界隈で最も背の高いビルヂング、その中で最も高い場所。
薄暗い階段と屋上とを隔てる鉄の扉を、益田は痩せた肩でそっと押し開けた。キィとでも軋まぬよう、そおっとそおっと潜り抜ける。勿論ノブが降りる音が立たぬよう、そっと扉を閉じる事も忘れない。
ごぉと吹き抜ける風で舞い上がる前髪を持て余しながら、益田は辺りを見渡す。外壁と同じく乾いたような質感の白い床面には、落ちる人影すら無い。となると―――見上げた先は、最も高い場所より更に高い、貯水タンクの上だ。
梯子状の鉄管に足をかける。靴音が鳴ってしまいそうで、一段目にかけた爪先にぐっと力を入れて背伸びをした。
―――居た。
日光を集めて温もったタンクに胡坐をかいて、座り込む探偵の背中が見える。
益田は音を立てぬよう、一段飛ばしで梯子を上がって、曲面に指先を引っ掛けた。不恰好によじ昇り、上半身をようやく天面に押し上げる。そよそよと靡く栗色の髪は、振り向く気配すら無い。
飛びたたんとする小鳥を狙う猫のような姿勢―――と呼ぶには、余りに身軽さと柔軟さに欠けてはいたが、益田は飛び跳ねるようにして榎木津の腰にしがみ付いた。
「―――つっかまえた!」
「なんだマスヤマ、お前が来たのか」
榎木津は胡坐を崩さぬまま、益田を見下ろしている。益田はと云うと、腰から下をぶら下げたまま、ぜぇぜぇと息を荒げて鳶色の瞳を見上げていた。
「なんだじゃあないですよぅ、何居なくなってるんですか。今は、和寅さんが繋いでくれてますけど…早く行かないと」
「居なくなったとは何だ。僕は行きたい時に行きたい所に行くんだ!」
益田はがくりと頭を落とし、大きな溜息をつく。
捕まえた男は捕まったという意識も無く、今にも飛び立ってしまいそうだ。そして益田は、その考えが榎木津の大きな瞳が遠くを見ている事から来ているのに気づいた。
「何、見てるんですか?」
「何も見てないよ」
益田も榎木津の顔から視線を外し、彼の目が向いている方向を見た。
未だ開発の手が帝都程には伸びていないこの街では、榎木津ビルヂングの他は概ね2階建てが精々だ。
探偵社の窓ならまだしも、屋上の、それも貯水タンクにまで昇ってしまえば視界を遮るものは殆ど存在しない。道路や民家や並木が、遠くへ行くに従って輪郭を失って灰色の塊になってしまうのに対し、頭上に広がる薄青い空は何処まで行っても空のままだ。
急な風に前髪を吹き上げられて、思わず目を閉じた益田の耳に柔らかな声が届く。
「何も視えないんだ」
益田はまた、榎木津を見上げた。いつも濡れているような輝きを帯びる色素の薄い瞳は、太陽を飲み込んで益々眩しく光る。
(そうか、此処には、誰も居ないから―――…)
益田などは想像だにした事も無い、不思議な景色。人の記憶が「視え」て、其処に絶えず浮かんでいるという情景。
人ごみに降りて辺りを見回せば、人の数だけそれが視えてしまうのだ。どの程度の実体感を伴って浮かび上がるものか、益田は知らない。ただ榎木津は常に視えたままのものを仔細に渡って並べあげては益田をからかうので、矢張り良く視えているのだと思う。
遮るものの無いこの場所で、榎木津が見る事の適わぬ「普通の景色」を求めているとしたら―――
益田は絡めた腕の力をそっと緩めた。
「榎木津さん、僕和寅さんに云ってきます。お客さんには上手い事云って誤魔化しときますから」
しかし榎木津はカラカラと高らかに笑い、離した筈の両腕を奪って元通り腹の前で組み合わせる。
くるりと振り向いて、眉を八の字に歪めたままぽかんと自分を見上げる益田を見た。
「お前は本当に単純なヤツだなぁ」
「な、なんですよ。折角人が気を遣って」
「神妙な顔しちゃって、単純バカオロカだな。そんなんだから浮気相手の女の人に泣きつかれて、どっちの味方して良いか解んなくなっちゃったりするんだ」
「なっ!み、視ましたね!」
暴れた益田の足先がタンクを蹴飛ばして、ガンと鈍い音が響いた。
胴に絡む細い腕に、白い指が這わされる。
「なぁマスヤマ」
「なんですか」
「いつもいつも逃げてばっかのお前が僕を追いかけてくるから、此処に居たって云ったらどうする?」
「…!」
益田は答えなかった。
日暮れはまだまだ遠いはずの青空の下で、その頬に一気に朱が上るのを見て、榎木津はまたゲラゲラと楽しげに笑った。
――――
榎木津が益田を追い詰める話ばっかり書いているので、たまには益田にも捕まえてもらいました。
薄暗い階段と屋上とを隔てる鉄の扉を、益田は痩せた肩でそっと押し開けた。キィとでも軋まぬよう、そおっとそおっと潜り抜ける。勿論ノブが降りる音が立たぬよう、そっと扉を閉じる事も忘れない。
ごぉと吹き抜ける風で舞い上がる前髪を持て余しながら、益田は辺りを見渡す。外壁と同じく乾いたような質感の白い床面には、落ちる人影すら無い。となると―――見上げた先は、最も高い場所より更に高い、貯水タンクの上だ。
梯子状の鉄管に足をかける。靴音が鳴ってしまいそうで、一段目にかけた爪先にぐっと力を入れて背伸びをした。
―――居た。
日光を集めて温もったタンクに胡坐をかいて、座り込む探偵の背中が見える。
益田は音を立てぬよう、一段飛ばしで梯子を上がって、曲面に指先を引っ掛けた。不恰好によじ昇り、上半身をようやく天面に押し上げる。そよそよと靡く栗色の髪は、振り向く気配すら無い。
飛びたたんとする小鳥を狙う猫のような姿勢―――と呼ぶには、余りに身軽さと柔軟さに欠けてはいたが、益田は飛び跳ねるようにして榎木津の腰にしがみ付いた。
「―――つっかまえた!」
「なんだマスヤマ、お前が来たのか」
榎木津は胡坐を崩さぬまま、益田を見下ろしている。益田はと云うと、腰から下をぶら下げたまま、ぜぇぜぇと息を荒げて鳶色の瞳を見上げていた。
「なんだじゃあないですよぅ、何居なくなってるんですか。今は、和寅さんが繋いでくれてますけど…早く行かないと」
「居なくなったとは何だ。僕は行きたい時に行きたい所に行くんだ!」
益田はがくりと頭を落とし、大きな溜息をつく。
捕まえた男は捕まったという意識も無く、今にも飛び立ってしまいそうだ。そして益田は、その考えが榎木津の大きな瞳が遠くを見ている事から来ているのに気づいた。
「何、見てるんですか?」
「何も見てないよ」
益田も榎木津の顔から視線を外し、彼の目が向いている方向を見た。
未だ開発の手が帝都程には伸びていないこの街では、榎木津ビルヂングの他は概ね2階建てが精々だ。
探偵社の窓ならまだしも、屋上の、それも貯水タンクにまで昇ってしまえば視界を遮るものは殆ど存在しない。道路や民家や並木が、遠くへ行くに従って輪郭を失って灰色の塊になってしまうのに対し、頭上に広がる薄青い空は何処まで行っても空のままだ。
急な風に前髪を吹き上げられて、思わず目を閉じた益田の耳に柔らかな声が届く。
「何も視えないんだ」
益田はまた、榎木津を見上げた。いつも濡れているような輝きを帯びる色素の薄い瞳は、太陽を飲み込んで益々眩しく光る。
(そうか、此処には、誰も居ないから―――…)
益田などは想像だにした事も無い、不思議な景色。人の記憶が「視え」て、其処に絶えず浮かんでいるという情景。
人ごみに降りて辺りを見回せば、人の数だけそれが視えてしまうのだ。どの程度の実体感を伴って浮かび上がるものか、益田は知らない。ただ榎木津は常に視えたままのものを仔細に渡って並べあげては益田をからかうので、矢張り良く視えているのだと思う。
遮るものの無いこの場所で、榎木津が見る事の適わぬ「普通の景色」を求めているとしたら―――
益田は絡めた腕の力をそっと緩めた。
「榎木津さん、僕和寅さんに云ってきます。お客さんには上手い事云って誤魔化しときますから」
しかし榎木津はカラカラと高らかに笑い、離した筈の両腕を奪って元通り腹の前で組み合わせる。
くるりと振り向いて、眉を八の字に歪めたままぽかんと自分を見上げる益田を見た。
「お前は本当に単純なヤツだなぁ」
「な、なんですよ。折角人が気を遣って」
「神妙な顔しちゃって、単純バカオロカだな。そんなんだから浮気相手の女の人に泣きつかれて、どっちの味方して良いか解んなくなっちゃったりするんだ」
「なっ!み、視ましたね!」
暴れた益田の足先がタンクを蹴飛ばして、ガンと鈍い音が響いた。
胴に絡む細い腕に、白い指が這わされる。
「なぁマスヤマ」
「なんですか」
「いつもいつも逃げてばっかのお前が僕を追いかけてくるから、此処に居たって云ったらどうする?」
「…!」
益田は答えなかった。
日暮れはまだまだ遠いはずの青空の下で、その頬に一気に朱が上るのを見て、榎木津はまたゲラゲラと楽しげに笑った。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
榎木津が益田を追い詰める話ばっかり書いているので、たまには益田にも捕まえてもらいました。
