榎木津が目を覚ました時、室内は眩しい程の橙に染まっていた。
寝乱れた掛け布団、シーツ、レースのカーテン。一際朱の強い其れに伸ばした爪先もやはり紅い。
ぼんやりと寝ぼけた頭で室内を見渡し、誰に向けてでも無く薄い唇が開かれた。
「…今、何時だ…?」
探偵が起きた時が朝だ。そうは云うものの、今が朝か夕方なのかも判らなくては困る。夕方なら夕食が直ぐだし、明け方なら食事が無いのでもう一回寝るまでだ。榎木津は立ち上がった。
裸足で触れた床は硬く冷たく、肩の辺りまで肌寒さが這い上がってくる。
椅子に引っ掛けてあった適当な羽織り物を纏うと、事務所に繋がる扉を開けた。
遮光の無いフロア内もまた橙色。榎木津は掛け時計を見上げる。4時25分。―――微妙な時間だ。文字盤から目を逸らした榎木津は、ふとソファの上に目を留めた。毛布を頭まですぽりと被った「何か」が、長椅子の上に転がっている。裾から飛び出している黒い靴下を履いた頼りない足首には見覚えがあった。
「マスヤマか」
こいつがこんな所で転がっているということは、朝なんだろうな。腰に手を当てて、榎木津はなんとなく毛布の塊を眺めた。毛布は中身の呼吸に合わせてゆっくりと膨らんでは萎む。小心なこの男は、カーテンの無い事務所内で寝ていると朝日が眩しくて目が覚めてしまうと云っていた気がする。人工的な繭を作って隠れるようにして寝ているのはその所為だろう。
榎木津はついと視線を外し、長椅子を避けてぺたぺたと歩いた。精々寝ていろと思った。
自分では無い誰かが掛けた内鍵を外すと、榎木津は金文字に彩られた扉を抜ける。からんからんと鐘の音が、朝の清浄な空気の中をゆっくりと渡って行った。
外はやはりひんやりと寒い。足の裏が直接コンクリートに触っているのも一因か。
けれど高所から見渡す光景に広がる橙色の見事な天蓋を見て、榎木津は寒さを忘れた。背中側の空はまだ闇が蟠っているのに、正面の空は燃えているようなのも不思議だ。
屋上をぐるりと取り巻く鉄柵に上体を預け、榎木津はぼんやりと其れを眺める。
相反する2色を白い地肌の上に乗せた雲が浮かんでいるのを見ていると、背後で鉄の扉が開閉するがこん、という音がした。
「榎木津さぁん」
振り向くと、其処には彼の下僕が立っていた。
「吃驚しましたよもう、早朝にドア鐘の音がするんですもん。泥棒かと思って。そしたら榎木津さんの襦袢がひらひら上がっていくのが見えたから」
益田はそう云うと、乗馬鞭の柄をズボンのポケットに突っ込む。さっきまで寝ていたのは本当らしく、羽織った黒いジャケットも何処か無造作に思える。
じゃあ僕ぁこれで、と頭を下げつつ踵を返した益田の背中目掛けて、張りのある声が飛んだ。
「動くな、益山!」
「うぇっ!?」
びくりと肩を竦めた益田は、声がした方に振り返る。柵に身を持たせ掛けて、榎木津が哂っている。
「其処は昨日と今日の境目だぞ」
そう云われて益田が見上げると、視界一杯に広がる空は紅と濃紺のグラデーション。大きな雲が形と色を変えながらゆっくりと彼の頭上を流れていく。
昇り始めた朝日を背負った榎木津は下穿きと緋色の襦袢しか身につけていなかったが、益田は寒そうだなぁと思う以前に圧倒されてしまう。吹き抜ける生まれたての風が薄手の生地をふわふわと躍らせて、何だか荘厳なものを見ているような気分にさせられる。
探偵が起きた時が朝だ――あながち嘘ではないかもしれないと益田は思う。
歩を進めて、榎木津に倣い鉄柵に肘を預けてきた。
「此処が『今日』なんですねぇ」
「うん、まだ誰も今日が来た事を知ら、な、」
榎木津が盛大なくしゃみをした。
驚いた雀たちがばさばさと飛び去っていく。
「ほらぁ寒いんじゃないですかぁ」
益田は慌しく自らの上着を脱いだ。
其れを榎木津の肩にかけようとして、それから少し逡巡するように眉を顰めた。
「何してる」
「あっごめんなさい、その、何か勿体無くてですね」
怪訝そうに歪んだ濃い眉の下にある鳶色の瞳は、太陽を映して赤みが強い。化生めいていると云っては感じが悪いが、とにかくこの世の者では無いのではとすら思える。
纏った襦袢の緋は、朝焼けよりもまだ紅い、夕焼け空の色。無粋な黒で隠すのは憚られる。
益田はそんな言葉を全て綯い交ぜにして、へらりと笑って云った。
「貴方が朝を連れてきたみたいに見えたもので」
そうしてやっと掛けられた上掛けはそれなりに暖かく。けれど榎木津は何も云わず、頭上から覆いかぶさってくる朝を見上げている。
―――
益榎っぽいの書きたいなーと思って。結局いつも通り。
タイトルが夕焼けなのに朝の話ですみません。
寝乱れた掛け布団、シーツ、レースのカーテン。一際朱の強い其れに伸ばした爪先もやはり紅い。
ぼんやりと寝ぼけた頭で室内を見渡し、誰に向けてでも無く薄い唇が開かれた。
「…今、何時だ…?」
探偵が起きた時が朝だ。そうは云うものの、今が朝か夕方なのかも判らなくては困る。夕方なら夕食が直ぐだし、明け方なら食事が無いのでもう一回寝るまでだ。榎木津は立ち上がった。
裸足で触れた床は硬く冷たく、肩の辺りまで肌寒さが這い上がってくる。
椅子に引っ掛けてあった適当な羽織り物を纏うと、事務所に繋がる扉を開けた。
遮光の無いフロア内もまた橙色。榎木津は掛け時計を見上げる。4時25分。―――微妙な時間だ。文字盤から目を逸らした榎木津は、ふとソファの上に目を留めた。毛布を頭まですぽりと被った「何か」が、長椅子の上に転がっている。裾から飛び出している黒い靴下を履いた頼りない足首には見覚えがあった。
「マスヤマか」
こいつがこんな所で転がっているということは、朝なんだろうな。腰に手を当てて、榎木津はなんとなく毛布の塊を眺めた。毛布は中身の呼吸に合わせてゆっくりと膨らんでは萎む。小心なこの男は、カーテンの無い事務所内で寝ていると朝日が眩しくて目が覚めてしまうと云っていた気がする。人工的な繭を作って隠れるようにして寝ているのはその所為だろう。
榎木津はついと視線を外し、長椅子を避けてぺたぺたと歩いた。精々寝ていろと思った。
自分では無い誰かが掛けた内鍵を外すと、榎木津は金文字に彩られた扉を抜ける。からんからんと鐘の音が、朝の清浄な空気の中をゆっくりと渡って行った。
外はやはりひんやりと寒い。足の裏が直接コンクリートに触っているのも一因か。
