「ひゃあ、暑いなもう、和寅さん、氷水くださぁい!」
むわっとした熱気と共に飛び込んできた益田を見て、寅吉と榎木津は目を丸くした。
ただいま戻りましたの挨拶も無しに入ってきて、当然のように飲み物を要求したからでは無い。
日も暮れかけ、外は涼しさを取り戻しかけているのに、益田と来たら汗みずくであったし、あちこちに草や土などを引っ付けているからだ。
シャツの裾をズボンから引き出してだらしなく扇ぎ薄い腹に風を送る益田の前に、氷を幾つか浮かべた透明なグラスが置かれる。
仰のいて一気にグラスを干す横顔に、呆れたような声がかかった。
「今日の仕事はいつも通りの浮気の調査じゃあ無かったのかね」
冷水を胃に落としこんだ益田は、一息吐いて口元を拭い、ようやく寅吉に向き直った。
「そうそう、毎日暑いのにお盛んで嫌んなっちゃいますよねェ」
「まぁ汗だくなのは判らんでも無いが、泥だらけなのは何なんだい」
そうそう、と益田は軽薄な口調で同意して、胸ポケットに手を突っ込んだ。
手品師めいた手つきで引き出された指先にある何物かが夕陽を浴びて煌めく。寅吉は目を細めた。
「見てくださいよ、綺麗でしょう」
良く見ればそれは、宝飾品、それも指輪だった。ちゃちな鍍金では無く、恐らく内部まで金で出来ている。
高爪には太陽よりもまだ紅く、夕焼けの海より透明な、美しい石が嵌め込まれていた。
「河原で尾行してる時に、調査相手の社長さんが落としていったんです。証拠になるかと思って探して拾っときました」
「だから土まみれなのか」
「もう雑草伸び放題でしたよぅ。やっとこさ見つけて顔を上げたらもう社長さんも2号さんも何処にも居ないし」
「当たり前じゃないか。尾行者を待っててくれる対象が何処に居る」
「いやぁ走り回って探したんですけどもう見つからなくて…参りました。まぁこうして物的証拠も見つかったし今日のところは五分五分ですかね」
けけけと笑いながら、照れ隠しにズボンで指輪を磨いていると、いつの間にか側に立っていた榎木津がひょいと其れを取り上げた。
鳶色の目を細めて、ためつすがめつ指輪を眺めている。
「どうですか榎木津さん」
益田が声をかけると榎木津は振り向き、益田の頭上と指輪とを見比べた。
「径がちょっと小さいでしょう?」
「そうなのかい?私ゃ詳しくないが、女性の指にはちょっと大きいような気もするのだけれど」
「その禿げたおじさんの芋虫みたいな指には入らないだろうなぁ」
第一こんなもんそいつに似合わない、と苦々しげに云う榎木津に苦笑して、益田は続ける。
「多分女への贈り物じゃないかと思うんです。明日奥さんに見せてみて、彼女の指と径が違ってたらクロですね」
得意げに胸を張る益田を見下ろしていた榎木津は、ふと思いついたように骨ばった手を取った。
白黒の弦に慣れ親しんだ指先は、音楽から離れて尚弦の形を覚えているかのように繊細な形をしている。
関節の立った指をじっと見つめられて、益田は振り払う事も思いつかず只呆然としていた。
「…あの、榎木津さん?」
初めての玩具を手にした子どものように、榎木津は益田の指に金の輪を宛がった。
親指から順番に通し力を入れるが関節部分か或いはそれ以前で止まってしまう。
どうにか紅玉が指の根元に収まったのは、4本目に試した薬指だった。
しんと静まり返った室内で、寅吉がやっと口を開く。
「…その2号さんとやらはこんな骨の浮いた手の女性だったのかね、益田君」
「さ、さぁ…手までは調査の範囲じゃ無かったんでちょっと…」
掌を窓に透かせば、沈み行く過程で赤さを増した光に肌が透ける。
幾面にも切り取られたカットに自分が映りこんでいるのが見えて気恥ずかしい。
薬指に嵌っていて、しかも其れをやったのが榎木津だと思うと尚更だ。
やれやれと思いながら、けれど否定できない胸の動悸を隠しつつ、益田は指輪を引き抜いた。
引き抜こうと、した。
「あれ?…あれ?」
「どうしたね」
益田は再び目の前に手をかざす。
繊細な曲線。何処までも透明なルビー。食い込む自分の肉。
「……………抜けない」
数秒の間を置いて、フロア内は火が点いたような大騒ぎを呈した。
「うわ、うわ!本当に抜けない!血が止まる!」
「何をやってるんだねもう、石鹸水!」
「僕は寝る。もう飽きた」
「ちょっとちょっと、榎木津さぁん!」
榎木津が寝室に引っ込んでしまってから夜半まで、榎木津ビルヂングの3階からは止むこと無く男の泣き言が響き続けていたという。
■
さても夜が明けて、薔薇十字探偵社では。
「あの、それでこれが旦那さんが落とされた指輪なのですが…」
「はぁ?」
突如として指輪の食い込んだ男の手の甲を見せ付けられ、訝しげな顔をしている婦人。
消えてしまいたいと云う感情を全身から発散しながらも、仕方なく薄笑いを浮かべている探偵助手。
彼に付き合わされて結局夜を明かす羽目になり、目の下に濃い隈を刻んだ書生。
探偵机に腰掛けた探偵ひとりだけが、げらげら笑ってご満悦だった。
―――
指輪がらみの話書くの多分3回目くらいです…本当榎木津と益田は結婚すればいい。
むわっとした熱気と共に飛び込んできた益田を見て、寅吉と榎木津は目を丸くした。
ただいま戻りましたの挨拶も無しに入ってきて、当然のように飲み物を要求したからでは無い。
日も暮れかけ、外は涼しさを取り戻しかけているのに、益田と来たら汗みずくであったし、あちこちに草や土などを引っ付けているからだ。
シャツの裾をズボンから引き出してだらしなく扇ぎ薄い腹に風を送る益田の前に、氷を幾つか浮かべた透明なグラスが置かれる。
仰のいて一気にグラスを干す横顔に、呆れたような声がかかった。
「今日の仕事はいつも通りの浮気の調査じゃあ無かったのかね」
冷水を胃に落としこんだ益田は、一息吐いて口元を拭い、ようやく寅吉に向き直った。
「そうそう、毎日暑いのにお盛んで嫌んなっちゃいますよねェ」
「まぁ汗だくなのは判らんでも無いが、泥だらけなのは何なんだい」
そうそう、と益田は軽薄な口調で同意して、胸ポケットに手を突っ込んだ。
手品師めいた手つきで引き出された指先にある何物かが夕陽を浴びて煌めく。寅吉は目を細めた。
「見てくださいよ、綺麗でしょう」
良く見ればそれは、宝飾品、それも指輪だった。ちゃちな鍍金では無く、恐らく内部まで金で出来ている。
高爪には太陽よりもまだ紅く、夕焼けの海より透明な、美しい石が嵌め込まれていた。
「河原で尾行してる時に、調査相手の社長さんが落としていったんです。証拠になるかと思って探して拾っときました」
「だから土まみれなのか」
「もう雑草伸び放題でしたよぅ。やっとこさ見つけて顔を上げたらもう社長さんも2号さんも何処にも居ないし」
「当たり前じゃないか。尾行者を待っててくれる対象が何処に居る」
「いやぁ走り回って探したんですけどもう見つからなくて…参りました。まぁこうして物的証拠も見つかったし今日のところは五分五分ですかね」
けけけと笑いながら、照れ隠しにズボンで指輪を磨いていると、いつの間にか側に立っていた榎木津がひょいと其れを取り上げた。
鳶色の目を細めて、ためつすがめつ指輪を眺めている。
