―――あの日僕を突き動かした真摯な気持ちは、何処へ?
丸い月がぽかりと浮かぶ夜をひとりで歩く。
夜風に剥き出しの耳朶を弄られて、外套の襟に顔を埋めた。今夜も寒い。
下宿は目の前だ。窓際は隙間風が吹き込むし、明け方は建物ごと包み込む冷気が忍び寄って来るが、外よりはマシだ。布団に包まれば自分の体温で少しずつ温められて眠ることが出来る。
足音が周囲の住居に反響してやけに大きく聞こえていた。鉄の階段はやたらと響くので、近所迷惑を慮り極力そっと自室を目指した。
ドアに刺した鍵を回し、かちゃりという手応えが指先に伝わるのを感じた益田はようやく息を吐いた。
歩行の延長の動きで靴を脱ぎ捨て、外套を落とし、タイを引き抜き、敷きっ放しの布団に飛び込んだ。全身が弛緩していくのを感じる。相当疲れていたのだと知った。
地の底へ引っ張り込まれるのに似た強烈な眠気を憶えるが、このまま寝たら明日着る服がない。歯も磨きたい。引き剥がすように身を起こす。
手始めにシャツの釦をひとつひとつ外すうち、益田はふと自分の胸元に目を留めた。白い布地に髪の毛が張り付いている。払い落とそうとしてはっと気がついた。目の前に垂れ落ちる自分の黒髪ではない。
指先で摘み取ったそれは、月明かりを受けてつやつやと輝いた。
透き通るような亜麻色。こんな髪を持つ者は、益田の知る限り一人しかいない。
「榎木津さんだ」
猫じゃあないんだから、と呟くついでに、今日益田を疲弊させた案件を思い出す。依頼人の女性は、私のじゃない長い髪の毛が出てきたんですぅ、とさめざめと泣いていた。益田はさぞお辛いでしょう理解ります理解りますと彼女を宥め、榎木津はそれをつまらなそうに見ていた。
何処でこんなものが移ったのだろう。なんとなく捨ててしまうのも悪い気がして、卓袱台の上にそっと置いた。そのうち風で飛ばされて、自分も忘れてしまえばいい。
けれど何故か目が離せない。思考はつらつらと、榎木津の事ばかりになっていく。
雪景色に一人やたらと映えた横顔のこと。「君は偉い」と言われ合わせた眼のこと。彼を探して歩いたあの日の景色。
「参ったなぁ、家でまで榎木津さんに振り回されたくないですよぅ」
誰に聞かせるでもない独り言。なのに勝手に口端が持ち上がるのを感じた。
誰の侵入する余地もない自分だけの場所にいても、彼の幻影が忍び寄る。
まるで本物の神のようだ。「ようだ」ではない、少なくとも、益田にとっては。
(滅相もない)
なんだか居た堪れなくなり、掌で顔を覆った。卑怯者に似合う仕草で、指の隙間から夜空を仰ぎ見る。
窓の向こうに見えるのは、やはり丸い月。黒い天鵞絨の布に開いた風穴のようだ。
満ちたと思えば、欠けていくしかない月。
その隣には、虚ろな目をした自分の顔が映っている。
月の如くうつろう心が欠けて行くのを怖れてか、或いは自分の領域がどんどん空に融けていくのを知ってのことか。
知らず胸を押さえた。
虚ろだった自分の裡を埋めるのは、尊敬も憧憬も信仰も飛び越える想い。
ならば、これは何だ?
