眠ってしまっていた。
陽が傾いているのを見ると、随分長い間だったようだ。
このところ忙しくてちゃんと睡眠を摂っていなかったことを思い出す。
首の付け根が突っ張るのを感じ、益田はうなじを撫で摩る。張った筋を指で圧迫すると、思わず痛ててと声が漏れた。
革張りのソファにも随分馴染んだものだ。本来応接用なのだが、今はその他に益田の仕事机としても、泊まり込んだ時の寝床としても働いている。
夕陽も落ちかけ、フロアは紫色の薄暗さだ。電気を点けようと立ち上がろうとしたが、脚に力を入れたところで益田は息を呑んだ。
膝の上に、というか腿の上に、「何か」がいる。
「え、榎木津さん」
榎木津が自分の脚に頭を預けて眠っていた。
規則正しい寝息をたてている。本当に良く寝ているようだ。
その眠りを暖め、守っているカーキ色の掛け布は、どういうわけか益田の外套だった。
益田がソファの真ん中に陣取っていたため、榎木津が横たわるのに十分なスペースはないはずだ。座面にあるのは腰から上だけで、不穏当に長い脚は見えない椅子に座っているような姿勢で床についている。
「器用な寝方だなぁ…」
益田は驚くより先に感心してしまう。
寝顔はきちんと正面を向いていて、腕は胸の上で組まれている。子供のような寝息と、ズボン越しに伝わる体温がなければ蝋人形に見えたかもしれない。
肉の薄い自分の脚では木の棒を枕にしているのとそう変わらない筈だ。
寝心地の点でもいつも彼が使っている羽枕とは比べ物にならないだろうが、意に介す様子もない。
栗色の髪が大きな猫のように見えて、益田はそっと手を彼の髪に差し入れた。柔らかな感触が、さらさらと指の間を通り抜けていく。
湧き上がる感情は、榎木津が自分にこうして無防備な姿を曝していることへの安堵であり、感謝であり、言い知れぬ不安でもあった。
暮れ時がそうさせるのだろうか。
(僕は、どうして)
榎木津の頭の形を直に感じながら、益田は思いに耽る。
自分が彼に抱いている感情の事は自覚していた。それは探偵助手としても、下僕としてもふさわしくない、大それた想いだ。自分の感覚全てで彼を探し、彼の感覚が少しでも自分に向いてくれることをいつも望んでいる。
こうしているのは喜ぶべきことで、榎木津の気紛れによって降って湧いた幸福で、享受してもいいと思う。そうするべきだ。例え彼が目覚めるまでの、束の間の夢のようなものだとしても。
なのに幸福は時が経つとともに、もやもやと黒い霧へと姿を変え、いつも益田を苦しめるのだ。
どうして幸せを持っていることが出来ないのか。何も考えず、菓子を与えられた子供のように、一時でも甘さに浸ることが出来ないのか。
この心配はどこから来るのだろう。
榎木津の頭の重さで脚が痺れてきた。夜闇に沈みつつある室内でも尚白い榎木津は、いよいよ人形のように見える。
よく慣れた足音が近づくのを感じ、益田は榎木津の髪から手を引いた。少し慌てたが、無理やり取り除けたら榎木津の眠りを妨げてしまう。ただでさえ不安定な姿勢だ。転んで頭でも打ったら大変なことになる。
首だけでおろおろする益田に、事もなげに声がかかる。
「よく寝ておいでだ」
「和寅さん、いやその、これはですね」
暗がりをすり抜けて、和寅が歩いてきた。捧げ持つ盆に乗せられたカップからは、白い湯気が上がっている。
机上に置いては、身を乗り出した時に榎木津が目を覚ましてしまうと思ったのだろう。直接手渡された紅茶は温かく喉を通っていく。そう言えば喉が渇いていた。
「電気は点けないよ。先生が起きてしまうから」
「榎木津さんがここで寝てるの知ってたんですか?」
知ってるよ、そう言った和寅は対になったソファに腰掛ける。
「私が見た時には君はもう寝ていたね。そこに先生がその姿勢で横たわっていたけど、全然起きやしない」
――――和寅もさすがに驚いて、榎木津に声をかけた。
「何やってんですか先生」
「うん、これは寝づらいぞ。すごーく寝づらい」
首をごそごそ動かして、安定する場所を探している。その度に益田は呻いたが、目を覚ます様子はなかった。
「無理してそんな所で寝なくても、お昼寝なら寝室に行けばいいでしょう。ソファももう一つ空いてるし」
「いいんだ。うん、枕が硬いのにはまぁ慣れたけどちょっと寒いな。そこにマスヤマの外套かかってるだろう、それでいいや。持ってきて」
外套を被せられた榎木津は、下僕の寝顔を見上げる。
多少眠りは浅いところまで来たようだがおおむね安らかそうなのを見て、榎木津は満足を得る。
「お客さんが見たらたまげますからもう今日は閉めますよ」
和寅がドアに鍵をかけて戻った時には、眠っているのは2人になっていた。
「幸せ者だね益田君」
「皮肉言うのやめてくださいよう」
益田は唇を尖らせ、幾分冷めた紅茶を一気に流し込む。和寅は空になったカップを受け取ると、立ち上がった。
「行っちゃうんですかあ」
「私がいてどうするんだ。君はせいぜい先生を起こさないように静かにしているんだね」
嗚呼でも今起こさないと夜中眠らなくて騒がしいかなぁ、とは随分な言い様だ。幼児にでも向ける言葉のようだが、あながち間違っても居ない。
立ち去った和寅の背を見送った益田は、少しずれた外套を榎木津に掛け直してやった。
目が覚めたらまた、首が痛いのなんだのと大騒ぎするんだろう。そして自分は「僕のせいじゃありませんよう」とか言って馬鹿になって、それを聞いた和寅がやれやれとばかりに榎木津のための茶を持ってくるのだろう。
益田はそれでいいと思った。
眠っている榎木津はただ綺麗なばかりで、落ち着かない。気を許して、心中を吐露しそうになる。
胸の内に渦巻く複雑な感傷を飼い殺しながら、益田は目を閉じた。
――――
一度に大きな幸せを与えると泣いてしまうので、小さな幸せを小出しにして、困ったように笑って欲しい。