「どうですか榎木津さん」
益田が声をかけると榎木津は振り向き、益田の頭上と指輪とを見比べた。
「径がちょっと小さいでしょう?」
「そうなのかい?私ゃ詳しくないが、女性の指にはちょっと大きいような気もするのだけれど」
「その禿げたおじさんの芋虫みたいな指には入らないだろうなぁ」
第一こんなもんそいつに似合わない、と苦々しげに云う榎木津に苦笑して、益田は続ける。
「多分女への贈り物じゃないかと思うんです。明日奥さんに見せてみて、彼女の指と径が違ってたらクロですね」
得意げに胸を張る益田を見下ろしていた榎木津は、ふと思いついたように骨ばった手を取った。
白黒の弦に慣れ親しんだ指先は、音楽から離れて尚弦の形を覚えているかのように繊細な形をしている。
関節の立った指をじっと見つめられて、益田は振り払う事も思いつかず只呆然としていた。
「…あの、榎木津さん?」
初めての玩具を手にした子どものように、榎木津は益田の指に金の輪を宛がった。
親指から順番に通し力を入れるが関節部分か或いはそれ以前で止まってしまう。
どうにか紅玉が指の根元に収まったのは、4本目に試した薬指だった。
しんと静まり返った室内で、寅吉がやっと口を開く。
「…その2号さんとやらはこんな骨の浮いた手の女性だったのかね、益田君」
「さ、さぁ…手までは調査の範囲じゃ無かったんでちょっと…」
掌を窓に透かせば、沈み行く過程で赤さを増した光に肌が透ける。
幾面にも切り取られたカットに自分が映りこんでいるのが見えて気恥ずかしい。
薬指に嵌っていて、しかも其れをやったのが榎木津だと思うと尚更だ。
やれやれと思いながら、けれど否定できない胸の動悸を隠しつつ、益田は指輪を引き抜いた。
引き抜こうと、した。
「あれ?…あれ?」
「どうしたね」
益田は再び目の前に手をかざす。
繊細な曲線。何処までも透明なルビー。食い込む自分の肉。
「……………抜けない」
数秒の間を置いて、フロア内は火が点いたような大騒ぎを呈した。
「うわ、うわ!本当に抜けない!血が止まる!」
「何をやってるんだねもう、石鹸水!」
「僕は寝る。もう飽きた」
「ちょっとちょっと、榎木津さぁん!」
榎木津が寝室に引っ込んでしまってから夜半まで、榎木津ビルヂングの3階からは止むこと無く男の泣き言が響き続けていたという。
■
さても夜が明けて、薔薇十字探偵社では。
「あの、それでこれが旦那さんが落とされた指輪なのですが…」
「はぁ?」
突如として指輪の食い込んだ男の手の甲を見せ付けられ、訝しげな顔をしている婦人。
消えてしまいたいと云う感情を全身から発散しながらも、仕方なく薄笑いを浮かべている探偵助手。
彼に付き合わされて結局夜を明かす羽目になり、目の下に濃い隈を刻んだ書生。
探偵机に腰掛けた探偵ひとりだけが、げらげら笑ってご満悦だった。
―――
指輪がらみの話書くの多分3回目くらいです…本当榎木津と益田は結婚すればいい。
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子供の時、犬を拾った。
電柱の下で、汚れた毛布と一緒に蜜柑箱に入れられていた。震える子犬は濡れていて、益々小さな身体を縮こまらせていたのを覚えている。吠えもせずに丸くて黒い瞳でじっと自分を見上げていた事も。
箱の中から抱き上げて、走って家に帰った。早く暖めてやらなければ、きっと死んでしまう。けれど犬を見た母は、困ったように眉を寄せてこう云った。
「元の所に戻しておいで。家では飼えないから」と。
そんな馬鹿な、と思った。濡れそぼった毛皮は腹に冷たかったけれど、確かに体温がある。生きている。子供心に、この弱い生き物を守ってやらなければと強く思う。ずっと飼えなくとも、一緒に風呂に入れてやって、布団の中で暖める事も許されないのか。僕は母にせがんだ。
母は家族のための食事を作る手を止めずに呟く。
「情が湧いてしまったら、困るから」
情とは何だ。友情とか愛情の類が、湧いて困る事などあるのだろうか。
呆然とする僕の腕の中で、そんな事など知らぬ子犬が抜け出そうともがいている。円らな瞳は、何を見ているのだろう。
自室の扉の前で膝を抱えている痩せた男を見て、青木は何故かそんな事を思い出した。
かん、と業とらしく音を立てて床を蹴ると、益田は膝に埋まった顔を上げた。長い前髪が鼻先にまでかかっている。青木の姿を認めると、前髪を払って笑っているのだか泣いているのだかはっきりしない顔をした。
「おかえりなさい、青木さん」
「何がおかえりなさいだよ。こっちは夜勤明けで、今から寝ようって云うのに」
ノブに鍵を差し込む背後で、益田がゆらりと立ち上がる気配がする。
「大丈夫ですよう、僕も此処で寝かせて」
欲しいだけ、と云い終わらぬうちに開いたドアの中に慌てて益田を押し込んだ。玄関に倒れこんだ背中に続いて部屋に滑り込み、後ろ手に施錠する。カーテンを閉めたままの室内は、薄暗いと云うのか薄明るいと云うのか、薄墨を刷いたように全体がくすんでいる。シャツ越しに浮いた肩甲骨にも灰青色の影が落ちていた。
「君ねぇ!」
「うひゃあすみません、うっかりです。そんな怒らんでくださいよう」
この下宿には署内の人間も住んでいるのだ。滅多な事を云わないで貰いたい。
というか、彼は何時から此処に座り込んでいたのだろう。三角座りで顔を伏せている男を見て通りがかった人間が何を思ったか想像するのも面倒で、青木は深々と溜息を吐く。
「君相手に怒る気にもならないよ。そこ退いてくれ、靴が脱げない」
くたびれた革靴を脱ぎ捨てて、眠るためにランニングと下穿きだけの格好になった。敷きっ放しで出掛けた布団は僅かに湿気を吸っているが、ただ眠るだけなら十分だ。掛け布団をばさりと捲ると、白いシーツの上に落ちる人影が一段と濃くなった。益田が立っている。ばさりと落ちた前髪は幽霊じみていて、布団を見ているのか俯いているのかは解らない。
タイを抜き取った首元が、妙に心もとなく見えた。
「益田君」
「僕も寝ます」
「布団一枚しか無いんだよ。そうで無くても、君と同衾なんてぞっとしない」
益田はひどいなぁ、と唇を尖らせ、いつも通り軽薄に笑った。まるで何でもない提案のようだ。
「どうせ直ぐ寝入っちゃうんでしょう?だったら良いじゃないですか」
「だからって」
「嫌だなぁ、何もしませんよう」
益田はそう云うと、ケケケと硬質な笑い声を上げる。性質の悪い冗談に、青木は眉を顰めた。
「ちょっとね、一人で寝るのがしんどいだけなんです。助けると思って、お願いします」
ぺこりと頭を下げる一瞬垣間見えた表情は、久しく見かけない其れだった。冗句も卑屈さも削ぎ落とした顔は、真摯と云っても良いだろう。
だがこの機にそんな顔をして見せるなんて、やはり卑怯だ、と青木は思う。布団に潜り込んで何も云わずにごろりと横を向くと、空いた背中側に益田が滑り込んできた。同じく背を向けているようで、薄い肉から張り出した背骨がこつりと触れる。
しんと静まった室内に、妙にしみじみとした益田の声が広がる。
「青木さんの布団、ちょっと煙草の匂いがしますねぇ。警察時代の仮眠室思い出します」