けれど高所から見渡す光景に広がる橙色の見事な天蓋を見て、榎木津は寒さを忘れた。背中側の空はまだ闇が蟠っているのに、正面の空は燃えているようなのも不思議だ。
屋上をぐるりと取り巻く鉄柵に上体を預け、榎木津はぼんやりと其れを眺める。
相反する2色を白い地肌の上に乗せた雲が浮かんでいるのを見ていると、背後で鉄の扉が開閉するがこん、という音がした。
「榎木津さぁん」
振り向くと、其処には彼の下僕が立っていた。
「吃驚しましたよもう、早朝にドア鐘の音がするんですもん。泥棒かと思って。そしたら榎木津さんの襦袢がひらひら上がっていくのが見えたから」
益田はそう云うと、乗馬鞭の柄をズボンのポケットに突っ込む。さっきまで寝ていたのは本当らしく、羽織った黒いジャケットも何処か無造作に思える。
じゃあ僕ぁこれで、と頭を下げつつ踵を返した益田の背中目掛けて、張りのある声が飛んだ。
「動くな、益山!」
「うぇっ!?」
びくりと肩を竦めた益田は、声がした方に振り返る。柵に身を持たせ掛けて、榎木津が哂っている。
「其処は昨日と今日の境目だぞ」
そう云われて益田が見上げると、視界一杯に広がる空は紅と濃紺のグラデーション。大きな雲が形と色を変えながらゆっくりと彼の頭上を流れていく。
昇り始めた朝日を背負った榎木津は下穿きと緋色の襦袢しか身につけていなかったが、益田は寒そうだなぁと思う以前に圧倒されてしまう。吹き抜ける生まれたての風が薄手の生地をふわふわと躍らせて、何だか荘厳なものを見ているような気分にさせられる。
探偵が起きた時が朝だ――あながち嘘ではないかもしれないと益田は思う。
歩を進めて、榎木津に倣い鉄柵に肘を預けてきた。
「此処が『今日』なんですねぇ」
「うん、まだ誰も今日が来た事を知ら、な、」
榎木津が盛大なくしゃみをした。
驚いた雀たちがばさばさと飛び去っていく。
「ほらぁ寒いんじゃないですかぁ」
益田は慌しく自らの上着を脱いだ。
其れを榎木津の肩にかけようとして、それから少し逡巡するように眉を顰めた。
「何してる」
「あっごめんなさい、その、何か勿体無くてですね」
怪訝そうに歪んだ濃い眉の下にある鳶色の瞳は、太陽を映して赤みが強い。化生めいていると云っては感じが悪いが、とにかくこの世の者では無いのではとすら思える。
纏った襦袢の緋は、朝焼けよりもまだ紅い、夕焼け空の色。無粋な黒で隠すのは憚られる。
益田はそんな言葉を全て綯い交ぜにして、へらりと笑って云った。
「貴方が朝を連れてきたみたいに見えたもので」
そうしてやっと掛けられた上掛けはそれなりに暖かく。けれど榎木津は何も云わず、頭上から覆いかぶさってくる朝を見上げている。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
―――
益榎っぽいの書きたいなーと思って。結局いつも通り。
タイトルが夕焼けなのに朝の話ですみません。
PR
榎木津×益田の性描写を含み、榎木津が女装しており、挙句厭/な/シリーズのパロディです。
閲覧の際は以上の内容を十分にご確認の上、大丈夫かどうか判断の上お読みくださいませ。
閲覧の際は以上の内容を十分にご確認の上、大丈夫かどうか判断の上お読みくださいませ。
かんかんと照りつける日差し。真っ青な空に盛り上がった入道雲。神保町にも夏が来た。
薔薇十字探偵社にはこの時を待っていた設備が幾つか運び込まれる。
一つはそよそよと室内の空気を掻き混ぜる扇風機。もう一つは、寅吉が額に汗してハンドルを回している氷削機。
向こう側が透けて見える透明な氷は、がりがりと音を立てながら削れて下に置かれた容器に積もっていく。
柔らかな氷山はシロップをかけられて僅かに崩れ、それでも白い冷気を漂わせながら運ばれた。
「へいお待ち。先生はイチゴ、益田君はメロンだったね」
「有難うございます、夏は氷ですよねぇ」
「わーい」
子どものように手を叩く榎木津の額にも、少々汗が滲んでいる。
長いスプーンを表面に突き立てると、色のついた氷がほろりと崩れた。
口に入れると甘さと共に新鮮な冷たさが全身を駆け抜ける。
「つめたっ」
「うははは、甘いなぁ。冷たいなぁ。氷は実に偉い」
良く判らない褒め言葉を述べながら、榎木津は凄い速度で氷を突き崩していく。
益田もつられてさくさくと氷を口に運び、時折鋭い痛みがこめかみを突き抜けた。
たちまち硝子の器は空になり、薄まった蜜が僅かに底に溜まっている。
「―――あっしまった」
「なんだマスヤマ、お代わりか。和寅に云え。作ってくれるかは知らないけど」
「違いますよ、これから依頼人と約束があるんですけど、しまったなぁ。舌が緑になってるかな」
益田は大きく口を開け、榎木津は身を乗り出した。
「もっと舌を出せ。良く見えない」
「ふぁい」
抵抗も無く、益田はべぇと舌を出した。
濃い桃色の肉が人工的な緑に染まっている。かき氷を食べました、と云わんばかりの色だ。
イチゴ味を食べた榎木津の舌には、目立つ色は付いていない。
榎木津はじっと其れを眺め、おもむろに自分も舌を伸ばし、緑色の部分に這わせた。
「ヒッ!」
反射的に益田の舌が引っ込む。
「ははは、冷たいな!」
「止めてくださいようもう、吃驚するでしょう!舌噛んで死んだらどうするんですか」
「顔が赤いぞマスカマめ。イチゴのシロップだってこんなに赤くない!真っ赤山だな」
上機嫌な榎木津の高笑いと、益田の悲痛な訴えと、蝉時雨。
其れらを背中で聞きながら、台所の寅吉が深々と溜息を吐いた。
「イチゴでもメロンでも何でも良いがよそでやって貰えないかなぁ2人共。こっちまで暑くってしょうがねぇや」
―――
熱いのは気温だけにしてほしい榎木津と益田。
薔薇十字探偵社にはこの時を待っていた設備が幾つか運び込まれる。
一つはそよそよと室内の空気を掻き混ぜる扇風機。もう一つは、寅吉が額に汗してハンドルを回している氷削機。
向こう側が透けて見える透明な氷は、がりがりと音を立てながら削れて下に置かれた容器に積もっていく。
柔らかな氷山はシロップをかけられて僅かに崩れ、それでも白い冷気を漂わせながら運ばれた。
「へいお待ち。先生はイチゴ、益田君はメロンだったね」
「有難うございます、夏は氷ですよねぇ」
「わーい」
子どものように手を叩く榎木津の額にも、少々汗が滲んでいる。
長いスプーンを表面に突き立てると、色のついた氷がほろりと崩れた。
口に入れると甘さと共に新鮮な冷たさが全身を駆け抜ける。