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どかどかと重く乱暴な足音が、榎木津ビルヂングの階段を踏みしめて行く。薔薇十字探偵社のある3階までは結構な段数を数えるが、日々事件の捜査やら何やらで動き回る木場の健脚はそれをものともしない。ただ絡みつく蒸し暑さが不愉快で、事務所に付いたら先ず一番に冷たい茶のひとつも出させようなどと考えていた。金文字に彩られた、見慣れた摺り硝子の前に立つまさにその瞬間までは。
金色のドアノブに手をかけた瞬間、扉の隙間から聞こえた悲鳴のような声に、木場は手を止めて眉を顰めた。
「…あぁ?」
常人ならば、すわ暴力事件かと室内に飛び込んでいくところであろうが、木場は幾つも修羅場を超えてきた刑事であり、それ以前にこの出鱈目な探偵事務所の常連であった。それゆえに、漏れ聞こえてきた「男の悲鳴」が誰のもので、誰によって成されたものかもしっかり解っている。大方女のように前髪を伸ばした調子乗りの助手を、幼馴染の理不尽探偵が叱るなり苛めるなりしているのであろう。こういう時に入っていくと、益田の方はあからさまに安堵した様子でこちらを見て、榎木津の方は「躾」を中断された不愉快さを一気にその顔に昇らせるのだ。
またそんな光景を見る羽目になるのか、と頭を振った木場の耳に、違った種類の悲鳴が届いた。
「榎木津さぁん、は、早…止めて…」
…んん?
ドアノブを握ったままの木場の手がぎしりと強張った。叱られているのに「早い」「止めて」と云った単語が混ざってくるのはどういうわけだ。おまけにやけに息切れしているようで、正座で怒鳴られている状態ではこんな声は出まい。あるとすれば―――木場の思考を、今度は別の男の声が破った。
「痛ッ!…こら、マスヤマ!」
「す、すみま…」
「下手くそめ…もういいから、焦るな」
「そんなこと、言われて、も…」
立派な造りのビルの癖に、声が思いっきり漏れてきやがるじゃねぇか…木場は見当違いの感想を浮かべた。歴戦の刑事を少なからず混乱させる出来事が、この扉の向こうで起こっているようだ。摺り硝子は白く曇っていて、中の様子は殆ど伺えない。おまけにガタンガタンと何か家具が跳ね上がるような音を聞き、柄にも無く木場の大きな背中がびくつく。
外で訪問者が固まっているのも知らず、中では行為が続いているようだった。
「も…もう無理です、って…え…」
「若い癖に、何を云ってるんだ。これは飾りか!でくの棒か!」
「酷い事、云わないでください…!榎木津さんとは年季が、」
「年季を埋めるためにわざわざ僕が相手してやってるんだ、そら、もっと近くに…」
下か。礼二郎のやつが下なのか。意外だな…ってオイ。そんな事考えてる場合か。
木場の額から汗が吹き出す。長い階段を昇ったくらいではびくともしない体が、一刻も早く此処から離れなければと警鐘を鳴らし続けていた。もう会話は終わったようだが、代わりに切れ切れに益田の泣き声が聞こえるばかりだ。
それにしても仮にも職場で、真昼間からいかがわしい行為に耽るとは。
「あの書生の野郎は何をしてやがんだ?」
「はいはい、私がどうかしましたかね」
独り言に何処かから返事が来て、木場は驚いた。はっとして振り向けば、いつから立っていたのか割烹着姿の和寅が見上げている。腕にぶら下がっている買い物籠からは長ネギが覗いており、探偵秘書にはとても見えない。
「お、お前!この一大事に何処ほっつき歩いてやがった!」
「はぁ?私は夕食の買出しですよ。今日は益田君も出勤してるし、先生もお目覚めでしたから」
事も無げに買い物籠を示す和寅を前に、木場の脳天がくらくらした。
(あいつら、こいつの目ェ盗んで…)
この事務所には榎木津の寝室も備えられているはずなのに、声はすぐ近くから聞こえるということも木場に衝撃を与えた。警察署内でこんな真似をしたら、減俸どころの話では無い。探偵としての職業意識が緩過ぎるとは常々思っていたが、あまりに酷い。探偵助手の方も仮にも元刑事であるのだから、いや元刑事で無かったとしても、上司の無体は止めるべきでは無いのか。いや、あいつから誘ったのか?
恐ろしい形相で立っている大男に怯えた様子を見せつつも、和寅はそっと事務所のノブに手を伸ばした。木場が慌てる。
「おい!開けるのか!?」
「? そりゃ開けますよ、早く冷蔵庫に入れないと魚が悪くなってしまいますし。木場の旦那も先生に御用があっていらしたんじゃないですか?」
「んなこたぁどうでも良いんだよ、いいからお前、もう一回買い物行け!」
「へ?もう買い物無いですよ、変な事云いますな、先生じゃああるまいし…」
和寅を押し留める木場の背中で、今度は大きな物音がした。恐らく目隠し用の衝立が倒れたのだ。益田の力の抜けた悲鳴も聞こえ、和寅が再び扉に手をかける。
「また先生が暴れている…誰が片付けると思っているんだか」
ガチャリ、と音を立ててノブが弾み、木の扉がゆっくりと開いていく。
木場も覚悟を決めた。こうなりゃあやぶれかぶれだ。何にしてもあの2人は、強制猥褻でしょっぴかれても文句は云えまい。
ドアが完全に開ききり、カウベルがからんからんと音を立てた。その向こうでは―――
衝立は倒れ、応接セットは部屋の端に移動させられている。
ぜぇぜぇと息を切らし、目を潤ませた益田がこちらを見ている。
僅かに頬を紅潮させた榎木津は、行為が中断した事を知って眉をすがめながらも、やはりこちらを見ている。
2人は手を、指をしっかりと絡ませ合って―――
フロアの中央に、着衣を乱す事無く立っていた。
和寅が持ってきた冷たい珈琲を、奪い取るようにして一気に飲み干した木場は、呆れたように云う。
「ダンスの練習、だぁ?」
「今朝本家から電話がありまして、今度舞踏会をやるから先生に帰ってくるようにって云われたそうなんですわ。先生だったら断るんでしょうが生憎電話に出たのが益田君で」
「ホイホイ引き受けちまったっつー事か」
「そう、それで彼は朝から責任を取らされているんです」
片付けられたソファに座る木場と和寅の横では、榎木津と益田がいつもより広くなった空間を引き続き縦横無尽に踊り回っている。
踊っている、と云うよりは「走っている」と云ったほうが正確であろう。膝から下がもはやふらふらになった益田が、泣き声を上げた。
「榎木津さぁん、もう無理です!休ませてくださぁい!」
「五月蝿い!マスヤマがダンスを全く知らないのがいけないのだ!3倍早く覚える為には、3倍早く踊るしか無いんだぞ!」
「だって、これはもう、踊りじゃ」
ステップについていけない益田の革靴が榎木津の足を踏んでしまい、奇声とともに榎木津の平手が飛ぶ。
外に聞こえてきたのは、このやりとりだったのか―――ぼんやりと眺める木場の目の前で、前屈みになって苦しそうに息を弾ませる益田の背を、榎木津が無理やり立たせた。
「姿勢から復習するぞ、しゃんと立て!」
繋いだ手を握りなおし、ふらふらしている益田の腰を、榎木津がぐいと引き寄せる。益田がおずおずと榎木津の腰を抱いたのを確かめ、榎木津の腕が益田の首を絡め取った。
頬を添わせ、抱き合うような仕草。グラスの中で溶けた氷が、からんと音を立てる。
「………やっぱりいかがわしいじゃねぇか!」
「何を云うか下駄男、今日はマスヤマがはじめてだと云うからたまたま僕が女役をやっているだけで普段なら」
「もう止めろバカヤロウ!」
ついに切れた木場が殴りかかり、榎木津も楽しげに応戦する。やっとのことで手が離れた益田は、弱った蝶のようにおぼつない動きでどうとソファに倒れこんだ。
「か、和寅さん…僕にも冷たい飲み物、ください…」
「はいはい」
木場は幾つもの修羅場を超えた、歴戦の刑事である。榎木津との付き合いも、この中では一番長い。
そんな彼でもまだ計り知れないものがある。それがこの世のどの探偵事務所よりも出鱈目で如何わしい、ここ薔薇十字探偵社なのだった。
――――
一度はこういう叙述トリック(違うと思う)ものを書きたかったんです。
でもタイトルでネタバレ。
金色のドアノブに手をかけた瞬間、扉の隙間から聞こえた悲鳴のような声に、木場は手を止めて眉を顰めた。
「…あぁ?」
常人ならば、すわ暴力事件かと室内に飛び込んでいくところであろうが、木場は幾つも修羅場を超えてきた刑事であり、それ以前にこの出鱈目な探偵事務所の常連であった。それゆえに、漏れ聞こえてきた「男の悲鳴」が誰のもので、誰によって成されたものかもしっかり解っている。大方女のように前髪を伸ばした調子乗りの助手を、幼馴染の理不尽探偵が叱るなり苛めるなりしているのであろう。こういう時に入っていくと、益田の方はあからさまに安堵した様子でこちらを見て、榎木津の方は「躾」を中断された不愉快さを一気にその顔に昇らせるのだ。
またそんな光景を見る羽目になるのか、と頭を振った木場の耳に、違った種類の悲鳴が届いた。
「榎木津さぁん、は、早…止めて…」
…んん?
