恋は人を変える。そんな事を最初に云ったのは誰だったか。
噂には聞いた事があるし、実際自分も恋とか云うものをしたことがある。あった筈だ。あったと思う。
ただ恋をした事で何か変わったか、と云われるとそんな事も無い。例えば学生の時分、可愛いあの子を見て可愛いなァ好きだなァと思ってもそれを態度で表した事は一度だって有りはしなかった。何処かに居る冷静な自分がいつも一段高い所から見下ろしていて、その冷めた視線を気にしてばかりで何か変わる事も出来なかった。いつもそうだ。きっとこれが自分の性分と云うもので、変えられないものなのだろう。
――あるいは。
自分はこれまで恋などしてみた事も無くて、むしろ――
「…熱っつ!」
指を炙った熱に強制的に意識を引き戻され、益田は反射的に手を引いた。甲にぶつかった容器が卵液を撒き散らしながら落下していく。なすすべも無く床に落ちると同時に、くわぁん、と間抜けながらも大きな音が響いた。
「あっちゃあ……」
どうしたものか一瞬考えて、膝を折り引っくり返った調理器具に手を伸ばす。湾曲した銀色の表面に、うっかり焼いてしまった指先と自分の顔が歪んで映っている。容器を狭い流し台に置き、卵液を雑巾で拭いながら益田は幾度目かの溜息を落とした。
火を扱っている時に考え事に耽ってしまった己の粗忽ぶりを憂いているのでは無い――否、それも同じ理由に端を発するものだからやはり含めてしまっても良いだろう――自分の飢えを満たすためでは無く、誰かのために調理場に立つなどという自分の行為が未だに信じられないのだ。
申し訳程度に設えられた小さな台所にはアルマイトの弁当箱に詰められた何品かの惣菜と、別の容器におざなりに取り分けられた同じ料理が居座っている。茹ですぎてぐったりしてしまった青物やほぼ炭化してしまった焼き魚は、益田が夕食として己の悲哀と共に噛み締める予定だ。弁当箱に詰められたものはどうにか食品としての体を成していて、見るからに食欲を削ぐという程では無い、と云うのは益田自身の見解だ。
「空腹は最大の調味料って云うし、大丈夫大丈夫、うん」
そう云うと益田は改めて自らの仕事ぶりを眺めた。確かにいつも相伴に預かっている寅吉の料理に比べると一段も二段も見劣りするものの、仕方が無い。寅吉は今朝の始発で榎木津家に向かってしまったはずだ。一日がかりの用事だから、明日の昼まで戻らないと聞いている。明日の昼まで、寅吉が食事を作ってくれる事は無い。
榎木津もその事は知っているはずだから、何も無ければ勝手に食べに行くはずだ――とは思うのだが。
寝室から飛び出してくるなり腹が減ったと云う榎木津だから、食べ物が用意してあれば出掛ける手間が省けて良いだろう。出来合いの惣菜を買い揃えるより幾らか経済的だ。弁当の形にしておけば、不規則な目覚めにも対応出来る。持ち歩きも簡単だ。色々なものが小さく入っているから、飽きっぽい彼でも食べてくれるかもしれない。もし食べて貰えなくても、自分用の昼食だったと思えば胸も痛まないし、
「…誰に言い訳してるんだ僕ぁ…」
益田は両手で顔を覆った。触れた頬が酷く熱い。先程火傷した指より余程熱い。
―――
少女漫画といえば手料理という発想の者です。お誕生日おめでとうございます!
噂には聞いた事があるし、実際自分も恋とか云うものをしたことがある。あった筈だ。あったと思う。
ただ恋をした事で何か変わったか、と云われるとそんな事も無い。例えば学生の時分、可愛いあの子を見て可愛いなァ好きだなァと思ってもそれを態度で表した事は一度だって有りはしなかった。何処かに居る冷静な自分がいつも一段高い所から見下ろしていて、その冷めた視線を気にしてばかりで何か変わる事も出来なかった。いつもそうだ。きっとこれが自分の性分と云うもので、変えられないものなのだろう。
――あるいは。
自分はこれまで恋などしてみた事も無くて、むしろ――
「…熱っつ!」
指を炙った熱に強制的に意識を引き戻され、益田は反射的に手を引いた。甲にぶつかった容器が卵液を撒き散らしながら落下していく。なすすべも無く床に落ちると同時に、くわぁん、と間抜けながらも大きな音が響いた。
「あっちゃあ……」
どうしたものか一瞬考えて、膝を折り引っくり返った調理器具に手を伸ばす。湾曲した銀色の表面に、うっかり焼いてしまった指先と自分の顔が歪んで映っている。容器を狭い流し台に置き、卵液を雑巾で拭いながら益田は幾度目かの溜息を落とした。
火を扱っている時に考え事に耽ってしまった己の粗忽ぶりを憂いているのでは無い――否、それも同じ理由に端を発するものだからやはり含めてしまっても良いだろう――自分の飢えを満たすためでは無く、誰かのために調理場に立つなどという自分の行為が未だに信じられないのだ。
申し訳程度に設えられた小さな台所にはアルマイトの弁当箱に詰められた何品かの惣菜と、別の容器におざなりに取り分けられた同じ料理が居座っている。茹ですぎてぐったりしてしまった青物やほぼ炭化してしまった焼き魚は、益田が夕食として己の悲哀と共に噛み締める予定だ。弁当箱に詰められたものはどうにか食品としての体を成していて、見るからに食欲を削ぐという程では無い、と云うのは益田自身の見解だ。
「空腹は最大の調味料って云うし、大丈夫大丈夫、うん」
そう云うと益田は改めて自らの仕事ぶりを眺めた。確かにいつも相伴に預かっている寅吉の料理に比べると一段も二段も見劣りするものの、仕方が無い。寅吉は今朝の始発で榎木津家に向かってしまったはずだ。一日がかりの用事だから、明日の昼まで戻らないと聞いている。明日の昼まで、寅吉が食事を作ってくれる事は無い。
榎木津もその事は知っているはずだから、何も無ければ勝手に食べに行くはずだ――とは思うのだが。
寝室から飛び出してくるなり腹が減ったと云う榎木津だから、食べ物が用意してあれば出掛ける手間が省けて良いだろう。出来合いの惣菜を買い揃えるより幾らか経済的だ。弁当の形にしておけば、不規則な目覚めにも対応出来る。持ち歩きも簡単だ。色々なものが小さく入っているから、飽きっぽい彼でも食べてくれるかもしれない。もし食べて貰えなくても、自分用の昼食だったと思えば胸も痛まないし、
「…誰に言い訳してるんだ僕ぁ…」
益田は両手で顔を覆った。触れた頬が酷く熱い。先程火傷した指より余程熱い。
―――
少女漫画といえば手料理という発想の者です。お誕生日おめでとうございます!
