「ひゃあ、暑いなもう、和寅さん、氷水くださぁい!」
むわっとした熱気と共に飛び込んできた益田を見て、寅吉と榎木津は目を丸くした。
ただいま戻りましたの挨拶も無しに入ってきて、当然のように飲み物を要求したからでは無い。
日も暮れかけ、外は涼しさを取り戻しかけているのに、益田と来たら汗みずくであったし、あちこちに草や土などを引っ付けているからだ。
シャツの裾をズボンから引き出してだらしなく扇ぎ薄い腹に風を送る益田の前に、氷を幾つか浮かべた透明なグラスが置かれる。
仰のいて一気にグラスを干す横顔に、呆れたような声がかかった。
「今日の仕事はいつも通りの浮気の調査じゃあ無かったのかね」
冷水を胃に落としこんだ益田は、一息吐いて口元を拭い、ようやく寅吉に向き直った。
「そうそう、毎日暑いのにお盛んで嫌んなっちゃいますよねェ」
「まぁ汗だくなのは判らんでも無いが、泥だらけなのは何なんだい」
そうそう、と益田は軽薄な口調で同意して、胸ポケットに手を突っ込んだ。
手品師めいた手つきで引き出された指先にある何物かが夕陽を浴びて煌めく。寅吉は目を細めた。
「見てくださいよ、綺麗でしょう」
良く見ればそれは、宝飾品、それも指輪だった。ちゃちな鍍金では無く、恐らく内部まで金で出来ている。
高爪には太陽よりもまだ紅く、夕焼けの海より透明な、美しい石が嵌め込まれていた。
「河原で尾行してる時に、調査相手の社長さんが落としていったんです。証拠になるかと思って探して拾っときました」
「だから土まみれなのか」
「もう雑草伸び放題でしたよぅ。やっとこさ見つけて顔を上げたらもう社長さんも2号さんも何処にも居ないし」
「当たり前じゃないか。尾行者を待っててくれる対象が何処に居る」
「いやぁ走り回って探したんですけどもう見つからなくて…参りました。まぁこうして物的証拠も見つかったし今日のところは五分五分ですかね」
けけけと笑いながら、照れ隠しにズボンで指輪を磨いていると、いつの間にか側に立っていた榎木津がひょいと其れを取り上げた。
鳶色の目を細めて、ためつすがめつ指輪を眺めている。
「どうですか榎木津さん」
益田が声をかけると榎木津は振り向き、益田の頭上と指輪とを見比べた。
「径がちょっと小さいでしょう?」
「そうなのかい?私ゃ詳しくないが、女性の指にはちょっと大きいような気もするのだけれど」
「その禿げたおじさんの芋虫みたいな指には入らないだろうなぁ」
第一こんなもんそいつに似合わない、と苦々しげに云う榎木津に苦笑して、益田は続ける。
「多分女への贈り物じゃないかと思うんです。明日奥さんに見せてみて、彼女の指と径が違ってたらクロですね」
得意げに胸を張る益田を見下ろしていた榎木津は、ふと思いついたように骨ばった手を取った。
白黒の弦に慣れ親しんだ指先は、音楽から離れて尚弦の形を覚えているかのように繊細な形をしている。
関節の立った指をじっと見つめられて、益田は振り払う事も思いつかず只呆然としていた。
「…あの、榎木津さん?」
初めての玩具を手にした子どものように、榎木津は益田の指に金の輪を宛がった。
親指から順番に通し力を入れるが関節部分か或いはそれ以前で止まってしまう。
どうにか紅玉が指の根元に収まったのは、4本目に試した薬指だった。
しんと静まり返った室内で、寅吉がやっと口を開く。
「…その2号さんとやらはこんな骨の浮いた手の女性だったのかね、益田君」
「さ、さぁ…手までは調査の範囲じゃ無かったんでちょっと…」
掌を窓に透かせば、沈み行く過程で赤さを増した光に肌が透ける。
幾面にも切り取られたカットに自分が映りこんでいるのが見えて気恥ずかしい。
薬指に嵌っていて、しかも其れをやったのが榎木津だと思うと尚更だ。
やれやれと思いながら、けれど否定できない胸の動悸を隠しつつ、益田は指輪を引き抜いた。
引き抜こうと、した。
「あれ?…あれ?」
「どうしたね」
益田は再び目の前に手をかざす。
繊細な曲線。何処までも透明なルビー。食い込む自分の肉。
「……………抜けない」
数秒の間を置いて、フロア内は火が点いたような大騒ぎを呈した。
「うわ、うわ!本当に抜けない!血が止まる!」
「何をやってるんだねもう、石鹸水!」
「僕は寝る。もう飽きた」
「ちょっとちょっと、榎木津さぁん!」
榎木津が寝室に引っ込んでしまってから夜半まで、榎木津ビルヂングの3階からは止むこと無く男の泣き言が響き続けていたという。
■
さても夜が明けて、薔薇十字探偵社では。
「あの、それでこれが旦那さんが落とされた指輪なのですが…」
「はぁ?」
突如として指輪の食い込んだ男の手の甲を見せ付けられ、訝しげな顔をしている婦人。
消えてしまいたいと云う感情を全身から発散しながらも、仕方なく薄笑いを浮かべている探偵助手。
彼に付き合わされて結局夜を明かす羽目になり、目の下に濃い隈を刻んだ書生。
探偵机に腰掛けた探偵ひとりだけが、げらげら笑ってご満悦だった。
―――
指輪がらみの話書くの多分3回目くらいです…本当榎木津と益田は結婚すればいい。