「つめたっ」
「うははは、甘いなぁ。冷たいなぁ。氷は実に偉い」
良く判らない褒め言葉を述べながら、榎木津は凄い速度で氷を突き崩していく。
益田もつられてさくさくと氷を口に運び、時折鋭い痛みがこめかみを突き抜けた。
たちまち硝子の器は空になり、薄まった蜜が僅かに底に溜まっている。
「―――あっしまった」
「なんだマスヤマ、お代わりか。和寅に云え。作ってくれるかは知らないけど」
「違いますよ、これから依頼人と約束があるんですけど、しまったなぁ。舌が緑になってるかな」
益田は大きく口を開け、榎木津は身を乗り出した。
「もっと舌を出せ。良く見えない」
「ふぁい」
抵抗も無く、益田はべぇと舌を出した。
濃い桃色の肉が人工的な緑に染まっている。かき氷を食べました、と云わんばかりの色だ。
イチゴ味を食べた榎木津の舌には、目立つ色は付いていない。
榎木津はじっと其れを眺め、おもむろに自分も舌を伸ばし、緑色の部分に這わせた。
「ヒッ!」
反射的に益田の舌が引っ込む。
「ははは、冷たいな!」
「止めてくださいようもう、吃驚するでしょう!舌噛んで死んだらどうするんですか」
「顔が赤いぞマスカマめ。イチゴのシロップだってこんなに赤くない!真っ赤山だな」
上機嫌な榎木津の高笑いと、益田の悲痛な訴えと、蝉時雨。
其れらを背中で聞きながら、台所の寅吉が深々と溜息を吐いた。
「イチゴでもメロンでも何でも良いがよそでやって貰えないかなぁ2人共。こっちまで暑くってしょうがねぇや」
―――
熱いのは気温だけにしてほしい榎木津と益田。
積み上げられた古書の質感も手伝ってか、京極堂の座敷に敷かれた畳は何処となく褪せた色をしているように見える。
い草の色が僅かな時間で抜ける事が無いように、この部屋の光景もそうそう劇的に変わるものでは無い。中禅寺がさも不機嫌そうな渋面で本を読み、客人、或いは単に溜まりに来ているだけの誰かが卓の一辺を埋めている。今日も多分に漏れず、と云った所か。
古書の匂いに包まれて眠る生き物は2つ。中禅寺の膝で丸くなっている飼い猫と、『客人』だ。座布団に収まるはずもない2本の足が、畳の上に投げ出されていた。障子の影に隠れるように横たわっているが、ゆるく握った拳だけが日光を浴びてじりじりと温まっている。鼻梁に落ちた細い髪が寝息に合わせてふらふらと揺れているのを見て、中禅寺は苦笑した。
そして例によって、縁側を渡る足音がきしきしと近づいてくる。彼を探しに来たのだろう。開かれた障子は天蓋を払うように影を失わせたが、午睡を覚ますには十分では無かったらしい。白と黒で占められた世界に色が戻った。
灰の着流し、黒く艶を帯びた前髪、栗色の髪。ここ数ヶ月で良く見られるようになった取り合わせだ。珍しくも無い。
だから、険のある視線の先で顔色も変えずただ眠っているのが――黒髪の青年であっても、さしたる問題では無いだろう。
「――問題だッ!」
冷めた茶を飲み干した榎木津が、肺の空気を全て吐き出すようにして叫んだ。手元にあった筈の湯飲みが空になっているのを見下ろし、中禅寺が業とらしく首を振る。鳶色の瞳がぎっとそれを睨んだ。漆黒の眼は慣れたもので、のらりくらりと受け止める。
「ずるいぞ、京極堂!」
「何が」
榎木津は視線を逸らさず、中禅寺の膝の辺りにそっと手を伸ばした。中禅寺も逃げるでもなく指先の行方を見守っている。
逃げたのは、膝に乗っていた石榴だ。深い寝息を立てていたはずが敏感に顔を上げ、榎木津の指を全身でひらりと避け、座敷を出て行ってしまった。胡坐をかいている足の間が猫の形に凹んでいる。榎木津は音も立てずに歩き去った姿を名残惜しげに見送り、そして室内に視線を戻した。端正な顔立ちだが唇を尖らせたりするので、大きくなりすぎた子どものように見える。
益田は両足を畳の上に伸べてだらりと眠っており、膝の上でころころと姿勢を変える猫の姿とはえらい違いだ。呼吸は深く、当然榎木津の存在にも気付いていない。
榎木津は苛々とした様子で益田の薄い瞼を見やる。彼の寝顔を見るのは初めてでは無いが、大概が書類の上にインキを滲ませた状態でうつらうつらしているか、ソファの上で膝を折って腹を庇うような姿勢を取っている。
薄い唇を僅かに開いて、胸を上下させている。
神をほったらかしにしてあろうことか京極堂に居た事よりも、下僕の分際で榎木津の特等席を奪って安らかに昼寝を決め込んでいる事よりも、痩せた身体を横たえて無防備な寝顔を晒している場所が白い寝台の上で無いという事実に、何だか妙に腹が立つ。
「あれは、僕と一緒に寝た事が無いのに」
「…どっちが?」
「どっちも!」
からかいを含んだ中禅寺の問いに、榎木津が噛み付いた。倒れている益田が僅かに身じろぐ。痩せた指が「静かに」と仕草で示すと、榎木津はついと視線を流した。低く笑う気配がする。
「安心出来る所で無いと熟睡しないのは、猫も人も同じ事だ」
「僕ぁ何処でだって寝られる」
「榎さんなら走ってる車の屋根の上でだって寝られるだろうが、普通の人間はそうは行かない」
「僕の寝台は車の屋根の上と一緒か」
ともすればあけすけとも云える榎木津の言は、頁が捲れる乾いた音に送られた。開けっ放しの障子の隙間を抜けて、庭から風が吹き込んでくる。榎木津も横になりたかったが、山と積まれた本と益田の身体が邪魔で足を延ばすのが精々だ。
ごそごそと尻の座りの良い場所を探す榎木津を、中禅寺が横目で見ている。
「取って食われると思ったらそりゃあ逃げるさ。そんなのは猫や、益田君に限ったことじゃあない」
「マスヤマなんか煮ても焼いてもおいしくないよ。味噌で煮ても駄目だし、煮てる途中に逃げそうだ。そんな事まで云われないと判らないほど馬鹿なのかなぁ、こいつ」
「まぁ其処が猫と人との違いだよ」
吹き込む風は秋の気配を帯びて、僅かに肌寒い。何も掛けずにそのまま転寝出来る季節も間もなく終わるだろう。
畳の目に詰まった石榴の毛を見つけた榎木津が、其れを穿り出そうとしている。かりかりと爪を鳴らす仕草は余程猫に似ていて、中禅寺は苦笑した。
「益田君もまさか自分が土鍋で煮込まれるなんて思っていないでしょう。それ程彼は馬鹿じゃない」
「馬鹿だ!逃げる度に叱っているのに覚えないんだぞ。馬鹿の耳に神の啓示だ」
「その程度には馬鹿になってしまった、という事かな」
彼の優先順位はお前から見れば「馬鹿のすること」なんだろう?
――とでも云いたげに中禅寺は口元を歪めた。
さも楽しそうに哂っている、と云う事を知らない者が見れば、枯れ木に開いた裂け目のように思える。
生憎表情に込められた意を知ってしまった榎木津は濃い眉を顰めると、益田の寝顔に視線を落とした。
仰向けの頭部からは前髪がばらりと落ちて、額がむき出しになっている。薄い眉からも唇からも力が抜けて、あるべき場所に収まっている、という印象だ。不満を呟いたり泣いてみせたりする時には、思いの外良く動く眉であるのに。
此処が京極堂の座敷で無かったら。こいつをこのまま折り詰めにして、自分の寝床に持ち帰ったとしたら、どんなにか胸がすく事だろう。
けれど、きっと其れはかなわない。
榎木津の価値観では理解できないが、恐らく自分が彼にとっての神で、彼が自分の下僕である限り。
「…不愉快だッ!」
いつもの調子で畳に横たわろうとしたのがいけなかった。
倒れこんだ榎木津の背が本の山にぶつかり、本は文字通り雪崩となって滑るように崩れた。傾れた背表紙が通し番号順に落ちて行く。無防備に眠っている、益田の横顔に。
「あ」
榎木津はひらと身を起こし、中禅寺は仏頂面を歪めて卓の向こうを覗き込んだ。
幸いにも分厚い角が益田を痛めつけることは無かったものの、盛大な音を立てて目の前に落ちたのは確かだ。紙の束とも思えぬ重い音。上半身が反射的に跳ね起きた。
長い前髪がばさりとだらしなく目の前にかかっていて、隙間から覗く表情も同様にだらしない。元々大きくは無い眼は益々細く、ぼんやりとして、中空を見つめている。
無数の古書に囲まれた座敷、灰の着流し、栗色の瞳。
益田はその全てを視界に収めながら、まだ夢を見ているような口調で呟いた。
「――えのきづさんだ」
途端大きな瞳の虹彩が揺れ、古本屋が肩を竦める。
嗚呼本当に不愉快だ。
結局この祓い屋の目論見通りになってしまっている。
「こういうのも刷り込みと云うのかなぁ」
「…ふん」
寝ぼけた瞳は何事も無かったかのように中禅寺に向き直り、どうも寝入っちゃってすみません、と頭を下げて見せた。
―――
真宏様リクエスト「益田の話をする榎木津と中禅寺」でした。ありがとうございました。
お待たせして申し訳ありません。なんかナチュラルに中禅寺が2名の関係を知っているあたりご都合感が凄いですがそこはそれということで…
い草の色が僅かな時間で抜ける事が無いように、この部屋の光景もそうそう劇的に変わるものでは無い。中禅寺がさも不機嫌そうな渋面で本を読み、客人、或いは単に溜まりに来ているだけの誰かが卓の一辺を埋めている。今日も多分に漏れず、と云った所か。
古書の匂いに包まれて眠る生き物は2つ。中禅寺の膝で丸くなっている飼い猫と、『客人』だ。座布団に収まるはずもない2本の足が、畳の上に投げ出されていた。障子の影に隠れるように横たわっているが、ゆるく握った拳だけが日光を浴びてじりじりと温まっている。鼻梁に落ちた細い髪が寝息に合わせてふらふらと揺れているのを見て、中禅寺は苦笑した。
そして例によって、縁側を渡る足音がきしきしと近づいてくる。彼を探しに来たのだろう。開かれた障子は天蓋を払うように影を失わせたが、午睡を覚ますには十分では無かったらしい。白と黒で占められた世界に色が戻った。
灰の着流し、黒く艶を帯びた前髪、栗色の髪。ここ数ヶ月で良く見られるようになった取り合わせだ。珍しくも無い。
だから、険のある視線の先で顔色も変えずただ眠っているのが――黒髪の青年であっても、さしたる問題では無いだろう。
「――問題だッ!」
冷めた茶を飲み干した榎木津が、肺の空気を全て吐き出すようにして叫んだ。手元にあった筈の湯飲みが空になっているのを見下ろし、中禅寺が業とらしく首を振る。鳶色の瞳がぎっとそれを睨んだ。漆黒の眼は慣れたもので、のらりくらりと受け止める。
「ずるいぞ、京極堂!」
「何が」
榎木津は視線を逸らさず、中禅寺の膝の辺りにそっと手を伸ばした。中禅寺も逃げるでもなく指先の行方を見守っている。
逃げたのは、膝に乗っていた石榴だ。深い寝息を立てていたはずが敏感に顔を上げ、榎木津の指を全身でひらりと避け、座敷を出て行ってしまった。胡坐をかいている足の間が猫の形に凹んでいる。榎木津は音も立てずに歩き去った姿を名残惜しげに見送り、そして室内に視線を戻した。端正な顔立ちだが唇を尖らせたりするので、大きくなりすぎた子どものように見える。
益田は両足を畳の上に伸べてだらりと眠っており、膝の上でころころと姿勢を変える猫の姿とはえらい違いだ。呼吸は深く、当然榎木津の存在にも気付いていない。
榎木津は苛々とした様子で益田の薄い瞼を見やる。彼の寝顔を見るのは初めてでは無いが、大概が書類の上にインキを滲ませた状態でうつらうつらしているか、ソファの上で膝を折って腹を庇うような姿勢を取っている。
薄い唇を僅かに開いて、胸を上下させている。
神をほったらかしにしてあろうことか京極堂に居た事よりも、下僕の分際で榎木津の特等席を奪って安らかに昼寝を決め込んでいる事よりも、痩せた身体を横たえて無防備な寝顔を晒している場所が白い寝台の上で無いという事実に、何だか妙に腹が立つ。
「あれは、僕と一緒に寝た事が無いのに」
「…どっちが?」
「どっちも!」
からかいを含んだ中禅寺の問いに、榎木津が噛み付いた。倒れている益田が僅かに身じろぐ。痩せた指が「静かに」と仕草で示すと、榎木津はついと視線を流した。低く笑う気配がする。
「安心出来る所で無いと熟睡しないのは、猫も人も同じ事だ」
「僕ぁ何処でだって寝られる」
「榎さんなら走ってる車の屋根の上でだって寝られるだろうが、普通の人間はそうは行かない」
「僕の寝台は車の屋根の上と一緒か」
ともすればあけすけとも云える榎木津の言は、頁が捲れる乾いた音に送られた。開けっ放しの障子の隙間を抜けて、庭から風が吹き込んでくる。榎木津も横になりたかったが、山と積まれた本と益田の身体が邪魔で足を延ばすのが精々だ。
ごそごそと尻の座りの良い場所を探す榎木津を、中禅寺が横目で見ている。
「取って食われると思ったらそりゃあ逃げるさ。そんなのは猫や、益田君に限ったことじゃあない」
「マスヤマなんか煮ても焼いてもおいしくないよ。味噌で煮ても駄目だし、煮てる途中に逃げそうだ。そんな事まで云われないと判らないほど馬鹿なのかなぁ、こいつ」
「まぁ其処が猫と人との違いだよ」
吹き込む風は秋の気配を帯びて、僅かに肌寒い。何も掛けずにそのまま転寝出来る季節も間もなく終わるだろう。
畳の目に詰まった石榴の毛を見つけた榎木津が、其れを穿り出そうとしている。かりかりと爪を鳴らす仕草は余程猫に似ていて、中禅寺は苦笑した。
「益田君もまさか自分が土鍋で煮込まれるなんて思っていないでしょう。それ程彼は馬鹿じゃない」
「馬鹿だ!逃げる度に叱っているのに覚えないんだぞ。馬鹿の耳に神の啓示だ」
「その程度には馬鹿になってしまった、という事かな」
彼の優先順位はお前から見れば「馬鹿のすること」なんだろう?