PR
「今日も戻られなかったなぁ」
「いつもの事じゃないですか、和寅さんの方が付き合い長いでしょうに、心配性だなぁ」
「君が小慣れすぎなんだよ」
益田が空にした汁椀と一緒に、伏せられたままの茶碗と乾いた塗箸が下げられた。 かちゃかちゃと何処か寂しげな音を立てながら、寅吉は台所へと入っていく。 益田は態と大きな欠伸をしてみせた。
榎木津不在の薔薇十字探偵社は、食後の卓上のようにがらんとしている。 三角錘がぽつんと乗った探偵机も、榎木津がいつも腰掛けている椅子からも、体温はおろか気配すら消えかけている。
こうでもしなければ、ぽっかり空いた虚ろが埋められそうに無いではないか。
「…穴が開いたみたいだなぁ…」
まだ室内は煌々と明るく、それだけに益田は妙な寂しさを覚えた。
冷え冷えとした秋の空気が、建物ごと包み込んでいる所為だろうか。 何だかいたたまれなくなって、益田は立ち上がった。
「和寅さァん、やっぱり僕も手伝、」
益田の呼び掛けを遮るように、高らかに電話のベルが鳴った。
台所の方からは忙しそうに水音が続いている。
踵を返し、冷たく黒光りする受話器を持ち上げる。
「はい薔薇十字―――」
「益山だな!お前何電話なんか出てる!」
「えっ、ええ――!?」
耳がわぁんとする程の大声が直接届き、益田は混乱する。
「えっ、榎木津さん!?榎木津さんですか、何処から掛けてるんですか」
「月見してるんだから月が見える所に決まってるだろう。それより益山」
何の参考にもならない返答をしてきた榎木津が、憮然とした声で続ける。
「電話なんか出てる場合か、こぉんなに月が綺麗なのに」
「そうなんですか、えっと、あっ、此処からじゃ見えないな…」
首を限界まで伸ばして振り向いてみたが、衝立が邪魔で窓の外が見えない。
受話器と本体を結ぶコードも伸びきってしまい、電話台の上から本体がずり落ちそうになったので慌てて支えた。
「見えないなじゃない、見るんだ!こうしてる間にも雲がかかっちゃうかもしれないんだぞ」
「ああはいはい判りましたよもう、ちょっと待ってください、よっと」
*
「見えました見えました、本当に綺麗ですねぇ」
「なんだい益田君、電話機なんか持って歩いて」
「あっ和寅さん、電話ですよ、榎木津さんから」
受話器を寅吉に手渡し、本体を抱えたまま改めて空を見上げる。
浮かぶ白い満月は夜空に開いた穴を思わせるが、益田が感じた虚しさは其処には無い。
腕に抱えた艶やかな本体から伸びるコードは、口ではぼやきつつも何処か楽しそうな寅吉に繋がっている。
貴方の声だけでこんなにも満たされる場所があるって、神様はご存知なんでしょうか?
「まだですか和寅さぁん、僕ぁ腕が疲れたんですけど」
「ちょっと待ちたまえよ、それで先生、結局いつ頃お戻りになるんですかな――」
―――
神無月だけに…駄洒落ですみません。
「いつもの事じゃないですか、和寅さんの方が付き合い長いでしょうに、心配性だなぁ」
「君が小慣れすぎなんだよ」
益田が空にした汁椀と一緒に、伏せられたままの茶碗と乾いた塗箸が下げられた。 かちゃかちゃと何処か寂しげな音を立てながら、寅吉は台所へと入っていく。 益田は態と大きな欠伸をしてみせた。
榎木津不在の薔薇十字探偵社は、食後の卓上のようにがらんとしている。 三角錘がぽつんと乗った探偵机も、榎木津がいつも腰掛けている椅子からも、体温はおろか気配すら消えかけている。
こうでもしなければ、ぽっかり空いた虚ろが埋められそうに無いではないか。
「…穴が開いたみたいだなぁ…」
まだ室内は煌々と明るく、それだけに益田は妙な寂しさを覚えた。
冷え冷えとした秋の空気が、建物ごと包み込んでいる所為だろうか。 何だかいたたまれなくなって、益田は立ち上がった。
「和寅さァん、やっぱり僕も手伝、」
益田の呼び掛けを遮るように、高らかに電話のベルが鳴った。
台所の方からは忙しそうに水音が続いている。
踵を返し、冷たく黒光りする受話器を持ち上げる。
「はい薔薇十字―――」
「益山だな!お前何電話なんか出てる!」
「えっ、ええ――!?」
耳がわぁんとする程の大声が直接届き、益田は混乱する。
「えっ、榎木津さん!?榎木津さんですか、何処から掛けてるんですか」
「月見してるんだから月が見える所に決まってるだろう。それより益山」
何の参考にもならない返答をしてきた榎木津が、憮然とした声で続ける。
「電話なんか出てる場合か、こぉんなに月が綺麗なのに」
「そうなんですか、えっと、あっ、此処からじゃ見えないな…」
首を限界まで伸ばして振り向いてみたが、衝立が邪魔で窓の外が見えない。
受話器と本体を結ぶコードも伸びきってしまい、電話台の上から本体がずり落ちそうになったので慌てて支えた。
「見えないなじゃない、見るんだ!こうしてる間にも雲がかかっちゃうかもしれないんだぞ」
「ああはいはい判りましたよもう、ちょっと待ってください、よっと」
*
「見えました見えました、本当に綺麗ですねぇ」
「なんだい益田君、電話機なんか持って歩いて」
「あっ和寅さん、電話ですよ、榎木津さんから」
受話器を寅吉に手渡し、本体を抱えたまま改めて空を見上げる。
浮かぶ白い満月は夜空に開いた穴を思わせるが、益田が感じた虚しさは其処には無い。
腕に抱えた艶やかな本体から伸びるコードは、口ではぼやきつつも何処か楽しそうな寅吉に繋がっている。
貴方の声だけでこんなにも満たされる場所があるって、神様はご存知なんでしょうか?
