風呂敷に包まれた塗の重箱から伝わってくる温もりの名残。
益田は其れを僅かに惜しみながら、そっと紙袋に仕舞う。真っ直ぐ入れなければ、出汁が零れてしまう。
ゆっくりと味を煮含めた南瓜は色鮮やかさを増している。
しっとりとした食感と優しい甘さはお菓子のようで、幼い弟の好物だったのだと云って、雇い主の兄は笑った。
たまには実家に帰ってくるように、という伝言を手土産と共に預かり、益田は榎木津家の母屋を出て、門を目指す。――本当に「目指す」ように歩かなければ、永遠に行き着けないような心地がする。
なにせ榎木津の実家と来たら、母屋も馬鹿でかいが、庭もだだっ広いのだ。一見して手入れされていると解る庭木も、日が落ちかけた今となっては整然とした輪郭が余計に気味悪い。葉ずれの音に混ざって何処からか聞こえる鳥の声、聞いた事が無い響きだ。此処で飼っているのだろうか。
早く此処を出て、事務所に帰らなければ。早く早く早く。
腹を空かせた彼が待っている。実家からの呼び出しを益田に押し付けたのは自分の癖に、何処か拗ねた態度だった彼が待っているのだ。
焦る益田を追い立てるように夕闇は濃さを増し、焦りが加速する。早く早く―――
がさり。
刈り込まれた茂みが音を立てて動いた。
益田ははっとそちらに目をやる。庭師か誰かだろうか。助かった、道を聞こう。榎木津の兄に案内は要らないと云ってしまった手前、情けなくはあるが―――
しかしながら、最早殆ど影の塊となった植え込みから現れたのは、見るからに庭師などでは無かった。想定していたより随分と――小さい。手足は華奢で、益田の目にも一瞬で成長途中の子供だと知れた。
薄闇の中でもひときわ明るい亜麻色の髪に、枯れ草がまとわり付いている。子供がこちらに向き直った瞬間、良く櫛を通された髪の流れに従って、するりと落ちた。
肩口まである少女めいた髪よりもきっと人目を引く大きな瞳が、益田を見上げている。夕暮れ空を駆け上がる、一対の星を思わせる。この眼に出会っていなければ、益田はこの少年を人形と思ったかもしれない。
「あ―――」
「だれだおまえは」
子花のように可憐な唇が、幼さを残す涼やかな声で、似合わぬ不遜な言葉を投げてきた。
益田は瞬間怯んだが、生憎こういう類の衝撃《ショック》には慣れている。反射的にへらりと笑顔を作った。
「ドロボウか!?」
「ち――違いますよぅ。僕は主人の使いで来た者です。この家の息子さんの。知ってますかね、榎木津――」
「ああ、馬鹿兄貴か」
ぼくはおまえのような、案山子みたいな男なんかしらないものな。
そう云うと少年は勝手に得心した様子で、また元来た植え込みに入っていこうとする。複雑に絡み合った枝に裸の膝が分け入ろうとする度、ばきばきと派手な音がした。
「あの、ちょっと待って、道を」
「ん? ちょっと待て」
ぐるりと少年の首が益田を見上げた。じっと益田の眼を――その中空と云うか、遥か奥と云うか――見ている。益々濃度を増す闇の中で、硝子球のような両の眼だけが爛々と光る。
「…かぼちゃだな!」
そう叫ぶと少年はぱっと破顔し、益田がぶら下げている紙袋に飛びついてきた。
突然の事に、益田は何に驚けば良いのか解らなくなる。とりあえず、少年が益田の荷を奪おうとしている事だけは良く解った。
「うわぁ! ちょ、ちょっと!」
「嬉しいなぁぼくはかぼちゃが大好きなんだ、汁が多いやつがいい。お腹が空いたから帰らなきゃと思っていたが、うふふ、これならまだまだあそべる」
少年は上機嫌で、重箱を取り上げんとしてくる。益田は小さな手を払いのけるだけで精一杯だ。慣れない道に足を取られ、ついに尻餅をついてしまった。じいんとした痛みが尻から腰、背中に響く。使い物が入った紙袋が、とすりと音を立てて地に着いた。幸い倒れなかったようだ。
間抜けにも転倒した益田を、少年が見下ろしている。濃紺の空と、木々の輪郭を背負って。おまけに何処か子供離れした迫力というか、荘厳さというか、そんなものまで背負っている。
ぽかんと口を開けて見上げていると、少年が不思議そうな顔をした。
「なんだおまえ」
「な、なんだって何ですよ!」