――とでも云いたげに中禅寺は口元を歪めた。
さも楽しそうに哂っている、と云う事を知らない者が見れば、枯れ木に開いた裂け目のように思える。
生憎表情に込められた意を知ってしまった榎木津は濃い眉を顰めると、益田の寝顔に視線を落とした。
仰向けの頭部からは前髪がばらりと落ちて、額がむき出しになっている。薄い眉からも唇からも力が抜けて、あるべき場所に収まっている、という印象だ。不満を呟いたり泣いてみせたりする時には、思いの外良く動く眉であるのに。
此処が京極堂の座敷で無かったら。こいつをこのまま折り詰めにして、自分の寝床に持ち帰ったとしたら、どんなにか胸がすく事だろう。
けれど、きっと其れはかなわない。
榎木津の価値観では理解できないが、恐らく自分が彼にとっての神で、彼が自分の下僕である限り。
「…不愉快だッ!」
いつもの調子で畳に横たわろうとしたのがいけなかった。
倒れこんだ榎木津の背が本の山にぶつかり、本は文字通り雪崩となって滑るように崩れた。傾れた背表紙が通し番号順に落ちて行く。無防備に眠っている、益田の横顔に。
「あ」
榎木津はひらと身を起こし、中禅寺は仏頂面を歪めて卓の向こうを覗き込んだ。
幸いにも分厚い角が益田を痛めつけることは無かったものの、盛大な音を立てて目の前に落ちたのは確かだ。紙の束とも思えぬ重い音。上半身が反射的に跳ね起きた。
長い前髪がばさりとだらしなく目の前にかかっていて、隙間から覗く表情も同様にだらしない。元々大きくは無い眼は益々細く、ぼんやりとして、中空を見つめている。
無数の古書に囲まれた座敷、灰の着流し、栗色の瞳。
益田はその全てを視界に収めながら、まだ夢を見ているような口調で呟いた。
「――えのきづさんだ」
途端大きな瞳の虹彩が揺れ、古本屋が肩を竦める。
嗚呼本当に不愉快だ。
結局この祓い屋の目論見通りになってしまっている。
「こういうのも刷り込みと云うのかなぁ」
「…ふん」
寝ぼけた瞳は何事も無かったかのように中禅寺に向き直り、どうも寝入っちゃってすみません、と頭を下げて見せた。
―――
真宏様リクエスト「益田の話をする榎木津と中禅寺」でした。ありがとうございました。
お待たせして申し訳ありません。なんかナチュラルに中禅寺が2名の関係を知っているあたりご都合感が凄いですがそこはそれということで…
目の前に座っている老紳士が薔薇十字探偵社に仕事を持ち込んだのは、2ヶ月ほど前の事だった。
榎木津家経由で探偵社の話を聞いたらしい彼は、当初榎木津礼二郎本人が仕事を請けなかった事に渋面を見せたが、益田の仕事ぶりには概ね満足したようだ。苦労して捕らえたカナリアは、銀の鳥篭に入れられて歌っている。
かんかんに照り付ける太陽と熱された外気から、高台に建つ白亜の館は隔絶されている。庭に植えられた緑が直射日光を適度に遮り、大きな窓から潮風が吹き込んでくる。こんな別荘を幾つも持てるほど裕福な客を抱えられる職場環境に感謝して、益田は冷茶をひとくち啜った。
「しかし、本当に良い場所ですねぇ。僕以前この界隈で仕事してたんですけど、こんな立派なお屋敷あったなんて知りませんでした」
「自分で自分を褒めるようで恐縮ですが、此処は実際気に入っているのですよ。特にあの窓が良い」
「窓ですか」
「海が良く見える。岩場ですから泳ぐのには向かないのですが、そのぶん静かでね」
紳士に促され、益田も立ち上がった。彼が示したのは、大きく開いた出窓だ。白波に似たレースのカーテンが、風を受けてひらひらと踊っている。
一足先に下を覗き込んだ男が、ふと首を傾げた。
「珍しいですな、今日は浜に人が居る」
「へぇ……えっ」
うっ、と益田は息を呑んだ。
眼下に見える海は入り江状に切り取られていて、やや灰色がかった砂浜に絶えず白い波が被さっている。青い海と盛り上がった入道雲をすっと横切る水平線が綺麗だ。それは良いのだが。
美しい浜辺に足跡を巡らせながら動き回っている人物の髪が、どうも見覚えがある。見覚えどころか、昨日も目通りしたばかりだ。柔らかな栗色―――それがくるりと振り返ってこちらを見上げたように思え、益田は肩をぎゅうと竦めた。
そうとは知らぬ紳士は、かえって興味深げに益々身を乗り出す。
「何か砂浜に書いているようですな、なんだろうか」
「そ、それより!早く残りのご報告をさせてくださいっ!」
「報告?もう鳥は戻りましたし、特にこれと云って」
「何と云うかその、そう、僕の武勇伝を聞いて頂けませんか!特に鳥を追って樹上に取り残された時なんか額に汗をかいてしまったと云いますか、ねぇ」
しどろもどろになりながらも、益田は男の背を押して半ば無理やりにソファへと戻った。
ちらりと見やった浜辺は無惨に削り取られて、大きな文字が並んでいる。
―――さっさと戻れ、バカオロカ。
波の音に混じって神に恫喝された気がして、益田は項垂れて前髪を揺らした。
■
なるほど岩場だ。
ごろごろと転がっている巨大な岩を乗り越えると、その向こうに海が現れた。
上から見た限りでは箱庭のように小さく見えたが、目の当たりにするとそれなりに広い。湿った風が潮の匂いを含み、長い前髪を吹き上げる。
「榎木津さぁん」
波音にも負けそうなほど疲れた益田の声は、それでも榎木津の耳に届いたらしかった。一心不乱に砂山を築いていた横顔がふと益田の姿を捉える。
「遅いぞゥ」
「何云ってンですか超特急ですよ、あの丘から此処までどんだけかかったと思ってるんですか、ていうか榎木津さん、此処に来るって知ってるなら仕事付き合ってくれればよかったのに」
息も絶え絶えの益田が砂に尻を付くと、榎木津が水筒を投げて寄越した。見覚えがあるアルマイトは、恐らく寅吉が持たせたものだろう。冷えた麦茶が入っている。
一息に其れを呷る益田を尻目に、榎木津は砂に書いた文字を蹴った。
「トリの引渡しはどうでも良いんだよ。事務所で散々鳴き声も聴いた。言葉も覚えなかったし」
「人様の鳥に言葉教えようとしないでくださいって。どうすんですかバカオロカとか云うようになっちゃったら」
「そうなったらトリの間でお前のバカオロカぶりが有名になる!」
けらけらと笑いながら榎木津が波打ち際に歩いていくので、益田も其れに従う。夏が過ぎゆく浜は日が傾きかけて、遠くの雲が橙色に染まり始めていた。
ざん――と波が寄せ、二人の足元にまで迫る。
栗色の髪が潮風に弄られて、一瞬ごとに違う表情を見せるのを、益田は不思議に思って眺めていた。
「どうだ、海だぞ益山」
改めて云われなくても知っている。それでも益田は、顔を上げて海面を見た。水平線に沿って、光がはじけている。
寄せる波は透明でも、遥か先に見える水面は濃紺だ。何が溶けていても、見えない程に。
視界の端に立つ榎木津の姿にボーダーラインの服を纏ったもう一人の榎木津が重なって、益田は目を逸らした。