少なくとも、恋ではなかった。
恋などという、有り触れた、何処にでもあるような。
恋などという、真綿に包まれる柔らかさをもって胸を締め付けられるような、この世の全てに背反してでも欲しいものがあるような、乱暴な感情ではなかった。
なかった、のに。
――――
クラスチェンジしちゃった益田。捨ててないのに捨てたと思って動揺すればいいと思います。
「本当に困ったものだなぁ」
「そう、困ったものなんすよ、師匠」
「僕が言ったのは君の話だよ、鳥口君」
うちは相談所でも託児所でもないのだよ、と言われてしまうと立つ瀬がない。
うへぇ手厳しい、と鳥口は首を竦める。
今日も中禅寺の機嫌は相変わらずで、本の頁を繰る指先まで無愛想だ。
藍染の着物から伸びた腕は今日も細い。
「何ごとかあるとすぐ家に来る」
「いやぁ、込み入った話になると耳が勝手に師匠の話を聞きたくなるといいますか」
「だから師匠じゃないと言うに」
しかも恋愛相談など、いよいよ僕の専門じゃない――――
中禅寺の乾いた声で「恋愛」などと言われると、何故か背筋がぎくりとする。
鳥口はそれを隠しつつ、いつもそうするように話を切り出した。
「そう言わないで助けると思ってお願いしますよ。叶わぬ恋に頭を痛める僕の友人を」
「頭を、ねぇ…」
「僕なんかじゃあもう慰めにもならない。そこで目先を変えまして、師匠のお言葉を頂戴しようかと」
実際鳥口は煮詰まっていた。
お調子者の仮面で、不器用にも想いを隠しこんでいる友人のことだ。
叶わぬ想いと半分諦めた者同士傷を舐め合うようにして、酒を酌み交わしたり枕を交わしたり色々としてきたが、もう限界だと思う。
関係が辛くなった訳ではないが、あまりにも発展性がないのだ。
自分と寝た翌朝、想い人のいる勤め先へふらふらと出掛けていく痩せた背中を見送る度に、鳥口はそう思ってきた。
このままでは互いの、否、彼の為にならない。
されど自分の頭では妙案が思いつく筈もなく、気づけば足はここに向いていたというわけだ。
とはいえ全て明かしてしまうのも大変不味いように思い、虚実織り交ぜながら話を進める。
中禅寺はそのたびに嗚呼とかなんとか返事をしていたが、本を捲る手を休めることはなかった。
「…と、いうわけなんですが」
「成程。偶然にも僕は良く似た話を知っているよ」
「本当ですか、そいつは好都合」
光明が見えた気がして、ぱっと顔を上げる。
中禅寺の鋭角な顎が、笑いを堪えるように震えているのは気のせいだろうか。
「あくまでも僕が知っている話の事だが―――本人達が思う程難しい話じゃないね」
「そうなんすか、これ以上なく難しい話のように見えましたが」
「そこだよ。本人が『難しい話』と思っているのが善くない。難しいと思い込むから難しくなるんだ。その結果簡単なとっかかりを見逃す」
その想い人がどうでもいい者を本当に近くに置きたがるのか、とかね―――言ったところで明らかに中禅寺が噴き出したように見えた。
「君の友人は相当重症なようだ、鳥口君がいくら『難しく考えすぎだ』と言ったところで無理だろう。ここまで来るとどちらかと言うと憑物落としに近い」
「えっまさか、やってくれるんですか、師匠!」
「君がその友人とやらをここに連れてきて、先達の話は全てこいつの事です―――と言ってくれるのなら構わないが」
「うへぇ、そりゃ駄目だ」
前髪を振り乱して泣いて怒る姿が目に浮かぶ。
短く刈り込んだ後頭部をがりがりと掻いていると、中禅寺の眉間の皺が少し深くなった。
「惚れた腫れたの話は当人同士の問題とは言うけれどね、何だかんだで周囲に飛び火して参るよ」
関係ない話だと思っても、つられて浮いたり沈んだりさせられる。
鳥口はうんうんと頷いた。
酔って赤らんだ頬が、一挙手一投足に浮かれていたと思えば、途端に沈み込むのを思い出す。
どうにも出来ないとわかっていても、少しでもその気鬱を軽くしてやりたいと思ってしまう。
その結果、2人揃って出口のない袋小路に迷い込んでしまったのだが。
途切れた会話の隙間を、乾いた紙の音が埋めている。最初に口を開いたのは中禅寺だった。
「…まぁ益田君のことは心配要らないだろう。榎木津も子供じゃないんだ、いつまでも好きな子を苛めて喜ぶようなこともあるまいよ」
「だといいんですけどねぇ」