「ぼくは王様になるんだぞ。おまえは王様の食卓をいろどれることを感謝して、その美味しそうなかぼちゃを差し出せば良いのに」
細く柔らかな髪が、夜風に揺れている。きっと良く梳いているんだろう。
しかし少年はそんな事気にも留めず、乱暴な仕草で頭をばりばりと掻いた。
それを見て、益田ははっと思い出す。好き勝手に跳ねる、稲穂の色をした髪。昼は弾ける光を、夜は星を飼っている髪。
「――ぼ、僕の上司は、神様ですから」
かみさま。
その言葉を口に出した途端、どっと力が抜けた。
少年はぽかんとした様子で益田を見て、また頭を掻く。
「馬鹿兄貴は神様っていう感じじゃないしなぁ――」
「違います、僕の上司の名前はですね」
「ああいい、いい、もういいよ。そんな顔をするんじゃない、ぼくがいじめてるみたいじゃないか」
アーガイル柄の仕立てが良い靴下と、磨かれた革靴に守れた小さな足が、益田の脛を軽く蹴りつける。立て、と云われているんだろう。よろよろと立ち上がると、少年のつむじが見える。随分と大きく見えたのが嘘のようだ。
庭のあちこちに灯が点り、明るさを増した視界の先に小さく鉄の門があった。益田は安堵する。
「…あの、じゃあ、僕はこれで」
「おまえは変なやつだ」
少年の大きな眼が、じっと益田を見ている。何処にでもありそうな特徴の無い自分の輪郭が、綺麗な瞳の中に映りこんでいる。
「まぁ、かぼちゃは今度でいいや。ちゃんと届けなさい、くれぐれも汁をこぼさないように」
―――待ってるからな。
少年は僅かに微笑んで、母屋に向かう道を駆けて行った。小さな身体はたちまち夜闇に飲み込まれ、吸い込まれるように消える。益田はそれを呆然と見送り、地面に置かれた紙袋を拾い上げた。
早く帰らなければ。そろそろ彼が怒り出す頃だ。探偵椅子に憮然と腰掛け、探偵机の天板に両足を投げ出して。
益田の神が―――待っている。
―――
どうすれば仔榎と益田が合法的に出会いあわよくば…あわよくば と考えていたら夜が明けていました。
益田は其れを僅かに惜しみながら、そっと紙袋に仕舞う。真っ直ぐ入れなければ、出汁が零れてしまう。
ゆっくりと味を煮含めた南瓜は色鮮やかさを増している。
しっとりとした食感と優しい甘さはお菓子のようで、幼い弟の好物だったのだと云って、雇い主の兄は笑った。
たまには実家に帰ってくるように、という伝言を手土産と共に預かり、益田は榎木津家の母屋を出て、門を目指す。――本当に「目指す」ように歩かなければ、永遠に行き着けないような心地がする。
なにせ榎木津の実家と来たら、母屋も馬鹿でかいが、庭もだだっ広いのだ。一見して手入れされていると解る庭木も、日が落ちかけた今となっては整然とした輪郭が余計に気味悪い。葉ずれの音に混ざって何処からか聞こえる鳥の声、聞いた事が無い響きだ。此処で飼っているのだろうか。
早く此処を出て、事務所に帰らなければ。早く早く早く。
腹を空かせた彼が待っている。実家からの呼び出しを益田に押し付けたのは自分の癖に、何処か拗ねた態度だった彼が待っているのだ。
焦る益田を追い立てるように夕闇は濃さを増し、焦りが加速する。早く早く―――
がさり。
刈り込まれた茂みが音を立てて動いた。
益田ははっとそちらに目をやる。庭師か誰かだろうか。助かった、道を聞こう。榎木津の兄に案内は要らないと云ってしまった手前、情けなくはあるが―――
しかしながら、最早殆ど影の塊となった植え込みから現れたのは、見るからに庭師などでは無かった。想定していたより随分と――小さい。手足は華奢で、益田の目にも一瞬で成長途中の子供だと知れた。
薄闇の中でもひときわ明るい亜麻色の髪に、枯れ草がまとわり付いている。子供がこちらに向き直った瞬間、良く櫛を通された髪の流れに従って、するりと落ちた。
肩口まである少女めいた髪よりもきっと人目を引く大きな瞳が、益田を見上げている。夕暮れ空を駆け上がる、一対の星を思わせる。この眼に出会っていなければ、益田はこの少年を人形と思ったかもしれない。
「あ―――」
「だれだおまえは」