そう云う益田からは、嗅ぎ慣れぬ甘い香りがしている。石鹸に似ているが、番台で売っている安いシャボンでも蛇口からぶら下がっているレモン石鹸とも全く違う。ふわふわとした花のような匂いは、益田のイメエジとは一致しない。こう云った香りが似合うのは―――栗色の柔らかな髪が、さっと頭を過ぎった。
「―――夢ですよ」
「えっ?」
突然の声に、青木は振り向きそうになった。
「夢だったんです」
「そう… 良い夢?悪い夢?」
「もう解りませんけど、起きたら消えてました。夢の続きが始まったら、悪くなるに決まってるんです。だから飛び出して、此処に来ました」
どうもすみませんねぇ、と云って笑った気配があった。触れた背中が小刻みに震えている。
「益田君」
「すみませんもう眠くて…起きたら出て行きますから…お先に…」
語尾は掠れて消え、深い寝息に代わった。ふうと静かな吐息が溜息のようだ。
置き時計の針の音と規則正しい呼吸が混じる。
其れだけで住み慣れた室内がなんだか異空間めいて、落ち着かない。益田に気を遣ってしまって、素直に足をずらす事も出来なかった。
青木は横目で天井を仰ぐ。この部屋を見下ろす事が出来たら、どんなに滑稽な光景だろうか。そうする代わりに、もう一度男の名を呼んだ。
「君本当は、寝てなんかいないでしょう―――」
僅かに触れた背が一瞬強張ったが、再び吐き出された深い呼吸と共に、青木の声は宙に溶ける。花の香りは益々甘く、夢の中まで忍んできそうだ。ならば夢など見ないように深く眠りたい。背を向けて横たわっている誰かの事など、目覚めた時には忘れるほどに。
けれどじわじわと温まる布団が、自分以外の肌の温度を教えている。
あの犬をこっそりと寝床に引き入れた夜もそうだった。温もりを与えることが、そして自らの手で其れを奪う事が、あの犬にとってどれ程の喜びと絶望を与えるかなど幼かった青木は全く考えもしなかった。
(情ならとうに湧いている)
其れが友情なのか同情なのか、或いは一種の愛情なのかは知らないけれど。
ただ―――
可哀想にと、そう思った。
―――
無記名でのリクエスト「榎木津と寝た翌日に青木と寝る益田」でした。ありがとうございました。
リク内容見ないと何が起こってるかわかりにくくてすみません。卑怯な益田と青木の情が書きたかったです。
電柱の下で、汚れた毛布と一緒に蜜柑箱に入れられていた。震える子犬は濡れていて、益々小さな身体を縮こまらせていたのを覚えている。吠えもせずに丸くて黒い瞳でじっと自分を見上げていた事も。
箱の中から抱き上げて、走って家に帰った。早く暖めてやらなければ、きっと死んでしまう。けれど犬を見た母は、困ったように眉を寄せてこう云った。
「元の所に戻しておいで。家では飼えないから」と。
そんな馬鹿な、と思った。濡れそぼった毛皮は腹に冷たかったけれど、確かに体温がある。生きている。子供心に、この弱い生き物を守ってやらなければと強く思う。ずっと飼えなくとも、一緒に風呂に入れてやって、布団の中で暖める事も許されないのか。僕は母にせがんだ。
母は家族のための食事を作る手を止めずに呟く。
「情が湧いてしまったら、困るから」
情とは何だ。友情とか愛情の類が、湧いて困る事などあるのだろうか。
呆然とする僕の腕の中で、そんな事など知らぬ子犬が抜け出そうともがいている。円らな瞳は、何を見ているのだろう。
自室の扉の前で膝を抱えている痩せた男を見て、青木は何故かそんな事を思い出した。
かん、と業とらしく音を立てて床を蹴ると、益田は膝に埋まった顔を上げた。長い前髪が鼻先にまでかかっている。青木の姿を認めると、前髪を払って笑っているのだか泣いているのだかはっきりしない顔をした。
「おかえりなさい、青木さん」
「何がおかえりなさいだよ。こっちは夜勤明けで、今から寝ようって云うのに」
ノブに鍵を差し込む背後で、益田がゆらりと立ち上がる気配がする。
「大丈夫ですよう、僕も此処で寝かせて」
欲しいだけ、と云い終わらぬうちに開いたドアの中に慌てて益田を押し込んだ。玄関に倒れこんだ背中に続いて部屋に滑り込み、後ろ手に施錠する。カーテンを閉めたままの室内は、薄暗いと云うのか薄明るいと云うのか、薄墨を刷いたように全体がくすんでいる。シャツ越しに浮いた肩甲骨にも灰青色の影が落ちていた。
「君ねぇ!」
「うひゃあすみません、うっかりです。そんな怒らんでくださいよう」
この下宿には署内の人間も住んでいるのだ。滅多な事を云わないで貰いたい。
というか、彼は何時から此処に座り込んでいたのだろう。三角座りで顔を伏せている男を見て通りがかった人間が何を思ったか想像するのも面倒で、青木は深々と溜息を吐く。
「君相手に怒る気にもならないよ。そこ退いてくれ、靴が脱げない」
くたびれた革靴を脱ぎ捨てて、眠るためにランニングと下穿きだけの格好になった。敷きっ放しで出掛けた布団は僅かに湿気を吸っているが、ただ眠るだけなら十分だ。掛け布団をばさりと捲ると、白いシーツの上に落ちる人影が一段と濃くなった。益田が立っている。ばさりと落ちた前髪は幽霊じみていて、布団を見ているのか俯いているのかは解らない。
タイを抜き取った首元が、妙に心もとなく見えた。
「益田君」
「僕も寝ます」
「布団一枚しか無いんだよ。そうで無くても、君と同衾なんてぞっとしない」
益田はひどいなぁ、と唇を尖らせ、いつも通り軽薄に笑った。まるで何でもない提案のようだ。
「どうせ直ぐ寝入っちゃうんでしょう?だったら良いじゃないですか」
「だからって」
「嫌だなぁ、何もしませんよう」
益田はそう云うと、ケケケと硬質な笑い声を上げる。性質の悪い冗談に、青木は眉を顰めた。
「ちょっとね、一人で寝るのがしんどいだけなんです。助けると思って、お願いします」
ぺこりと頭を下げる一瞬垣間見えた表情は、久しく見かけない其れだった。冗句も卑屈さも削ぎ落とした顔は、真摯と云っても良いだろう。
だがこの機にそんな顔をして見せるなんて、やはり卑怯だ、と青木は思う。布団に潜り込んで何も云わずにごろりと横を向くと、空いた背中側に益田が滑り込んできた。同じく背を向けているようで、薄い肉から張り出した背骨がこつりと触れる。
しんと静まった室内に、妙にしみじみとした益田の声が広がる。
「青木さんの布団、ちょっと煙草の匂いがしますねぇ。警察時代の仮眠室思い出します」
そう云う益田からは、嗅ぎ慣れぬ甘い香りがしている。石鹸に似ているが、番台で売っている安いシャボンでも蛇口からぶら下がっているレモン石鹸とも全く違う。ふわふわとした花のような匂いは、益田のイメエジとは一致しない。こう云った香りが似合うのは―――栗色の柔らかな髪が、さっと頭を過ぎった。
「―――夢ですよ」
「えっ?」
突然の声に、青木は振り向きそうになった。
「夢だったんです」
「そう… 良い夢?悪い夢?」
「もう解りませんけど、起きたら消えてました。夢の続きが始まったら、悪くなるに決まってるんです。だから飛び出して、此処に来ました」
どうもすみませんねぇ、と云って笑った気配があった。触れた背中が小刻みに震えている。
「益田君」