ドアノブを握ったままの木場の手がぎしりと強張った。叱られているのに「早い」「止めて」と云った単語が混ざってくるのはどういうわけだ。おまけにやけに息切れしているようで、正座で怒鳴られている状態ではこんな声は出まい。あるとすれば―――木場の思考を、今度は別の男の声が破った。
「痛ッ!…こら、マスヤマ!」
「す、すみま…」
「下手くそめ…もういいから、焦るな」
「そんなこと、言われて、も…」
立派な造りのビルの癖に、声が思いっきり漏れてきやがるじゃねぇか…木場は見当違いの感想を浮かべた。歴戦の刑事を少なからず混乱させる出来事が、この扉の向こうで起こっているようだ。摺り硝子は白く曇っていて、中の様子は殆ど伺えない。おまけにガタンガタンと何か家具が跳ね上がるような音を聞き、柄にも無く木場の大きな背中がびくつく。
外で訪問者が固まっているのも知らず、中では行為が続いているようだった。
「も…もう無理です、って…え…」
「若い癖に、何を云ってるんだ。これは飾りか!でくの棒か!」
「酷い事、云わないでください…!榎木津さんとは年季が、」
「年季を埋めるためにわざわざ僕が相手してやってるんだ、そら、もっと近くに…」
下か。礼二郎のやつが下なのか。意外だな…ってオイ。そんな事考えてる場合か。
木場の額から汗が吹き出す。長い階段を昇ったくらいではびくともしない体が、一刻も早く此処から離れなければと警鐘を鳴らし続けていた。もう会話は終わったようだが、代わりに切れ切れに益田の泣き声が聞こえるばかりだ。
それにしても仮にも職場で、真昼間からいかがわしい行為に耽るとは。
「あの書生の野郎は何をしてやがんだ?」
「はいはい、私がどうかしましたかね」
独り言に何処かから返事が来て、木場は驚いた。はっとして振り向けば、いつから立っていたのか割烹着姿の和寅が見上げている。腕にぶら下がっている買い物籠からは長ネギが覗いており、探偵秘書にはとても見えない。
「お、お前!この一大事に何処ほっつき歩いてやがった!」
「はぁ?私は夕食の買出しですよ。今日は益田君も出勤してるし、先生もお目覚めでしたから」
事も無げに買い物籠を示す和寅を前に、木場の脳天がくらくらした。
(あいつら、こいつの目ェ盗んで…)
この事務所には榎木津の寝室も備えられているはずなのに、声はすぐ近くから聞こえるということも木場に衝撃を与えた。警察署内でこんな真似をしたら、減俸どころの話では無い。探偵としての職業意識が緩過ぎるとは常々思っていたが、あまりに酷い。探偵助手の方も仮にも元刑事であるのだから、いや元刑事で無かったとしても、上司の無体は止めるべきでは無いのか。いや、あいつから誘ったのか?
恐ろしい形相で立っている大男に怯えた様子を見せつつも、和寅はそっと事務所のノブに手を伸ばした。木場が慌てる。
「おい!開けるのか!?」
「? そりゃ開けますよ、早く冷蔵庫に入れないと魚が悪くなってしまいますし。木場の旦那も先生に御用があっていらしたんじゃないですか?」
「んなこたぁどうでも良いんだよ、いいからお前、もう一回買い物行け!」
「へ?もう買い物無いですよ、変な事云いますな、先生じゃああるまいし…」
和寅を押し留める木場の背中で、今度は大きな物音がした。恐らく目隠し用の衝立が倒れたのだ。益田の力の抜けた悲鳴も聞こえ、和寅が再び扉に手をかける。
「また先生が暴れている…誰が片付けると思っているんだか」
ガチャリ、と音を立ててノブが弾み、木の扉がゆっくりと開いていく。
木場も覚悟を決めた。こうなりゃあやぶれかぶれだ。何にしてもあの2人は、強制猥褻でしょっぴかれても文句は云えまい。
ドアが完全に開ききり、カウベルがからんからんと音を立てた。その向こうでは―――
衝立は倒れ、応接セットは部屋の端に移動させられている。
ぜぇぜぇと息を切らし、目を潤ませた益田がこちらを見ている。
僅かに頬を紅潮させた榎木津は、行為が中断した事を知って眉をすがめながらも、やはりこちらを見ている。
2人は手を、指をしっかりと絡ませ合って―――
フロアの中央に、着衣を乱す事無く立っていた。
和寅が持ってきた冷たい珈琲を、奪い取るようにして一気に飲み干した木場は、呆れたように云う。
「ダンスの練習、だぁ?」
「今朝本家から電話がありまして、今度舞踏会をやるから先生に帰ってくるようにって云われたそうなんですわ。先生だったら断るんでしょうが生憎電話に出たのが益田君で」
「ホイホイ引き受けちまったっつー事か」
「そう、それで彼は朝から責任を取らされているんです」
片付けられたソファに座る木場と和寅の横では、榎木津と益田がいつもより広くなった空間を引き続き縦横無尽に踊り回っている。
踊っている、と云うよりは「走っている」と云ったほうが正確であろう。膝から下がもはやふらふらになった益田が、泣き声を上げた。
「榎木津さぁん、もう無理です!休ませてくださぁい!」
「五月蝿い!マスヤマがダンスを全く知らないのがいけないのだ!3倍早く覚える為には、3倍早く踊るしか無いんだぞ!」
「だって、これはもう、踊りじゃ」
ステップについていけない益田の革靴が榎木津の足を踏んでしまい、奇声とともに榎木津の平手が飛ぶ。
外に聞こえてきたのは、このやりとりだったのか―――ぼんやりと眺める木場の目の前で、前屈みになって苦しそうに息を弾ませる益田の背を、榎木津が無理やり立たせた。
「姿勢から復習するぞ、しゃんと立て!」
繋いだ手を握りなおし、ふらふらしている益田の腰を、榎木津がぐいと引き寄せる。益田がおずおずと榎木津の腰を抱いたのを確かめ、榎木津の腕が益田の首を絡め取った。
頬を添わせ、抱き合うような仕草。グラスの中で溶けた氷が、からんと音を立てる。
「………やっぱりいかがわしいじゃねぇか!」
「何を云うか下駄男、今日はマスヤマがはじめてだと云うからたまたま僕が女役をやっているだけで普段なら」
「もう止めろバカヤロウ!」
ついに切れた木場が殴りかかり、榎木津も楽しげに応戦する。やっとのことで手が離れた益田は、弱った蝶のようにおぼつない動きでどうとソファに倒れこんだ。
「か、和寅さん…僕にも冷たい飲み物、ください…」
「はいはい」
木場は幾つもの修羅場を超えた、歴戦の刑事である。榎木津との付き合いも、この中では一番長い。