「ところで鳥口君」
「はい」
「…『友人』の話はもういいのかね?」
「あ」
しまった。
中禅寺は人の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。
「いやその、これはっ…ゲホッ」
急に大声を出したせいか咽てしまった。
苦しむ鳥口を前に、中禅寺はくつくつと笑いを溢す。
本当に託児所めいてきたなぁ、と言いながら立ち上がった。
「お茶を淹れてあげよう。茶菓子はないが」
「は、いいですいいです!胸一杯です」
「それを言うなら腹一杯だろう。そこまで行くともはや芸術だね」
畳の目を滑るように去る背中を勝手に目が追いかける。
確かに喉はカラカラだが、本当に胸が一杯なのだ。
中禅寺からはいつも古書の匂いがする。
古書に囲まれたこの部屋に居ると、全方向から彼の気配を感じ取ってしまうからだ。
こんなのはらしくないと思いながら、鳥口はこの胸苦しさに慣れた自分を感じる。
慣れるほどに此処にいたいと思う。傍にいたいのだと。
あの『友人』も、いつも同じ気持ちでいるのだろうか。
開いたままの障子から吹き込んだ夕暮れの風が、主のない本の頁をパラパラと浚った。
――――
鳥→敦子と平行して、鳥→秋彦も好き。この状況を表す上手な言葉が思いつかない。
どっちにしても幸せになってほしいので、番外編的に書いてみました。
2月23日 21:30の方
コメントたくさんありがとうございます。嬉しいです。
あまりにもたくさんなので感想ひとつひとつにお返事するのが照れちゃって出来ないのが心苦しい…。
全部大事に読ませていただきました。
お題主様の言葉選びが秀逸なので、少しでもお題に見合ったものが書ければなぁと思っているところです。
「お返事なくて大丈夫です」とのことでしたが、嬉しかったのでお返事してしまいました。ごめんなさい。
榎木津と益田がお好きなのが伝わってきて、胸があったかくなりました。
まだまだ懲りずに更新しますので、宜しくお願い致します。
叩いてくださった方も、ありがとうございます。
帰ってきました。都会は人が多いですね。
ブログのカレンダーに穴が開いちゃったのが地味に悲しいですがめげずに頑張ります。
そんなこんなで小話を一本と、ブックマークを更新しました。
ブックマークの充実が私の喜びです。益田もっともっと増えて…!
「お帰り、マスヤマ!」
喜びと共に抱き上げられた時、首に巻かれた臙脂のリボンが、ちりん、と鳴った。
僕が勘と匂いを頼りにここに辿りついた時、彼は僕を覚えていてくれた。「あの時のにゃんこだな!」と笑って、傍にいることを許してくれた。彼がいればぼくはどんなところでも良かったが、実際この部屋は日当たりも良くて居心地がとてもいい。
彼と一緒に暮らしていた先住者は、最初は「先生は何でも拾ってくるんだから」と渋い顔だったが、良く僕の面倒を見てくれる。僕の食事はいつも彼が作ってくれるのだが、熱すぎないようちゃんと冷ましてから出してくれる。今も散歩から戻った僕のために、新鮮な水を入れてくれた。
主人の腕の中は魅力的だったが、喉もとても渇いている。するりとすり抜けてしまうと、彼の残念そうな声が聞こえた。
水を飲んでいる間も、彼が優しい目で僕を見ているのがわかる。大きな2つの瞳はいつもきらきらしていて、人間というよりは僕らに近いように思う。主人を待たせてはいけない。直ぐに飲んでしまおうと一心不乱に顔をつっこむ僕を見て、「そんなに急いで飲まなくても水は逃げないぞ!」とからかった。
水も飲み終わったので、僕は机の上に飛び乗った。広い天板が日光に暖められていて、ここに寝転ぶと最高に気持ちいいのだ。何かかさかさしたものが一杯散らばっているが、構うことはない。その上に横になると、人間の声が聞こえる。
「あーあ、書類がぐちゃぐちゃじゃないか。仕方ないなぁ。先生、出しっぱなしにしないでくださいよ。うちには――――」
こういう仕事をしてくれる人がいないんだから。
煩いなぁ和寅は、なぁマスヤマ。としなやかな指が僕の背中を撫でる。僕の身体は白地に点々と散らばった黒い斑のところだけ、太陽で余計に暖まっている。彼はそれを指で触って、確かめるのが好きだった。それでは飽き足らなくなったのか、僕の痩せた前足を引っ張って膝に落としてくれた。布のズボンを通して伝わる体温は、僕よりずっと低い。僕の毛皮で暖まってくれれば良いと思い、収まりがいいように丸くなった。