「すみませんもう眠くて…起きたら出て行きますから…お先に…」
語尾は掠れて消え、深い寝息に代わった。ふうと静かな吐息が溜息のようだ。
置き時計の針の音と規則正しい呼吸が混じる。
其れだけで住み慣れた室内がなんだか異空間めいて、落ち着かない。益田に気を遣ってしまって、素直に足をずらす事も出来なかった。
青木は横目で天井を仰ぐ。この部屋を見下ろす事が出来たら、どんなに滑稽な光景だろうか。そうする代わりに、もう一度男の名を呼んだ。
「君本当は、寝てなんかいないでしょう―――」
僅かに触れた背が一瞬強張ったが、再び吐き出された深い呼吸と共に、青木の声は宙に溶ける。花の香りは益々甘く、夢の中まで忍んできそうだ。ならば夢など見ないように深く眠りたい。背を向けて横たわっている誰かの事など、目覚めた時には忘れるほどに。
けれどじわじわと温まる布団が、自分以外の肌の温度を教えている。
あの犬をこっそりと寝床に引き入れた夜もそうだった。温もりを与えることが、そして自らの手で其れを奪う事が、あの犬にとってどれ程の喜びと絶望を与えるかなど幼かった青木は全く考えもしなかった。
(情ならとうに湧いている)
其れが友情なのか同情なのか、或いは一種の愛情なのかは知らないけれど。
ただ―――
可哀想にと、そう思った。
―――
無記名でのリクエスト「榎木津と寝た翌日に青木と寝る益田」でした。ありがとうございました。
リク内容見ないと何が起こってるかわかりにくくてすみません。卑怯な益田と青木の情が書きたかったです。
雑踏や並木の葉ずれの音と云った生活音を遥か下に置き去りにして、薔薇十字探偵社は平素より幾らか静かな状態で其処にあった。寅吉の握る包丁が俎板の上で菜物を切るざくざくという音も今は無い。何より、榎木津と云う男の不在がそうさせていた。現在の事務所内では、鬱陶しい前髪を耳に引っ掛けた益田が書類に走らせるペンの音と、やや息苦しげな空咳が繰り返すのみだ。季節の変わり目に、迂闊に人ごみの中に入っていくものではないと益田は思う。何処かで風邪を貰ってきてしまった。
仕事をするには悪くない環境である筈だが、何だかんだで騒々しい日常に慣れてしまった益田は、静けさを慰めでもするかのように時折独り言を洩らす。幾度目かの独り言として「ああ喉痛い」と呟いた時、高らかに電話のベルが鳴り響いた。
万年筆を片手に握ったままでハイ薔薇十字探偵社ですがと名乗ると、受話器の向こうから妙に擦れた声が聞こえた。
「もしもし、君は、益田君かい?」
関口だ、と名乗って貰わなければそうと解らない程だった。
「如何にも僕は益田ですけど、どうしちゃったんですか関口さん」
「僕は風邪だよ、それより益田君」
酷く傷んだ声は痛ましく、聞き取りづらい。キゲンはどうだ、と聞かれた気がする。
「機嫌ですか?機嫌はまァ悪くは無いですけど」
「機嫌じゃない、加減だ。具合はどうだって聞いてるんだよ」
「ああすみません良く聞こえなくて。僕もちょっと風邪気味ですけど、関口さん程には悪くないですよ」
途端受話器の向こうから、凄まじい勢いで咳き込む声が聞こえ、益田は眉を顰めた。大丈夫ですかと聞く前に、ぜぇぜぇと息を乱す関口が「早く逃げろ」と云った。背中を丸めた小説家が、丸眼鏡の奥で必死な顔をしているのが何故か益田の頭に浮かぶ。
「―――榎さんが家に来たんだ、そして帰っていった」
「あらら、そりゃあどうも」
「彼は、僕が、妻に看病されているのを、見て―――」
「えっ、それで何で僕が逃げないといけないんですか」
関口の弱った声に被せるように、益田の背後でガラガラと盛大に鐘が鳴った。振り向けば其処には、矢張り栗色の髪を振り乱した榎木津が立っている。出掛けていった時は手ぶらだった筈だが、両手一杯に買い物袋を携えている。受話器を握ったままでぽかんと見上げる益田を見下ろす鳶色の瞳には、使命感めいたものが漲っているように見えた。
「お前、機嫌はどうだ」
「ハァ? いや機嫌は悪くないですけど、」
途端喉に異物感めいたものが競りあがってきて、思わず益田は咳き込む。受話器の向こうで待っている関口に謝罪する前に、飛んできた榎木津が益田の襟首を掴み上げた。
「うひゃあ、な、何ですよ!」
「病人か、お前病人だな!」
「そんな病人って云うほど大層なアレじゃあ」
「もしもし益田君、益田君」
痛々しい声で自分を呼ぶ関口と、大きな目を爛々と輝かせる榎木津に挟まれて、益田は混乱する。結局は直接相対している榎木津に浚われるような格好で、訳も解らないまま寝室に投げ込まれた。
所在無くぶら下がっている黒電話の受話器が、床に向けてぼそぼそと喋っている。
妻が僕を甲斐甲斐しく看病してくれているのを見て、何を思ったのか榎さんは
「僕もやってみたい」と云い出したんだ。
だが僕のことは全てあれがやってしまっていたから、自分で新しい病人を探すと云って飛び出していった。
自分の腕を揮う先を探しているんだ。
益田君が風邪をひいているなら、気をつけた方が良い。
あの男はこれから力の限り、君を甘やかすぞ――――
■
益田が自分の置かれている状況を把握した時、彼の状態はすっかり変わってしまっていた。
大人しく机に向かっていたはずが、無闇に広い寝台に寝かしつけられている。シャツもタイも剥ぎ取られ、真新しい寝巻きに着せ替えられた。誰にでも着せられるようにと思ったのか矢鱈サイズが大きいが、一面に輪切りの蜜柑が散りばめられた柄が異常に子どもっぽいのが気味悪い。そんな自分の姿を見たくなくて益田はそっと布団を被りなおした。熱など無いのに乗せられた濡れタオルから、染み出た冷水がだらりと伝った。
「…あのう、榎木津さん?」
ベッドに腰掛けている榎木津は、声も出さずにゆっくりと振り向いた。手元には半分開いた桃の缶詰と、缶切りが握られていたが、一旦其れを横に置くと体温計を取り出して強く振った。目盛を戻しているのだ。
「僕ぁこんなにされるほど重篤な病人じゃあ無いんですけれども」
「病人の癖に健康を語るんじゃないぞカゼヤマ!医者でも無い癖に、これから絶対に凄い熱が出ないって云えるのか。もう少しほっといて凄い熱が出てからの方が治し甲斐がありそうだけど、これ以上バカになったら手がつけられないから今のうちに看病するん、だッ」
「うぐっ」
口内に体温計の先端を突っ込まれ、益田は渋々其れを咥えた。舌の裏と唇で金属の感触が冷たい。ちらりと盗み見ると、榎木津は缶詰を開ける作業に戻っていた。きしきしと軋む音につれて、甘い蜜の香りが漏れてくる。高価な桃の缶詰、子どもの頃は中々口に入らなかったなぁなどと考えていると、益田の目の前で硝子の器に透明なシロップごと大きな桃がごろりと滑り出てきた。滑らかに整った表面がつやつやと輝く。
吐き出した体温計の目盛は当然平熱を示しており、榎木津はあからさまにつまらなそうな顔をしながらも、食器に盛られた桃を差し出してきた。
「食べなさい」
「はぁ、いただきま…」
「起きるな病気!」
「ぎゃあ!」
上体を僅かに起こした瞬間、榎木津の掌が益田の胸を押した。勢い良く寝台に戻され、塵が舞い上がる。埃に当てられて、また咳が漏れてしまった。
