目を閉じている筈なのに、瞼の裏に見慣れた天井が見えるような気分で、益田は自らの目覚めが近いことを知覚した。薄く白を刷いた風景は朝の空気の色だ。同時にしとしとと湿った音を聞き、今朝は雨が降っていることにも気付いた。
雨の朝は厭だ。太陽は隠れていて薄暗いし、じめじめとして湿っぽい。安普請の下宿ではあちらこちらに結露が発生するし、冷えた空気が肌寒くて目を開けるのも億劫だ。まして裸の肩ともなれば尚更―――裸の肩?
益田はぱちりと目を開く。眼前に広がっているのは、古ぼけた天井と破れかけた襖―――ではなく、閉じられた白い瞼と栗色の睫であったので、仰天して飛び上がった。
「わぁ!」
途端質の良いスプリングが益田を跳ね戻し、薄手の掛け物ごと寝台の下に転げ落ちた。どさりという乱暴な音と共に益田の背が床を打つ。慌てて起き上がろうとして立てた膝にも何も纏っていなかったので、益田の動揺は最高潮に達した。
「な、何で僕服着てないんだ!? 下着も、ていうか此処何処、」
床にへたり込んだままで辺りを見渡す。豪奢な調度品の中に様々な衣服が散らばっていたが、部屋の扉から寝台に向かって点々と落ちているのが自分の衣服であるという事実が更に益田を打ちのめした。心細さを誤魔化すように、胸元まで布団を引き寄せている。榎木津が起きていたら、やはりカマであったと大いに哂われそうな格好だ。
そう云えば榎木津だ。認めたくはないが、どうも此処は榎木津の寝室であるらしい。目覚めた瞬間目の当たりにしたものは、矢張り榎木津の寝顔だったようだ。恐る恐る寝台の上を顧み、益田は頭を抱えた。羽枕に顔を埋めてすやすやと眠っている男も、益田と同じく何も着ていない。布団も引き摺り下ろしてしまったので、まさに一糸纏わぬ格好で横たわっているという有様だった。
経験の有無はこの際置いておくとしても、益田とて子どもでは無い。裸の男女が一つ寝床で朝を迎えることが何を意味するかは知っている。ただ、当事者が自分と、しかも榎木津だと云う現実が彼の頭を掻き乱した。
「えっそんな、嘘ッ! なんで」
「…むぅ」
うにゃうにゃと化け猫めいた呻き声を上げて、榎木津が身動ぎをした。寝返りを打ち、仰向けの格好になると、ふうと深く息を吐く。幾分眠りが浅くなったのか、眉間には皺を寄せている。
益田のこめかみを冷や汗が流れた。大変に不味い。何も思い出せない。自分が酒を飲んだのか、そうで無いのかすらも思いつかない。布団から飛び出した裸の爪先を見つめて、益田は只々煩悶していた。自分が何かされたならともかく、何かしでかしてしまったとしたら。頭の中ががんがんと痛んで、雨の音すらも聞こえない。
こう云った状況で、今成すべき事は何か。混乱する頭で思いついた手段は一つしか無かった。きっと男としては最低のやり口だろう。けれど、こうでもしなければ日頃から卑怯で臆病な性格を自称してきた甲斐が無いと云うものだ。自己弁護を完結させ、益田は顔を上げた。
「…逃げよう!」
自分が何も覚えていないのだ。もしかしたら、榎木津も何も覚えていないかも知れない。その場凌ぎとは云え、今はその可能性に賭けるしか無い。益田は薄掛けをかなぐり捨て、這うように衣服を拾い集めた。
そんな益田が動きを止めたのは、背後から榎木津の声がしたからだ。名を呼びつけられたなら、服など着ないで飛び出しただろう。立ち上がってその寝顔を覗き込まずに居られなかったのは、その声が「さむい」と云ったように聞こえた所為だ。
窓硝子を雨が伝い、裸足の爪先で触れる床が冷たい。
