「うはははは!ご飯の時間だ、早く帰るぞ!」
「ちょっと待ってくださいよう」
ばさばさと慌しく傘についた水を払う益田の肩を、榎木津の手が小突く。朝から降り続いた雨は未だ止まず、今日の神保町に陽の光が差し込む事は一瞬として無かった。
この白亜の建造物には薔薇十字探偵社の他にもテナントが入っている。今日はそこにも幾人かの出入りがあったようで、薄暗い石段には幾つもの知らぬ足跡が残っていた。その全てが水に濡れ、傘を引き摺った人物も居たのか水溜りすら出来ている箇所もある。
そんな過去の出来事には御構い無しと云った様子で、この世の誰よりも今を生きる男であるところの榎木津は全ての痕跡を上書きする勢いで石段を駆け上がって行った。靴の踵が堅い石を叩く音と一緒に、溜まった水を蹴り散らす音が廊下に響き渡る。妙に機嫌の良い、笑い声も。
「うわはははは、ははははは」
「榎木津さん待ってくださいって、うわ階段びしょびしょだ」
危ないなぁ、と云い掛けて、益田が顔を上げた刹那の事。
数段前を走っていた榎木津の足が、ずるりと段を踏み外すのが見えた。栗色の頭が、がくりと傾ぐ。
「あ?」
「うわっ!」
2本の傘が投げ出され、ばらばらに床を打ち付けると、水の道を残しながら同じように階段を滑り落ちていった。
同様の運命を辿るはずだった榎木津の体は、間一髪で益田の腕に抱え込まれている。探偵の危機を察したのか、あるいは無防備にしていては一緒に転げ落ちると理解出来る程発達した危機管理能力の賜物か、ともかく益田は、不恰好に反っくり返りながらもどうにか落ちてくる榎木津を受け止める事に成功したのだ。2人の男の体を支える手摺が、ぎしりと軋んだ。
益田に支えられ、不安定な体勢で固まっていた榎木津は、背中にバネでも仕込まれているのかと思う程勢い良く跳ね上がったかと思うと、何事も無かったかのように軽やかに石段に着地する。対して益田は跳ね飛ばされ、へなへなと手摺にしがみ付いた。すくりと君臨する榎木津を見上げて、力無くも微笑む。
「え、榎木津さん、大丈夫ですか…?」
「―――大丈夫じゃない!」
予想に反し、榎木津は高らかにそう宣言した。面食らったのは益田だ。受け止めたと思ったのに、足でも捻ってしまったのだろうか。
しかし当の榎木津は、とても足を痛めたようには見えぬ様子でひらりと益田の目の前まで降りてきた。ネクタイごと益田の上体を引き上げる。鳶色の瞳は感謝どころか、憤りに燃え上がっているように見えた。
「何をしてくれてるんだ、マスカマの癖に!」
「何をって…何もしてませんよ!榎木津さんが勝手に滑って転んだんじゃあないですかぁ」
「転んで無い!マスカマが僕が転ぶのを邪魔したからだッ!」
「ええっ!?」
理不尽もここまで来たか、と益田は目を白黒させる。助けなかったら助けなかったで、「神を受け止めるのは下僕の役目だ!」とか何とかぎゃあぎゃあ騒ぐだろうとは思ったが、まさか助けて叱られるとは思わなかった。宙ぶらりんだった体を更に引き上げられる。
「お前も今から落ちなさい!」
「ハァッ!?」
驚きで力が抜けた肩を押され、慌ててまた手摺にすがった。だが榎木津はお構い無しにぐいぐいと押してくる。今にもずるりと滑りそうな濡れた床が恐ろしい。
「地面に落っこちる前に僕が受け止めるから、それでチャラだ!潔く落ちろ!」
「ちょ、やめ、やめてください!あああ、危ない!」
引き剥がされては、しがみ付く。危ういバランスの上で攻防は続いた。榎木津は両手を使って益田を突き飛ばそうとしてくるので、このまま落下したら人間の反射神経では絶対に受け止められない。榎木津の獣じみた能力ならあるいは―――いや、やはり危険だ。というか、単純に怖い。益田は必死になって榎木津の攻撃に耐えていた。
助けて叱られるのはまだ良い、まさか命の心配をする羽目になるとは―――。
一瞬の思考が、益田に隙を生んだ。
「往生際が、悪いッ!」
榎木津の両腕が益田の手首を掴んだかと思うと、勢い良く壁に貼り付けた。堅牢な建物はその程度で揺れるほど柔な造りでは無かったが、強かに打ちつけた背中と腰に食い込んだ手摺がその分益田に痛みを齎す。呻いて背を反らした拍子に、片足が石段から離れた。