柔らかな腹、額、顎の下を彼の指がくすぐる。気持ちが良いので、思わず声を上げると、「うはは悪かった、怒るな怒るな」とその指は離れていった。背中にそっと添えられる大きな手も心地よいけれど、もっと撫でてほしいのに。
ぽかぽかと温い午後、とても眠たくなってきて目を薄く閉じる。眠りに落ちる前にいつも思うのは、こうして可愛がってもらえることへの幸せと、それに何も返せないこの身の歯がゆさだ。僕らの頭はそんなに大きくないので、山を越えたり河を越えたりしているうちに、どうしてここに来たのかも忘れてしまった。何か彼にしたいことがあった筈なのに。言いたいことがあった筈なのに。
せめて感謝を伝えたくて、「ありがとう」と言ったけれど、彼の手は変わらず僕の背を撫でるだけだ。どうしようもなく悲しいけれど、それ以上にどうしようもなく眠い。抗えない睡魔に力の抜けた尻尾を白い指が掬った。
必死に覚えた、彼の名前。
榎木津さん、榎木津さん。
いくら呼んでも、叫んでも、僕の喉から毀れるのは、
にゃあ。
という声ばかり―――――
自分の寝言で目が覚めた。
まだぼんやりしたまま、布団から身を起こす。益田は目の前に垂れ落ちてきた前髪をかき上げ、夢と現実の間をふらふらとさまよっていた。今まで見ていた夢が急速に形を失っていく。
「久々に夢なんか見たなー」
もうどんな夢だったか良く思い出せない。舞台が薔薇十字探偵社だった気はしたのだが、その所為でか現実と微妙に混ざってしまってわからなくなった。熱い珈琲に溶かした白砂糖が、さらりと形を失って甘く消えていくようだ。なんだか無性に珈琲が飲みたい。出社したら、和寅に頼んで用意して貰えないだろうか。そこまで考えたところで、益田ははたと気がついた。
「うわわわわ、もう昼だ!」
洗顔もそこそこに、下宿を飛び出した。
階段を駆け上がるたび、ばたばたと革靴の足音がする。辿りついた事務所の扉は閉て切られていたので、ドアノブに手をかけて転がるように飛び込んだ。騒がしいカウベルの音と同時に「遅れてすみません!」と叫ぶと案の定そこにいたのは、愛しい僕の神様。足音で気づかれていたのか…叱られる気がする。お怒りを予期して首を竦めたのが益々お気にめさなかったのか、彼は僕を怒鳴りつける。
「遅いぞ、マスヤマ!」
降り注ぐ罵詈雑言の嵐にがっくりと項垂れた時、首に巻いた臙脂のネクタイが、音もなく揺れた。
――――
遅刻ですが猫の日話です。寝てる話が…続いて…い…る…。
益田がにゃんこだったらきっと無条件で愛されるけど、益田がしたいことは人間でなければ出来ないことばかり。
眠ってしまっていた。
陽が傾いているのを見ると、随分長い間だったようだ。
このところ忙しくてちゃんと睡眠を摂っていなかったことを思い出す。
首の付け根が突っ張るのを感じ、益田はうなじを撫で摩る。張った筋を指で圧迫すると、思わず痛ててと声が漏れた。
革張りのソファにも随分馴染んだものだ。本来応接用なのだが、今はその他に益田の仕事机としても、泊まり込んだ時の寝床としても働いている。
夕陽も落ちかけ、フロアは紫色の薄暗さだ。電気を点けようと立ち上がろうとしたが、脚に力を入れたところで益田は息を呑んだ。
膝の上に、というか腿の上に、「何か」がいる。
「え、榎木津さん」
榎木津が自分の脚に頭を預けて眠っていた。
規則正しい寝息をたてている。本当に良く寝ているようだ。
その眠りを暖め、守っているカーキ色の掛け布は、どういうわけか益田の外套だった。
益田がソファの真ん中に陣取っていたため、榎木津が横たわるのに十分なスペースはないはずだ。座面にあるのは腰から上だけで、不穏当に長い脚は見えない椅子に座っているような姿勢で床についている。
「器用な寝方だなぁ…」
益田は驚くより先に感心してしまう。
寝顔はきちんと正面を向いていて、腕は胸の上で組まれている。子供のような寝息と、ズボン越しに伝わる体温がなければ蝋人形に見えたかもしれない。
肉の薄い自分の脚では木の棒を枕にしているのとそう変わらない筈だ。
寝心地の点でもいつも彼が使っている羽枕とは比べ物にならないだろうが、意に介す様子もない。