益田は薄い布団を拾い上げ、シーツの上に伸びた四肢を隠すようにそっと被せた。ふわりと空気を飲み込んだ上掛けは、ゆっくりと榎木津の身体に落ちる。それでもまだしっかりとした肩が覗いているので、掛け直してやろうと手をかける。
益田にとっては、其れがいけなかった。
途端寝台から手が伸びてきて、益田の手首をがっと掴んだかと思うと、たちまち寝床の中へと引き込んでしまったのだから。
「うわぁ!」
更には力強く抱きすくめられて、一旦落ち着いたはずの心臓が再びばくばくと脈を打つ。おまけに脚まで絡められ、声にならぬ悲鳴が遡った。
「え、榎木津さぁん! 誰と間違えてるんですか、離し」
「うるさい、寒いんだ…」
榎木津はそう呟いて、益田の喉元に頭をひとつ擦り付けると、また寝息を立て始めた。すぅすぅと規則正しい呼吸音が、雨音に混じって益田の耳に届く。肌が触れる箇所から、榎木津の体温がじわじわと益田の中にまで沁みて来た。
榎木津は寒いと云っていた。自分の冷めた体温では、余計に冷たさを感じるだけだろうと思うけれど。
「寝てるからかなぁ…榎木津さん、あったかい…」
冷えた爪先にゆっくりと体温が戻ってくるのを感じ、益田は溜息を落とした。
この薄暗い灰色の空気と、ひやりとした外気と人肌の温もりの落差が、大変に良くない。朝など来なければ良いと、目覚めたくなどないと思ってしまう。状況は依然として切羽詰っていて、何故こんな事になっているのか益田は解らないままなのに。
どうせいつかは目を覚まさなければならないのなら。益田は胸の奥から込み上げてくる感情に従って、目を閉じた。
せめてひと時でも、この雨が止むまでは。
―――
蒼月様リクエスト「肌寒い時に暖めあってみる榎木津と益田」でした。ありがとうございました。
梅雨明けてしまった…お待たせして申し訳ありませんでした。
雨の朝は厭だ。太陽は隠れていて薄暗いし、じめじめとして湿っぽい。安普請の下宿ではあちらこちらに結露が発生するし、冷えた空気が肌寒くて目を開けるのも億劫だ。まして裸の肩ともなれば尚更―――裸の肩?
益田はぱちりと目を開く。眼前に広がっているのは、古ぼけた天井と破れかけた襖―――ではなく、閉じられた白い瞼と栗色の睫であったので、仰天して飛び上がった。
「わぁ!」
途端質の良いスプリングが益田を跳ね戻し、薄手の掛け物ごと寝台の下に転げ落ちた。どさりという乱暴な音と共に益田の背が床を打つ。慌てて起き上がろうとして立てた膝にも何も纏っていなかったので、益田の動揺は最高潮に達した。
「な、何で僕服着てないんだ!? 下着も、ていうか此処何処、」
床にへたり込んだままで辺りを見渡す。豪奢な調度品の中に様々な衣服が散らばっていたが、部屋の扉から寝台に向かって点々と落ちているのが自分の衣服であるという事実が更に益田を打ちのめした。心細さを誤魔化すように、胸元まで布団を引き寄せている。榎木津が起きていたら、やはりカマであったと大いに哂われそうな格好だ。
そう云えば榎木津だ。認めたくはないが、どうも此処は榎木津の寝室であるらしい。目覚めた瞬間目の当たりにしたものは、矢張り榎木津の寝顔だったようだ。恐る恐る寝台の上を顧み、益田は頭を抱えた。羽枕に顔を埋めてすやすやと眠っている男も、益田と同じく何も着ていない。布団も引き摺り下ろしてしまったので、まさに一糸纏わぬ格好で横たわっているという有様だった。