「まだですか和寅さぁん、僕ぁ腕が疲れたんですけど」
「ちょっと待ちたまえよ、それで先生、結局いつ頃お戻りになるんですかな――」
―――
神無月だけに…駄洒落ですみません。
飢える事がこんなに怖いと思ったのは、生まれて初めてだ。
「待てッ!この…往生際が悪いぞッ!」
榎木津が益田を捕らえたのは狭く暗い踊り場で、掴んだ腕は勢いのまま石造りの壁に叩き付けた。三階の扉は半開きのままで、頼りなく響いていたカウベルの残響音もやがて止んでしまうと、聞こえるものは互いの息遣いばかりだ。益田は見上げた榎木津の双眸が爛々と瞬いているのを恐れていたし、榎木津は見下ろした益田の青白い顔をとめどなく伝う涙を睨んでいた。
「こらッ!」
「す……すみません……ッすみませんご免なさい」
だらだらと涙を零しながら、九官鳥のようにひたすらご免なさいご免なさいと呟く益田を見ていると、手首を掴む力が強まる。僅かな肉と皮だけで守られた骨がぎしりと音を立てそうだったが、益田の震えは収まるどころか酷くなる一方だ。抑え付けて居るというよりは、くず折れてしまわないように辛うじて縫い止めていると云った方が近いだろう。
恐慌状態にありながらそれでも謝罪を繰り返す益田の頬に張り付いた濡れて張り付いた前髪を取り除きたいと榎木津は思ったが、益田を捕まえるのに両腕を使っているのでそれもままならない。
「マスヤマ、しっかりしなさい」
掴んだ腕を僅かに浮かせて、もう一度壁にぶつけてやる。ごつんと重い音がして、ようやく益田は聊か正気に戻ったような顔をして榎木津の顔を見上げてきた。小さな明かり取りから落ちる月明かりが、二人の影を床に伸ばしている。長い影は階段に掛かって降りて行き、階下に蟠る闇に紛れた。
「逃げたのを赦した訳じゃ無いけど、それは今に始まった事じゃあ無いから別に良い。怒鳴るだけ時間の無駄だ。僕が聞きたいのはそういう事じゃない」
毛布を身体に巻きつけて寝こけていた益田を見て、手を出したのは榎木津の方だ。興味と遊び心、それから所有欲に従って自分も長椅子に飛び乗り、肉の薄い頬に触れた。眠っていた彼の頬はそれなりに柔らかく、暖かかったのを覚えている。顔に掛かった前髪を払い除けると、無防備な寝顔が顕わになり益々榎木津を楽しませた。
暫く無抵抗な感触を楽しんでいると、瞼がやにわに震え、そしてゆっくりと開かれた。雲が晴れるようにして水の膜を湛えた益田の瞳が現れる。果たして今夜は泣くものか、怒るものかと榎木津は胸を躍らせながらその時を待った。
そして益田は―――榎木津の予想を裏切り、微笑んで見せたのだ。
吊り気味の眼が三日月型に歪み、薄い唇が見たことも無い形に開いた。持ち上がった口端からは八重歯がちらりと覗いている。
予期せぬ反応に虚を突かれた榎木津の首に、するりと益田の腕が回る。役目を終えた毛布が滑るようにソファから落ちていったが、誰もそれを引き止める者は無い。嬉しそうに笑いながらゆっくりと顔を寄せてくる下僕を見て、榎木津は怪訝そうに眉を寄せた。寝ぼけているのか、それとも。口を突いて出たのは、彼の名前だった。
「…マスヤマ?」
声が波紋となってフロアに広がった時、ぴたりと益田が動きを止めた。首の皮膚で知る感触は酷く強張っていて、鎖骨の辺りに届いていた吐息すらも消え失せている。益田が石になってしまったような気がして榎木津が上体を離してみると、またしても益田は榎木津の想像を超える所に居た。
薄く開いた口を閉じもせず、顔色は真っ青を通り越して蒼白だ。先程眼にした笑みはとうに失われ、何かに怯えたような顔をしているが収束した黒目には何も映していない。益田は榎木津を視認した瞬間、動揺を全身に渡らせた。
「――うわ、あ、あ……」
「おい、益」
榎木津が声をかけた瞬間、益田は―――
「……ご免なさい」
「うっ」
「ご免なさいって、そう云った。それで僕を突き飛ばして、飛んで逃げただろう」
石壁に張り付いたままの益田は、力無く頷いた。顎の辺りに溜まっていた雫がぽたりと落ちる。
「突き飛ばしてからならまだ解る。立派な反逆罪だからな。でもお前は、まだ謝らないといけないような事してなかったじゃないか。先に謝っといてそれから何かするのかと思ったら、ぼろぼろ泣くばっかりでそれも無い」
俯いてしゃくり上げている益田の記憶が視える。暗く寒い踊り場で其処だけが色鮮やかで、奇妙な映画を見ているようだ。
浮かび上がる首のラインはきっと見慣れた自分のもので、意識した途端自らの好き勝手にさせている後ろ髪が触れる感触まで思い出す。榎木津が視たままに「首だ」と呟いた途端、益田の身体は大きく竦んだ。
「すみませ、」
「だから何がスミマセンなんだ!お前のしたいようにすることがスミマセンなのか!だからお前はバカオロカなんだ、バカオロカならバカオロカなりに、欲しいものは欲しいって云ってみロ!」
益田は謝罪を口にすることは止めたが、俯いたまましきりに首を横に振っている。足元に溜まった冷気の中で、がくがくと膝が戦慄いているのが痛ましい。寒さに震える姿に似ているので、抱きしめてやろうかと思ったが、両腕が塞がっている。
僕が欲しいから、あんな風に笑ったのでは無いのか。あんな風に―――丁度、好物を目の前にした時のように。
