偶に胸の裡から、沸々と黒い感情が湧いてくる事がある。「苛苛する」とか「ストレス」と呼ばれる類のものだ。
例えば、出来の悪い下僕が応接机に噛り付いて、何やら書物をしている時。皮の長椅子と揃いで設えられている、足の短い黒檀のテーブルは、事務作業をするには低すぎる。膝を曲げ、背中を丸めていると、肌に張り付いたシャツから背骨が浮き出して、彼の姿を益々情けなく貧相に見せるのだ。
原因がそんなものであるなら別段構わない。到って冷静に、自らの足で其の背を長椅子から蹴り落とせば済むだけの話だ。へなへなと床に倒れこんだ下僕が向ける、驚愕か非難か、或いは諦念を滲ませた卑屈な目を見ればいつの間にか解消される。ストレスは原因から取払うのが最も手っ取り早く、確実な手段だと、榎木津は知っていた。
だからこそ、解消しようがないストレスは面倒だと言う事も解っている。原因物質が遠い過去にある場合は、流石の神も手の出しようがない。物理的な除去に失敗した其れは、何でもない時――例えば事務所を皆が留守にしていて、一人暇を持て余している時――に限って、記憶の底から浮かび上がってくるのである。濁った池の中から浮いてくる鯉のように。
女中が自分の髪に櫛を入れながら、うっとりと呟いた言葉。
誰か大人に連れて行かれた園遊会で、自分を取り囲んだ女の猫撫で声。
幼馴染と蜻蛉を追っている時、擦れ違いざまに聞こえた誰かの声。
「――――女の子みたいに可愛い子ね」
榎木津は革靴の踵で思い切り探偵机の天板を打ち、立ち上がった。
*
「ひぃ、疲れた疲れた」
大袈裟とも云える程頼りない足取りで、手摺を掴みながら上がってきたのは益田である。依頼人との打ち合わせを三件梯子してから見上げるビルヂングの階段は、天までの階段だ。無論、良い意味では無い。どうにかこうにか登ってきた益田は、事務所に続く最後の踊り場で一旦足を止め、溜息を吐いた。
残る段は二十も無い。無いが、どうにも面倒臭い。喫煙の趣味があるなら、ここらで一服して休憩する所なんだけど―――そう思いながら、冷たい壁に凭れて呆然と階上を見上げていると、不意に事務所の扉が開いた。寅吉は昼から出掛けると云っていたから、きっと榎木津だろう。
「榎木津さん、お出掛けで―――」
反射的に浮かべたゆるい笑みは、喉まで出掛けた言葉と共に、たちまちに凍りついた。開いた扉の陰から、「何か」がこちらを見下ろしている。明かり取りの小窓から落ちる柔らかな日差しの中、其の黒衣は奇妙に浮いている。中禅寺が憑き物落しの際纏う装束とは全く異質の違和感。円盤めいた輪郭に広がったスカートにはびっしりとフリルとリボンがあしらわれ、更には二本の脚が――あれは脚だろうか?脚にしては随分と、異常に白い――にょきりと生えている。栗色の巻き毛の上に、女給がつけているような、いやもっと華美なレースの飾りを乗せた何かだ。「何か」は益田を一瞥すると、スカートを翻して扉を閉めた。動きに合わせて、華奢なサテンのリボンがひらりと舞うさまから、益田は目が離せなかった。無論、悪い意味で。
気絶しそうな益田の目の前で、巨大な仏蘭西人形が、生きて、ずかずかと階段を降りてきている。
「わ、わあ、お化け―――――!」
「何、お化けだって!? 其れは面白い! 何処だ、何処にいる」
「こんな時に何云ってんですか榎木津さん、ってあれ… 榎木津さん?」
自分の言葉で我に返った益田は、涙で曇った視界を拭う。晴れた視界の中には、きょろきょろと辺りを見回している榎木津が居た。全身を黒いドレスで覆ってはいるが、確かに榎木津だ。なんだ何処にも居ないじゃないか、と益田を睨む鳶色の瞳は、紛れも無く榎木津の其れだ。
「うわ、本当に榎木津さんだ… ちょっと、何してんですよそんな格好で!」
「何もしていないぞ、まだ。僕が何かするのはこれからだ」
「そんな姿で何をしようと云うんですか! 止めてくださいよもう!」
「何をする馬鹿者、押すな!」
榎木津の背を押しながら、益田は面倒だった階段を一息に駆け上がった。広い背中を十字に編み上げるリボンの艶が悲しい。はて榎木津は背が高かったが、これ程までに大きかったろうかと思っていると、成程底の高い靴を履いているのが見えて、うんざりを通り越して、妙に納得してしまった。
*
さて、薔薇十字探偵社である。