ぶ厚い果肉にざくりと銀の匙が突き立てられて、酷く嫌な予感がする。
「そら、口を開けろ」
…やっぱり。
「や、止めてくださいよぅ。僕ァ本当に元気なんですから、謙遜とかじゃなく本当に!」
「元気だと云うなら僕の云う事が聞けないのはおかしいぞ。サルでも出来る事が出来ないのかバカオロカ。あのおサルはお前と違って熱もあったけど、雪ちゃんがお口を開けてと云ったらちゃあんと開けていたぞ。実に良く躾が行き届いているじゃあないか!」
そうだったのか、関口さん…。
あの鬱々とした男が大人しく妻の看護を享受する様子は想像するだに奇妙で、意外な驚きに思わず唇を開いてしまう。
其処に小さく切り取られた桃とシロップとが、するりと流れ込んできた。
「う」
「あまぁいだろう」
「は、はい、甘いです。わ、わー、なんだかすっかり風邪が治った気がするなー」
引き攣った笑いを浮かべ、身を起こそうとしたが、先程と同じように押し戻される。まだ満足していないらしい。
ベッドサイドには榎木津が買い揃えた様々な看病道具が並んでいたが、中でも益田が気になったのは薬包紙に包まれた何かだ。榎木津が慣れた手つきで水差しからグラスに水を移しているのが、今後の展開を嫌でも予想させる。
「食べたら薬だ!そら飲め!」
…ほらね。
益田はろくでもない予感ばかりが良く当たる己の勘を呪った。
「ですから榎木津さん、僕ぁですね」
「飲まなきゃ治らない!まさか苦い薬は嫌だと云うんじゃないだろうな。関係ないよ、僕が飲むんじゃないんだから」
味の問題では無い。確かに何でもない時に苦い思いをするのも嫌だが、素人診断で適当に薬を呑んで良いものだろうか。
薬包紙の中から現れた真っ白い散薬はいかにも効きそうではあるが、不気味だ。
「いいから飲め!」
「嫌です!」
「面倒臭いやつだな、水に溶いてやったんだから、さぁ飲め!」
「嫌ですよぅ!本当に病院送りになっちゃったらどうするんですか!」
グラスを唇に押し付けられた益田と榎木津との押し問答は続いた。激しい抵抗に、額の濡れタオルが滑り落ちるほどに。
ついに痺れをきらした榎木津が身を起こしたかと思うと、思い切りグラスを呷るのを益田は見た。良くない未来予想図が、瞬時に頭の中で明滅する。
そして其れは現実となった。
「う…っ」
触れた唇が、流れ込んでくる水が冷たい。
直前に甘いものを摂った所為か口腔に広がった苦味は益田の想像より更に酷いものだった。舌を刺し、喉を焼くようだ。傷んだ粘膜を慰撫するように、榎木津の舌が這った。
唇が離れ、飲み込み損ねた雫が頬を伝って枕に染みる。呆然と見上げた先で、鳶色の瞳が瞬いた。
「あー苦かった」
お前が面倒をかけるからだ、と舌を出した榎木津が云う。
「な、な」
「ん?顔が赤くなってきたぞお前。ついに熱が出てきたか、それとも今のぐらいで照れているのか?」
「今のぐらいってなんですか!僕は、僕はですね!」
「きゃんきゃん吼えるなバカオロカ。薬を飲んだら次は寝るんだ。起きたらお粥を作ってやろう」
新しく絞ったタオルを額に乗せられ、布団を掛けなおされる。その上からぽんぽん、と叩かれて、赤子を寝かしつけるようだ。
僅かに濡れた唇から、耳に慣れた旋律が聞こえる。幼い頃熱を出した益田に、母親が歌ってくれた。
「関口さん家でも、そうやってたんですか…?」
「さーて、どうだかなぁ」
「どうなんでしょうね…」
会話にならない会話をして、益田は瞼を閉じる。
本当に子守唄で寝かしつけられる訳では無いが、ふわふわの布団と絶えず与えられるリズムが心地よい。午睡の機会を与えられたと思えば、これはこれで悪くない。
時折あやふやになる歌詞に耳を傾けながら、意識がゆっくりと解けていくのを感じていた。
…おかしい。
益田は目を開けた。どうもおかしい。
なんだか熱っぽい気がする。風邪が悪化したというなら、それは仕方が無いことだ。
だが病の熱は頭が熱かったりするものだが、この熱は胎の底から来ているような気がする。指先がむずむずして落ち着かない。
「…あのう、榎木津さん」
「なんだまだ起きていたのか、早く寝てしまえ」
「ところでさっきの薬は、何に効く薬なんでしょうか」
ああ、と榎木津は顔を上げた。
「熱冷ましも鼻水止めもあるけど、まだマスヤマは熱も鼻水も出てないから止めたんだ」
「そうですか、そりゃあ良かった」
「だから何にでも効きそうな、精がつく薬にしたんだ」
「えっ」
「男の元気が無い時に飲めばたちまち元気になるらしいぞ、良かったな」
「えっ」
それは…どう考えても用途が違うのでは無いだろうか。
第一その宣伝文句は病院と云うより、怪しげな薬局の店頭の張り紙で見かける気がするのだが。精力絶倫、とか云う―――
意識した途端、益田の全身をざわざわと良からぬ震えが駆け抜けた。
「ひえぇ…!」
「なんだマスヤマ、寝ろ!寝ないと効かないぞ!」
「じゃあ寝ません…!ていうか、こんな状態で、寝てられませんよぅ…!」
榎木津の行動は、益田ごときの拙き「予感」など、結局飛び越えてしまうものなのだ。
結果として益田の病状は悪化する事になるのだが、その理由であるとか原因であるとかは、室温に温くなった水差しのみが知っている。
―――
無記名でのリクエスト「益田のご機嫌をとる榎木津」でした。ありがとうございました。
これはただの看病プレイと云うのでは… 正直楽しかったです。
仕事をするには悪くない環境である筈だが、何だかんだで騒々しい日常に慣れてしまった益田は、静けさを慰めでもするかのように時折独り言を洩らす。幾度目かの独り言として「ああ喉痛い」と呟いた時、高らかに電話のベルが鳴り響いた。
万年筆を片手に握ったままでハイ薔薇十字探偵社ですがと名乗ると、受話器の向こうから妙に擦れた声が聞こえた。
「もしもし、君は、益田君かい?」
関口だ、と名乗って貰わなければそうと解らない程だった。
「如何にも僕は益田ですけど、どうしちゃったんですか関口さん」
「僕は風邪だよ、それより益田君」
酷く傷んだ声は痛ましく、聞き取りづらい。キゲンはどうだ、と聞かれた気がする。
「機嫌ですか?機嫌はまァ悪くは無いですけど」
「機嫌じゃない、加減だ。具合はどうだって聞いてるんだよ」
「ああすみません良く聞こえなくて。僕もちょっと風邪気味ですけど、関口さん程には悪くないですよ」
途端受話器の向こうから、凄まじい勢いで咳き込む声が聞こえ、益田は眉を顰めた。大丈夫ですかと聞く前に、ぜぇぜぇと息を乱す関口が「早く逃げろ」と云った。背中を丸めた小説家が、丸眼鏡の奥で必死な顔をしているのが何故か益田の頭に浮かぶ。
「―――榎さんが家に来たんだ、そして帰っていった」
「あらら、そりゃあどうも」
「彼は、僕が、妻に看病されているのを、見て―――」
「えっ、それで何で僕が逃げないといけないんですか」
関口の弱った声に被せるように、益田の背後でガラガラと盛大に鐘が鳴った。振り向けば其処には、矢張り栗色の髪を振り乱した榎木津が立っている。出掛けていった時は手ぶらだった筈だが、両手一杯に買い物袋を携えている。受話器を握ったままでぽかんと見上げる益田を見下ろす鳶色の瞳には、使命感めいたものが漲っているように見えた。