■
榎木津の声がする。こんなにも近くに居るのに霧の中から聞こえてくるような声だったが、「欲しいなら欲しいと云ってみろ」と云うくだりだけはしっかりと聞こえ、余計に益田を痛めつけた。
もう止めて欲しい。そんなに強い力で抑え付けないで欲しい。そうして僕を逃がして欲しい。お前のような魔物など、往ってしまえと云って欲しい。
けれど榎木津はきっとそんな事は云わないだろう。云って欲しいのは本当だけれど、決して云わない彼だからこそ好いたのだ。酷く身勝手で我侭な感情は、飼い慣らせずに暴走した。あやうく無二の人の肌に牙を立てて、その血を――時間を、奪ってしまう所だった。幾ら口先で謝罪しても事足りるものでは無い。あと一瞬我に返るのが遅ければ、益田の口内は迸る鮮血の甘さで満ち、人間としての榎木津の生は終わり、自分と同じ魔物として永劫の時に繋がれる破目になっていたと、考えただけで震えが止まらない。榎木津を必要とする多くの人の顔が浮かんでは滲んで消えて行った。
驚愕に見開かれた鳶色の瞳は、闇夜に浮かぶ満月のようだ。益田は己の罪に慄きながらも、その眼を美しいと思った。好きだと思った。
顔を、肌を、目で追ってしまうのは、貴方がとても好きだからなのです。
誓って自分の本能がそうさせている訳では無いのです。
軽口を叩きながら、叱られながら、貴方の傍にずっと居たいです。
けれど貴方を世界から切り離してまでそうしたいと云う訳ではありません。
――本当に、飢える事がこんなに怖いと思ったのは、生まれて初めてだ。
夜は深く、言葉も無く、月光は益々白く彼等を照らしている。
―――
ひとりハロウィンラストは吸血鬼益田と榎木津でした。
ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました!
「待てッ!この…往生際が悪いぞッ!」
榎木津が益田を捕らえたのは狭く暗い踊り場で、掴んだ腕は勢いのまま石造りの壁に叩き付けた。三階の扉は半開きのままで、頼りなく響いていたカウベルの残響音もやがて止んでしまうと、聞こえるものは互いの息遣いばかりだ。益田は見上げた榎木津の双眸が爛々と瞬いているのを恐れていたし、榎木津は見下ろした益田の青白い顔をとめどなく伝う涙を睨んでいた。
「こらッ!」
「す……すみません……ッすみませんご免なさい」
だらだらと涙を零しながら、九官鳥のようにひたすらご免なさいご免なさいと呟く益田を見ていると、手首を掴む力が強まる。僅かな肉と皮だけで守られた骨がぎしりと音を立てそうだったが、益田の震えは収まるどころか酷くなる一方だ。抑え付けて居るというよりは、くず折れてしまわないように辛うじて縫い止めていると云った方が近いだろう。
恐慌状態にありながらそれでも謝罪を繰り返す益田の頬に張り付いた濡れて張り付いた前髪を取り除きたいと榎木津は思ったが、益田を捕まえるのに両腕を使っているのでそれもままならない。
「マスヤマ、しっかりしなさい」
掴んだ腕を僅かに浮かせて、もう一度壁にぶつけてやる。ごつんと重い音がして、ようやく益田は聊か正気に戻ったような顔をして榎木津の顔を見上げてきた。小さな明かり取りから落ちる月明かりが、二人の影を床に伸ばしている。長い影は階段に掛かって降りて行き、階下に蟠る闇に紛れた。
「逃げたのを赦した訳じゃ無いけど、それは今に始まった事じゃあ無いから別に良い。怒鳴るだけ時間の無駄だ。僕が聞きたいのはそういう事じゃない」
毛布を身体に巻きつけて寝こけていた益田を見て、手を出したのは榎木津の方だ。興味と遊び心、それから所有欲に従って自分も長椅子に飛び乗り、肉の薄い頬に触れた。眠っていた彼の頬はそれなりに柔らかく、暖かかったのを覚えている。顔に掛かった前髪を払い除けると、無防備な寝顔が顕わになり益々榎木津を楽しませた。
暫く無抵抗な感触を楽しんでいると、瞼がやにわに震え、そしてゆっくりと開かれた。雲が晴れるようにして水の膜を湛えた益田の瞳が現れる。果たして今夜は泣くものか、怒るものかと榎木津は胸を躍らせながらその時を待った。
そして益田は―――榎木津の予想を裏切り、微笑んで見せたのだ。
吊り気味の眼が三日月型に歪み、薄い唇が見たことも無い形に開いた。持ち上がった口端からは八重歯がちらりと覗いている。
予期せぬ反応に虚を突かれた榎木津の首に、するりと益田の腕が回る。役目を終えた毛布が滑るようにソファから落ちていったが、誰もそれを引き止める者は無い。嬉しそうに笑いながらゆっくりと顔を寄せてくる下僕を見て、榎木津は怪訝そうに眉を寄せた。寝ぼけているのか、それとも。口を突いて出たのは、彼の名前だった。
「…マスヤマ?」
声が波紋となってフロアに広がった時、ぴたりと益田が動きを止めた。首の皮膚で知る感触は酷く強張っていて、鎖骨の辺りに届いていた吐息すらも消え失せている。益田が石になってしまったような気がして榎木津が上体を離してみると、またしても益田は榎木津の想像を超える所に居た。
薄く開いた口を閉じもせず、顔色は真っ青を通り越して蒼白だ。先程眼にした笑みはとうに失われ、何かに怯えたような顔をしているが収束した黒目には何も映していない。益田は榎木津を視認した瞬間、動揺を全身に渡らせた。