そんな彼でもまだ計り知れないものがある。それがこの世のどの探偵事務所よりも出鱈目で如何わしい、ここ薔薇十字探偵社なのだった。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
一度はこういう叙述トリック(違うと思う)ものを書きたかったんです。
でもタイトルでネタバレ。
「うはははは!ご飯の時間だ、早く帰るぞ!」
「ちょっと待ってくださいよう」
ばさばさと慌しく傘についた水を払う益田の肩を、榎木津の手が小突く。朝から降り続いた雨は未だ止まず、今日の神保町に陽の光が差し込む事は一瞬として無かった。
この白亜の建造物には薔薇十字探偵社の他にもテナントが入っている。今日はそこにも幾人かの出入りがあったようで、薄暗い石段には幾つもの知らぬ足跡が残っていた。その全てが水に濡れ、傘を引き摺った人物も居たのか水溜りすら出来ている箇所もある。
そんな過去の出来事には御構い無しと云った様子で、この世の誰よりも今を生きる男であるところの榎木津は全ての痕跡を上書きする勢いで石段を駆け上がって行った。靴の踵が堅い石を叩く音と一緒に、溜まった水を蹴り散らす音が廊下に響き渡る。妙に機嫌の良い、笑い声も。
「うわはははは、ははははは」
「榎木津さん待ってくださいって、うわ階段びしょびしょだ」
危ないなぁ、と云い掛けて、益田が顔を上げた刹那の事。
数段前を走っていた榎木津の足が、ずるりと段を踏み外すのが見えた。栗色の頭が、がくりと傾ぐ。
「あ?」
「うわっ!」
2本の傘が投げ出され、ばらばらに床を打ち付けると、水の道を残しながら同じように階段を滑り落ちていった。
同様の運命を辿るはずだった榎木津の体は、間一髪で益田の腕に抱え込まれている。探偵の危機を察したのか、あるいは無防備にしていては一緒に転げ落ちると理解出来る程発達した危機管理能力の賜物か、ともかく益田は、不恰好に反っくり返りながらもどうにか落ちてくる榎木津を受け止める事に成功したのだ。2人の男の体を支える手摺が、ぎしりと軋んだ。
益田に支えられ、不安定な体勢で固まっていた榎木津は、背中にバネでも仕込まれているのかと思う程勢い良く跳ね上がったかと思うと、何事も無かったかのように軽やかに石段に着地する。対して益田は跳ね飛ばされ、へなへなと手摺にしがみ付いた。すくりと君臨する榎木津を見上げて、力無くも微笑む。
「え、榎木津さん、大丈夫ですか…?」
「―――大丈夫じゃない!」
予想に反し、榎木津は高らかにそう宣言した。面食らったのは益田だ。受け止めたと思ったのに、足でも捻ってしまったのだろうか。
しかし当の榎木津は、とても足を痛めたようには見えぬ様子でひらりと益田の目の前まで降りてきた。ネクタイごと益田の上体を引き上げる。鳶色の瞳は感謝どころか、憤りに燃え上がっているように見えた。
「何をしてくれてるんだ、マスカマの癖に!」
「何をって…何もしてませんよ!榎木津さんが勝手に滑って転んだんじゃあないですかぁ」
「転んで無い!マスカマが僕が転ぶのを邪魔したからだッ!」
「ええっ!?」
理不尽もここまで来たか、と益田は目を白黒させる。助けなかったら助けなかったで、「神を受け止めるのは下僕の役目だ!」とか何とかぎゃあぎゃあ騒ぐだろうとは思ったが、まさか助けて叱られるとは思わなかった。宙ぶらりんだった体を更に引き上げられる。
「お前も今から落ちなさい!」
「ハァッ!?」
驚きで力が抜けた肩を押され、慌ててまた手摺にすがった。だが榎木津はお構い無しにぐいぐいと押してくる。今にもずるりと滑りそうな濡れた床が恐ろしい。
「地面に落っこちる前に僕が受け止めるから、それでチャラだ!潔く落ちろ!」
「ちょ、やめ、やめてください!あああ、危ない!」
引き剥がされては、しがみ付く。危ういバランスの上で攻防は続いた。榎木津は両手を使って益田を突き飛ばそうとしてくるので、このまま落下したら人間の反射神経では絶対に受け止められない。榎木津の獣じみた能力ならあるいは―――いや、やはり危険だ。というか、単純に怖い。益田は必死になって榎木津の攻撃に耐えていた。
助けて叱られるのはまだ良い、まさか命の心配をする羽目になるとは―――。
一瞬の思考が、益田に隙を生んだ。
「往生際が、悪いッ!」
榎木津の両腕が益田の手首を掴んだかと思うと、勢い良く壁に貼り付けた。堅牢な建物はその程度で揺れるほど柔な造りでは無かったが、強かに打ちつけた背中と腰に食い込んだ手摺がその分益田に痛みを齎す。呻いて背を反らした拍子に、片足が石段から離れた。
益田を支えているのは左足一本と、両手首を握りこむ榎木津だけだ。彼がその手を投げ捨てさえすれば、次の瞬間には益田の体は宙に舞う事になるだろう。咄嗟に見下ろした階下はそれほど遠くは無い筈だが、まるで奈落のように思え、益田を眩暈が襲った。
「…ひっ…」
「マスヤマ」
榎木津が笑っている。白い手で益田の手首を握りこんだままで。
その痩せた体を突き落とすなど造作も無い筈のそれは、離れる事は無い。代わりにもう一つ、体温が落ちてきた。其れは益田の鼻先を通り過ぎて、唇に触れた。
「!」
白壁に沿った手が、ぎゅっと拳を作る。
驚きで緩んだ口元から、容赦無く榎木津の舌が入り込んだ。忍び込むなどと云った生半なものでは無く、まさに嵐のように益田を掻き回して行く。益田の胸中も同じ事だった。口移しに吹き込まれた何かが、快感と綯い交ぜになって背筋を這い上がる。瞼がとろりと降りて来て、やがて閉じられた時、益田は水音に混じる感覚を拾い上げた。
(雨の、においだ…)
そう知覚した瞬間、ふっと力が抜け落ちる。膝が崩れ、背中がずるずる滑って、宙に浮いていた右足がごとりと段から落ちた。榎木津の唇が離れても、益田の気力は戻らない。手首を掴まれたまま、湿った石段にへたり込んでしまった。
雨の日に目覚めた時のようにぼうっとした頭のまま、榎木津を見上げる。薄暗い雨の空気を纏ったまま、静かに笑んでいる。
子どもに対するようなやさしい声で、だめじゃないか、と呟いた。
「もっと盛大に落ちてくれないと、助け甲斐が無い」
手首を吊られたままの妙な格好で、益田もへらりと笑った。
自分と来たら落ちる一方で、まだまだ底が見えないのに。それでいて、榎木津と居ると時折天に舞い上がるような多幸感に襲われる事もあるのだ。なんだか、妙な気分だった。
――――
久しくこういう話書いてないなと思って書きました。榎益榎楽しい!
