界隈で最も背の高いビルヂング、その中で最も高い場所。
薄暗い階段と屋上とを隔てる鉄の扉を、益田は痩せた肩でそっと押し開けた。キィとでも軋まぬよう、そおっとそおっと潜り抜ける。勿論ノブが降りる音が立たぬよう、そっと扉を閉じる事も忘れない。
ごぉと吹き抜ける風で舞い上がる前髪を持て余しながら、益田は辺りを見渡す。外壁と同じく乾いたような質感の白い床面には、落ちる人影すら無い。となると―――見上げた先は、最も高い場所より更に高い、貯水タンクの上だ。
梯子状の鉄管に足をかける。靴音が鳴ってしまいそうで、一段目にかけた爪先にぐっと力を入れて背伸びをした。
―――居た。
日光を集めて温もったタンクに胡坐をかいて、座り込む探偵の背中が見える。
益田は音を立てぬよう、一段飛ばしで梯子を上がって、曲面に指先を引っ掛けた。不恰好によじ昇り、上半身をようやく天面に押し上げる。そよそよと靡く栗色の髪は、振り向く気配すら無い。
飛びたたんとする小鳥を狙う猫のような姿勢―――と呼ぶには、余りに身軽さと柔軟さに欠けてはいたが、益田は飛び跳ねるようにして榎木津の腰にしがみ付いた。
「―――つっかまえた!」
「なんだマスヤマ、お前が来たのか」
榎木津は胡坐を崩さぬまま、益田を見下ろしている。益田はと云うと、腰から下をぶら下げたまま、ぜぇぜぇと息を荒げて鳶色の瞳を見上げていた。
「なんだじゃあないですよぅ、何居なくなってるんですか。今は、和寅さんが繋いでくれてますけど…早く行かないと」
「居なくなったとは何だ。僕は行きたい時に行きたい所に行くんだ!」
益田はがくりと頭を落とし、大きな溜息をつく。
捕まえた男は捕まったという意識も無く、今にも飛び立ってしまいそうだ。そして益田は、その考えが榎木津の大きな瞳が遠くを見ている事から来ているのに気づいた。
「何、見てるんですか?」
「何も見てないよ」
益田も榎木津の顔から視線を外し、彼の目が向いている方向を見た。
未だ開発の手が帝都程には伸びていないこの街では、榎木津ビルヂングの他は概ね2階建てが精々だ。
探偵社の窓ならまだしも、屋上の、それも貯水タンクにまで昇ってしまえば視界を遮るものは殆ど存在しない。道路や民家や並木が、遠くへ行くに従って輪郭を失って灰色の塊になってしまうのに対し、頭上に広がる薄青い空は何処まで行っても空のままだ。
急な風に前髪を吹き上げられて、思わず目を閉じた益田の耳に柔らかな声が届く。
「何も視えないんだ」
益田はまた、榎木津を見上げた。いつも濡れているような輝きを帯びる色素の薄い瞳は、太陽を飲み込んで益々眩しく光る。
(そうか、此処には、誰も居ないから―――…)
益田などは想像だにした事も無い、不思議な景色。人の記憶が「視え」て、其処に絶えず浮かんでいるという情景。
人ごみに降りて辺りを見回せば、人の数だけそれが視えてしまうのだ。どの程度の実体感を伴って浮かび上がるものか、益田は知らない。ただ榎木津は常に視えたままのものを仔細に渡って並べあげては益田をからかうので、矢張り良く視えているのだと思う。
遮るものの無いこの場所で、榎木津が見る事の適わぬ「普通の景色」を求めているとしたら―――
益田は絡めた腕の力をそっと緩めた。
「榎木津さん、僕和寅さんに云ってきます。お客さんには上手い事云って誤魔化しときますから」
しかし榎木津はカラカラと高らかに笑い、離した筈の両腕を奪って元通り腹の前で組み合わせる。
くるりと振り向いて、眉を八の字に歪めたままぽかんと自分を見上げる益田を見た。
「お前は本当に単純なヤツだなぁ」
「な、なんですよ。折角人が気を遣って」
「神妙な顔しちゃって、単純バカオロカだな。そんなんだから浮気相手の女の人に泣きつかれて、どっちの味方して良いか解んなくなっちゃったりするんだ」
「なっ!み、視ましたね!」
暴れた益田の足先がタンクを蹴飛ばして、ガンと鈍い音が響いた。
胴に絡む細い腕に、白い指が這わされる。
「なぁマスヤマ」
「なんですか」
「いつもいつも逃げてばっかのお前が僕を追いかけてくるから、此処に居たって云ったらどうする?」
「…!」
益田は答えなかった。
日暮れはまだまだ遠いはずの青空の下で、その頬に一気に朱が上るのを見て、榎木津はまたゲラゲラと楽しげに笑った。
――――
榎木津が益田を追い詰める話ばっかり書いているので、たまには益田にも捕まえてもらいました。
薄暗い階段と屋上とを隔てる鉄の扉を、益田は痩せた肩でそっと押し開けた。キィとでも軋まぬよう、そおっとそおっと潜り抜ける。勿論ノブが降りる音が立たぬよう、そっと扉を閉じる事も忘れない。
ごぉと吹き抜ける風で舞い上がる前髪を持て余しながら、益田は辺りを見渡す。外壁と同じく乾いたような質感の白い床面には、落ちる人影すら無い。となると―――見上げた先は、最も高い場所より更に高い、貯水タンクの上だ。
梯子状の鉄管に足をかける。靴音が鳴ってしまいそうで、一段目にかけた爪先にぐっと力を入れて背伸びをした。
―――居た。
日光を集めて温もったタンクに胡坐をかいて、座り込む探偵の背中が見える。
益田は音を立てぬよう、一段飛ばしで梯子を上がって、曲面に指先を引っ掛けた。不恰好によじ昇り、上半身をようやく天面に押し上げる。そよそよと靡く栗色の髪は、振り向く気配すら無い。
飛びたたんとする小鳥を狙う猫のような姿勢―――と呼ぶには、余りに身軽さと柔軟さに欠けてはいたが、益田は飛び跳ねるようにして榎木津の腰にしがみ付いた。
「―――つっかまえた!」
「なんだマスヤマ、お前が来たのか」
榎木津は胡坐を崩さぬまま、益田を見下ろしている。益田はと云うと、腰から下をぶら下げたまま、ぜぇぜぇと息を荒げて鳶色の瞳を見上げていた。
「なんだじゃあないですよぅ、何居なくなってるんですか。今は、和寅さんが繋いでくれてますけど…早く行かないと」
「居なくなったとは何だ。僕は行きたい時に行きたい所に行くんだ!」
益田はがくりと頭を落とし、大きな溜息をつく。
捕まえた男は捕まったという意識も無く、今にも飛び立ってしまいそうだ。そして益田は、その考えが榎木津の大きな瞳が遠くを見ている事から来ているのに気づいた。
「何、見てるんですか?」
「何も見てないよ」
益田も榎木津の顔から視線を外し、彼の目が向いている方向を見た。
未だ開発の手が帝都程には伸びていないこの街では、榎木津ビルヂングの他は概ね2階建てが精々だ。
探偵社の窓ならまだしも、屋上の、それも貯水タンクにまで昇ってしまえば視界を遮るものは殆ど存在しない。道路や民家や並木が、遠くへ行くに従って輪郭を失って灰色の塊になってしまうのに対し、頭上に広がる薄青い空は何処まで行っても空のままだ。
急な風に前髪を吹き上げられて、思わず目を閉じた益田の耳に柔らかな声が届く。
「何も視えないんだ」
益田はまた、榎木津を見上げた。いつも濡れているような輝きを帯びる色素の薄い瞳は、太陽を飲み込んで益々眩しく光る。
(そうか、此処には、誰も居ないから―――…)
益田などは想像だにした事も無い、不思議な景色。人の記憶が「視え」て、其処に絶えず浮かんでいるという情景。
人ごみに降りて辺りを見回せば、人の数だけそれが視えてしまうのだ。どの程度の実体感を伴って浮かび上がるものか、益田は知らない。ただ榎木津は常に視えたままのものを仔細に渡って並べあげては益田をからかうので、矢張り良く視えているのだと思う。
遮るものの無いこの場所で、榎木津が見る事の適わぬ「普通の景色」を求めているとしたら―――
益田は絡めた腕の力をそっと緩めた。
「榎木津さん、僕和寅さんに云ってきます。お客さんには上手い事云って誤魔化しときますから」
しかし榎木津はカラカラと高らかに笑い、離した筈の両腕を奪って元通り腹の前で組み合わせる。
くるりと振り向いて、眉を八の字に歪めたままぽかんと自分を見上げる益田を見た。
「お前は本当に単純なヤツだなぁ」
「な、なんですよ。折角人が気を遣って」
「神妙な顔しちゃって、単純バカオロカだな。そんなんだから浮気相手の女の人に泣きつかれて、どっちの味方して良いか解んなくなっちゃったりするんだ」
「なっ!み、視ましたね!」
暴れた益田の足先がタンクを蹴飛ばして、ガンと鈍い音が響いた。
胴に絡む細い腕に、白い指が這わされる。
「なぁマスヤマ」
「なんですか」
「いつもいつも逃げてばっかのお前が僕を追いかけてくるから、此処に居たって云ったらどうする?」
「…!」
益田は答えなかった。
日暮れはまだまだ遠いはずの青空の下で、その頬に一気に朱が上るのを見て、榎木津はまたゲラゲラと楽しげに笑った。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
榎木津が益田を追い詰める話ばっかり書いているので、たまには益田にも捕まえてもらいました。
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