「――うわ、あ、あ……」
「おい、益」
榎木津が声をかけた瞬間、益田は―――
「……ご免なさい」
「うっ」
「ご免なさいって、そう云った。それで僕を突き飛ばして、飛んで逃げただろう」
石壁に張り付いたままの益田は、力無く頷いた。顎の辺りに溜まっていた雫がぽたりと落ちる。
「突き飛ばしてからならまだ解る。立派な反逆罪だからな。でもお前は、まだ謝らないといけないような事してなかったじゃないか。先に謝っといてそれから何かするのかと思ったら、ぼろぼろ泣くばっかりでそれも無い」
俯いてしゃくり上げている益田の記憶が視える。暗く寒い踊り場で其処だけが色鮮やかで、奇妙な映画を見ているようだ。
浮かび上がる首のラインはきっと見慣れた自分のもので、意識した途端自らの好き勝手にさせている後ろ髪が触れる感触まで思い出す。榎木津が視たままに「首だ」と呟いた途端、益田の身体は大きく竦んだ。
「すみませ、」
「だから何がスミマセンなんだ!お前のしたいようにすることがスミマセンなのか!だからお前はバカオロカなんだ、バカオロカならバカオロカなりに、欲しいものは欲しいって云ってみロ!」
益田は謝罪を口にすることは止めたが、俯いたまましきりに首を横に振っている。足元に溜まった冷気の中で、がくがくと膝が戦慄いているのが痛ましい。寒さに震える姿に似ているので、抱きしめてやろうかと思ったが、両腕が塞がっている。
僕が欲しいから、あんな風に笑ったのでは無いのか。あんな風に―――丁度、好物を目の前にした時のように。
■
榎木津の声がする。こんなにも近くに居るのに霧の中から聞こえてくるような声だったが、「欲しいなら欲しいと云ってみろ」と云うくだりだけはしっかりと聞こえ、余計に益田を痛めつけた。
もう止めて欲しい。そんなに強い力で抑え付けないで欲しい。そうして僕を逃がして欲しい。お前のような魔物など、往ってしまえと云って欲しい。
けれど榎木津はきっとそんな事は云わないだろう。云って欲しいのは本当だけれど、決して云わない彼だからこそ好いたのだ。酷く身勝手で我侭な感情は、飼い慣らせずに暴走した。あやうく無二の人の肌に牙を立てて、その血を――時間を、奪ってしまう所だった。幾ら口先で謝罪しても事足りるものでは無い。あと一瞬我に返るのが遅ければ、益田の口内は迸る鮮血の甘さで満ち、人間としての榎木津の生は終わり、自分と同じ魔物として永劫の時に繋がれる破目になっていたと、考えただけで震えが止まらない。榎木津を必要とする多くの人の顔が浮かんでは滲んで消えて行った。
驚愕に見開かれた鳶色の瞳は、闇夜に浮かぶ満月のようだ。益田は己の罪に慄きながらも、その眼を美しいと思った。好きだと思った。
顔を、肌を、目で追ってしまうのは、貴方がとても好きだからなのです。
誓って自分の本能がそうさせている訳では無いのです。
軽口を叩きながら、叱られながら、貴方の傍にずっと居たいです。
けれど貴方を世界から切り離してまでそうしたいと云う訳ではありません。
――本当に、飢える事がこんなに怖いと思ったのは、生まれて初めてだ。
夜は深く、言葉も無く、月光は益々白く彼等を照らしている。
―――
ひとりハロウィンラストは吸血鬼益田と榎木津でした。
ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました!
陽が沈んでからは、彼らの時間。
葉の落ちた大樹の枝が夜闇に腕を伸ばす様子は如何にも薄気味悪く、鴉がギャアギャアと奇声を上げるたびにひとつきりしか無い小さな明かりが跳ねる。怯えて身を竦めた男はずり落ちたフードを被り直し、再び手にしたランタンで、墓石に刻まれた名をひとつひとつ照らしつつ歩き出した。
闇に溶ける漆黒のマントに身を包んでいる青年の名は、益田と云う。
臆病な彼が夜毎この石の森を見回る理由は幾つかあった。
第一に、広大な敷地を公園か何かと混同した無鉄砲な若者らが酒盛りなどを行っていないかを確かめるため。この場所の昼の姿しか知らない者達は、しばしば此処が死者の寝床だと忘れてしまう傾向にある。
第二に、侵入して来るだけならまだしも、墓を荒らす不心得者がしばしば現れる所為だ。重い棺の蓋を取り除いた中に或るものは物言わぬ亡骸ばかりでは無い。死者の魂を慰めるために遺族が思い出の品を入れてやっている事が多いのだ。墓が暴かれた時、失われるものは金品や供え物と云った目に見えるものだけでは無い事を彼は知っている。
そして第三。益田が墓石を丹念に調べているのは此処に起因する―――夜陰に乗じてこの世の理を曲げる不届き者が現れないように。
磨かれた墓石の影からゆらりと白い煙が立ち上ったのを確認し、益田は声を上げた。
「ああっ、郷嶋さんまた出てきてる!」
石畳に靴音を響かせながら駆け寄ると、冷たい御影石に身を凭せ掛けた何者かが顔を上げた。男か女かはともかく、年寄りか若者かを判別するのは少し難しい。郷嶋と呼ばれた男は全身を包帯で覆われていて、ゆるんでずれた目の辺りでしか表情を確認する事が出来ないからだ。今は口元の包帯すら取り除けて、煙草を銜えている。