「ちょっと待ってくださいよう」
ばさばさと慌しく傘についた水を払う益田の肩を、榎木津の手が小突く。朝から降り続いた雨は未だ止まず、今日の神保町に陽の光が差し込む事は一瞬として無かった。
この白亜の建造物には薔薇十字探偵社の他にもテナントが入っている。今日はそこにも幾人かの出入りがあったようで、薄暗い石段には幾つもの知らぬ足跡が残っていた。その全てが水に濡れ、傘を引き摺った人物も居たのか水溜りすら出来ている箇所もある。
そんな過去の出来事には御構い無しと云った様子で、この世の誰よりも今を生きる男であるところの榎木津は全ての痕跡を上書きする勢いで石段を駆け上がって行った。靴の踵が堅い石を叩く音と一緒に、溜まった水を蹴り散らす音が廊下に響き渡る。妙に機嫌の良い、笑い声も。
「うわはははは、ははははは」
「榎木津さん待ってくださいって、うわ階段びしょびしょだ」
危ないなぁ、と云い掛けて、益田が顔を上げた刹那の事。
数段前を走っていた榎木津の足が、ずるりと段を踏み外すのが見えた。栗色の頭が、がくりと傾ぐ。
「あ?」
「うわっ!」
2本の傘が投げ出され、ばらばらに床を打ち付けると、水の道を残しながら同じように階段を滑り落ちていった。
同様の運命を辿るはずだった榎木津の体は、間一髪で益田の腕に抱え込まれている。探偵の危機を察したのか、あるいは無防備にしていては一緒に転げ落ちると理解出来る程発達した危機管理能力の賜物か、ともかく益田は、不恰好に反っくり返りながらもどうにか落ちてくる榎木津を受け止める事に成功したのだ。2人の男の体を支える手摺が、ぎしりと軋んだ。
益田に支えられ、不安定な体勢で固まっていた榎木津は、背中にバネでも仕込まれているのかと思う程勢い良く跳ね上がったかと思うと、何事も無かったかのように軽やかに石段に着地する。対して益田は跳ね飛ばされ、へなへなと手摺にしがみ付いた。すくりと君臨する榎木津を見上げて、力無くも微笑む。
「え、榎木津さん、大丈夫ですか…?」
「―――大丈夫じゃない!」
予想に反し、榎木津は高らかにそう宣言した。面食らったのは益田だ。受け止めたと思ったのに、足でも捻ってしまったのだろうか。
しかし当の榎木津は、とても足を痛めたようには見えぬ様子でひらりと益田の目の前まで降りてきた。ネクタイごと益田の上体を引き上げる。鳶色の瞳は感謝どころか、憤りに燃え上がっているように見えた。
「何をしてくれてるんだ、マスカマの癖に!」
「何をって…何もしてませんよ!榎木津さんが勝手に滑って転んだんじゃあないですかぁ」
「転んで無い!マスカマが僕が転ぶのを邪魔したからだッ!」
「ええっ!?」
理不尽もここまで来たか、と益田は目を白黒させる。助けなかったら助けなかったで、「神を受け止めるのは下僕の役目だ!」とか何とかぎゃあぎゃあ騒ぐだろうとは思ったが、まさか助けて叱られるとは思わなかった。宙ぶらりんだった体を更に引き上げられる。
「お前も今から落ちなさい!」
「ハァッ!?」
驚きで力が抜けた肩を押され、慌ててまた手摺にすがった。だが榎木津はお構い無しにぐいぐいと押してくる。今にもずるりと滑りそうな濡れた床が恐ろしい。
「地面に落っこちる前に僕が受け止めるから、それでチャラだ!潔く落ちろ!」
「ちょ、やめ、やめてください!あああ、危ない!」
引き剥がされては、しがみ付く。危ういバランスの上で攻防は続いた。榎木津は両手を使って益田を突き飛ばそうとしてくるので、このまま落下したら人間の反射神経では絶対に受け止められない。榎木津の獣じみた能力ならあるいは―――いや、やはり危険だ。というか、単純に怖い。益田は必死になって榎木津の攻撃に耐えていた。
助けて叱られるのはまだ良い、まさか命の心配をする羽目になるとは―――。
一瞬の思考が、益田に隙を生んだ。
「往生際が、悪いッ!」
榎木津の両腕が益田の手首を掴んだかと思うと、勢い良く壁に貼り付けた。堅牢な建物はその程度で揺れるほど柔な造りでは無かったが、強かに打ちつけた背中と腰に食い込んだ手摺がその分益田に痛みを齎す。呻いて背を反らした拍子に、片足が石段から離れた。
益田を支えているのは左足一本と、両手首を握りこむ榎木津だけだ。彼がその手を投げ捨てさえすれば、次の瞬間には益田の体は宙に舞う事になるだろう。咄嗟に見下ろした階下はそれほど遠くは無い筈だが、まるで奈落のように思え、益田を眩暈が襲った。
「…ひっ…」
「マスヤマ」
榎木津が笑っている。白い手で益田の手首を握りこんだままで。
その痩せた体を突き落とすなど造作も無い筈のそれは、離れる事は無い。代わりにもう一つ、体温が落ちてきた。其れは益田の鼻先を通り過ぎて、唇に触れた。
「!」
白壁に沿った手が、ぎゅっと拳を作る。
驚きで緩んだ口元から、容赦無く榎木津の舌が入り込んだ。忍び込むなどと云った生半なものでは無く、まさに嵐のように益田を掻き回して行く。益田の胸中も同じ事だった。口移しに吹き込まれた何かが、快感と綯い交ぜになって背筋を這い上がる。瞼がとろりと降りて来て、やがて閉じられた時、益田は水音に混じる感覚を拾い上げた。
(雨の、においだ…)
そう知覚した瞬間、ふっと力が抜け落ちる。膝が崩れ、背中がずるずる滑って、宙に浮いていた右足がごとりと段から落ちた。榎木津の唇が離れても、益田の気力は戻らない。手首を掴まれたまま、湿った石段にへたり込んでしまった。
雨の日に目覚めた時のようにぼうっとした頭のまま、榎木津を見上げる。薄暗い雨の空気を纏ったまま、静かに笑んでいる。
子どもに対するようなやさしい声で、だめじゃないか、と呟いた。
「もっと盛大に落ちてくれないと、助け甲斐が無い」
手首を吊られたままの妙な格好で、益田もへらりと笑った。
自分と来たら落ちる一方で、まだまだ底が見えないのに。それでいて、榎木津と居ると時折天に舞い上がるような多幸感に襲われる事もあるのだ。なんだか、妙な気分だった。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
久しくこういう話書いてないなと思って書きました。榎益榎楽しい!
かっしゃん。
薄暗い台所の中で、呆気ないほど軽い音がして、益田は振り向いた。
見下ろした足元はいつも此処の主である和寅が清潔にしている筈なのに、散乱する異物と先程音の正体を察した途端寒気めいたものが益田の背を這い登ってくる。
「…えっ」
硬い床に叩きつけられたのだろう―――砕け散った陶磁のカップが其処にはあった。つなぎ合わせる事も出来ないほど細かな破片となったものは、繊細な曲線を描いていた取っ手の部分に違いない。比較的大きな破片は幾つかの色に分かれているが、其れは縁を取り巻く金の箔と鮮やかな薔薇の模様であった事を益田は知っている。
すぐさまその場にしゃがみこみ、血の気の引いた顔の前に一片を持ち上げてみた。やはり間違い無い。
「…うわやっぱり、榎木津さんのカップだ!何だこれ、え、僕がやったの!?」
「その通りだよ益田君」
益田は肩をびくりと竦ませる。見上げた食器棚の陰から、書生姿の男が姿を現した。
「和寅さん!」
「だから台所に勝手に入るなと云ってるのに」
太い眉を顰めて大袈裟な溜息を吐く。益田の手から抜け落ちた破片が、更に四散した。
「いや、僕にも何が何だか解んなくて…これは不幸な事故なんですよう」
「事故なものか。君は私の目を盗んでつまみ食いをしようとしたんだろう。菓子の類は食器棚の奥に隠してある。先生のカップも同じ段に仕舞っているんだ。君は奥の菓子を出す時に、横着して先生のカップを退けなかったね。しかも棚の戸をちゃんと閉めていなかった。だから益田君が歩いた振動で、滑り落ちてしまったんだ」
益田は横目でちらりと流し台に置きっぱなしの煎餅袋を見て、子犬のように目を伏せる。和寅は片割れを失ってしまったソーサーを名残惜しげに繰りながら、へたり込んでいる益田を―――木っ端微塵になったカップの成れの果てを見下ろした。
泣き声とも溜息ともつかない呻き声をあげる益田の前に、和寅が屈みこむ。その手は比較的大きな破片を拾い上げては、懐紙の上に乗せていく。益田など居ないように着々と作業は進み、最後に残ったどうにもならない砂のようなものは箒で集めて捨ててしまった。
紙ごと破片を持ち上げ、すたすたと歩き出す和寅の背に、益田が声をかける。
「和寅さん、それどうするんですか」
「備品が壊れたので先生に報告するんだよ」
―――榎木津さんに、報告!?
聞くや否や益田は立ち上がり、半べそで和寅に詰め寄った。
「ちょちょちょちょっ、報告!? 報告って、報告ですか!」
「何を云っているのかね君は。当たり前だろう。先生が目を覚まし次第そうするつもりだよ」
和寅は五月蠅げに歩を進めるが、益田とて譲らない。進行方向に回り込んで、ぺこぺこと頭を下げながら懇願している。必死ながらも、榎木津を起こさないように声は業とらしいほど抑えた上で。
「榎木津さんなんか何でお茶飲んだって一緒みたいな人ですよ、わざわざ波風立てるこたぁ無いじゃないですか!しかも寝起きって…不機嫌の極みですよ、ここは事務所の平和のためにも不幸な事故ということでどうかひとつ!」
「事故じゃないじゃないか、人災だよ。君のヘマの片棒を担ぐなんて、私ゃ御免だね」
「今回はたまたま僕が原因だったかも知れませんが、榎木津さんのカップですよ、いつか壊れてたに決まってますって!きっと今日がその時だったんです、カップは僕が自腹で弁償しますし、和寅さんに庇って頂いた御恩はいつかお返ししますから、今日のところは、ねぇねぇ」
「しつこいな君も!」
探偵机の上に破片を置くと、和寅は益田の方に身を翻した。榎木津とは違った意味で日本人離れした顔が、益田をぎっと睨みあげている。
「其れにね、幾ら言い訳だてしたって駄目さ。何せ私ゃ『見てる』んだからね」
益田がコソコソと台所に侵入する背中から、扉の隙間からちらりと見える不安定なカップ、其れが真っ逆さまに落下する所まで、全てだ。益田もよもや忘れてはいまい、探偵が榎木津礼二郎である限り、言い逃れなど何一つ効かないと云う事位。益田の肩がゆっくりと下がり、大きな溜息と共に脱力する。
解れば良いのだと、和寅は仕事に戻ろうとした。益田の横をすり抜けて、持ち場に戻ろうとしたのだ。
しかし其れは止められた。思いがけず伸びてきた益田の腕に、割烹着の袖を掴まれたからだ。重く垂れた前髪から、思いつめた黒い瞳が覗いている。
「……忘れてください」
「ハァ?」
「和寅さんさえ忘れてくれれば、全部円く収まるんですっ!榎木津さんが目を覚ます前に、すっきりさっぱり忘れちゃってください!」
「どうかしてしまったのかね君は!窓の汚れじゃあるまいし、ハイそうですかと綺麗さっぱり行くものか!」
振り払おうとしたもう片方の腕も握られて、いつの間にか掴み合いになってしまった。力では恐らく和寅に分があるものの、妙に必死な益田も両腕を離そうとしない。押し合い引き合いで、2人の足が奇妙なステップを踏む。
「そこを何とか、お願いします!」
「ちょ、落ち着、うわぁ!」
毛足の長い絨毯に足を取られ、二人の視界が傾ぐ。あわや転倒しかけたが、幸運な事に応接用のソファが2人ともを受け止めた。和寅は背中から落ち、その上から益田が倒れこむ。
しかし不幸な事があった。落ちたカップと同じように勢いのついた和寅の後頭部が、木製の肘掛と強かにぶつかってしまったのだ。余程良い具合に決まったのか、目の前に星が飛ぶ。
「痛ッ!」
しかも、不幸と云うものは得てして続いてしまうもので。
「何だ下僕ども、朝から五月蝿いぞ!」
眠りから覚めた暴君が、衝立の陰から遂に姿を現してしまったのである。
怒りに燃えていた鳶色の瞳がどんどん透明度を増して行くのを、不幸な下僕2名は同時に見た。
彼らは榎木津のような不思議な能力を有している訳では無いが、彼の目にどんな光景が映っているのかは、容易に想像できた。
黒髪を振り乱した痩せた男が息を荒げながら、書生姿に割烹着の給仕(頭をぶつけた所為で、目には涙すら浮かんでいる)を、ソファに組み敷いているという、地獄のような有様に相違無い―――
憤然と腰掛ける榎木津の目の前で、被告人―――もとい、下僕2名が小さくなって座っている。
下僕の1人、益田はぼそぼそと思いつく限りの謝罪を繰り返していた。
「…えっと、榎木津さんが寝てる間につまみ食いしようとしてすみません…」
「それじゃない」
「榎木津さんの大事なカップ割っちゃってすみません…」
「それじゃない」
「和寅さんと喧嘩して、榎木津さんのお休みを妨害して…」
「何処まで頭が悪いのだ、バカバカバカバカオロカめ!自分の罪状すら把握してないんじゃ、自首の意味が無いぞ!」
榎木津が乱暴に醤油煎餅を拳で打つ音にすら、びくついてしまう。裁判官の木槌の要領で振り下ろされた拳によって、硬い煎餅は粉々に砕けた。
「僕が寝てる隙に、しかもソファで事に及ぼうとしただろう!寝起きに不愉快なものを見せるな!」
「こ、事って!それは誤解ですよ!しかもよりによって和寅さんとなんて、絶対有り得ませんから!」
「それはこっちの台詞だよ。誰が益田君なんかに」
憮然と答えた和寅が、ぶつけた後頭部を摩っている。短く刈り込んだ髪の感触に加え、やや熱を持った瘤があるのが解った。
「言い訳しない!僕には全部視えてるんだ、隠し事するなバカども!」
勿論2人とも忘れてはいない。
探偵が榎木津礼二郎である限り、正であろうと誤であろうと、一切の弁明は通用しないと云う事を。まだ嵐は収まりそうに無い。
苛苛と煎餅の破片を噛む榎木津の前で、益田がそっと和寅に囁きかける。
「…ところで和寅さん、頭ぶつけて忘れたりしてません?」
「忘れるものかね。死んだって忘れないよ、この件については」
「ですよねぇ」
「不味いっ!」
木っ端微塵の煎餅が雨のように浴びせかけられ、2人は同時に身を竦めた。
――――
ま さ か の 益 和
本当に薔薇十字探偵社の可能性は無限大ですね!
薄暗い台所の中で、呆気ないほど軽い音がして、益田は振り向いた。
見下ろした足元はいつも此処の主である和寅が清潔にしている筈なのに、散乱する異物と先程音の正体を察した途端寒気めいたものが益田の背を這い登ってくる。
「…えっ」
硬い床に叩きつけられたのだろう―――砕け散った陶磁のカップが其処にはあった。つなぎ合わせる事も出来ないほど細かな破片となったものは、繊細な曲線を描いていた取っ手の部分に違いない。比較的大きな破片は幾つかの色に分かれているが、其れは縁を取り巻く金の箔と鮮やかな薔薇の模様であった事を益田は知っている。
すぐさまその場にしゃがみこみ、血の気の引いた顔の前に一片を持ち上げてみた。やはり間違い無い。
「…うわやっぱり、榎木津さんのカップだ!何だこれ、え、僕がやったの!?」
「その通りだよ益田君」
益田は肩をびくりと竦ませる。見上げた食器棚の陰から、書生姿の男が姿を現した。
「和寅さん!」
「だから台所に勝手に入るなと云ってるのに」
太い眉を顰めて大袈裟な溜息を吐く。益田の手から抜け落ちた破片が、更に四散した。
「いや、僕にも何が何だか解んなくて…これは不幸な事故なんですよう」
「事故なものか。君は私の目を盗んでつまみ食いをしようとしたんだろう。菓子の類は食器棚の奥に隠してある。先生のカップも同じ段に仕舞っているんだ。君は奥の菓子を出す時に、横着して先生のカップを退けなかったね。しかも棚の戸をちゃんと閉めていなかった。だから益田君が歩いた振動で、滑り落ちてしまったんだ」
益田は横目でちらりと流し台に置きっぱなしの煎餅袋を見て、子犬のように目を伏せる。和寅は片割れを失ってしまったソーサーを名残惜しげに繰りながら、へたり込んでいる益田を―――木っ端微塵になったカップの成れの果てを見下ろした。
泣き声とも溜息ともつかない呻き声をあげる益田の前に、和寅が屈みこむ。その手は比較的大きな破片を拾い上げては、懐紙の上に乗せていく。益田など居ないように着々と作業は進み、最後に残ったどうにもならない砂のようなものは箒で集めて捨ててしまった。
紙ごと破片を持ち上げ、すたすたと歩き出す和寅の背に、益田が声をかける。
「和寅さん、それどうするんですか」
「備品が壊れたので先生に報告するんだよ」
―――榎木津さんに、報告!?