「お前、機嫌はどうだ」
「ハァ? いや機嫌は悪くないですけど、」
途端喉に異物感めいたものが競りあがってきて、思わず益田は咳き込む。受話器の向こうで待っている関口に謝罪する前に、飛んできた榎木津が益田の襟首を掴み上げた。
「うひゃあ、な、何ですよ!」
「病人か、お前病人だな!」
「そんな病人って云うほど大層なアレじゃあ」
「もしもし益田君、益田君」
痛々しい声で自分を呼ぶ関口と、大きな目を爛々と輝かせる榎木津に挟まれて、益田は混乱する。結局は直接相対している榎木津に浚われるような格好で、訳も解らないまま寝室に投げ込まれた。
所在無くぶら下がっている黒電話の受話器が、床に向けてぼそぼそと喋っている。
妻が僕を甲斐甲斐しく看病してくれているのを見て、何を思ったのか榎さんは
「僕もやってみたい」と云い出したんだ。
だが僕のことは全てあれがやってしまっていたから、自分で新しい病人を探すと云って飛び出していった。
自分の腕を揮う先を探しているんだ。
益田君が風邪をひいているなら、気をつけた方が良い。
あの男はこれから力の限り、君を甘やかすぞ――――
■
益田が自分の置かれている状況を把握した時、彼の状態はすっかり変わってしまっていた。
大人しく机に向かっていたはずが、無闇に広い寝台に寝かしつけられている。シャツもタイも剥ぎ取られ、真新しい寝巻きに着せ替えられた。誰にでも着せられるようにと思ったのか矢鱈サイズが大きいが、一面に輪切りの蜜柑が散りばめられた柄が異常に子どもっぽいのが気味悪い。そんな自分の姿を見たくなくて益田はそっと布団を被りなおした。熱など無いのに乗せられた濡れタオルから、染み出た冷水がだらりと伝った。
「…あのう、榎木津さん?」
ベッドに腰掛けている榎木津は、声も出さずにゆっくりと振り向いた。手元には半分開いた桃の缶詰と、缶切りが握られていたが、一旦其れを横に置くと体温計を取り出して強く振った。目盛を戻しているのだ。
「僕ぁこんなにされるほど重篤な病人じゃあ無いんですけれども」
「病人の癖に健康を語るんじゃないぞカゼヤマ!医者でも無い癖に、これから絶対に凄い熱が出ないって云えるのか。もう少しほっといて凄い熱が出てからの方が治し甲斐がありそうだけど、これ以上バカになったら手がつけられないから今のうちに看病するん、だッ」
「うぐっ」
口内に体温計の先端を突っ込まれ、益田は渋々其れを咥えた。舌の裏と唇で金属の感触が冷たい。ちらりと盗み見ると、榎木津は缶詰を開ける作業に戻っていた。きしきしと軋む音につれて、甘い蜜の香りが漏れてくる。高価な桃の缶詰、子どもの頃は中々口に入らなかったなぁなどと考えていると、益田の目の前で硝子の器に透明なシロップごと大きな桃がごろりと滑り出てきた。滑らかに整った表面がつやつやと輝く。
吐き出した体温計の目盛は当然平熱を示しており、榎木津はあからさまにつまらなそうな顔をしながらも、食器に盛られた桃を差し出してきた。
「食べなさい」
「はぁ、いただきま…」
「起きるな病気!」
「ぎゃあ!」
上体を僅かに起こした瞬間、榎木津の掌が益田の胸を押した。勢い良く寝台に戻され、塵が舞い上がる。埃に当てられて、また咳が漏れてしまった。
ぶ厚い果肉にざくりと銀の匙が突き立てられて、酷く嫌な予感がする。
「そら、口を開けろ」
…やっぱり。
「や、止めてくださいよぅ。僕ァ本当に元気なんですから、謙遜とかじゃなく本当に!」
「元気だと云うなら僕の云う事が聞けないのはおかしいぞ。サルでも出来る事が出来ないのかバカオロカ。あのおサルはお前と違って熱もあったけど、雪ちゃんがお口を開けてと云ったらちゃあんと開けていたぞ。実に良く躾が行き届いているじゃあないか!」
そうだったのか、関口さん…。
あの鬱々とした男が大人しく妻の看護を享受する様子は想像するだに奇妙で、意外な驚きに思わず唇を開いてしまう。
其処に小さく切り取られた桃とシロップとが、するりと流れ込んできた。
「う」
「あまぁいだろう」
「は、はい、甘いです。わ、わー、なんだかすっかり風邪が治った気がするなー」
引き攣った笑いを浮かべ、身を起こそうとしたが、先程と同じように押し戻される。まだ満足していないらしい。
ベッドサイドには榎木津が買い揃えた様々な看病道具が並んでいたが、中でも益田が気になったのは薬包紙に包まれた何かだ。榎木津が慣れた手つきで水差しからグラスに水を移しているのが、今後の展開を嫌でも予想させる。
「食べたら薬だ!そら飲め!」
…ほらね。
益田はろくでもない予感ばかりが良く当たる己の勘を呪った。
「ですから榎木津さん、僕ぁですね」
「飲まなきゃ治らない!まさか苦い薬は嫌だと云うんじゃないだろうな。関係ないよ、僕が飲むんじゃないんだから」
味の問題では無い。確かに何でもない時に苦い思いをするのも嫌だが、素人診断で適当に薬を呑んで良いものだろうか。
薬包紙の中から現れた真っ白い散薬はいかにも効きそうではあるが、不気味だ。
「いいから飲め!」
「嫌です!」
「面倒臭いやつだな、水に溶いてやったんだから、さぁ飲め!」
「嫌ですよぅ!本当に病院送りになっちゃったらどうするんですか!」
グラスを唇に押し付けられた益田と榎木津との押し問答は続いた。激しい抵抗に、額の濡れタオルが滑り落ちるほどに。
ついに痺れをきらした榎木津が身を起こしたかと思うと、思い切りグラスを呷るのを益田は見た。良くない未来予想図が、瞬時に頭の中で明滅する。
そして其れは現実となった。
「う…っ」
触れた唇が、流れ込んでくる水が冷たい。
直前に甘いものを摂った所為か口腔に広がった苦味は益田の想像より更に酷いものだった。舌を刺し、喉を焼くようだ。傷んだ粘膜を慰撫するように、榎木津の舌が這った。
唇が離れ、飲み込み損ねた雫が頬を伝って枕に染みる。呆然と見上げた先で、鳶色の瞳が瞬いた。
「あー苦かった」
お前が面倒をかけるからだ、と舌を出した榎木津が云う。
「な、な」
「ん?顔が赤くなってきたぞお前。ついに熱が出てきたか、それとも今のぐらいで照れているのか?」
「今のぐらいってなんですか!僕は、僕はですね!」
「きゃんきゃん吼えるなバカオロカ。薬を飲んだら次は寝るんだ。起きたらお粥を作ってやろう」
新しく絞ったタオルを額に乗せられ、布団を掛けなおされる。その上からぽんぽん、と叩かれて、赤子を寝かしつけるようだ。
僅かに濡れた唇から、耳に慣れた旋律が聞こえる。幼い頃熱を出した益田に、母親が歌ってくれた。
「関口さん家でも、そうやってたんですか…?」
「さーて、どうだかなぁ」
「どうなんでしょうね…」
会話にならない会話をして、益田は瞼を閉じる。
本当に子守唄で寝かしつけられる訳では無いが、ふわふわの布団と絶えず与えられるリズムが心地よい。午睡の機会を与えられたと思えば、これはこれで悪くない。
時折あやふやになる歌詞に耳を傾けながら、意識がゆっくりと解けていくのを感じていた。
…おかしい。
益田は目を開けた。どうもおかしい。
なんだか熱っぽい気がする。風邪が悪化したというなら、それは仕方が無いことだ。