小作りな眼鏡の奥から、蛇を思わせる鋭い眼光が益田を睨みつけた。
「んだよ、またお前か」
「こっちの台詞ですよ。どっから持ってきたんですかその煙草」
郷嶋は益田のぼやきに答える代わりに、細面目掛けて煙を吐き出した。たまらず咳き込む益田を見て、くつくつと押し殺したように笑っている。
郷嶋が短くなった煙草を墓石に押し付けて消したのを見て、益田の細い眉が厭そうに歪んだ。
「何してんですかもう、それ郷嶋さんのお墓でしょ?」
「実質俺の家みてぇなモンだろうが。他に誰ぞ身内が這入ってる訳でも無ェ。キャンキャン五月蝿ェんだよアンタは」
郷嶋が投げ捨てた吸殻を、益田が拾ってランタンの中に仕舞う。郷嶋が自ら棺の蓋をこじ開けて夜の世界に舞い戻ってきてしまってから毎度のように行われる作業なので、益田も慣れたものだ。郷嶋が空の棺に腰掛けて供え物の饅頭を食っているのを目撃した最初の夜などは、益田の悲鳴が夜の墓地に響き渡っていた。
煙草が無いと間が持たないのだろう。手持ち無沙汰になった郷嶋は決まって益田に話しかけてくる。益田もランタンを傍らに置いて、彼の話に付き合って夜を過ごすのだ。
「実際な、お前みたいな貧弱なボウヤの見本が夜回りなんぞしたって何の効果も無いだろうが」
「そんな事ァ無いですよ。僕みたいなモンでも居ると居ないじゃ大違いです。僕自身が怪談みたいになってた時はちょっと吃驚しましたけどねぇ。恐怖!深夜墓地を飛び交う人魂!なんて」
けらけらと笑いながら益田がランタンを小突くと、中の火がふらりと揺れた。
郷嶋の眼鏡が照らされて、不思議な色の影を彼自身の輪郭に落としている。
「代わってやろうか」
「厭ですよ。そもそも郷嶋さんが大人しく眠っててくれたら僕の仕事は一つ減りますよ」
「墓荒らし追い払う位は造作も無ェ。何せ俺は―――」
郷嶋はちらりと自らの足元に視線を落とした。中身の無い棺が其処にはある。心無い者によって、眠りを妨げられ、共寝の相手であった遺品を抜き取られた―――
その晩モノクロの墓地には、眩しい程の赤が溢れた。益田の通報によって訪れた警察車両の回転灯から伸びる紅い光が、益田と若い刑事の頬を照らしている。
薙ぎ倒された墓石、踏み荒らされた花。被せられていた柔らかな土も疎らになり、無惨に露出した命無き被害者。
「お気の毒に」
刑事がそう呟いた瞬間、幼く見えた筈の横顔が例え様の無い切なさに彩られたのを益田は鮮明に記憶している。
棺の中に何が入っていたのか益田すらも知らないので、調書に書き込まれた内容は恐ろしく少なかった。それでも若い刑事は「全力で捜査する」と云い、殆ど白紙に近い書類を手に、棺を埋め戻す作業に付き合ってくれた。犯人は未だに見つからないが、せめてもの慰めにと云って時折花を届けてくれる。
その花を被害者本人が夜毎眺めている事を、彼は知らない。
益田は郷嶋を見やった。僅かに和らいだ視線の先、小さな明かりに照らされた桔梗の花が揺れている。
「……今度墓泥棒が来ても、あの刑事さんが来てくれるか解りませんよ?」
「八百屋お七じゃあるまいし、んな真似するかよ。坊やの仕事を増やすのは忍びねぇしな」
「僕の仕事が増えるのは良いんですかァ――っと、ほら郷嶋さん、もう朝ですから」
益田が棺の蓋を持ち上げてやると、郷嶋は大人しく中に納まった。おふくろが布団掛けて寝かしつけたのを思い出す、と云ってにやにや笑っている男を無視し、重い蓋を閉じていく。郷嶋の顔が半分程度隠れた所で、益田は思い出したようにマントの中に手を入れた。
「あっそうだ――郷嶋さんこれあげときます。お腹が空いたらこっち食べてくださいよ。お供え物に手ぇつけちゃ駄目ですよ」
投げ入れられた物を見て、郷嶋が蓋の隙間から抗議の声を上げる。
「何だこりゃ、駄菓子じゃねぇか」
「どうせお供え物のお饅頭とか果物食べてるんだから良いじゃないですか」
中から伸びてきた包帯まみれの腕が、益田のマントを引いた。眼鏡の奥の両目が笑っている。
「良いのか?甘やかして。ンな真似してると俺ァまた出てくるぜ」
「いいんですか、出てきたらもうお花もお菓子も出しませんよ僕ァ」
「おぉ怖」
肩を竦めた郷嶋の入った棺を完全に閉ざし、益田は墓石の下に彼を滑り込ませた。寒くないように柔らかな土を被せて、彼の拠り所である花が少しでも長生きするよう、水を替えてやる。郷嶋の名が刻まれた滑らかな石に水をかけてやった所で、背中側から太陽が昇ってきた。
膝の所までしか無い小さな墓石を見ていると、彼自身が小さくなってしまったような気がする。仮初の埋葬を終えた益田は、夜も眠れない程の恋と云うものは本当にあるのだな、と思いながら蝋燭の火を吹き消した。
「おやすみなさい」
陽が沈んでから、またお逢いしましょう。
―――
第七夜はミイラ男郷嶋と墓守益田でした。オンリーアフターで聞いてから気になってたんです郷益。この文章が郷益なのかはさておいて。ハロウィン七分の三が「食べ物をあげる益田」なのも置いといて…
葉の落ちた大樹の枝が夜闇に腕を伸ばす様子は如何にも薄気味悪く、鴉がギャアギャアと奇声を上げるたびにひとつきりしか無い小さな明かりが跳ねる。怯えて身を竦めた男はずり落ちたフードを被り直し、再び手にしたランタンで、墓石に刻まれた名をひとつひとつ照らしつつ歩き出した。