そんな益田の仕草を知ってか知らずか、榎木津は益田の目の前に立つ。見開かれた鳶色の瞳は、恐らく益田の記憶を通り越して益田自身の瞳を見ている。
「今年の夏は全然海で遊ばなかった!海に失礼だ!おまけに益山はあっちこっちでコソコソ隠れるような真似ばっかりして、夏が勿体無い」
「そんなにお好きなら、海くらいいつでも来れば良かったじゃないですか。木場さんなり、関口さんなりと」
ビーチパラソルの下で憮然として本を読んでいる中禅寺を想像してしまい、妙な具合に口端が歪む。咎めるように拳で胸板を小突かれて、砂を踏む足元がよろめいた。
「なんで叩くんですよ」
「心得違いをしているから制裁をしたまでだ。僕はパンが無いならケェキで済まそうなんていうケチな了見の持ち主じゃないぞ。パンが食べたい時は何が何でもパンを食べるんだ!海で遊びたかったら、海に来る!」
「来てるじゃないですか、既に―――」
益田は狼狽し、言葉を呑んだ。
自分を見下ろす双眸が、挑戦的な光を帯びているのに気付いたからだ。深い海が蒼の濃さを増すのと同じように、暗い色をした瞳孔に自分の内面までも吸い込まれそうだ。
何か口にする、或いは視線を逃がす前に、寄せた波が脛のあたりまで被さってきた。いつの間にか潮が満ちて、榎木津が乱暴に綴った文字や足跡までも消していく。
「うわっ」
「あっコラ、逃げるな!」
「濡れちゃいますよう」
水に浸かった革靴は、一歩踏み出すごとに気味の悪い音を立てる。益田の足跡が波に慣らされた浜から乾いた砂の上にたどり着く前に、背後から伸びた手にさっと膝の裏を浚われた。爪先が弧を描き、すっぽ抜けた靴が転々と砂浜を弾んで歪な軌跡を残す。
気がつけば痩せた身体は、横抱きの格好で榎木津の腕の中にあった。
「えっ」
「濡れるのが怖くて、海で遊べるものか!」
榎木津は自分も靴をかなぐり捨てて、益田を抱えたまま波へと突進していく。ひゃあああ、という情けない悲鳴が浜辺に響いた。蹴り上げられた海水が飛沫となって前髪にまでかかる。
「うわっ、ちょっ、怖い!」
「怖いものか、僕の膝くらいまでしか無いぞ。降りてみろ、そら!」
「そういうことじゃありませんって――ああああんまり、揺らさないでくださいよぅ!」
巨岩に隠された浜で、榎木津の高笑いと益田の泣き声が交互に起こる。
どちらともなく声が止むと、辺りは急に静かになったようだ。依然として波は打ち寄せ続けているというのに。
濡れた靴下を弄る潮風が冷たくて、益田は爪先を丸めた。いつの間にか腕さえも榎木津の首に回してしまっている。手放すべきか思案していると、またひとつ波が寄せた。
間近に見下ろす榎木津の頬や鼻先が奇妙に紅潮して見えることで、益田はようやく夕暮れが迫っている事を知った。
「榎木津、さん」
海ならいくらでも来ればよかったじゃないですか。
心得違いをしているから制裁をしたまでだ。
はじける光の粒とともに、交わされた言葉が明滅する。
唇が震えるのは、吹き抜けた潮風が冷たかったからでは無い。
「今日此処に来たのって、もしかして―――僕、と」
夕映え色の頬が僅かに赤みを増して、鳶色の瞳が瞬いた。
「―――だったら、どうする?」
ざん、と波が打った。
どうすると問われても、益田は榎木津が望む答えなど知らない。自分の頭に浮かんだ考えだって、身の程知らずかつ自意識過剰な、僭越なものかも知れないのだ。
僭越ついでに、ただ無性に、榎木津の唇が欲しいと思ってしまった。
秋が迫る海に浸かって、小娘のように抱えられている滑稽な格好のままで。
飛沫をあちこちに被ってしまって風が当たるたびに冷えているのに、耳の辺りがやけに熱い。
「榎木津さん、僕も」
「ん?」
続ける言葉が思い浮かばず、益田は少し逡巡してから、そおっとそおっと、唇を寄せた。
「早まるな、君たちぃ―――!」
突然真横からどん、と衝撃が襲い、次の瞬間益田は榎木津の腕を離れ、海中に転落していた。
尻から落ちたので痛みは無いが、間髪入れず頭上を超えて行った波の所為で、文字通り頭の先までずぶぬれだ。
面くらいながらも張り付いた前髪を払いのけると、同じくずぶぬれの榎木津が何故か羽交い締めにされている光景が目に入った。わめいている榎木津を押さえつけているのは、どうも警官のようだ。まだ若い。
「何があったか知らないけど、こんな良い季節の盛りに妙なことを考えるもんじゃあない!」
「みょ――妙なこと?」
榎木津が警官を張り飛ばし、見慣れた制服姿が派手な打音と共に波間に沈む。
益田は慌てて立ち上がると、ひっくり返っている警官を助け起こした。
「大丈夫ですか」
「あ痛た…いえ…大丈夫です」
濡れた髪を払いのける仕草は、先刻益田がした其れによく似ている。
はっきりと見えた顔に既視感を覚えた益田が話しかける前に、目を丸くした青年が声を上げた。
「あれ…益田さん?ですよね―――ああ、益田さんだ」
一人だけさっさと陸に上がった榎木津が、犬のように頭を振って水を払っているのが見える。
「―――亀井、君?」
唖然とする益田の背後で、紅い夕陽がすうと沈んだ。
■
すっかり暗くなった街中を、一台のパトカーが走っている。
潮の匂いが充満した後部座席には、くたびれた毛布に包まった榎木津と益田が居た。榎木津の方は、遊びつかれたかしてすやすやと眠ってしまっている。その寝顔を横目で見やりながら、益田は溜息を落とした。
「吃驚しましたよ。盗人を捕らえてみれば益田さんなり、なんてね」
亀井は困っているのだか楽しんでいるのだか判らない口調でそう云うと、ハンドルを繰った。
「盗人って何だよ。いきなり突き飛ばされて、吃驚したのはこっちだって云うの。あんな辺鄙な場所も警らの範囲になったわけ?」
「そういう訳じゃないですけど、通報されちゃ行かない訳に行かないですからね」
「つ、通報?なんで?侵入罪か何か?」
面食らう益田の顔をバックミラーで確認した亀井は、左手でついと天を指す。
「あの浜ね、ちょっと上ったら見えるんですけど、高台のお屋敷に住んでるご主人から電話あったんですよ。海中に無理やり引き込まれようとしてる人がいるってね」
絹を裂くような悲鳴で何かと思った、って云ってるんですけど、心当たりあります?―――そう云うと亀井は半分だけ振り向いた。益田はその視線に気付かない振りをして、毛布に顎を埋める。
悲鳴を上げたのは間違いなく自分だが、「絹を裂くような」とはどういう事だろう。あの浜は岩や崖に囲まれる格好だったから、反響して甲高く聞こえたのだろう、恐らく。そうとでも思わなければやっていられない。
「すわ痴情のもつれの無理心中か、とか云われたら行かざるを得ないです」
「無い無いそれは、絶対無い!」
「どうしたんですかムキになって…まぁもう直ぐ署に着きますから、詳しい事情はそっちで伺います。世間話のつもりで聞かせてくださいね」