だが病の熱は頭が熱かったりするものだが、この熱は胎の底から来ているような気がする。指先がむずむずして落ち着かない。
「…あのう、榎木津さん」
「なんだまだ起きていたのか、早く寝てしまえ」
「ところでさっきの薬は、何に効く薬なんでしょうか」
ああ、と榎木津は顔を上げた。
「熱冷ましも鼻水止めもあるけど、まだマスヤマは熱も鼻水も出てないから止めたんだ」
「そうですか、そりゃあ良かった」
「だから何にでも効きそうな、精がつく薬にしたんだ」
「えっ」
「男の元気が無い時に飲めばたちまち元気になるらしいぞ、良かったな」
「えっ」
それは…どう考えても用途が違うのでは無いだろうか。
第一その宣伝文句は病院と云うより、怪しげな薬局の店頭の張り紙で見かける気がするのだが。精力絶倫、とか云う―――
意識した途端、益田の全身をざわざわと良からぬ震えが駆け抜けた。
「ひえぇ…!」
「なんだマスヤマ、寝ろ!寝ないと効かないぞ!」
「じゃあ寝ません…!ていうか、こんな状態で、寝てられませんよぅ…!」
榎木津の行動は、益田ごときの拙き「予感」など、結局飛び越えてしまうものなのだ。
結果として益田の病状は悪化する事になるのだが、その理由であるとか原因であるとかは、室温に温くなった水差しのみが知っている。
―――
無記名でのリクエスト「益田のご機嫌をとる榎木津」でした。ありがとうございました。
これはただの看病プレイと云うのでは… 正直楽しかったです。
目を閉じている筈なのに、瞼の裏に見慣れた天井が見えるような気分で、益田は自らの目覚めが近いことを知覚した。薄く白を刷いた風景は朝の空気の色だ。同時にしとしとと湿った音を聞き、今朝は雨が降っていることにも気付いた。
雨の朝は厭だ。太陽は隠れていて薄暗いし、じめじめとして湿っぽい。安普請の下宿ではあちらこちらに結露が発生するし、冷えた空気が肌寒くて目を開けるのも億劫だ。まして裸の肩ともなれば尚更―――裸の肩?
益田はぱちりと目を開く。眼前に広がっているのは、古ぼけた天井と破れかけた襖―――ではなく、閉じられた白い瞼と栗色の睫であったので、仰天して飛び上がった。
「わぁ!」
途端質の良いスプリングが益田を跳ね戻し、薄手の掛け物ごと寝台の下に転げ落ちた。どさりという乱暴な音と共に益田の背が床を打つ。慌てて起き上がろうとして立てた膝にも何も纏っていなかったので、益田の動揺は最高潮に達した。
「な、何で僕服着てないんだ!? 下着も、ていうか此処何処、」
床にへたり込んだままで辺りを見渡す。豪奢な調度品の中に様々な衣服が散らばっていたが、部屋の扉から寝台に向かって点々と落ちているのが自分の衣服であるという事実が更に益田を打ちのめした。心細さを誤魔化すように、胸元まで布団を引き寄せている。榎木津が起きていたら、やはりカマであったと大いに哂われそうな格好だ。
そう云えば榎木津だ。認めたくはないが、どうも此処は榎木津の寝室であるらしい。目覚めた瞬間目の当たりにしたものは、矢張り榎木津の寝顔だったようだ。恐る恐る寝台の上を顧み、益田は頭を抱えた。羽枕に顔を埋めてすやすやと眠っている男も、益田と同じく何も着ていない。布団も引き摺り下ろしてしまったので、まさに一糸纏わぬ格好で横たわっているという有様だった。
経験の有無はこの際置いておくとしても、益田とて子どもでは無い。裸の男女が一つ寝床で朝を迎えることが何を意味するかは知っている。ただ、当事者が自分と、しかも榎木津だと云う現実が彼の頭を掻き乱した。
「えっそんな、嘘ッ! なんで」
「…むぅ」
うにゃうにゃと化け猫めいた呻き声を上げて、榎木津が身動ぎをした。寝返りを打ち、仰向けの格好になると、ふうと深く息を吐く。幾分眠りが浅くなったのか、眉間には皺を寄せている。
益田のこめかみを冷や汗が流れた。大変に不味い。何も思い出せない。自分が酒を飲んだのか、そうで無いのかすらも思いつかない。布団から飛び出した裸の爪先を見つめて、益田は只々煩悶していた。自分が何かされたならともかく、何かしでかしてしまったとしたら。頭の中ががんがんと痛んで、雨の音すらも聞こえない。
こう云った状況で、今成すべき事は何か。混乱する頭で思いついた手段は一つしか無かった。きっと男としては最低のやり口だろう。けれど、こうでもしなければ日頃から卑怯で臆病な性格を自称してきた甲斐が無いと云うものだ。自己弁護を完結させ、益田は顔を上げた。
「…逃げよう!」
自分が何も覚えていないのだ。もしかしたら、榎木津も何も覚えていないかも知れない。その場凌ぎとは云え、今はその可能性に賭けるしか無い。益田は薄掛けをかなぐり捨て、這うように衣服を拾い集めた。
そんな益田が動きを止めたのは、背後から榎木津の声がしたからだ。名を呼びつけられたなら、服など着ないで飛び出しただろう。立ち上がってその寝顔を覗き込まずに居られなかったのは、その声が「さむい」と云ったように聞こえた所為だ。
窓硝子を雨が伝い、裸足の爪先で触れる床が冷たい。
益田は薄い布団を拾い上げ、シーツの上に伸びた四肢を隠すようにそっと被せた。ふわりと空気を飲み込んだ上掛けは、ゆっくりと榎木津の身体に落ちる。それでもまだしっかりとした肩が覗いているので、掛け直してやろうと手をかける。
益田にとっては、其れがいけなかった。
途端寝台から手が伸びてきて、益田の手首をがっと掴んだかと思うと、たちまち寝床の中へと引き込んでしまったのだから。
「うわぁ!」
更には力強く抱きすくめられて、一旦落ち着いたはずの心臓が再びばくばくと脈を打つ。おまけに脚まで絡められ、声にならぬ悲鳴が遡った。
「え、榎木津さぁん! 誰と間違えてるんですか、離し」
「うるさい、寒いんだ…」
榎木津はそう呟いて、益田の喉元に頭をひとつ擦り付けると、また寝息を立て始めた。すぅすぅと規則正しい呼吸音が、雨音に混じって益田の耳に届く。肌が触れる箇所から、榎木津の体温がじわじわと益田の中にまで沁みて来た。
榎木津は寒いと云っていた。自分の冷めた体温では、余計に冷たさを感じるだけだろうと思うけれど。
「寝てるからかなぁ…榎木津さん、あったかい…」
冷えた爪先にゆっくりと体温が戻ってくるのを感じ、益田は溜息を落とした。
この薄暗い灰色の空気と、ひやりとした外気と人肌の温もりの落差が、大変に良くない。朝など来なければ良いと、目覚めたくなどないと思ってしまう。状況は依然として切羽詰っていて、何故こんな事になっているのか益田は解らないままなのに。
どうせいつかは目を覚まさなければならないのなら。益田は胸の奥から込み上げてくる感情に従って、目を閉じた。
せめてひと時でも、この雨が止むまでは。
―――
蒼月様リクエスト「肌寒い時に暖めあってみる榎木津と益田」でした。ありがとうございました。
梅雨明けてしまった…お待たせして申し訳ありませんでした。
雨の朝は厭だ。太陽は隠れていて薄暗いし、じめじめとして湿っぽい。安普請の下宿ではあちらこちらに結露が発生するし、冷えた空気が肌寒くて目を開けるのも億劫だ。まして裸の肩ともなれば尚更―――裸の肩?