闇に溶ける漆黒のマントに身を包んでいる青年の名は、益田と云う。
臆病な彼が夜毎この石の森を見回る理由は幾つかあった。
第一に、広大な敷地を公園か何かと混同した無鉄砲な若者らが酒盛りなどを行っていないかを確かめるため。この場所の昼の姿しか知らない者達は、しばしば此処が死者の寝床だと忘れてしまう傾向にある。
第二に、侵入して来るだけならまだしも、墓を荒らす不心得者がしばしば現れる所為だ。重い棺の蓋を取り除いた中に或るものは物言わぬ亡骸ばかりでは無い。死者の魂を慰めるために遺族が思い出の品を入れてやっている事が多いのだ。墓が暴かれた時、失われるものは金品や供え物と云った目に見えるものだけでは無い事を彼は知っている。
そして第三。益田が墓石を丹念に調べているのは此処に起因する―――夜陰に乗じてこの世の理を曲げる不届き者が現れないように。
磨かれた墓石の影からゆらりと白い煙が立ち上ったのを確認し、益田は声を上げた。
「ああっ、郷嶋さんまた出てきてる!」
石畳に靴音を響かせながら駆け寄ると、冷たい御影石に身を凭せ掛けた何者かが顔を上げた。男か女かはともかく、年寄りか若者かを判別するのは少し難しい。郷嶋と呼ばれた男は全身を包帯で覆われていて、ゆるんでずれた目の辺りでしか表情を確認する事が出来ないからだ。今は口元の包帯すら取り除けて、煙草を銜えている。
小作りな眼鏡の奥から、蛇を思わせる鋭い眼光が益田を睨みつけた。
「んだよ、またお前か」
「こっちの台詞ですよ。どっから持ってきたんですかその煙草」
郷嶋は益田のぼやきに答える代わりに、細面目掛けて煙を吐き出した。たまらず咳き込む益田を見て、くつくつと押し殺したように笑っている。
郷嶋が短くなった煙草を墓石に押し付けて消したのを見て、益田の細い眉が厭そうに歪んだ。
「何してんですかもう、それ郷嶋さんのお墓でしょ?」
「実質俺の家みてぇなモンだろうが。他に誰ぞ身内が這入ってる訳でも無ェ。キャンキャン五月蝿ェんだよアンタは」
郷嶋が投げ捨てた吸殻を、益田が拾ってランタンの中に仕舞う。郷嶋が自ら棺の蓋をこじ開けて夜の世界に舞い戻ってきてしまってから毎度のように行われる作業なので、益田も慣れたものだ。郷嶋が空の棺に腰掛けて供え物の饅頭を食っているのを目撃した最初の夜などは、益田の悲鳴が夜の墓地に響き渡っていた。
煙草が無いと間が持たないのだろう。手持ち無沙汰になった郷嶋は決まって益田に話しかけてくる。益田もランタンを傍らに置いて、彼の話に付き合って夜を過ごすのだ。
「実際な、お前みたいな貧弱なボウヤの見本が夜回りなんぞしたって何の効果も無いだろうが」
「そんな事ァ無いですよ。僕みたいなモンでも居ると居ないじゃ大違いです。僕自身が怪談みたいになってた時はちょっと吃驚しましたけどねぇ。恐怖!深夜墓地を飛び交う人魂!なんて」
けらけらと笑いながら益田がランタンを小突くと、中の火がふらりと揺れた。
郷嶋の眼鏡が照らされて、不思議な色の影を彼自身の輪郭に落としている。
「代わってやろうか」
「厭ですよ。そもそも郷嶋さんが大人しく眠っててくれたら僕の仕事は一つ減りますよ」
「墓荒らし追い払う位は造作も無ェ。何せ俺は―――」
郷嶋はちらりと自らの足元に視線を落とした。中身の無い棺が其処にはある。心無い者によって、眠りを妨げられ、共寝の相手であった遺品を抜き取られた―――
その晩モノクロの墓地には、眩しい程の赤が溢れた。益田の通報によって訪れた警察車両の回転灯から伸びる紅い光が、益田と若い刑事の頬を照らしている。
薙ぎ倒された墓石、踏み荒らされた花。被せられていた柔らかな土も疎らになり、無惨に露出した命無き被害者。
「お気の毒に」
刑事がそう呟いた瞬間、幼く見えた筈の横顔が例え様の無い切なさに彩られたのを益田は鮮明に記憶している。
棺の中に何が入っていたのか益田すらも知らないので、調書に書き込まれた内容は恐ろしく少なかった。それでも若い刑事は「全力で捜査する」と云い、殆ど白紙に近い書類を手に、棺を埋め戻す作業に付き合ってくれた。犯人は未だに見つからないが、せめてもの慰めにと云って時折花を届けてくれる。
その花を被害者本人が夜毎眺めている事を、彼は知らない。
益田は郷嶋を見やった。僅かに和らいだ視線の先、小さな明かりに照らされた桔梗の花が揺れている。
「……今度墓泥棒が来ても、あの刑事さんが来てくれるか解りませんよ?」
「八百屋お七じゃあるまいし、んな真似するかよ。坊やの仕事を増やすのは忍びねぇしな」
「僕の仕事が増えるのは良いんですかァ――っと、ほら郷嶋さん、もう朝ですから」
益田が棺の蓋を持ち上げてやると、郷嶋は大人しく中に納まった。おふくろが布団掛けて寝かしつけたのを思い出す、と云ってにやにや笑っている男を無視し、重い蓋を閉じていく。郷嶋の顔が半分程度隠れた所で、益田は思い出したようにマントの中に手を入れた。
「あっそうだ――郷嶋さんこれあげときます。お腹が空いたらこっち食べてくださいよ。お供え物に手ぇつけちゃ駄目ですよ」
投げ入れられた物を見て、郷嶋が蓋の隙間から抗議の声を上げる。