益田を支えているのは左足一本と、両手首を握りこむ榎木津だけだ。彼がその手を投げ捨てさえすれば、次の瞬間には益田の体は宙に舞う事になるだろう。咄嗟に見下ろした階下はそれほど遠くは無い筈だが、まるで奈落のように思え、益田を眩暈が襲った。
「…ひっ…」
「マスヤマ」
榎木津が笑っている。白い手で益田の手首を握りこんだままで。
その痩せた体を突き落とすなど造作も無い筈のそれは、離れる事は無い。代わりにもう一つ、体温が落ちてきた。其れは益田の鼻先を通り過ぎて、唇に触れた。
「!」
白壁に沿った手が、ぎゅっと拳を作る。
驚きで緩んだ口元から、容赦無く榎木津の舌が入り込んだ。忍び込むなどと云った生半なものでは無く、まさに嵐のように益田を掻き回して行く。益田の胸中も同じ事だった。口移しに吹き込まれた何かが、快感と綯い交ぜになって背筋を這い上がる。瞼がとろりと降りて来て、やがて閉じられた時、益田は水音に混じる感覚を拾い上げた。
(雨の、においだ…)
そう知覚した瞬間、ふっと力が抜け落ちる。膝が崩れ、背中がずるずる滑って、宙に浮いていた右足がごとりと段から落ちた。榎木津の唇が離れても、益田の気力は戻らない。手首を掴まれたまま、湿った石段にへたり込んでしまった。
雨の日に目覚めた時のようにぼうっとした頭のまま、榎木津を見上げる。薄暗い雨の空気を纏ったまま、静かに笑んでいる。
子どもに対するようなやさしい声で、だめじゃないか、と呟いた。
「もっと盛大に落ちてくれないと、助け甲斐が無い」
手首を吊られたままの妙な格好で、益田もへらりと笑った。
自分と来たら落ちる一方で、まだまだ底が見えないのに。それでいて、榎木津と居ると時折天に舞い上がるような多幸感に襲われる事もあるのだ。なんだか、妙な気分だった。
――――
久しくこういう話書いてないなと思って書きました。榎益榎楽しい!
「ちょっと待ってくださいよう」
ばさばさと慌しく傘についた水を払う益田の肩を、榎木津の手が小突く。朝から降り続いた雨は未だ止まず、今日の神保町に陽の光が差し込む事は一瞬として無かった。
この白亜の建造物には薔薇十字探偵社の他にもテナントが入っている。今日はそこにも幾人かの出入りがあったようで、薄暗い石段には幾つもの知らぬ足跡が残っていた。その全てが水に濡れ、傘を引き摺った人物も居たのか水溜りすら出来ている箇所もある。
そんな過去の出来事には御構い無しと云った様子で、この世の誰よりも今を生きる男であるところの榎木津は全ての痕跡を上書きする勢いで石段を駆け上がって行った。靴の踵が堅い石を叩く音と一緒に、溜まった水を蹴り散らす音が廊下に響き渡る。妙に機嫌の良い、笑い声も。
「うわはははは、ははははは」
「榎木津さん待ってくださいって、うわ階段びしょびしょだ」
危ないなぁ、と云い掛けて、益田が顔を上げた刹那の事。
数段前を走っていた榎木津の足が、ずるりと段を踏み外すのが見えた。栗色の頭が、がくりと傾ぐ。
「あ?」
「うわっ!」
2本の傘が投げ出され、ばらばらに床を打ち付けると、水の道を残しながら同じように階段を滑り落ちていった。
同様の運命を辿るはずだった榎木津の体は、間一髪で益田の腕に抱え込まれている。探偵の危機を察したのか、あるいは無防備にしていては一緒に転げ落ちると理解出来る程発達した危機管理能力の賜物か、ともかく益田は、不恰好に反っくり返りながらもどうにか落ちてくる榎木津を受け止める事に成功したのだ。2人の男の体を支える手摺が、ぎしりと軋んだ。
益田に支えられ、不安定な体勢で固まっていた榎木津は、背中にバネでも仕込まれているのかと思う程勢い良く跳ね上がったかと思うと、何事も無かったかのように軽やかに石段に着地する。対して益田は跳ね飛ばされ、へなへなと手摺にしがみ付いた。すくりと君臨する榎木津を見上げて、力無くも微笑む。
「え、榎木津さん、大丈夫ですか…?」
「―――大丈夫じゃない!」
予想に反し、榎木津は高らかにそう宣言した。面食らったのは益田だ。受け止めたと思ったのに、足でも捻ってしまったのだろうか。
