階段を駆け上がるたび、ちりんちりんと音がする。辿りついた事務所の扉は閉て切られていたので、かりかりと引っ掻いた。開けてください、と高い声で一声鳴くと勢い良くドアが開けられる。騒がしいカウベルの音と共に現れたのは、愛しい僕の主人。足音で知っていたけれど、会えて嬉しい。足首に頭を擦りつけると、彼はくすぐったそうに笑う。
「お帰り、マスヤマ!」
喜びと共に抱き上げられた時、首に巻かれた臙脂のリボンが、ちりん、と鳴った。
僕が勘と匂いを頼りにここに辿りついた時、彼は僕を覚えていてくれた。「あの時のにゃんこだな!」と笑って、傍にいることを許してくれた。彼がいればぼくはどんなところでも良かったが、実際この部屋は日当たりも良くて居心地がとてもいい。
彼と一緒に暮らしていた先住者は、最初は「先生は何でも拾ってくるんだから」と渋い顔だったが、良く僕の面倒を見てくれる。僕の食事はいつも彼が作ってくれるのだが、熱すぎないようちゃんと冷ましてから出してくれる。今も散歩から戻った僕のために、新鮮な水を入れてくれた。
主人の腕の中は魅力的だったが、喉もとても渇いている。するりとすり抜けてしまうと、彼の残念そうな声が聞こえた。
水を飲んでいる間も、彼が優しい目で僕を見ているのがわかる。大きな2つの瞳はいつもきらきらしていて、人間というよりは僕らに近いように思う。主人を待たせてはいけない。直ぐに飲んでしまおうと一心不乱に顔をつっこむ僕を見て、「そんなに急いで飲まなくても水は逃げないぞ!」とからかった。
水も飲み終わったので、僕は机の上に飛び乗った。広い天板が日光に暖められていて、ここに寝転ぶと最高に気持ちいいのだ。何かかさかさしたものが一杯散らばっているが、構うことはない。その上に横になると、人間の声が聞こえる。
「あーあ、書類がぐちゃぐちゃじゃないか。仕方ないなぁ。先生、出しっぱなしにしないでくださいよ。うちには――――」
こういう仕事をしてくれる人がいないんだから。
煩いなぁ和寅は、なぁマスヤマ。としなやかな指が僕の背中を撫でる。僕の身体は白地に点々と散らばった黒い斑のところだけ、太陽で余計に暖まっている。彼はそれを指で触って、確かめるのが好きだった。それでは飽き足らなくなったのか、僕の痩せた前足を引っ張って膝に落としてくれた。布のズボンを通して伝わる体温は、僕よりずっと低い。僕の毛皮で暖まってくれれば良いと思い、収まりがいいように丸くなった。
柔らかな腹、額、顎の下を彼の指がくすぐる。気持ちが良いので、思わず声を上げると、「うはは悪かった、怒るな怒るな」とその指は離れていった。背中にそっと添えられる大きな手も心地よいけれど、もっと撫でてほしいのに。
ぽかぽかと温い午後、とても眠たくなってきて目を薄く閉じる。眠りに落ちる前にいつも思うのは、こうして可愛がってもらえることへの幸せと、それに何も返せないこの身の歯がゆさだ。僕らの頭はそんなに大きくないので、山を越えたり河を越えたりしているうちに、どうしてここに来たのかも忘れてしまった。何か彼にしたいことがあった筈なのに。言いたいことがあった筈なのに。
せめて感謝を伝えたくて、「ありがとう」と言ったけれど、彼の手は変わらず僕の背を撫でるだけだ。どうしようもなく悲しいけれど、それ以上にどうしようもなく眠い。抗えない睡魔に力の抜けた尻尾を白い指が掬った。
必死に覚えた、彼の名前。
榎木津さん、榎木津さん。
いくら呼んでも、叫んでも、僕の喉から毀れるのは、
にゃあ。
という声ばかり―――――
自分の寝言で目が覚めた。
まだぼんやりしたまま、布団から身を起こす。益田は目の前に垂れ落ちてきた前髪をかき上げ、夢と現実の間をふらふらとさまよっていた。今まで見ていた夢が急速に形を失っていく。
「久々に夢なんか見たなー」
もうどんな夢だったか良く思い出せない。舞台が薔薇十字探偵社だった気はしたのだが、その所為でか現実と微妙に混ざってしまってわからなくなった。熱い珈琲に溶かした白砂糖が、さらりと形を失って甘く消えていくようだ。なんだか無性に珈琲が飲みたい。出社したら、和寅に頼んで用意して貰えないだろうか。そこまで考えたところで、益田ははたと気がついた。
「うわわわわ、もう昼だ!」
洗顔もそこそこに、下宿を飛び出した。
階段を駆け上がるたび、ばたばたと革靴の足音がする。辿りついた事務所の扉は閉て切られていたので、ドアノブに手をかけて転がるように飛び込んだ。騒がしいカウベルの音と同時に「遅れてすみません!」と叫ぶと案の定そこにいたのは、愛しい僕の神様。足音で気づかれていたのか…叱られる気がする。お怒りを予期して首を竦めたのが益々お気にめさなかったのか、彼は僕を怒鳴りつける。
「遅いぞ、マスヤマ!」
降り注ぐ罵詈雑言の嵐にがっくりと項垂れた時、首に巻いた臙脂のネクタイが、音もなく揺れた。
――――