経験の有無はこの際置いておくとしても、益田とて子どもでは無い。裸の男女が一つ寝床で朝を迎えることが何を意味するかは知っている。ただ、当事者が自分と、しかも榎木津だと云う現実が彼の頭を掻き乱した。
「えっそんな、嘘ッ! なんで」
「…むぅ」
うにゃうにゃと化け猫めいた呻き声を上げて、榎木津が身動ぎをした。寝返りを打ち、仰向けの格好になると、ふうと深く息を吐く。幾分眠りが浅くなったのか、眉間には皺を寄せている。
益田のこめかみを冷や汗が流れた。大変に不味い。何も思い出せない。自分が酒を飲んだのか、そうで無いのかすらも思いつかない。布団から飛び出した裸の爪先を見つめて、益田は只々煩悶していた。自分が何かされたならともかく、何かしでかしてしまったとしたら。頭の中ががんがんと痛んで、雨の音すらも聞こえない。
こう云った状況で、今成すべき事は何か。混乱する頭で思いついた手段は一つしか無かった。きっと男としては最低のやり口だろう。けれど、こうでもしなければ日頃から卑怯で臆病な性格を自称してきた甲斐が無いと云うものだ。自己弁護を完結させ、益田は顔を上げた。
「…逃げよう!」
自分が何も覚えていないのだ。もしかしたら、榎木津も何も覚えていないかも知れない。その場凌ぎとは云え、今はその可能性に賭けるしか無い。益田は薄掛けをかなぐり捨て、這うように衣服を拾い集めた。
そんな益田が動きを止めたのは、背後から榎木津の声がしたからだ。名を呼びつけられたなら、服など着ないで飛び出しただろう。立ち上がってその寝顔を覗き込まずに居られなかったのは、その声が「さむい」と云ったように聞こえた所為だ。
窓硝子を雨が伝い、裸足の爪先で触れる床が冷たい。
益田は薄い布団を拾い上げ、シーツの上に伸びた四肢を隠すようにそっと被せた。ふわりと空気を飲み込んだ上掛けは、ゆっくりと榎木津の身体に落ちる。それでもまだしっかりとした肩が覗いているので、掛け直してやろうと手をかける。
益田にとっては、其れがいけなかった。
途端寝台から手が伸びてきて、益田の手首をがっと掴んだかと思うと、たちまち寝床の中へと引き込んでしまったのだから。
「うわぁ!」
更には力強く抱きすくめられて、一旦落ち着いたはずの心臓が再びばくばくと脈を打つ。おまけに脚まで絡められ、声にならぬ悲鳴が遡った。
「え、榎木津さぁん! 誰と間違えてるんですか、離し」
「うるさい、寒いんだ…」
榎木津はそう呟いて、益田の喉元に頭をひとつ擦り付けると、また寝息を立て始めた。すぅすぅと規則正しい呼吸音が、雨音に混じって益田の耳に届く。肌が触れる箇所から、榎木津の体温がじわじわと益田の中にまで沁みて来た。
榎木津は寒いと云っていた。自分の冷めた体温では、余計に冷たさを感じるだけだろうと思うけれど。
「寝てるからかなぁ…榎木津さん、あったかい…」
冷えた爪先にゆっくりと体温が戻ってくるのを感じ、益田は溜息を落とした。
この薄暗い灰色の空気と、ひやりとした外気と人肌の温もりの落差が、大変に良くない。朝など来なければ良いと、目覚めたくなどないと思ってしまう。状況は依然として切羽詰っていて、何故こんな事になっているのか益田は解らないままなのに。
どうせいつかは目を覚まさなければならないのなら。益田は胸の奥から込み上げてくる感情に従って、目を閉じた。
せめてひと時でも、この雨が止むまでは。
―――
蒼月様リクエスト「肌寒い時に暖めあってみる榎木津と益田」でした。ありがとうございました。
梅雨明けてしまった…お待たせして申し訳ありませんでした。
PR
トラックバック
トラックバックURL: