積み上げられた古書の質感も手伝ってか、京極堂の座敷に敷かれた畳は何処となく褪せた色をしているように見える。
い草の色が僅かな時間で抜ける事が無いように、この部屋の光景もそうそう劇的に変わるものでは無い。中禅寺がさも不機嫌そうな渋面で本を読み、客人、或いは単に溜まりに来ているだけの誰かが卓の一辺を埋めている。今日も多分に漏れず、と云った所か。
古書の匂いに包まれて眠る生き物は2つ。中禅寺の膝で丸くなっている飼い猫と、『客人』だ。座布団に収まるはずもない2本の足が、畳の上に投げ出されていた。障子の影に隠れるように横たわっているが、ゆるく握った拳だけが日光を浴びてじりじりと温まっている。鼻梁に落ちた細い髪が寝息に合わせてふらふらと揺れているのを見て、中禅寺は苦笑した。
そして例によって、縁側を渡る足音がきしきしと近づいてくる。彼を探しに来たのだろう。開かれた障子は天蓋を払うように影を失わせたが、午睡を覚ますには十分では無かったらしい。白と黒で占められた世界に色が戻った。
灰の着流し、黒く艶を帯びた前髪、栗色の髪。ここ数ヶ月で良く見られるようになった取り合わせだ。珍しくも無い。
だから、険のある視線の先で顔色も変えずただ眠っているのが――黒髪の青年であっても、さしたる問題では無いだろう。
「――問題だッ!」
冷めた茶を飲み干した榎木津が、肺の空気を全て吐き出すようにして叫んだ。手元にあった筈の湯飲みが空になっているのを見下ろし、中禅寺が業とらしく首を振る。鳶色の瞳がぎっとそれを睨んだ。漆黒の眼は慣れたもので、のらりくらりと受け止める。
「ずるいぞ、京極堂!」
「何が」
榎木津は視線を逸らさず、中禅寺の膝の辺りにそっと手を伸ばした。中禅寺も逃げるでもなく指先の行方を見守っている。
逃げたのは、膝に乗っていた石榴だ。深い寝息を立てていたはずが敏感に顔を上げ、榎木津の指を全身でひらりと避け、座敷を出て行ってしまった。胡坐をかいている足の間が猫の形に凹んでいる。榎木津は音も立てずに歩き去った姿を名残惜しげに見送り、そして室内に視線を戻した。端正な顔立ちだが唇を尖らせたりするので、大きくなりすぎた子どものように見える。
益田は両足を畳の上に伸べてだらりと眠っており、膝の上でころころと姿勢を変える猫の姿とはえらい違いだ。呼吸は深く、当然榎木津の存在にも気付いていない。
榎木津は苛々とした様子で益田の薄い瞼を見やる。彼の寝顔を見るのは初めてでは無いが、大概が書類の上にインキを滲ませた状態でうつらうつらしているか、ソファの上で膝を折って腹を庇うような姿勢を取っている。
薄い唇を僅かに開いて、胸を上下させている。
神をほったらかしにしてあろうことか京極堂に居た事よりも、下僕の分際で榎木津の特等席を奪って安らかに昼寝を決め込んでいる事よりも、痩せた身体を横たえて無防備な寝顔を晒している場所が白い寝台の上で無いという事実に、何だか妙に腹が立つ。
「あれは、僕と一緒に寝た事が無いのに」
「…どっちが?」
「どっちも!」
からかいを含んだ中禅寺の問いに、榎木津が噛み付いた。倒れている益田が僅かに身じろぐ。痩せた指が「静かに」と仕草で示すと、榎木津はついと視線を流した。低く笑う気配がする。
「安心出来る所で無いと熟睡しないのは、猫も人も同じ事だ」
「僕ぁ何処でだって寝られる」
「榎さんなら走ってる車の屋根の上でだって寝られるだろうが、普通の人間はそうは行かない」
「僕の寝台は車の屋根の上と一緒か」
ともすればあけすけとも云える榎木津の言は、頁が捲れる乾いた音に送られた。開けっ放しの障子の隙間を抜けて、庭から風が吹き込んでくる。榎木津も横になりたかったが、山と積まれた本と益田の身体が邪魔で足を延ばすのが精々だ。
ごそごそと尻の座りの良い場所を探す榎木津を、中禅寺が横目で見ている。
「取って食われると思ったらそりゃあ逃げるさ。そんなのは猫や、益田君に限ったことじゃあない」
「マスヤマなんか煮ても焼いてもおいしくないよ。味噌で煮ても駄目だし、煮てる途中に逃げそうだ。そんな事まで云われないと判らないほど馬鹿なのかなぁ、こいつ」
「まぁ其処が猫と人との違いだよ」
吹き込む風は秋の気配を帯びて、僅かに肌寒い。何も掛けずにそのまま転寝出来る季節も間もなく終わるだろう。
畳の目に詰まった石榴の毛を見つけた榎木津が、其れを穿り出そうとしている。かりかりと爪を鳴らす仕草は余程猫に似ていて、中禅寺は苦笑した。
「益田君もまさか自分が土鍋で煮込まれるなんて思っていないでしょう。それ程彼は馬鹿じゃない」
「馬鹿だ!逃げる度に叱っているのに覚えないんだぞ。馬鹿の耳に神の啓示だ」
「その程度には馬鹿になってしまった、という事かな」
彼の優先順位はお前から見れば「馬鹿のすること」なんだろう?
――とでも云いたげに中禅寺は口元を歪めた。
さも楽しそうに哂っている、と云う事を知らない者が見れば、枯れ木に開いた裂け目のように思える。
生憎表情に込められた意を知ってしまった榎木津は濃い眉を顰めると、益田の寝顔に視線を落とした。
仰向けの頭部からは前髪がばらりと落ちて、額がむき出しになっている。薄い眉からも唇からも力が抜けて、あるべき場所に収まっている、という印象だ。不満を呟いたり泣いてみせたりする時には、思いの外良く動く眉であるのに。
此処が京極堂の座敷で無かったら。こいつをこのまま折り詰めにして、自分の寝床に持ち帰ったとしたら、どんなにか胸がすく事だろう。
けれど、きっと其れはかなわない。
榎木津の価値観では理解できないが、恐らく自分が彼にとっての神で、彼が自分の下僕である限り。
「…不愉快だッ!」
いつもの調子で畳に横たわろうとしたのがいけなかった。
倒れこんだ榎木津の背が本の山にぶつかり、本は文字通り雪崩となって滑るように崩れた。傾れた背表紙が通し番号順に落ちて行く。無防備に眠っている、益田の横顔に。
「あ」
榎木津はひらと身を起こし、中禅寺は仏頂面を歪めて卓の向こうを覗き込んだ。
幸いにも分厚い角が益田を痛めつけることは無かったものの、盛大な音を立てて目の前に落ちたのは確かだ。紙の束とも思えぬ重い音。上半身が反射的に跳ね起きた。
長い前髪がばさりとだらしなく目の前にかかっていて、隙間から覗く表情も同様にだらしない。元々大きくは無い眼は益々細く、ぼんやりとして、中空を見つめている。
無数の古書に囲まれた座敷、灰の着流し、栗色の瞳。
益田はその全てを視界に収めながら、まだ夢を見ているような口調で呟いた。
「――えのきづさんだ」
途端大きな瞳の虹彩が揺れ、古本屋が肩を竦める。
嗚呼本当に不愉快だ。
結局この祓い屋の目論見通りになってしまっている。
「こういうのも刷り込みと云うのかなぁ」
「…ふん」
寝ぼけた瞳は何事も無かったかのように中禅寺に向き直り、どうも寝入っちゃってすみません、と頭を下げて見せた。
―――
真宏様リクエスト「益田の話をする榎木津と中禅寺」でした。ありがとうございました。
お待たせして申し訳ありません。なんかナチュラルに中禅寺が2名の関係を知っているあたりご都合感が凄いですがそこはそれということで…
い草の色が僅かな時間で抜ける事が無いように、この部屋の光景もそうそう劇的に変わるものでは無い。中禅寺がさも不機嫌そうな渋面で本を読み、客人、或いは単に溜まりに来ているだけの誰かが卓の一辺を埋めている。今日も多分に漏れず、と云った所か。
古書の匂いに包まれて眠る生き物は2つ。中禅寺の膝で丸くなっている飼い猫と、『客人』だ。座布団に収まるはずもない2本の足が、畳の上に投げ出されていた。障子の影に隠れるように横たわっているが、ゆるく握った拳だけが日光を浴びてじりじりと温まっている。鼻梁に落ちた細い髪が寝息に合わせてふらふらと揺れているのを見て、中禅寺は苦笑した。
そして例によって、縁側を渡る足音がきしきしと近づいてくる。彼を探しに来たのだろう。開かれた障子は天蓋を払うように影を失わせたが、午睡を覚ますには十分では無かったらしい。白と黒で占められた世界に色が戻った。
灰の着流し、黒く艶を帯びた前髪、栗色の髪。ここ数ヶ月で良く見られるようになった取り合わせだ。珍しくも無い。
だから、険のある視線の先で顔色も変えずただ眠っているのが――黒髪の青年であっても、さしたる問題では無いだろう。
「――問題だッ!」
冷めた茶を飲み干した榎木津が、肺の空気を全て吐き出すようにして叫んだ。手元にあった筈の湯飲みが空になっているのを見下ろし、中禅寺が業とらしく首を振る。鳶色の瞳がぎっとそれを睨んだ。漆黒の眼は慣れたもので、のらりくらりと受け止める。
「ずるいぞ、京極堂!」
「何が」
榎木津は視線を逸らさず、中禅寺の膝の辺りにそっと手を伸ばした。中禅寺も逃げるでもなく指先の行方を見守っている。
逃げたのは、膝に乗っていた石榴だ。深い寝息を立てていたはずが敏感に顔を上げ、榎木津の指を全身でひらりと避け、座敷を出て行ってしまった。胡坐をかいている足の間が猫の形に凹んでいる。榎木津は音も立てずに歩き去った姿を名残惜しげに見送り、そして室内に視線を戻した。端正な顔立ちだが唇を尖らせたりするので、大きくなりすぎた子どものように見える。
益田は両足を畳の上に伸べてだらりと眠っており、膝の上でころころと姿勢を変える猫の姿とはえらい違いだ。呼吸は深く、当然榎木津の存在にも気付いていない。
榎木津は苛々とした様子で益田の薄い瞼を見やる。彼の寝顔を見るのは初めてでは無いが、大概が書類の上にインキを滲ませた状態でうつらうつらしているか、ソファの上で膝を折って腹を庇うような姿勢を取っている。
薄い唇を僅かに開いて、胸を上下させている。
神をほったらかしにしてあろうことか京極堂に居た事よりも、下僕の分際で榎木津の特等席を奪って安らかに昼寝を決め込んでいる事よりも、痩せた身体を横たえて無防備な寝顔を晒している場所が白い寝台の上で無いという事実に、何だか妙に腹が立つ。
「あれは、僕と一緒に寝た事が無いのに」
「…どっちが?」
「どっちも!」
からかいを含んだ中禅寺の問いに、榎木津が噛み付いた。倒れている益田が僅かに身じろぐ。痩せた指が「静かに」と仕草で示すと、榎木津はついと視線を流した。低く笑う気配がする。
「安心出来る所で無いと熟睡しないのは、猫も人も同じ事だ」
「僕ぁ何処でだって寝られる」
「榎さんなら走ってる車の屋根の上でだって寝られるだろうが、普通の人間はそうは行かない」
「僕の寝台は車の屋根の上と一緒か」
ともすればあけすけとも云える榎木津の言は、頁が捲れる乾いた音に送られた。開けっ放しの障子の隙間を抜けて、庭から風が吹き込んでくる。榎木津も横になりたかったが、山と積まれた本と益田の身体が邪魔で足を延ばすのが精々だ。
ごそごそと尻の座りの良い場所を探す榎木津を、中禅寺が横目で見ている。
「取って食われると思ったらそりゃあ逃げるさ。そんなのは猫や、益田君に限ったことじゃあない」
「マスヤマなんか煮ても焼いてもおいしくないよ。味噌で煮ても駄目だし、煮てる途中に逃げそうだ。そんな事まで云われないと判らないほど馬鹿なのかなぁ、こいつ」
「まぁ其処が猫と人との違いだよ」
吹き込む風は秋の気配を帯びて、僅かに肌寒い。何も掛けずにそのまま転寝出来る季節も間もなく終わるだろう。
畳の目に詰まった石榴の毛を見つけた榎木津が、其れを穿り出そうとしている。かりかりと爪を鳴らす仕草は余程猫に似ていて、中禅寺は苦笑した。
「益田君もまさか自分が土鍋で煮込まれるなんて思っていないでしょう。それ程彼は馬鹿じゃない」
「馬鹿だ!逃げる度に叱っているのに覚えないんだぞ。馬鹿の耳に神の啓示だ」
「その程度には馬鹿になってしまった、という事かな」
彼の優先順位はお前から見れば「馬鹿のすること」なんだろう?
――とでも云いたげに中禅寺は口元を歪めた。
さも楽しそうに哂っている、と云う事を知らない者が見れば、枯れ木に開いた裂け目のように思える。
生憎表情に込められた意を知ってしまった榎木津は濃い眉を顰めると、益田の寝顔に視線を落とした。
仰向けの頭部からは前髪がばらりと落ちて、額がむき出しになっている。薄い眉からも唇からも力が抜けて、あるべき場所に収まっている、という印象だ。不満を呟いたり泣いてみせたりする時には、思いの外良く動く眉であるのに。
此処が京極堂の座敷で無かったら。こいつをこのまま折り詰めにして、自分の寝床に持ち帰ったとしたら、どんなにか胸がすく事だろう。
けれど、きっと其れはかなわない。
榎木津の価値観では理解できないが、恐らく自分が彼にとっての神で、彼が自分の下僕である限り。
「…不愉快だッ!」
いつもの調子で畳に横たわろうとしたのがいけなかった。
倒れこんだ榎木津の背が本の山にぶつかり、本は文字通り雪崩となって滑るように崩れた。傾れた背表紙が通し番号順に落ちて行く。無防備に眠っている、益田の横顔に。
「あ」
榎木津はひらと身を起こし、中禅寺は仏頂面を歪めて卓の向こうを覗き込んだ。
幸いにも分厚い角が益田を痛めつけることは無かったものの、盛大な音を立てて目の前に落ちたのは確かだ。紙の束とも思えぬ重い音。上半身が反射的に跳ね起きた。
長い前髪がばさりとだらしなく目の前にかかっていて、隙間から覗く表情も同様にだらしない。元々大きくは無い眼は益々細く、ぼんやりとして、中空を見つめている。
無数の古書に囲まれた座敷、灰の着流し、栗色の瞳。
益田はその全てを視界に収めながら、まだ夢を見ているような口調で呟いた。
「――えのきづさんだ」
途端大きな瞳の虹彩が揺れ、古本屋が肩を竦める。
嗚呼本当に不愉快だ。
結局この祓い屋の目論見通りになってしまっている。
「こういうのも刷り込みと云うのかなぁ」
「…ふん」
寝ぼけた瞳は何事も無かったかのように中禅寺に向き直り、どうも寝入っちゃってすみません、と頭を下げて見せた。
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真宏様リクエスト「益田の話をする榎木津と中禅寺」でした。ありがとうございました。
お待たせして申し訳ありません。なんかナチュラルに中禅寺が2名の関係を知っているあたりご都合感が凄いですがそこはそれということで…
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