遅刻ですが猫の日話です。寝てる話が…続いて…い…る…。
益田がにゃんこだったらきっと無条件で愛されるけど、益田がしたいことは人間でなければ出来ないことばかり。
「お帰り、マスヤマ!」
喜びと共に抱き上げられた時、首に巻かれた臙脂のリボンが、ちりん、と鳴った。
僕が勘と匂いを頼りにここに辿りついた時、彼は僕を覚えていてくれた。「あの時のにゃんこだな!」と笑って、傍にいることを許してくれた。彼がいればぼくはどんなところでも良かったが、実際この部屋は日当たりも良くて居心地がとてもいい。
彼と一緒に暮らしていた先住者は、最初は「先生は何でも拾ってくるんだから」と渋い顔だったが、良く僕の面倒を見てくれる。僕の食事はいつも彼が作ってくれるのだが、熱すぎないようちゃんと冷ましてから出してくれる。今も散歩から戻った僕のために、新鮮な水を入れてくれた。
主人の腕の中は魅力的だったが、喉もとても渇いている。するりとすり抜けてしまうと、彼の残念そうな声が聞こえた。
水を飲んでいる間も、彼が優しい目で僕を見ているのがわかる。大きな2つの瞳はいつもきらきらしていて、人間というよりは僕らに近いように思う。主人を待たせてはいけない。直ぐに飲んでしまおうと一心不乱に顔をつっこむ僕を見て、「そんなに急いで飲まなくても水は逃げないぞ!」とからかった。
水も飲み終わったので、僕は机の上に飛び乗った。広い天板が日光に暖められていて、ここに寝転ぶと最高に気持ちいいのだ。何かかさかさしたものが一杯散らばっているが、構うことはない。その上に横になると、人間の声が聞こえる。
「あーあ、書類がぐちゃぐちゃじゃないか。仕方ないなぁ。先生、出しっぱなしにしないでくださいよ。うちには――――」
こういう仕事をしてくれる人がいないんだから。
煩いなぁ和寅は、なぁマスヤマ。としなやかな指が僕の背中を撫でる。僕の身体は白地に点々と散らばった黒い斑のところだけ、太陽で余計に暖まっている。彼はそれを指で触って、確かめるのが好きだった。それでは飽き足らなくなったのか、僕の痩せた前足を引っ張って膝に落としてくれた。布のズボンを通して伝わる体温は、僕よりずっと低い。僕の毛皮で暖まってくれれば良いと思い、収まりがいいように丸くなった。
柔らかな腹、額、顎の下を彼の指がくすぐる。気持ちが良いので、思わず声を上げると、「うはは悪かった、怒るな怒るな」とその指は離れていった。背中にそっと添えられる大きな手も心地よいけれど、もっと撫でてほしいのに。
ぽかぽかと温い午後、とても眠たくなってきて目を薄く閉じる。眠りに落ちる前にいつも思うのは、こうして可愛がってもらえることへの幸せと、それに何も返せないこの身の歯がゆさだ。僕らの頭はそんなに大きくないので、山を越えたり河を越えたりしているうちに、どうしてここに来たのかも忘れてしまった。何か彼にしたいことがあった筈なのに。言いたいことがあった筈なのに。
せめて感謝を伝えたくて、「ありがとう」と言ったけれど、彼の手は変わらず僕の背を撫でるだけだ。どうしようもなく悲しいけれど、それ以上にどうしようもなく眠い。抗えない睡魔に力の抜けた尻尾を白い指が掬った。
必死に覚えた、彼の名前。
榎木津さん、榎木津さん。
いくら呼んでも、叫んでも、僕の喉から毀れるのは、
にゃあ。
という声ばかり―――――
自分の寝言で目が覚めた。
まだぼんやりしたまま、布団から身を起こす。益田は目の前に垂れ落ちてきた前髪をかき上げ、夢と現実の間をふらふらとさまよっていた。今まで見ていた夢が急速に形を失っていく。
「久々に夢なんか見たなー」
もうどんな夢だったか良く思い出せない。舞台が薔薇十字探偵社だった気はしたのだが、その所為でか現実と微妙に混ざってしまってわからなくなった。熱い珈琲に溶かした白砂糖が、さらりと形を失って甘く消えていくようだ。なんだか無性に珈琲が飲みたい。出社したら、和寅に頼んで用意して貰えないだろうか。そこまで考えたところで、益田ははたと気がついた。
「うわわわわ、もう昼だ!」
洗顔もそこそこに、下宿を飛び出した。
階段を駆け上がるたび、ばたばたと革靴の足音がする。辿りついた事務所の扉は閉て切られていたので、ドアノブに手をかけて転がるように飛び込んだ。騒がしいカウベルの音と同時に「遅れてすみません!」と叫ぶと案の定そこにいたのは、愛しい僕の神様。足音で気づかれていたのか…叱られる気がする。お怒りを予期して首を竦めたのが益々お気にめさなかったのか、彼は僕を怒鳴りつける。
「遅いぞ、マスヤマ!」
降り注ぐ罵詈雑言の嵐にがっくりと項垂れた時、首に巻いた臙脂のネクタイが、音もなく揺れた。
――――
遅刻ですが猫の日話です。寝てる話が…続いて…い…る…。
益田がにゃんこだったらきっと無条件で愛されるけど、益田がしたいことは人間でなければ出来ないことばかり。
PR
トラックバック
トラックバックURL: