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2024/11/22 23:09 |
8.ゴシック&ロリータ

偶に胸の裡から、沸々と黒い感情が湧いてくる事がある。「苛苛する」とか「ストレス」と呼ばれる類のものだ。
例えば、出来の悪い下僕が応接机に噛り付いて、何やら書物をしている時。皮の長椅子と揃いで設えられている、足の短い黒檀のテーブルは、事務作業をするには低すぎる。膝を曲げ、背中を丸めていると、肌に張り付いたシャツから背骨が浮き出して、彼の姿を益々情けなく貧相に見せるのだ。
原因がそんなものであるなら別段構わない。到って冷静に、自らの足で其の背を長椅子から蹴り落とせば済むだけの話だ。へなへなと床に倒れこんだ下僕が向ける、驚愕か非難か、或いは諦念を滲ませた卑屈な目を見ればいつの間にか解消される。ストレスは原因から取払うのが最も手っ取り早く、確実な手段だと、榎木津は知っていた。
だからこそ、解消しようがないストレスは面倒だと言う事も解っている。原因物質が遠い過去にある場合は、流石の神も手の出しようがない。物理的な除去に失敗した其れは、何でもない時――例えば事務所を皆が留守にしていて、一人暇を持て余している時――に限って、記憶の底から浮かび上がってくるのである。濁った池の中から浮いてくる鯉のように。

女中が自分の髪に櫛を入れながら、うっとりと呟いた言葉。
誰か大人に連れて行かれた園遊会で、自分を取り囲んだ女の猫撫で声。
幼馴染と蜻蛉を追っている時、擦れ違いざまに聞こえた誰かの声。


「――――女の子みたいに可愛い子ね」


榎木津は革靴の踵で思い切り探偵机の天板を打ち、立ち上がった。






「ひぃ、疲れた疲れた」

大袈裟とも云える程頼りない足取りで、手摺を掴みながら上がってきたのは益田である。依頼人との打ち合わせを三件梯子してから見上げるビルヂングの階段は、天までの階段だ。無論、良い意味では無い。どうにかこうにか登ってきた益田は、事務所に続く最後の踊り場で一旦足を止め、溜息を吐いた。
残る段は二十も無い。無いが、どうにも面倒臭い。喫煙の趣味があるなら、ここらで一服して休憩する所なんだけど―――そう思いながら、冷たい壁に凭れて呆然と階上を見上げていると、不意に事務所の扉が開いた。寅吉は昼から出掛けると云っていたから、きっと榎木津だろう。

「榎木津さん、お出掛けで―――」

反射的に浮かべたゆるい笑みは、喉まで出掛けた言葉と共に、たちまちに凍りついた。開いた扉の陰から、「何か」がこちらを見下ろしている。明かり取りの小窓から落ちる柔らかな日差しの中、其の黒衣は奇妙に浮いている。中禅寺が憑き物落しの際纏う装束とは全く異質の違和感。円盤めいた輪郭に広がったスカートにはびっしりとフリルとリボンがあしらわれ、更には二本の脚が――あれは脚だろうか?脚にしては随分と、異常に白い――にょきりと生えている。栗色の巻き毛の上に、女給がつけているような、いやもっと華美なレースの飾りを乗せた何かだ。「何か」は益田を一瞥すると、スカートを翻して扉を閉めた。動きに合わせて、華奢なサテンのリボンがひらりと舞うさまから、益田は目が離せなかった。無論、悪い意味で。
気絶しそうな益田の目の前で、巨大な仏蘭西人形が、生きて、ずかずかと階段を降りてきている。

「わ、わあ、お化け―――――!」
「何、お化けだって!? 其れは面白い! 何処だ、何処にいる」
「こんな時に何云ってんですか榎木津さん、ってあれ… 榎木津さん?」

自分の言葉で我に返った益田は、涙で曇った視界を拭う。晴れた視界の中には、きょろきょろと辺りを見回している榎木津が居た。全身を黒いドレスで覆ってはいるが、確かに榎木津だ。なんだ何処にも居ないじゃないか、と益田を睨む鳶色の瞳は、紛れも無く榎木津の其れだ。

「うわ、本当に榎木津さんだ… ちょっと、何してんですよそんな格好で!」
「何もしていないぞ、まだ。僕が何かするのはこれからだ」
「そんな姿で何をしようと云うんですか! 止めてくださいよもう!」
「何をする馬鹿者、押すな!」

榎木津の背を押しながら、益田は面倒だった階段を一息に駆け上がった。広い背中を十字に編み上げるリボンの艶が悲しい。はて榎木津は背が高かったが、これ程までに大きかったろうかと思っていると、成程底の高い靴を履いているのが見えて、うんざりを通り越して、妙に納得してしまった。





さて、薔薇十字探偵社である。
長椅子に益田、探偵机に榎木津。いつもと変わりの無い構図だ。榎木津礼二郎と呼ぶよりも、仏蘭西人形のお化けと称するのが解り易いのが悲しい所だ。ぶすくれた顔で爪先を揺らしている榎木津に、益田が溜息混じりに問いかけた。

「何をしようと云うんですよ、そんな奇矯な姿で。仮装パーティーにでも行くんですか」
「そうだ、この僕の行く所、何処でもパーティーにしてやろう」

いつもながら意味が解らない。祭りの余興にしても、冗談が過ぎる。異常に膨らんだスカートから伸びる脚は、ご丁寧に白いタイツで覆われていた。成程不気味に白いわけだ。
頭に乗せていた飾りを、榎木津が邪魔だとばかりにかなぐり捨てる。彼は化粧をしていなかったので、首から上だけでも通常の榎木津に戻ったと、益田は少なからず安堵した。

「僕を女の子みたいだとほざいた連中に、これで目にもの見せてやるのだ」

益田は目を見開いた。

「はぁ? 女の子みたいって…榎木津さんがですか?」
「そのとウり。幼い頃の僕は、行く先々でそう云われていた。あの時は解らなかったが、今なら解る。あの時僕は腹が立っていたのだ。今なら的外れな事を云う連中に天誅のひとつも食らわせてやるのだが、実に口惜しい!」

榎木津は口惜しいぞーと喚きながら、それこと子供のように手足をばたつかせている。
益田の興味はちらちらと見えるスカートの中身よりも、榎木津の顔の方に向いていた。普段は忘れがちだが、こうしてみるとやはり綺麗な顔なのである。タイツの不自然な白よりも、隠されている肌の方が、余程好感を持てる。塗り隠した白ではなく、内側から光を放つような色をしている。眉も睫毛も日本人離れして濃い。すっと通った鼻筋から続く唇は血の色を透かせた薄桃色だ。三十路も半ばでこの美貌、幼い頃は其れこそどれ程の美少年であったかなど、想像に難くない。というか、美少年でない榎木津を想像する事の方が難しい。
だからと云って―――

「ねえ榎木津さん」
「なんだ!」
「其の格好、本当に可笑しいですよ。肩だって腕だってぱつぱつに張ってますし、脚も酷いもんです。筋肉が余計に目立っちゃってるし…」
「当たり前だ!その為にやってる」

肩を回しながら榎木津が答えた。やはり窮屈なのだろう。空気を入れて膨らませた袖の中で、硬い肩が軋むのが見えるようだ。

「ですけどね榎木津さん、可笑しな話ですが、そんな格好でも僕にゃあ素敵に見えるんですよねェ」

何でですかねェ。
益田の言葉に、今度は榎木津が目を見開く番だった。

「お前… お化けーって云ったじゃないか」
「そりゃ云いますよ、そんなヒラッヒラの格好した大男がひょっこり現れたら。でも見慣れてくると何だか妙に味があるというか、榎木津さんどんな変な服でも似合っちゃう癖に、これ程まで着こなせていない姿を見ると笑ってしまうと云うか」

ふわりと柔らかそうな、仕立ての良いドレスシャツの袖から出ている手の甲。薄い皮膚の下から形の良い手骨が浮き出ている。益田は其の手がとても好きだ。いつ何時でも、其の手を見れば、益田は縋ってしまうだろう。仏蘭西人形のお化けだろうが、日本人形の妖怪であろうが、構うものか。其れが榎木津礼二郎である限り。
榎木津は背もたれに体重を預け、がっくりと顎を反らした。

「なんだ、つまらない。バカオロカが悲鳴を上げて逃げ惑うくらいなら上出来だと思ったのに、興が削がれた」
「すみません、ご期待に沿えず」

へら、と笑った益田に、喉を晒したままの榎木津が指を振った。台所に向かい、茶を淹れろという合図。益田はすっと立ち上がる。そういえば茶棚に貰い物の饅頭があった。あれを添えて供すれば、神の機嫌も少しは上向くだろう。
縦横に張り巡らされたリボンとフリルに拘束された姿など、彼には似合わない。
あらゆる拘束も執着も吹っ飛ばした、自由な姿が一番似合う。

例えそれが自分の想いすら振り払ったとしても、本望だ。少なくとも、今のところは。






神保町に二度目の悲鳴が響き渡ったのは、すっかり日も落ちてからのこと。

「お、お化けーーーーーーーーーーーー!!!!」
「あ、和寅さんおかえりなさい」
「遅いぞ和寅、夕食の支度はまだか?」





―――
2010年になくて2011年にあるもの それは志水版子榎。
時代考証とか…いいよ…(エア煙を吹かしてエア遠い目)



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2011/04/01 08:45 | Comments(0) | 未選択
11月~2011年1月拍手お礼文
風呂敷に包まれた塗の重箱から伝わってくる温もりの名残。
益田は其れを僅かに惜しみながら、そっと紙袋に仕舞う。真っ直ぐ入れなければ、出汁が零れてしまう。
ゆっくりと味を煮含めた南瓜は色鮮やかさを増している。
しっとりとした食感と優しい甘さはお菓子のようで、幼い弟の好物だったのだと云って、雇い主の兄は笑った。
たまには実家に帰ってくるように、という伝言を手土産と共に預かり、益田は榎木津家の母屋を出て、門を目指す。――本当に「目指す」ように歩かなければ、永遠に行き着けないような心地がする。
なにせ榎木津の実家と来たら、母屋も馬鹿でかいが、庭もだだっ広いのだ。一見して手入れされていると解る庭木も、日が落ちかけた今となっては整然とした輪郭が余計に気味悪い。葉ずれの音に混ざって何処からか聞こえる鳥の声、聞いた事が無い響きだ。此処で飼っているのだろうか。
早く此処を出て、事務所に帰らなければ。早く早く早く。
腹を空かせた彼が待っている。実家からの呼び出しを益田に押し付けたのは自分の癖に、何処か拗ねた態度だった彼が待っているのだ。
焦る益田を追い立てるように夕闇は濃さを増し、焦りが加速する。早く早く―――

がさり。

刈り込まれた茂みが音を立てて動いた。
益田ははっとそちらに目をやる。庭師か誰かだろうか。助かった、道を聞こう。榎木津の兄に案内は要らないと云ってしまった手前、情けなくはあるが―――
しかしながら、最早殆ど影の塊となった植え込みから現れたのは、見るからに庭師などでは無かった。想定していたより随分と――小さい。手足は華奢で、益田の目にも一瞬で成長途中の子供だと知れた。
薄闇の中でもひときわ明るい亜麻色の髪に、枯れ草がまとわり付いている。子供がこちらに向き直った瞬間、良く櫛を通された髪の流れに従って、するりと落ちた。
肩口まである少女めいた髪よりもきっと人目を引く大きな瞳が、益田を見上げている。夕暮れ空を駆け上がる、一対の星を思わせる。この眼に出会っていなければ、益田はこの少年を人形と思ったかもしれない。

「あ―――」
「だれだおまえは」

子花のように可憐な唇が、幼さを残す涼やかな声で、似合わぬ不遜な言葉を投げてきた。
益田は瞬間怯んだが、生憎こういう類の衝撃《ショック》には慣れている。反射的にへらりと笑顔を作った。

「ドロボウか!?」
「ち――違いますよぅ。僕は主人の使いで来た者です。この家の息子さんの。知ってますかね、榎木津――」
「ああ、馬鹿兄貴か」

ぼくはおまえのような、案山子みたいな男なんかしらないものな。
そう云うと少年は勝手に得心した様子で、また元来た植え込みに入っていこうとする。複雑に絡み合った枝に裸の膝が分け入ろうとする度、ばきばきと派手な音がした。

「あの、ちょっと待って、道を」
「ん? ちょっと待て」

ぐるりと少年の首が益田を見上げた。じっと益田の眼を――その中空と云うか、遥か奥と云うか――見ている。益々濃度を増す闇の中で、硝子球のような両の眼だけが爛々と光る。

「…かぼちゃだな!」

そう叫ぶと少年はぱっと破顔し、益田がぶら下げている紙袋に飛びついてきた。
突然の事に、益田は何に驚けば良いのか解らなくなる。とりあえず、少年が益田の荷を奪おうとしている事だけは良く解った。

「うわぁ! ちょ、ちょっと!」
「嬉しいなぁぼくはかぼちゃが大好きなんだ、汁が多いやつがいい。お腹が空いたから帰らなきゃと思っていたが、うふふ、これならまだまだあそべる」

少年は上機嫌で、重箱を取り上げんとしてくる。益田は小さな手を払いのけるだけで精一杯だ。慣れない道に足を取られ、ついに尻餅をついてしまった。じいんとした痛みが尻から腰、背中に響く。使い物が入った紙袋が、とすりと音を立てて地に着いた。幸い倒れなかったようだ。
間抜けにも転倒した益田を、少年が見下ろしている。濃紺の空と、木々の輪郭を背負って。おまけに何処か子供離れした迫力というか、荘厳さというか、そんなものまで背負っている。
ぽかんと口を開けて見上げていると、少年が不思議そうな顔をした。

「なんだおまえ」
「な、なんだって何ですよ!」
「ぼくは王様になるんだぞ。おまえは王様の食卓をいろどれることを感謝して、その美味しそうなかぼちゃを差し出せば良いのに」

細く柔らかな髪が、夜風に揺れている。きっと良く梳いているんだろう。
しかし少年はそんな事気にも留めず、乱暴な仕草で頭をばりばりと掻いた。
それを見て、益田ははっと思い出す。好き勝手に跳ねる、稲穂の色をした髪。昼は弾ける光を、夜は星を飼っている髪。

「――ぼ、僕の上司は、神様ですから」

かみさま。
その言葉を口に出した途端、どっと力が抜けた。
少年はぽかんとした様子で益田を見て、また頭を掻く。

「馬鹿兄貴は神様っていう感じじゃないしなぁ――」
「違います、僕の上司の名前はですね」
「ああいい、いい、もういいよ。そんな顔をするんじゃない、ぼくがいじめてるみたいじゃないか」

アーガイル柄の仕立てが良い靴下と、磨かれた革靴に守れた小さな足が、益田の脛を軽く蹴りつける。立て、と云われているんだろう。よろよろと立ち上がると、少年のつむじが見える。随分と大きく見えたのが嘘のようだ。
庭のあちこちに灯が点り、明るさを増した視界の先に小さく鉄の門があった。益田は安堵する。

「…あの、じゃあ、僕はこれで」
「おまえは変なやつだ」

少年の大きな眼が、じっと益田を見ている。何処にでもありそうな特徴の無い自分の輪郭が、綺麗な瞳の中に映りこんでいる。

「まぁ、かぼちゃは今度でいいや。ちゃんと届けなさい、くれぐれも汁をこぼさないように」

―――待ってるからな。


少年は僅かに微笑んで、母屋に向かう道を駆けて行った。小さな身体はたちまち夜闇に飲み込まれ、吸い込まれるように消える。益田はそれを呆然と見送り、地面に置かれた紙袋を拾い上げた。
早く帰らなければ。そろそろ彼が怒り出す頃だ。探偵椅子に憮然と腰掛け、探偵机の天板に両足を投げ出して。
益田の神が―――待っている。

―――
どうすれば仔榎と益田が合法的に出会いあわよくば…あわよくば と考えていたら夜が明けていました。




2011/01/31 21:14 | Comments(0) | TrackBack() | 益田
9月拍手お礼文
「どちらか選べとか…急にそんな事云われましても」

馴染んだ飲み屋の一角で、益田はへらりと笑った。寄せた薄い眉の下、肉付きの悪い頬は僅かに赤い。

「だからぁ、例えばの話っすよ。僕と青木さんが崖から落ちそうだとします、今にも地面から手が離れそう、それを見ているのは益田君だけ」
「で、どっちを助けるかって話」

そんな益田の顔を対面に置いて、鳥口は上機嫌にけらけらと笑い、青木は無表情のまま日本酒を舐めるように一口呑んだ。
深い意味の無い、軽口同然のお喋り。
鳥口が益田に投げかけた二者択一の質問もそのひとつだ。
あくまで酒の肴。程度は違えど皆酔っている、誰もまともな答など期待していない。
益田一人だけが考え込んでいる。

「…ていうかですね、僕のような非力な男がですね、そもそも崖から落ちそうな鳥口君を引き上げられるわけない」
「じゃあ青木さんにします?」
「いやいや!青木さんもこう見えてなかなか良い体格してるし、一緒に落ちるのが関の山。そしたら崖下で何を云われるか」
「助かってる!それじゃあ意味ないっすよ益田君」
「えっ!?落ちたら死ぬんですか!」
「そりゃあ死にます。熟れた柿みたいにね、ぺしゃんですよ。零れた柿を嘆いても無駄だって云うでしょ」

鳥口はそう云うと、またきゃらきゃらと笑った。
あまり楽しそうなので、青木も乗ってみようかという気になる。鳥口に顔を寄せ、態としたり顔で云ってみた。

「……いっそ見なかった事にするっていうのはどうだろうか」
「うへぇ、青木さん云いますねぇ!」

はしゃぐ二人と、卓を挟んで。
顔を掌で覆ってなにやらぶつぶつ呟いていた益田が、おもむろに顔を上げる。

「……どっちも助けるって云うのは無しですか」

鳥口が大袈裟に首を振る。

「駄ァ目ですって!それじゃ問題にならない」
「いや!いざとなったらですよ、僕の持ち前のずる賢さが働いて、両方助ける方法が思い付くに決まってるんだ!そしたら二人の命も無事、恩も売れる、感謝して僕に酒の一升や二升奢ってくれるに違いない」

割り箸を教鞭に見立てて振り回しながら、真っ赤な顔の益田が叫ぶ。

「だから僕ァ!両方助けます!」

鳥口はやんやと手を叩き、青木は片眉を上げて肩を竦めた。

「よっ!益田様、頼もしいっ!」
「この三人でいるときは崖に近づかないようにしよう、あてにならないから」
「青木さん酷いィ!僕今凄くかっこいい事云ったのにィ」
「そんな調子良い事云って、もたもたしてる間に……そうだな、少なくとも僕は落ちるね」

頬杖を突く青木の前で、いやああ青木さん行かないでええなどと云いながら益田と鳥口がふざけている。
此処は馴染んだ飲み屋の一角。
三人ともが椅子に腰掛け、重い机と酒を囲む。
――当然崖など何処にも無い。

「そしたら君は――鳥口君を助けると良いよ」

調子に乗りやすく、適当な事ばかり云う。
その癖変な処で真面目なその顔がどんな形に歪むのかを、冥土の土産に。

「…………なんてね。」

僅かに朱を乗せた頬が、誰にも知られぬまま緩む。




―――
青木様像が難しくて 秋。




2010/10/31 05:26 | Comments(0) | TrackBack() | 益田
8月拍手お礼文
いつの間にか僅かに冷めた風に乗って、何処からか、子供の泣き声が聞こえる。
悲鳴のような不明瞭な言葉の中、ようやく聞き取れた「ふうせん」という言葉を頼りに、少し辺りを見渡す。
そうして益田は、赤い風船を見つけた。
もはや取ってやることも出来ないほどの高さにある。
遠目に見てもガスを一杯に含んでぱんと張った其れは、澄んだ空に吸い込まれるように真っ直ぐ真っ直ぐ昇っていく。
魂の緒を思わせる細い糸は、ひらひら踊っていたがやがて見えなくなった。
親に手を引かれた子供の声が聞こえなくなっても、益田はじっと其れを目で追っていた。
風船が只の丸い球となって、やがて点となり、光に紛れ、ついに見えなくなるまで。

「…すやま」

誰かが耳をぐいと引っ張る。

「マ・ス・ヤ・マ!」
「ッひぃぃ!」

耳の奥がわぁんと鳴った。
慌てて振り向けば、其処には神が立っている。
一面の稲穂よりもっと艶やかな髪を風に靡かせ、精悍な眉をぎゅっと寄せて。
益田は肩を竦め、背を丸めた。

「何をぼおっと見ているのだ」
「何を…ってこともないですけど」

ちらと見上げた空は何処までも突き抜けるようで、蒼の上に薄布を被せたような色と、透明感が共存している。
益田は目を瞬かせ、そして得心した。
今日の空は水に似ている。
あの風船は浮かびながらにして、沈んでいるように見えたのだ。

「風船が欲しいのか?」
「え?は、いや、そういうわけじゃ」
「よぉし!今日は風船を買いにいこう」

榎木津はにっと笑ったかと思うと、益田の手を掴んだ。
彼の歩幅は広く、益田は振りほどくのも忘れて付いて行くのがやっとだ。
困ったなぁと思いながらも、安堵する。自分が手を握っているうちは、榎木津は目の届く範囲に居る。
―――子供の手から解き放たれた風船は、今頃何処に居るのだろう。
榎木津に手をひかれながら、益田は頭上に広がる水底の事を考える。
乾いた風が、ゆるく頬を撫でていった。


―――
浮かぶ風船と、沈む風船。





2010/10/31 03:14 | Comments(0) | TrackBack() | 益田
7月拍手お礼文
事務所の中に居さえすれば、肌を灼く日差しは届かない。
ただし、だからなんだと叫びたくなるような暑さは何処までも付いてくる。
開け放たれた大きな窓から、時折吹き込む風は温い。溜まった熱をゆるりと掻き混ぜ、また夏の中へと還っていく。
自宅ならばこんなシャツなど脱いで裸で水浴びでもしたいところだが、そうもいかない。
ハンカチーフを取り出す事すらまどろっこしく、益田は結局自分の袖で汗を拭った。ぺたりと貼りついた前髪が額を擦る。
五月蝿い蝉の声に混じって、ぱしゃり、と場違いな水音が耳を擽った。そちらに意識を向けた途端、聞こえたのは榎木津のぼやき声。

「あっつい」

探偵椅子に身を投げた彼が、気だるそうにそう云ったのは何度目だろうか。
膝までズボンをたくし上げ、足先は水を張ったたらいに浸けている。秘書が申し訳程度に入れた氷片はたちまち小さくなり、辛うじて浮かんでいたひとかけらも、榎木津が水を蹴った拍子に波紋の中に沈んで消えた。

「知ってますよう」

いつまで続くんでしょうねえ。
お定まりのやりとりをして、益田は前髪の隙間から空を見上げる。雲ひとつない晴天。恵みの雨は遠そうだ。
机の上に置き去られた硝子のコップが汗を掻いている。飲み干した冷茶は大分薄まってしまい、やや色がついているだけで水同然の味がした。
最後に小さく残った氷を口の中で転がして、束の間の冷たさを味わう。榎木津の口元から、ガリッとひとつ乱暴な音。彼は氷を噛んでしまう性質のようだ。
退屈しているのだろう。榎木津が足でたらいの水を掻き回している。そのたびに白い爪先が水を跳ね上げる。
そのうちの一滴が、益田の鼻先にまで飛んできた。一瞬わずかにひやりとして、おっと思った瞬間には汗に紛れて解らなくなる。
日が暮れても尚温い夜気に混ぜた吐息のようだ。
益田が離した万年筆が、ことりと小さな音を立てた。

「榎木津さん」

ぱしゃり。
言葉の代わりに、水音が答える。

「この暑いのに、変な事を言うなとは思うんですが――」

強すぎる光が作った濃い影の中に、榎木津が居る。
自分も同じ場所に居るのだろう。
太陽を連れ込んで、同じものになったような、優越感と罪悪感で頭がくらくらと煮えるようだ。

「抱きしめても、いいですか」

蝉時雨が、ふっと止んだように感じた。
飴色に緩んだ瞳が、ゆっくりと益田を見上げる。
コップに付いた雫と同じ速度で、頬を汗が伝っていく。


どうせ溶けるならば、彼を連れて行ってしまいたい。

―――
暑さで頭が沸いてしまった益田。
沸いてるのは私ですね。太陽本気出しすぎ。



2010/08/31 14:27 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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