車が大きく曲がった拍子に、力の抜けた榎木津の身体がどさりと倒れこんできた。塩水を浴びた生乾きの髪が首に当たってこそばゆい。良く眠っているようだ。
こんなに眠りが深いと、榎木津を連れて東京に戻るのは困難だろう。2,3歩歩かせるのすら億劫だ。警察車両を借りるのも申し訳ない。この近くで宿を取るのが妥当な所だろうと思う。
榎木津の財布を勝手に漁る訳には行かないので、益田が身銭を切ることになる。そうなるとあまり立派な宿は難しい。近くに旨い魚を出す食堂でもあれば、そちらの方が重要だ。
ひとつの部屋に布団を2組敷いてもらって眠ろう。塩水まみれの服は水ですすいで干しておき、代わりに浴衣でも着せておこう。榎木津はきっと昼頃目覚めるだろうから、その時になって初めて、見慣れぬ寝所と着慣れぬ浴衣に気がつくのだ。
(そしたらどうします、榎木津さん)
毛布の下でそっと探った指先には、細かな砂粒と確かな体温が在る。
―――
菊川様リクエスト「海辺できゃっきゃと戯れる榎益」でした。ありがとうございました。
遅くなって申し訳ございません。異常に楽しく書けました(亀井も出ました)。
榎木津家経由で探偵社の話を聞いたらしい彼は、当初榎木津礼二郎本人が仕事を請けなかった事に渋面を見せたが、益田の仕事ぶりには概ね満足したようだ。苦労して捕らえたカナリアは、銀の鳥篭に入れられて歌っている。
かんかんに照り付ける太陽と熱された外気から、高台に建つ白亜の館は隔絶されている。庭に植えられた緑が直射日光を適度に遮り、大きな窓から潮風が吹き込んでくる。こんな別荘を幾つも持てるほど裕福な客を抱えられる職場環境に感謝して、益田は冷茶をひとくち啜った。
「しかし、本当に良い場所ですねぇ。僕以前この界隈で仕事してたんですけど、こんな立派なお屋敷あったなんて知りませんでした」
「自分で自分を褒めるようで恐縮ですが、此処は実際気に入っているのですよ。特にあの窓が良い」
「窓ですか」
「海が良く見える。岩場ですから泳ぐのには向かないのですが、そのぶん静かでね」
紳士に促され、益田も立ち上がった。彼が示したのは、大きく開いた出窓だ。白波に似たレースのカーテンが、風を受けてひらひらと踊っている。
一足先に下を覗き込んだ男が、ふと首を傾げた。
「珍しいですな、今日は浜に人が居る」
「へぇ……えっ」
うっ、と益田は息を呑んだ。
眼下に見える海は入り江状に切り取られていて、やや灰色がかった砂浜に絶えず白い波が被さっている。青い海と盛り上がった入道雲をすっと横切る水平線が綺麗だ。それは良いのだが。
美しい浜辺に足跡を巡らせながら動き回っている人物の髪が、どうも見覚えがある。見覚えどころか、昨日も目通りしたばかりだ。柔らかな栗色―――それがくるりと振り返ってこちらを見上げたように思え、益田は肩をぎゅうと竦めた。
そうとは知らぬ紳士は、かえって興味深げに益々身を乗り出す。
「何か砂浜に書いているようですな、なんだろうか」
「そ、それより!早く残りのご報告をさせてくださいっ!」
「報告?もう鳥は戻りましたし、特にこれと云って」
「何と云うかその、そう、僕の武勇伝を聞いて頂けませんか!特に鳥を追って樹上に取り残された時なんか額に汗をかいてしまったと云いますか、ねぇ」
しどろもどろになりながらも、益田は男の背を押して半ば無理やりにソファへと戻った。
ちらりと見やった浜辺は無惨に削り取られて、大きな文字が並んでいる。
―――さっさと戻れ、バカオロカ。
波の音に混じって神に恫喝された気がして、益田は項垂れて前髪を揺らした。
■
なるほど岩場だ。
ごろごろと転がっている巨大な岩を乗り越えると、その向こうに海が現れた。
上から見た限りでは箱庭のように小さく見えたが、目の当たりにするとそれなりに広い。湿った風が潮の匂いを含み、長い前髪を吹き上げる。
「榎木津さぁん」
波音にも負けそうなほど疲れた益田の声は、それでも榎木津の耳に届いたらしかった。一心不乱に砂山を築いていた横顔がふと益田の姿を捉える。
「遅いぞゥ」
「何云ってンですか超特急ですよ、あの丘から此処までどんだけかかったと思ってるんですか、ていうか榎木津さん、此処に来るって知ってるなら仕事付き合ってくれればよかったのに」
息も絶え絶えの益田が砂に尻を付くと、榎木津が水筒を投げて寄越した。見覚えがあるアルマイトは、恐らく寅吉が持たせたものだろう。冷えた麦茶が入っている。
一息に其れを呷る益田を尻目に、榎木津は砂に書いた文字を蹴った。
「トリの引渡しはどうでも良いんだよ。事務所で散々鳴き声も聴いた。言葉も覚えなかったし」
「人様の鳥に言葉教えようとしないでくださいって。どうすんですかバカオロカとか云うようになっちゃったら」
「そうなったらトリの間でお前のバカオロカぶりが有名になる!」
けらけらと笑いながら榎木津が波打ち際に歩いていくので、益田も其れに従う。夏が過ぎゆく浜は日が傾きかけて、遠くの雲が橙色に染まり始めていた。
ざん――と波が寄せ、二人の足元にまで迫る。
栗色の髪が潮風に弄られて、一瞬ごとに違う表情を見せるのを、益田は不思議に思って眺めていた。
「どうだ、海だぞ益山」
改めて云われなくても知っている。それでも益田は、顔を上げて海面を見た。水平線に沿って、光がはじけている。
寄せる波は透明でも、遥か先に見える水面は濃紺だ。何が溶けていても、見えない程に。
視界の端に立つ榎木津の姿にボーダーラインの服を纏ったもう一人の榎木津が重なって、益田は目を逸らした。
そんな益田の仕草を知ってか知らずか、榎木津は益田の目の前に立つ。見開かれた鳶色の瞳は、恐らく益田の記憶を通り越して益田自身の瞳を見ている。
「今年の夏は全然海で遊ばなかった!海に失礼だ!おまけに益山はあっちこっちでコソコソ隠れるような真似ばっかりして、夏が勿体無い」
「そんなにお好きなら、海くらいいつでも来れば良かったじゃないですか。木場さんなり、関口さんなりと」
ビーチパラソルの下で憮然として本を読んでいる中禅寺を想像してしまい、妙な具合に口端が歪む。咎めるように拳で胸板を小突かれて、砂を踏む足元がよろめいた。
「なんで叩くんですよ」
「心得違いをしているから制裁をしたまでだ。僕はパンが無いならケェキで済まそうなんていうケチな了見の持ち主じゃないぞ。パンが食べたい時は何が何でもパンを食べるんだ!海で遊びたかったら、海に来る!」
「来てるじゃないですか、既に―――」
益田は狼狽し、言葉を呑んだ。
自分を見下ろす双眸が、挑戦的な光を帯びているのに気付いたからだ。深い海が蒼の濃さを増すのと同じように、暗い色をした瞳孔に自分の内面までも吸い込まれそうだ。