長椅子に益田、探偵机に榎木津。いつもと変わりの無い構図だ。榎木津礼二郎と呼ぶよりも、仏蘭西人形のお化けと称するのが解り易いのが悲しい所だ。ぶすくれた顔で爪先を揺らしている榎木津に、益田が溜息混じりに問いかけた。
「何をしようと云うんですよ、そんな奇矯な姿で。仮装パーティーにでも行くんですか」
「そうだ、この僕の行く所、何処でもパーティーにしてやろう」
いつもながら意味が解らない。祭りの余興にしても、冗談が過ぎる。異常に膨らんだスカートから伸びる脚は、ご丁寧に白いタイツで覆われていた。成程不気味に白いわけだ。
頭に乗せていた飾りを、榎木津が邪魔だとばかりにかなぐり捨てる。彼は化粧をしていなかったので、首から上だけでも通常の榎木津に戻ったと、益田は少なからず安堵した。
「僕を女の子みたいだとほざいた連中に、これで目にもの見せてやるのだ」
益田は目を見開いた。
「はぁ? 女の子みたいって…榎木津さんがですか?」
「そのとウり。幼い頃の僕は、行く先々でそう云われていた。あの時は解らなかったが、今なら解る。あの時僕は腹が立っていたのだ。今なら的外れな事を云う連中に天誅のひとつも食らわせてやるのだが、実に口惜しい!」
榎木津は口惜しいぞーと喚きながら、それこと子供のように手足をばたつかせている。
益田の興味はちらちらと見えるスカートの中身よりも、榎木津の顔の方に向いていた。普段は忘れがちだが、こうしてみるとやはり綺麗な顔なのである。タイツの不自然な白よりも、隠されている肌の方が、余程好感を持てる。塗り隠した白ではなく、内側から光を放つような色をしている。眉も睫毛も日本人離れして濃い。すっと通った鼻筋から続く唇は血の色を透かせた薄桃色だ。三十路も半ばでこの美貌、幼い頃は其れこそどれ程の美少年であったかなど、想像に難くない。というか、美少年でない榎木津を想像する事の方が難しい。
だからと云って―――
「ねえ榎木津さん」
「なんだ!」
「其の格好、本当に可笑しいですよ。肩だって腕だってぱつぱつに張ってますし、脚も酷いもんです。筋肉が余計に目立っちゃってるし…」
「当たり前だ!その為にやってる」
肩を回しながら榎木津が答えた。やはり窮屈なのだろう。空気を入れて膨らませた袖の中で、硬い肩が軋むのが見えるようだ。
「ですけどね榎木津さん、可笑しな話ですが、そんな格好でも僕にゃあ素敵に見えるんですよねェ」
何でですかねェ。
益田の言葉に、今度は榎木津が目を見開く番だった。
「お前… お化けーって云ったじゃないか」
「そりゃ云いますよ、そんなヒラッヒラの格好した大男がひょっこり現れたら。でも見慣れてくると何だか妙に味があるというか、榎木津さんどんな変な服でも似合っちゃう癖に、これ程まで着こなせていない姿を見ると笑ってしまうと云うか」
ふわりと柔らかそうな、仕立ての良いドレスシャツの袖から出ている手の甲。薄い皮膚の下から形の良い手骨が浮き出ている。益田は其の手がとても好きだ。いつ何時でも、其の手を見れば、益田は縋ってしまうだろう。仏蘭西人形のお化けだろうが、日本人形の妖怪であろうが、構うものか。其れが榎木津礼二郎である限り。
榎木津は背もたれに体重を預け、がっくりと顎を反らした。
「なんだ、つまらない。バカオロカが悲鳴を上げて逃げ惑うくらいなら上出来だと思ったのに、興が削がれた」
「すみません、ご期待に沿えず」
へら、と笑った益田に、喉を晒したままの榎木津が指を振った。台所に向かい、茶を淹れろという合図。益田はすっと立ち上がる。そういえば茶棚に貰い物の饅頭があった。あれを添えて供すれば、神の機嫌も少しは上向くだろう。
縦横に張り巡らされたリボンとフリルに拘束された姿など、彼には似合わない。
あらゆる拘束も執着も吹っ飛ばした、自由な姿が一番似合う。
例えそれが自分の想いすら振り払ったとしても、本望だ。少なくとも、今のところは。
*
神保町に二度目の悲鳴が響き渡ったのは、すっかり日も落ちてからのこと。
「お、お化けーーーーーーーーーーーー!!!!」
「あ、和寅さんおかえりなさい」
「遅いぞ和寅、夕食の支度はまだか?」
―――
2010年になくて2011年にあるもの それは志水版子榎。
時代考証とか…いいよ…(エア煙を吹かしてエア遠い目)
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