栗色の髪が大きな猫のように見えて、益田はそっと手を彼の髪に差し入れた。柔らかな感触が、さらさらと指の間を通り抜けていく。
湧き上がる感情は、榎木津が自分にこうして無防備な姿を曝していることへの安堵であり、感謝であり、言い知れぬ不安でもあった。
暮れ時がそうさせるのだろうか。
(僕は、どうして)
榎木津の頭の形を直に感じながら、益田は思いに耽る。
自分が彼に抱いている感情の事は自覚していた。それは探偵助手としても、下僕としてもふさわしくない、大それた想いだ。自分の感覚全てで彼を探し、彼の感覚が少しでも自分に向いてくれることをいつも望んでいる。
こうしているのは喜ぶべきことで、榎木津の気紛れによって降って湧いた幸福で、享受してもいいと思う。そうするべきだ。例え彼が目覚めるまでの、束の間の夢のようなものだとしても。
なのに幸福は時が経つとともに、もやもやと黒い霧へと姿を変え、いつも益田を苦しめるのだ。
どうして幸せを持っていることが出来ないのか。何も考えず、菓子を与えられた子供のように、一時でも甘さに浸ることが出来ないのか。
この心配はどこから来るのだろう。
榎木津の頭の重さで脚が痺れてきた。夜闇に沈みつつある室内でも尚白い榎木津は、いよいよ人形のように見える。
よく慣れた足音が近づくのを感じ、益田は榎木津の髪から手を引いた。少し慌てたが、無理やり取り除けたら榎木津の眠りを妨げてしまう。ただでさえ不安定な姿勢だ。転んで頭でも打ったら大変なことになる。
首だけでおろおろする益田に、事もなげに声がかかる。
「よく寝ておいでだ」
「和寅さん、いやその、これはですね」
暗がりをすり抜けて、和寅が歩いてきた。捧げ持つ盆に乗せられたカップからは、白い湯気が上がっている。
机上に置いては、身を乗り出した時に榎木津が目を覚ましてしまうと思ったのだろう。直接手渡された紅茶は温かく喉を通っていく。そう言えば喉が渇いていた。
「電気は点けないよ。先生が起きてしまうから」
「榎木津さんがここで寝てるの知ってたんですか?」
知ってるよ、そう言った和寅は対になったソファに腰掛ける。
「私が見た時には君はもう寝ていたね。そこに先生がその姿勢で横たわっていたけど、全然起きやしない」
――――和寅もさすがに驚いて、榎木津に声をかけた。
「何やってんですか先生」
「うん、これは寝づらいぞ。すごーく寝づらい」
首をごそごそ動かして、安定する場所を探している。その度に益田は呻いたが、目を覚ます様子はなかった。
「無理してそんな所で寝なくても、お昼寝なら寝室に行けばいいでしょう。ソファももう一つ空いてるし」
「いいんだ。うん、枕が硬いのにはまぁ慣れたけどちょっと寒いな。そこにマスヤマの外套かかってるだろう、それでいいや。持ってきて」
外套を被せられた榎木津は、下僕の寝顔を見上げる。
多少眠りは浅いところまで来たようだがおおむね安らかそうなのを見て、榎木津は満足を得る。
「お客さんが見たらたまげますからもう今日は閉めますよ」
和寅がドアに鍵をかけて戻った時には、眠っているのは2人になっていた。
「幸せ者だね益田君」
「皮肉言うのやめてくださいよう」
益田は唇を尖らせ、幾分冷めた紅茶を一気に流し込む。和寅は空になったカップを受け取ると、立ち上がった。
「行っちゃうんですかあ」
「私がいてどうするんだ。君はせいぜい先生を起こさないように静かにしているんだね」
嗚呼でも今起こさないと夜中眠らなくて騒がしいかなぁ、とは随分な言い様だ。幼児にでも向ける言葉のようだが、あながち間違っても居ない。
立ち去った和寅の背を見送った益田は、少しずれた外套を榎木津に掛け直してやった。
目が覚めたらまた、首が痛いのなんだのと大騒ぎするんだろう。そして自分は「僕のせいじゃありませんよう」とか言って馬鹿になって、それを聞いた和寅がやれやれとばかりに榎木津のための茶を持ってくるのだろう。
益田はそれでいいと思った。
眠っている榎木津はただ綺麗なばかりで、落ち着かない。気を許して、心中を吐露しそうになる。
胸の内に渦巻く複雑な感傷を飼い殺しながら、益田は目を閉じた。
――――
一度に大きな幸せを与えると泣いてしまうので、小さな幸せを小出しにして、困ったように笑って欲しい。