何か口にする、或いは視線を逃がす前に、寄せた波が脛のあたりまで被さってきた。いつの間にか潮が満ちて、榎木津が乱暴に綴った文字や足跡までも消していく。
「うわっ」
「あっコラ、逃げるな!」
「濡れちゃいますよう」
水に浸かった革靴は、一歩踏み出すごとに気味の悪い音を立てる。益田の足跡が波に慣らされた浜から乾いた砂の上にたどり着く前に、背後から伸びた手にさっと膝の裏を浚われた。爪先が弧を描き、すっぽ抜けた靴が転々と砂浜を弾んで歪な軌跡を残す。
気がつけば痩せた身体は、横抱きの格好で榎木津の腕の中にあった。
「えっ」
「濡れるのが怖くて、海で遊べるものか!」
榎木津は自分も靴をかなぐり捨てて、益田を抱えたまま波へと突進していく。ひゃあああ、という情けない悲鳴が浜辺に響いた。蹴り上げられた海水が飛沫となって前髪にまでかかる。
「うわっ、ちょっ、怖い!」
「怖いものか、僕の膝くらいまでしか無いぞ。降りてみろ、そら!」
「そういうことじゃありませんって――ああああんまり、揺らさないでくださいよぅ!」
巨岩に隠された浜で、榎木津の高笑いと益田の泣き声が交互に起こる。
どちらともなく声が止むと、辺りは急に静かになったようだ。依然として波は打ち寄せ続けているというのに。
濡れた靴下を弄る潮風が冷たくて、益田は爪先を丸めた。いつの間にか腕さえも榎木津の首に回してしまっている。手放すべきか思案していると、またひとつ波が寄せた。
間近に見下ろす榎木津の頬や鼻先が奇妙に紅潮して見えることで、益田はようやく夕暮れが迫っている事を知った。
「榎木津、さん」
海ならいくらでも来ればよかったじゃないですか。
心得違いをしているから制裁をしたまでだ。
はじける光の粒とともに、交わされた言葉が明滅する。
唇が震えるのは、吹き抜けた潮風が冷たかったからでは無い。
「今日此処に来たのって、もしかして―――僕、と」
夕映え色の頬が僅かに赤みを増して、鳶色の瞳が瞬いた。
「―――だったら、どうする?」
ざん、と波が打った。
どうすると問われても、益田は榎木津が望む答えなど知らない。自分の頭に浮かんだ考えだって、身の程知らずかつ自意識過剰な、僭越なものかも知れないのだ。
僭越ついでに、ただ無性に、榎木津の唇が欲しいと思ってしまった。
秋が迫る海に浸かって、小娘のように抱えられている滑稽な格好のままで。
飛沫をあちこちに被ってしまって風が当たるたびに冷えているのに、耳の辺りがやけに熱い。
「榎木津さん、僕も」
「ん?」
続ける言葉が思い浮かばず、益田は少し逡巡してから、そおっとそおっと、唇を寄せた。
「早まるな、君たちぃ―――!」
突然真横からどん、と衝撃が襲い、次の瞬間益田は榎木津の腕を離れ、海中に転落していた。
尻から落ちたので痛みは無いが、間髪入れず頭上を超えて行った波の所為で、文字通り頭の先までずぶぬれだ。
面くらいながらも張り付いた前髪を払いのけると、同じくずぶぬれの榎木津が何故か羽交い締めにされている光景が目に入った。わめいている榎木津を押さえつけているのは、どうも警官のようだ。まだ若い。
「何があったか知らないけど、こんな良い季節の盛りに妙なことを考えるもんじゃあない!」
「みょ――妙なこと?」
榎木津が警官を張り飛ばし、見慣れた制服姿が派手な打音と共に波間に沈む。
益田は慌てて立ち上がると、ひっくり返っている警官を助け起こした。
「大丈夫ですか」
「あ痛た…いえ…大丈夫です」
濡れた髪を払いのける仕草は、先刻益田がした其れによく似ている。
はっきりと見えた顔に既視感を覚えた益田が話しかける前に、目を丸くした青年が声を上げた。
「あれ…益田さん?ですよね―――ああ、益田さんだ」
一人だけさっさと陸に上がった榎木津が、犬のように頭を振って水を払っているのが見える。
「―――亀井、君?」
唖然とする益田の背後で、紅い夕陽がすうと沈んだ。
■
すっかり暗くなった街中を、一台のパトカーが走っている。
潮の匂いが充満した後部座席には、くたびれた毛布に包まった榎木津と益田が居た。榎木津の方は、遊びつかれたかしてすやすやと眠ってしまっている。その寝顔を横目で見やりながら、益田は溜息を落とした。
「吃驚しましたよ。盗人を捕らえてみれば益田さんなり、なんてね」
亀井は困っているのだか楽しんでいるのだか判らない口調でそう云うと、ハンドルを繰った。
「盗人って何だよ。いきなり突き飛ばされて、吃驚したのはこっちだって云うの。あんな辺鄙な場所も警らの範囲になったわけ?」
「そういう訳じゃないですけど、通報されちゃ行かない訳に行かないですからね」
「つ、通報?なんで?侵入罪か何か?」
面食らう益田の顔をバックミラーで確認した亀井は、左手でついと天を指す。
「あの浜ね、ちょっと上ったら見えるんですけど、高台のお屋敷に住んでるご主人から電話あったんですよ。海中に無理やり引き込まれようとしてる人がいるってね」
絹を裂くような悲鳴で何かと思った、って云ってるんですけど、心当たりあります?―――そう云うと亀井は半分だけ振り向いた。益田はその視線に気付かない振りをして、毛布に顎を埋める。
悲鳴を上げたのは間違いなく自分だが、「絹を裂くような」とはどういう事だろう。あの浜は岩や崖に囲まれる格好だったから、反響して甲高く聞こえたのだろう、恐らく。そうとでも思わなければやっていられない。
「すわ痴情のもつれの無理心中か、とか云われたら行かざるを得ないです」
「無い無いそれは、絶対無い!」
「どうしたんですかムキになって…まぁもう直ぐ署に着きますから、詳しい事情はそっちで伺います。世間話のつもりで聞かせてくださいね」
車が大きく曲がった拍子に、力の抜けた榎木津の身体がどさりと倒れこんできた。塩水を浴びた生乾きの髪が首に当たってこそばゆい。良く眠っているようだ。
こんなに眠りが深いと、榎木津を連れて東京に戻るのは困難だろう。2,3歩歩かせるのすら億劫だ。警察車両を借りるのも申し訳ない。この近くで宿を取るのが妥当な所だろうと思う。
榎木津の財布を勝手に漁る訳には行かないので、益田が身銭を切ることになる。そうなるとあまり立派な宿は難しい。近くに旨い魚を出す食堂でもあれば、そちらの方が重要だ。
ひとつの部屋に布団を2組敷いてもらって眠ろう。塩水まみれの服は水ですすいで干しておき、代わりに浴衣でも着せておこう。榎木津はきっと昼頃目覚めるだろうから、その時になって初めて、見慣れぬ寝所と着慣れぬ浴衣に気がつくのだ。
(そしたらどうします、榎木津さん)
毛布の下でそっと探った指先には、細かな砂粒と確かな体温が在る。
―――
菊川様リクエスト「海辺できゃっきゃと戯れる榎益」でした。ありがとうございました。
遅くなって申し訳ございません。異常に楽しく書けました(亀井も出ました)。