子花のように可憐な唇が、幼さを残す涼やかな声で、似合わぬ不遜な言葉を投げてきた。
益田は瞬間怯んだが、生憎こういう類の衝撃《ショック》には慣れている。反射的にへらりと笑顔を作った。
「ドロボウか!?」
「ち――違いますよぅ。僕は主人の使いで来た者です。この家の息子さんの。知ってますかね、榎木津――」
「ああ、馬鹿兄貴か」
ぼくはおまえのような、案山子みたいな男なんかしらないものな。
そう云うと少年は勝手に得心した様子で、また元来た植え込みに入っていこうとする。複雑に絡み合った枝に裸の膝が分け入ろうとする度、ばきばきと派手な音がした。
「あの、ちょっと待って、道を」
「ん? ちょっと待て」
ぐるりと少年の首が益田を見上げた。じっと益田の眼を――その中空と云うか、遥か奥と云うか――見ている。益々濃度を増す闇の中で、硝子球のような両の眼だけが爛々と光る。
「…かぼちゃだな!」
そう叫ぶと少年はぱっと破顔し、益田がぶら下げている紙袋に飛びついてきた。
突然の事に、益田は何に驚けば良いのか解らなくなる。とりあえず、少年が益田の荷を奪おうとしている事だけは良く解った。
「うわぁ! ちょ、ちょっと!」
「嬉しいなぁぼくはかぼちゃが大好きなんだ、汁が多いやつがいい。お腹が空いたから帰らなきゃと思っていたが、うふふ、これならまだまだあそべる」
少年は上機嫌で、重箱を取り上げんとしてくる。益田は小さな手を払いのけるだけで精一杯だ。慣れない道に足を取られ、ついに尻餅をついてしまった。じいんとした痛みが尻から腰、背中に響く。使い物が入った紙袋が、とすりと音を立てて地に着いた。幸い倒れなかったようだ。
間抜けにも転倒した益田を、少年が見下ろしている。濃紺の空と、木々の輪郭を背負って。おまけに何処か子供離れした迫力というか、荘厳さというか、そんなものまで背負っている。
ぽかんと口を開けて見上げていると、少年が不思議そうな顔をした。
「なんだおまえ」
「な、なんだって何ですよ!」
「ぼくは王様になるんだぞ。おまえは王様の食卓をいろどれることを感謝して、その美味しそうなかぼちゃを差し出せば良いのに」
細く柔らかな髪が、夜風に揺れている。きっと良く梳いているんだろう。
しかし少年はそんな事気にも留めず、乱暴な仕草で頭をばりばりと掻いた。
それを見て、益田ははっと思い出す。好き勝手に跳ねる、稲穂の色をした髪。昼は弾ける光を、夜は星を飼っている髪。
「――ぼ、僕の上司は、神様ですから」
かみさま。
その言葉を口に出した途端、どっと力が抜けた。
少年はぽかんとした様子で益田を見て、また頭を掻く。
「馬鹿兄貴は神様っていう感じじゃないしなぁ――」
「違います、僕の上司の名前はですね」
「ああいい、いい、もういいよ。そんな顔をするんじゃない、ぼくがいじめてるみたいじゃないか」
アーガイル柄の仕立てが良い靴下と、磨かれた革靴に守れた小さな足が、益田の脛を軽く蹴りつける。立て、と云われているんだろう。よろよろと立ち上がると、少年のつむじが見える。随分と大きく見えたのが嘘のようだ。
庭のあちこちに灯が点り、明るさを増した視界の先に小さく鉄の門があった。益田は安堵する。
「…あの、じゃあ、僕はこれで」
「おまえは変なやつだ」
少年の大きな眼が、じっと益田を見ている。何処にでもありそうな特徴の無い自分の輪郭が、綺麗な瞳の中に映りこんでいる。
「まぁ、かぼちゃは今度でいいや。ちゃんと届けなさい、くれぐれも汁をこぼさないように」
―――待ってるからな。
少年は僅かに微笑んで、母屋に向かう道を駆けて行った。小さな身体はたちまち夜闇に飲み込まれ、吸い込まれるように消える。益田はそれを呆然と見送り、地面に置かれた紙袋を拾い上げた。
早く帰らなければ。そろそろ彼が怒り出す頃だ。探偵椅子に憮然と腰掛け、探偵机の天板に両足を投げ出して。
益田の神が―――待っている。
―――
どうすれば仔榎と益田が合法的に出会いあわよくば…あわよくば と考えていたら夜が明けていました。
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