったんですよ、榎木津さんにとってこれ以上下らない事は世界中探したってそうそう無いでしょうから」
ぼやきながらも益田は毛布の端を引き込んで、とうとう蚕の繭のような格好になってしまう。榎木津はつまらなそうに両足を机の上に投げ出して云った。
「怖い夢を見たんだって?」
「聞いてたんですか」
「聞こえたんだ。トイレ行こうかなーでも面倒だなーと思ってたらお前のしょうもない泣き声が」
榎木津の上半身が、布包みになった益田に倒れこむ。
中から青白い手が現れて、捲れた裾を落ち着かない手つきで元に戻した。
「僕なんかのために、榎木津さんに迷惑かけられません」
「……」
榎木津は無言のまま眉をすがめて、恐らく益田の膝がある辺りに触れる。
丸くて、硬いそれは僅かに震えていた。
「…どれくらい怖い夢だった?ちょっと僕に聞かせなさい」
「ええっ、絶対に嫌なんですけど!」
「僕の眠りを妨げたんだ、面白い話じゃなかったら承知しないぞ!」
「面白い訳無いじゃないですか、怖い夢だって云ったでしょう!」
「ろくろ首だって怖いけど面白いじゃあないか、首が伸びるなんて相当面白い!面白すぎる!怖くて面白いものは世の中に幾らでもあるのだ!」
毛布越しに肩を揺さぶられて、益田は辟易した。寝物語をせがむ子供のように目を輝かせる榎木津が目に浮かぶようだ。
仕方無しに益田は毛布を肩に落とし、榎木津を見やった。案の定大きな瞳がじっと自分を見ている。
「えーっと…何か僕が森みたいなところを歩いてる夢で…」
「ほう」
「昼なのか夜なのかも解らないくらい暗い所だったんですが、梟の声がしてたから多分夜だったんでしょうねぇ…」
「もう既に退屈だぞ、いつから怖くなるんだ?」
「これからですよ!そう、僕が枯葉を踏みながら歩いていると目の前に山小屋がですねェ」
聞いているのかいないのか定かで無い、榎木津の適当な相槌を挟みながら、益田はぽつりぽつりと語りだした。
なんだかんだで恐怖に飛び起きてから、三十分は経っている。細部は曖昧になりかけていたが、言葉に詰まると榎木津が怒るので、思い出せない箇所はそれとなく辻褄を合わせながら、どうにか話を紡いだ。
元々が夢の話だ。眠っている間は凄まじい現実感を伴っていたとしても目覚めてしまえば荒唐無稽で、挙句脚色まで交えるものだから最早本来の姿は失っている。身振り手振りで一生懸命に話す益田がそれに薄々気づきだした頃、窓の外はぼんやりと明るくなっていた。
「―――とまぁここで驚いて悲鳴とともに目が覚めて…あれ?」
ふと益田が肩口を見下ろしたのと同時に、扉が開く音がした。すっかりいつもの書生姿に着替えた寅吉が、益田に声をかける。
「おや驚いた、本当に起きている。どうせ眠ってしまうだろうと思っていたのに」
「僕を見捨てておいてそりゃあ酷いんじゃないすかねぇ」
「しかも先生まで居るじゃあないか、君が起こしたのかね」
「いえ、勝手に起きたんですが……いつの間にか寝ちゃってました」
毛布を纏う益田の肩口に頭を預けて、榎木津はすやすやと寝息を立てている。寅吉が室内の明かりを消す度に、美しい寝顔は自然光に透けて、柔らかい印象を帯びていった。益田の夢語りは、いつしか本当に寝物語に変わっていたようだ。
暫しそれを眺めて、秘書と自称助手は顔を見合わせる。
「…どうするね、寝室にお運びするかい?」
「良く寝てるみたいですし、このままで良いんじゃないですか?どうせ起こしたって起きないんですから」
益田はそっと榎木津の頭を下ろし、座面に横たえると、肩に羽織っている毛布を脱いで榎木津に掛けてやった。
ふわぁぁ、大欠伸をひとつした益田の背中を寅吉が軽く叩く。
「しっかりおしよ、眠れない程悪い夢だったのかね」
「いやぁ、それはもう良いんですけど。結局殆ど寝てないもんですから」
目を擦りながら見下ろす先は、長い睫を伏せて夢より深い眠りに落ちた神の寝顔。
「現実にもっと怖い人がいたなぁそういえばって思い出しまして」
「これ、先生に云いつけるぞ」
「いやいや、勘弁してくださいって」
台所へ入っていく寅吉の背中に、益田が続く。今や朝日ばかりに満たされた事務所で、幸福な眠りに包まれる男が、一人ごろりと寝返りを打った。
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