しかし当の榎木津は、とても足を痛めたようには見えぬ様子でひらりと益田の目の前まで降りてきた。ネクタイごと益田の上体を引き上げる。鳶色の瞳は感謝どころか、憤りに燃え上がっているように見えた。
「何をしてくれてるんだ、マスカマの癖に!」
「何をって…何もしてませんよ!榎木津さんが勝手に滑って転んだんじゃあないですかぁ」
「転んで無い!マスカマが僕が転ぶのを邪魔したからだッ!」
「ええっ!?」
理不尽もここまで来たか、と益田は目を白黒させる。助けなかったら助けなかったで、「神を受け止めるのは下僕の役目だ!」とか何とかぎゃあぎゃあ騒ぐだろうとは思ったが、まさか助けて叱られるとは思わなかった。宙ぶらりんだった体を更に引き上げられる。
「お前も今から落ちなさい!」
「ハァッ!?」
驚きで力が抜けた肩を押され、慌ててまた手摺にすがった。だが榎木津はお構い無しにぐいぐいと押してくる。今にもずるりと滑りそうな濡れた床が恐ろしい。
「地面に落っこちる前に僕が受け止めるから、それでチャラだ!潔く落ちろ!」
「ちょ、やめ、やめてください!あああ、危ない!」
引き剥がされては、しがみ付く。危ういバランスの上で攻防は続いた。榎木津は両手を使って益田を突き飛ばそうとしてくるので、このまま落下したら人間の反射神経では絶対に受け止められない。榎木津の獣じみた能力ならあるいは―――いや、やはり危険だ。というか、単純に怖い。益田は必死になって榎木津の攻撃に耐えていた。
助けて叱られるのはまだ良い、まさか命の心配をする羽目になるとは―――。
一瞬の思考が、益田に隙を生んだ。
「往生際が、悪いッ!」
榎木津の両腕が益田の手首を掴んだかと思うと、勢い良く壁に貼り付けた。堅牢な建物はその程度で揺れるほど柔な造りでは無かったが、強かに打ちつけた背中と腰に食い込んだ手摺がその分益田に痛みを齎す。呻いて背を反らした拍子に、片足が石段から離れた。
益田を支えているのは左足一本と、両手首を握りこむ榎木津だけだ。彼がその手を投げ捨てさえすれば、次の瞬間には益田の体は宙に舞う事になるだろう。咄嗟に見下ろした階下はそれほど遠くは無い筈だが、まるで奈落のように思え、益田を眩暈が襲った。
「…ひっ…」
「マスヤマ」
榎木津が笑っている。白い手で益田の手首を握りこんだままで。
その痩せた体を突き落とすなど造作も無い筈のそれは、離れる事は無い。代わりにもう一つ、体温が落ちてきた。其れは益田の鼻先を通り過ぎて、唇に触れた。
「!」
白壁に沿った手が、ぎゅっと拳を作る。
驚きで緩んだ口元から、容赦無く榎木津の舌が入り込んだ。忍び込むなどと云った生半なものでは無く、まさに嵐のように益田を掻き回して行く。益田の胸中も同じ事だった。口移しに吹き込まれた何かが、快感と綯い交ぜになって背筋を這い上がる。瞼がとろりと降りて来て、やがて閉じられた時、益田は水音に混じる感覚を拾い上げた。
(雨の、においだ…)
そう知覚した瞬間、ふっと力が抜け落ちる。膝が崩れ、背中がずるずる滑って、宙に浮いていた右足がごとりと段から落ちた。榎木津の唇が離れても、益田の気力は戻らない。手首を掴まれたまま、湿った石段にへたり込んでしまった。
雨の日に目覚めた時のようにぼうっとした頭のまま、榎木津を見上げる。薄暗い雨の空気を纏ったまま、静かに笑んでいる。
子どもに対するようなやさしい声で、だめじゃないか、と呟いた。
「もっと盛大に落ちてくれないと、助け甲斐が無い」
手首を吊られたままの妙な格好で、益田もへらりと笑った。
自分と来たら落ちる一方で、まだまだ底が見えないのに。それでいて、榎木津と居ると時折天に舞い上がるような多幸感に襲われる事もあるのだ。なんだか、妙な気分だった。
お題提供:『BALDWIN』様
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久しくこういう話書いてないなと思って書きました。榎益榎楽しい!
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