むわっとした熱気と共に飛び込んできた益田を見て、寅吉と榎木津は目を丸くした。
ただいま戻りましたの挨拶も無しに入ってきて、当然のように飲み物を要求したからでは無い。
日も暮れかけ、外は涼しさを取り戻しかけているのに、益田と来たら汗みずくであったし、あちこちに草や土などを引っ付けているからだ。
シャツの裾をズボンから引き出してだらしなく扇ぎ薄い腹に風を送る益田の前に、氷を幾つか浮かべた透明なグラスが置かれる。
仰のいて一気にグラスを干す横顔に、呆れたような声がかかった。
「今日の仕事はいつも通りの浮気の調査じゃあ無かったのかね」
冷水を胃に落としこんだ益田は、一息吐いて口元を拭い、ようやく寅吉に向き直った。
「そうそう、毎日暑いのにお盛んで嫌んなっちゃいますよねェ」
「まぁ汗だくなのは判らんでも無いが、泥だらけなのは何なんだい」
そうそう、と益田は軽薄な口調で同意して、胸ポケットに手を突っ込んだ。
手品師めいた手つきで引き出された指先にある何物かが夕陽を浴びて煌めく。寅吉は目を細めた。
「見てくださいよ、綺麗でしょう」
良く見ればそれは、宝飾品、それも指輪だった。ちゃちな鍍金では無く、恐らく内部まで金で出来ている。
高爪には太陽よりもまだ紅く、夕焼けの海より透明な、美しい石が嵌め込まれていた。
「河原で尾行してる時に、調査相手の社長さんが落としていったんです。証拠になるかと思って探して拾っときました」
「だから土まみれなのか」
「もう雑草伸び放題でしたよぅ。やっとこさ見つけて顔を上げたらもう社長さんも2号さんも何処にも居ないし」
「当たり前じゃないか。尾行者を待っててくれる対象が何処に居る」
「いやぁ走り回って探したんですけどもう見つからなくて…参りました。まぁこうして物的証拠も見つかったし今日のところは五分五分ですかね」
けけけと笑いながら、照れ隠しにズボンで指輪を磨いていると、いつの間にか側に立っていた榎木津がひょいと其れを取り上げた。
鳶色の目を細めて、ためつすがめつ指輪を眺めている。
「どうですか榎木津さん」
益田が声をかけると榎木津は振り向き、益田の頭上と指輪とを見比べた。
「径がちょっと小さいでしょう?」
「そうなのかい?私ゃ詳しくないが、女性の指にはちょっと大きいような気もするのだけれど」
「その禿げたおじさんの芋虫みたいな指には入らないだろうなぁ」
第一こんなもんそいつに似合わない、と苦々しげに云う榎木津に苦笑して、益田は続ける。
「多分女への贈り物じゃないかと思うんです。明日奥さんに見せてみて、彼女の指と径が違ってたらクロですね」
得意げに胸を張る益田を見下ろしていた榎木津は、ふと思いついたように骨ばった手を取った。
白黒の弦に慣れ親しんだ指先は、音楽から離れて尚弦の形を覚えているかのように繊細な形をしている。
関節の立った指をじっと見つめられて、益田は振り払う事も思いつかず只呆然としていた。
「…あの、榎木津さん?」
初めての玩具を手にした子どものように、榎木津は益田の指に金の輪を宛がった。
親指から順番に通し力を入れるが関節部分か或いはそれ以前で止まってしまう。
どうにか紅玉が指の根元に収まったのは、4本目に試した薬指だった。
しんと静まり返った室内で、寅吉がやっと口を開く。
「…その2号さんとやらはこんな骨の浮いた手の女性だったのかね、益田君」
「さ、さぁ…手までは調査の範囲じゃ無かったんでちょっと…」
掌を窓に透かせば、沈み行く過程で赤さを増した光に肌が透ける。
幾面にも切り取られたカットに自分が映りこんでいるのが見えて気恥ずかしい。
薬指に嵌っていて、しかも其れをやったのが榎木津だと思うと尚更だ。
やれやれと思いながら、けれど否定できない胸の動悸を隠しつつ、益田は指輪を引き抜いた。
引き抜こうと、した。
「あれ?…あれ?」
「どうしたね」
益田は再び目の前に手をかざす。
繊細な曲線。何処までも透明なルビー。食い込む自分の肉。
「……………抜けない」
数秒の間を置いて、フロア内は火が点いたような大騒ぎを呈した。
「うわ、うわ!本当に抜けない!血が止まる!」
「何をやってるんだねもう、石鹸水!」
「僕は寝る。もう飽きた」
「ちょっとちょっと、榎木津さぁん!」
榎木津が寝室に引っ込んでしまってから夜半まで、榎木津ビルヂングの3階からは止むこと無く男の泣き言が響き続けていたという。
■
さても夜が明けて、薔薇十字探偵社では。
「あの、それでこれが旦那さんが落とされた指輪なのですが…」
「はぁ?」
突如として指輪の食い込んだ男の手の甲を見せ付けられ、訝しげな顔をしている婦人。
消えてしまいたいと云う感情を全身から発散しながらも、仕方なく薄笑いを浮かべている探偵助手。
彼に付き合わされて結局夜を明かす羽目になり、目の下に濃い隈を刻んだ書生。
探偵机に腰掛けた探偵ひとりだけが、げらげら笑ってご満悦だった。
―――
指輪がらみの話書くの多分3回目くらいです…本当榎木津と益田は結婚すればいい。
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