聞くや否や益田は立ち上がり、半べそで和寅に詰め寄った。
「ちょちょちょちょっ、報告!? 報告って、報告ですか!」
「何を云っているのかね君は。当たり前だろう。先生が目を覚まし次第そうするつもりだよ」
和寅は五月蠅げに歩を進めるが、益田とて譲らない。進行方向に回り込んで、ぺこぺこと頭を下げながら懇願している。必死ながらも、榎木津を起こさないように声は業とらしいほど抑えた上で。
「榎木津さんなんか何でお茶飲んだって一緒みたいな人ですよ、わざわざ波風立てるこたぁ無いじゃないですか!しかも寝起きって…不機嫌の極みですよ、ここは事務所の平和のためにも不幸な事故ということでどうかひとつ!」
「事故じゃないじゃないか、人災だよ。君のヘマの片棒を担ぐなんて、私ゃ御免だね」
「今回はたまたま僕が原因だったかも知れませんが、榎木津さんのカップですよ、いつか壊れてたに決まってますって!きっと今日がその時だったんです、カップは僕が自腹で弁償しますし、和寅さんに庇って頂いた御恩はいつかお返ししますから、今日のところは、ねぇねぇ」
「しつこいな君も!」
探偵机の上に破片を置くと、和寅は益田の方に身を翻した。榎木津とは違った意味で日本人離れした顔が、益田をぎっと睨みあげている。
「其れにね、幾ら言い訳だてしたって駄目さ。何せ私ゃ『見てる』んだからね」
益田がコソコソと台所に侵入する背中から、扉の隙間からちらりと見える不安定なカップ、其れが真っ逆さまに落下する所まで、全てだ。益田もよもや忘れてはいまい、探偵が榎木津礼二郎である限り、言い逃れなど何一つ効かないと云う事位。益田の肩がゆっくりと下がり、大きな溜息と共に脱力する。
解れば良いのだと、和寅は仕事に戻ろうとした。益田の横をすり抜けて、持ち場に戻ろうとしたのだ。
しかし其れは止められた。思いがけず伸びてきた益田の腕に、割烹着の袖を掴まれたからだ。重く垂れた前髪から、思いつめた黒い瞳が覗いている。
「……忘れてください」
「ハァ?」
「和寅さんさえ忘れてくれれば、全部円く収まるんですっ!榎木津さんが目を覚ます前に、すっきりさっぱり忘れちゃってください!」
「どうかしてしまったのかね君は!窓の汚れじゃあるまいし、ハイそうですかと綺麗さっぱり行くものか!」
振り払おうとしたもう片方の腕も握られて、いつの間にか掴み合いになってしまった。力では恐らく和寅に分があるものの、妙に必死な益田も両腕を離そうとしない。押し合い引き合いで、2人の足が奇妙なステップを踏む。
「そこを何とか、お願いします!」
「ちょ、落ち着、うわぁ!」
毛足の長い絨毯に足を取られ、二人の視界が傾ぐ。あわや転倒しかけたが、幸運な事に応接用のソファが2人ともを受け止めた。和寅は背中から落ち、その上から益田が倒れこむ。
しかし不幸な事があった。落ちたカップと同じように勢いのついた和寅の後頭部が、木製の肘掛と強かにぶつかってしまったのだ。余程良い具合に決まったのか、目の前に星が飛ぶ。
「痛ッ!」
しかも、不幸と云うものは得てして続いてしまうもので。
「何だ下僕ども、朝から五月蝿いぞ!」
眠りから覚めた暴君が、衝立の陰から遂に姿を現してしまったのである。
怒りに燃えていた鳶色の瞳がどんどん透明度を増して行くのを、不幸な下僕2名は同時に見た。
彼らは榎木津のような不思議な能力を有している訳では無いが、彼の目にどんな光景が映っているのかは、容易に想像できた。
黒髪を振り乱した痩せた男が息を荒げながら、書生姿に割烹着の給仕(頭をぶつけた所為で、目には涙すら浮かんでいる)を、ソファに組み敷いているという、地獄のような有様に相違無い―――
憤然と腰掛ける榎木津の目の前で、被告人―――もとい、下僕2名が小さくなって座っている。
下僕の1人、益田はぼそぼそと思いつく限りの謝罪を繰り返していた。
「…えっと、榎木津さんが寝てる間につまみ食いしようとしてすみません…」
「それじゃない」
「榎木津さんの大事なカップ割っちゃってすみません…」
「それじゃない」
「和寅さんと喧嘩して、榎木津さんのお休みを妨害して…」
「何処まで頭が悪いのだ、バカバカバカバカオロカめ!自分の罪状すら把握してないんじゃ、自首の意味が無いぞ!」
榎木津が乱暴に醤油煎餅を拳で打つ音にすら、びくついてしまう。裁判官の木槌の要領で振り下ろされた拳によって、硬い煎餅は粉々に砕けた。
「僕が寝てる隙に、しかもソファで事に及ぼうとしただろう!寝起きに不愉快なものを見せるな!」
「こ、事って!それは誤解ですよ!しかもよりによって和寅さんとなんて、絶対有り得ませんから!」
「それはこっちの台詞だよ。誰が益田君なんかに」
憮然と答えた和寅が、ぶつけた後頭部を摩っている。短く刈り込んだ髪の感触に加え、やや熱を持った瘤があるのが解った。
「言い訳しない!僕には全部視えてるんだ、隠し事するなバカども!」
勿論2人とも忘れてはいない。
探偵が榎木津礼二郎である限り、正であろうと誤であろうと、一切の弁明は通用しないと云う事を。まだ嵐は収まりそうに無い。
苛苛と煎餅の破片を噛む榎木津の前で、益田がそっと和寅に囁きかける。
「…ところで和寅さん、頭ぶつけて忘れたりしてません?」
「忘れるものかね。死んだって忘れないよ、この件については」
「ですよねぇ」
「不味いっ!」
木っ端微塵の煎餅が雨のように浴びせかけられ、2人は同時に身を竦めた。
――――
ま さ か の 益 和
本当に薔薇十字探偵社の可能性は無限大ですね!
カタンカタンと電車が走る音が遠く聞こえる。
茶びた卓上でくらくら煮える鉄鍋の中では、良い具合にサシの回った薔薇色の肉が割り下と共に踊り、絹漉しの豆腐の白と相まって目の御馳走と云った風情だ。
鍋に突っ込まれている箸は二膳。箸置きの上に並んでいるのが一膳。一膳の男――益田は茶のお代わりを求めて厨房に向かったのだ。あとの2人は良い具合に火が通った肉を引き出しては、口に運んでいる。
そのうちの1人は湯気で曇った金縁眼鏡を拭きながら、思い出したように顔を上げた。
「―――あっ、そうだ」
もう1人の男も目を上げる。踊る豆腐の肌に勝るとも劣らぬ白い肌に付いた割り下を、美貌に似合わぬ乱暴な仕草で拭いながら。
「ごめんエヅ、云ってなかったっけ」
「何を」
「こないだ益田ちゃんに会った時さ、嗚呼こないだって云っても6月の話だからこないだでも無いかなぁ」
「何が」
「お前が益田ちゃんの話してた事、益田ちゃんに喋っちゃった」
湯気の向こうで日焼け肌がくしゃりと歪む。バツの悪そうな、けれど何処か得意げな表情。
「…」
榎木津は肉を租借しつつ飴色の瞳でじっと司を見ている。他に客の居ない個室で、鍋が煮えるくつくつという音だけが響いていた。其処に司が手酌をするとくとくという音が重なり、更に笑み交じりの声が続く。
「僕はさ、そこで初めてエヅが云うところの『馬鹿』があの子だって知ったわけじゃない?なんせ馬鹿とかオロカとか、およそ人の名前じゃない言葉ばっかり出てくるんだもの。唯一其れっぽかったのが『マスヤマ』だからね、益田ですとか云うからアレ?なんて思っちゃって。だからついポロっと云っちゃったわけさ」
「ふうん」
「イヤふうんじゃなくて聞きなよ。こっからが面白いんだから。あの子見るからに真面目そうだし、実際僕のナリを見てきょとーんとしちゃって、それから訝しげにしてるのさ。まぁそれは良いんだけどね、エヅの名前が出た途端だよ」
冷酒をぐいと煽り、箸先をびしりと榎木津の鼻先に突きつける。指を向けられた猫のように、丸い目がしきりに瞬いた。
それを見て、司は満足したように云う。
「――榎木津さんが僕のことを何か云ってたんですかぁ、だってぇ。身乗り出しちゃってさ、黒い目がキラキラしてたよう」
おっと肉が煮えちゃう、と云って伸ばされかけた箸の先から、榎木津の箸が素早く肉を奪い取る。
苦笑する司を無視して、榎木津は其れを白飯と共に口内へとかきこんだ。
曇りを拭ったレンズの奥で、さも楽しげに細められた瞳が榎木津を見据えている。
「面白い子じゃないか、ちょっと真面目すぎるのが駄目だけど」
「バカばっかりやるから最初は面白いけど、あんまりオロカだから段々苛苛してくるよ」
「あぁそう!良いじゃないの、真っ直ぐで。エヅにも見せてやりたかったねぇ、あの時の益田ちゃん」
わざと云っているのか忘れているのかは知らないが、云われるまでも無く榎木津の目には『あの時』とやらがしっかりと視えていた。
曖昧な笑みで頷いていたかと思えば、興味深げに目を丸くして、其れから直ぐにおどおどと視線を彷徨わせる姿。揺れる前髪の向こうで、思いのほかくるくる変わる表情。
司はと云うと、空になった榎木津のグラスにも酒を注いでいる。
「大事にしてあげなよう?助手孝行したい時には助手は無しってね。フラっと居なくなっちゃっても知らないよう」
「居なくならないよ」
榎木津の答えを聞き、今度は司の目が見開かれる。
「おや自信ありげ。そりゃあ益田ちゃんは随分熱心なようだけど、愛想尽かししないとも限らないでしょ?そう云えばお茶を貰いに行くとか云って、随分戻って来ないけど」
「居なくならないね」
司が注いだ酒をぐいと煽り、白い首の中で喉仏が上下する。
高い音を立ててグラスが置かれた時、榎木津の顔は笑っていた。自信と確信に満ちた、勝者の笑み。
「何故なら神が許さないからだ!」
座敷はしん、と静まりかえる。
鍋が煮立つ音、窓越しの雑踏。二、三度瞬きをしたきり呆然としている司と、満面の笑顔を崩さない榎木津。最初に口を開いたのは、司の方だった。
面白くて仕方が無いと云う代わりに、身を仰け反らせて大声で笑っている。ひとしきり笑うと、ふうと一息吐き、当初の姿勢に戻った。
「あー面白い。こんな話に本気出しちゃって、エヅは真面目だなぁ――おっと」
司が襖に目を向ける。その向こうに続く廊下の先から、ぱたぱたと足音がしたからだ。
給仕人にしては洗練されておらず、気が急いている事ばかりが伝わる其れは恐らく益田のものだろう。
「今の話益田ちゃんにしたら、あの子喜ぶかなぁ」
「僕の許可無く下僕を甘やかすな!」
「解ってるって。云ってみただけ」
浅黒い手は幾度目かの継ぎ足しをしようとしたが、瓶の先からは申し訳程度に雫が落ちただけだった。
と同時に、すらりと襖が開く。
「―――かわいいねぇ」
五厘に刈った頭を掻いて、男はくつくつと笑った。
――――
流行に便乗。割と最近まで司を下の名前だと思っていました。
茶びた卓上でくらくら煮える鉄鍋の中では、良い具合にサシの回った薔薇色の肉が割り下と共に踊り、絹漉しの豆腐の白と相まって目の御馳走と云った風情だ。
鍋に突っ込まれている箸は二膳。箸置きの上に並んでいるのが一膳。一膳の男――益田は茶のお代わりを求めて厨房に向かったのだ。あとの2人は良い具合に火が通った肉を引き出しては、口に運んでいる。
そのうちの1人は湯気で曇った金縁眼鏡を拭きながら、思い出したように顔を上げた。
「―――あっ、そうだ」
もう1人の男も目を上げる。踊る豆腐の肌に勝るとも劣らぬ白い肌に付いた割り下を、美貌に似合わぬ乱暴な仕草で拭いながら。
「ごめんエヅ、云ってなかったっけ」
「何を」
「こないだ益田ちゃんに会った時さ、嗚呼こないだって云っても6月の話だからこないだでも無いかなぁ」
「何が」
「お前が益田ちゃんの話してた事、益田ちゃんに喋っちゃった」
湯気の向こうで日焼け肌がくしゃりと歪む。バツの悪そうな、けれど何処か得意げな表情。
「…」
榎木津は肉を租借しつつ飴色の瞳でじっと司を見ている。他に客の居ない個室で、鍋が煮えるくつくつという音だけが響いていた。其処に司が手酌をするとくとくという音が重なり、更に笑み交じりの声が続く。
「僕はさ、そこで初めてエヅが云うところの『馬鹿』があの子だって知ったわけじゃない?なんせ馬鹿とかオロカとか、およそ人の名前じゃない言葉ばっかり出てくるんだもの。唯一其れっぽかったのが『マスヤマ』だからね、益田ですとか云うからアレ?なんて思っちゃって。だからついポロっと云っちゃったわけさ」
「ふうん」
「イヤふうんじゃなくて聞きなよ。こっからが面白いんだから。あの子見るからに真面目そうだし、実際僕のナリを見てきょとーんとしちゃって、それから訝しげにしてるのさ。まぁそれは良いんだけどね、エヅの名前が出た途端だよ」
冷酒をぐいと煽り、箸先をびしりと榎木津の鼻先に突きつける。指を向けられた猫のように、丸い目がしきりに瞬いた。
それを見て、司は満足したように云う。
「――榎木津さんが僕のことを何か云ってたんですかぁ、だってぇ。身乗り出しちゃってさ、黒い目がキラキラしてたよう」
おっと肉が煮えちゃう、と云って伸ばされかけた箸の先から、榎木津の箸が素早く肉を奪い取る。
苦笑する司を無視して、榎木津は其れを白飯と共に口内へとかきこんだ。
曇りを拭ったレンズの奥で、さも楽しげに細められた瞳が榎木津を見据えている。
「面白い子じゃないか、ちょっと真面目すぎるのが駄目だけど」
「バカばっかりやるから最初は面白いけど、あんまりオロカだから段々苛苛してくるよ」
「あぁそう!良いじゃないの、真っ直ぐで。エヅにも見せてやりたかったねぇ、あの時の益田ちゃん」
わざと云っているのか忘れているのかは知らないが、云われるまでも無く榎木津の目には『あの時』とやらがしっかりと視えていた。
曖昧な笑みで頷いていたかと思えば、興味深げに目を丸くして、其れから直ぐにおどおどと視線を彷徨わせる姿。揺れる前髪の向こうで、思いのほかくるくる変わる表情。
司はと云うと、空になった榎木津のグラスにも酒を注いでいる。
「大事にしてあげなよう?助手孝行したい時には助手は無しってね。フラっと居なくなっちゃっても知らないよう」
「居なくならないよ」
榎木津の答えを聞き、今度は司の目が見開かれる。
「おや自信ありげ。そりゃあ益田ちゃんは随分熱心なようだけど、愛想尽かししないとも限らないでしょ?そう云えばお茶を貰いに行くとか云って、随分戻って来ないけど」
「居なくならないね」
司が注いだ酒をぐいと煽り、白い首の中で喉仏が上下する。
高い音を立ててグラスが置かれた時、榎木津の顔は笑っていた。自信と確信に満ちた、勝者の笑み。
「何故なら神が許さないからだ!」
座敷はしん、と静まりかえる。
鍋が煮立つ音、窓越しの雑踏。二、三度瞬きをしたきり呆然としている司と、満面の笑顔を崩さない榎木津。最初に口を開いたのは、司の方だった。
面白くて仕方が無いと云う代わりに、身を仰け反らせて大声で笑っている。ひとしきり笑うと、ふうと一息吐き、当初の姿勢に戻った。
「あー面白い。こんな話に本気出しちゃって、エヅは真面目だなぁ――おっと」
司が襖に目を向ける。その向こうに続く廊下の先から、ぱたぱたと足音がしたからだ。
給仕人にしては洗練されておらず、気が急いている事ばかりが伝わる其れは恐らく益田のものだろう。
「今の話益田ちゃんにしたら、あの子喜ぶかなぁ」
「僕の許可無く下僕を甘やかすな!」
「解ってるって。云ってみただけ」
浅黒い手は幾度目かの継ぎ足しをしようとしたが、瓶の先からは申し訳程度に雫が落ちただけだった。
と同時に、すらりと襖が開く。
「―――かわいいねぇ」
五厘に刈った頭を掻いて、男はくつくつと笑った。
お題提供:『BALDWIN』様
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流行に便乗。割と最近まで司を下の名前だと思っていました。