益田はぱちりと目を開く。眼前に広がっているのは、古ぼけた天井と破れかけた襖―――ではなく、閉じられた白い瞼と栗色の睫であったので、仰天して飛び上がった。
「わぁ!」
途端質の良いスプリングが益田を跳ね戻し、薄手の掛け物ごと寝台の下に転げ落ちた。どさりという乱暴な音と共に益田の背が床を打つ。慌てて起き上がろうとして立てた膝にも何も纏っていなかったので、益田の動揺は最高潮に達した。
「な、何で僕服着てないんだ!? 下着も、ていうか此処何処、」
床にへたり込んだままで辺りを見渡す。豪奢な調度品の中に様々な衣服が散らばっていたが、部屋の扉から寝台に向かって点々と落ちているのが自分の衣服であるという事実が更に益田を打ちのめした。心細さを誤魔化すように、胸元まで布団を引き寄せている。榎木津が起きていたら、やはりカマであったと大いに哂われそうな格好だ。
そう云えば榎木津だ。認めたくはないが、どうも此処は榎木津の寝室であるらしい。目覚めた瞬間目の当たりにしたものは、矢張り榎木津の寝顔だったようだ。恐る恐る寝台の上を顧み、益田は頭を抱えた。羽枕に顔を埋めてすやすやと眠っている男も、益田と同じく何も着ていない。布団も引き摺り下ろしてしまったので、まさに一糸纏わぬ格好で横たわっているという有様だった。
経験の有無はこの際置いておくとしても、益田とて子どもでは無い。裸の男女が一つ寝床で朝を迎えることが何を意味するかは知っている。ただ、当事者が自分と、しかも榎木津だと云う現実が彼の頭を掻き乱した。
「えっそんな、嘘ッ! なんで」
「…むぅ」
うにゃうにゃと化け猫めいた呻き声を上げて、榎木津が身動ぎをした。寝返りを打ち、仰向けの格好になると、ふうと深く息を吐く。幾分眠りが浅くなったのか、眉間には皺を寄せている。
益田のこめかみを冷や汗が流れた。大変に不味い。何も思い出せない。自分が酒を飲んだのか、そうで無いのかすらも思いつかない。布団から飛び出した裸の爪先を見つめて、益田は只々煩悶していた。自分が何かされたならともかく、何かしでかしてしまったとしたら。頭の中ががんがんと痛んで、雨の音すらも聞こえない。
こう云った状況で、今成すべき事は何か。混乱する頭で思いついた手段は一つしか無かった。きっと男としては最低のやり口だろう。けれど、こうでもしなければ日頃から卑怯で臆病な性格を自称してきた甲斐が無いと云うものだ。自己弁護を完結させ、益田は顔を上げた。
「…逃げよう!」
自分が何も覚えていないのだ。もしかしたら、榎木津も何も覚えていないかも知れない。その場凌ぎとは云え、今はその可能性に賭けるしか無い。益田は薄掛けをかなぐり捨て、這うように衣服を拾い集めた。
そんな益田が動きを止めたのは、背後から榎木津の声がしたからだ。名を呼びつけられたなら、服など着ないで飛び出しただろう。立ち上がってその寝顔を覗き込まずに居られなかったのは、その声が「さむい」と云ったように聞こえた所為だ。
窓硝子を雨が伝い、裸足の爪先で触れる床が冷たい。
益田は薄い布団を拾い上げ、シーツの上に伸びた四肢を隠すようにそっと被せた。ふわりと空気を飲み込んだ上掛けは、ゆっくりと榎木津の身体に落ちる。それでもまだしっかりとした肩が覗いているので、掛け直してやろうと手をかける。
益田にとっては、其れがいけなかった。
途端寝台から手が伸びてきて、益田の手首をがっと掴んだかと思うと、たちまち寝床の中へと引き込んでしまったのだから。
「うわぁ!」
更には力強く抱きすくめられて、一旦落ち着いたはずの心臓が再びばくばくと脈を打つ。おまけに脚まで絡められ、声にならぬ悲鳴が遡った。
「え、榎木津さぁん! 誰と間違えてるんですか、離し」
「うるさい、寒いんだ…」
榎木津はそう呟いて、益田の喉元に頭をひとつ擦り付けると、また寝息を立て始めた。すぅすぅと規則正しい呼吸音が、雨音に混じって益田の耳に届く。肌が触れる箇所から、榎木津の体温がじわじわと益田の中にまで沁みて来た。
榎木津は寒いと云っていた。自分の冷めた体温では、余計に冷たさを感じるだけだろうと思うけれど。
「寝てるからかなぁ…榎木津さん、あったかい…」
冷えた爪先にゆっくりと体温が戻ってくるのを感じ、益田は溜息を落とした。
この薄暗い灰色の空気と、ひやりとした外気と人肌の温もりの落差が、大変に良くない。朝など来なければ良いと、目覚めたくなどないと思ってしまう。状況は依然として切羽詰っていて、何故こんな事になっているのか益田は解らないままなのに。
どうせいつかは目を覚まさなければならないのなら。益田は胸の奥から込み上げてくる感情に従って、目を閉じた。
せめてひと時でも、この雨が止むまでは。
―――
蒼月様リクエスト「肌寒い時に暖めあってみる榎木津と益田」でした。ありがとうございました。
梅雨明けてしまった…お待たせして申し訳ありませんでした。