「何だこりゃ、駄菓子じゃねぇか」
「どうせお供え物のお饅頭とか果物食べてるんだから良いじゃないですか」
中から伸びてきた包帯まみれの腕が、益田のマントを引いた。眼鏡の奥の両目が笑っている。
「良いのか?甘やかして。ンな真似してると俺ァまた出てくるぜ」
「いいんですか、出てきたらもうお花もお菓子も出しませんよ僕ァ」
「おぉ怖」
肩を竦めた郷嶋の入った棺を完全に閉ざし、益田は墓石の下に彼を滑り込ませた。寒くないように柔らかな土を被せて、彼の拠り所である花が少しでも長生きするよう、水を替えてやる。郷嶋の名が刻まれた滑らかな石に水をかけてやった所で、背中側から太陽が昇ってきた。
膝の所までしか無い小さな墓石を見ていると、彼自身が小さくなってしまったような気がする。仮初の埋葬を終えた益田は、夜も眠れない程の恋と云うものは本当にあるのだな、と思いながら蝋燭の火を吹き消した。
「おやすみなさい」
陽が沈んでから、またお逢いしましょう。
―――
第七夜はミイラ男郷嶋と墓守益田でした。オンリーアフターで聞いてから気になってたんです郷益。この文章が郷益なのかはさておいて。ハロウィン七分の三が「食べ物をあげる益田」なのも置いといて…
障子を引いた外の世界に広がるものは闇だった。すっかり話し込んでしまった。益田は過ぎ去った時の速さに驚きながら、冷え切った縁側を渡る。気づけば家の中にはあちこち明かりが点っていた。とは云え夫婦二人住まいのこの家では、使っている部屋も多くは無い。闇と光の間を縫うように玄関まで歩み出た益田が靴を履いていると、背後から静かな足音が追いかけてきた。
「益田君」
「あれっ中禅寺さん、珍しいですねお見送りなんて」
痩せた身体に紫紺を纏った中禅寺が益田を見下ろしている。中禅寺は益田の声には答えず、身を屈めると下駄箱から何かを取り出した。金属製で、本来透明であるはずの硝子質は使い込まれて薄く曇っている。益田がそれが古めかしいカンテラであると気が付いたのは、中禅寺が慣れた手つきで火を入れてからだった。
「外はもう暗い。持って行くと良い」
「えっ、結構ですよ。暗いって云ったってちょっと行ったらまだ人の往来もありますし、第一若い娘さんじゃあ無いんですから」
益田は笑ってみせたが、中禅寺は相変わらずの仏頂面を崩す事無くカンテラを差し出している。細かな傷がついた硝子球の中で、蝋燭の炎がゆらめいた。
「良いから、持っていきたまえ。君は明るい所へ引っ張られやすい。光が必ずしも安全であるとは限らないのだよ」
薄暗い廊下でカンテラの明かりに照らされる中禅寺の顔は、いつもと違った意味で否を許さないと云っているような気がして、益田は逡巡しつつも受け取った。カンテラの中で炎は絶えず揺れていて、ぼんやりと魅入る。益田は挨拶もそこそこに京極堂を後にした。貧相な竹薮が巨大な影法師となって群青の空を目指して伸び上がっている。
眩暈坂を一歩一歩歩く毎に、石ころや土塊が益田の靴に蹴られて丸い光の中をころころと転がっていくのが見える。灯が届く範囲を超えた途端それらは地面と同化して解らなくなってしまった。柔らかな明かりは益田の歩調に合わせてふらふらと踊る。
「中禅寺さんも随分過保護な事するよなぁ……あれ?」
益田は顔を上げた。
真っ暗な坂の下に、もう一つ小さな明かりが見える。人家のものにしては小さく、赤々と燃えているような色だ。ゆらめきながら近づいてくる。誰かが手に明かりを携えて登ってくるのだろう。丁度今の益田と同じように。益田はそっと顔の横にカンテラを翳した。
ゆらゆら、ゆらゆら。真っ赤な火が揺れている。
ぼうっと見蕩れていた益田は、自らの背を冷たい汗が伝うのを感じた。
あの灯は、誰が持っているのだろう。
そして何処に行くのだろう。
――確かに激しく燃えているのに、晴れない闇を引き連れて。
「…ヒッ…!」
灯と擦れ違う瞬間、息を呑んだ。
明かりの持ち主はカンテラの光が届かない範囲をすり抜け、益田を追い越していく。視界の端から赤い炎が消えた瞬間、益田は駆け出した。振り向くどころか、手にした明かりを差し出す事すら出来なかった。預かった灯火の中に何かとてつもないものが映ったら――否、『何も映らなかったら』己の正気を保つ自信が無い。不安定な足元で靴と地面が擦れる音と、カシャカシャと騒ぐカンテラ、自分の呼気が五月蝿い程だ。
坂が終わり、街の明かりが見える頃、ようやく益田は足を止め、坂を振り仰ぐ事が出来た。当然ながら坂の終わりは闇に隠れて何も見えず、散々振り回したカンテラの中の蝋燭も消えていた。
■
翌日、益田は再び京極堂を訪れた。気持ち程度の菓子と、空になったカンテラを手に。
相変わらず中禅寺は静かな座敷で本に囲まれて座っている。
「中禅寺さん、明かり有難うございました」
痩せた手はカンテラと菓子の入った袋をおざなりに引き寄せ、傍らに置く。益田は一瞬唇を噛み締め、意を決して口を開いた。
「中禅寺さん、あの」
「云わなくて良いよ」
「えっ」
「見なかったのだろう?君は、何も」
中禅寺の黒い瞳が、いつの間にか活字を離れて益田を見ている。益田も黒い目をしているが、中禅寺の瞳はより多くのものを見、溶かし込んでいる所為か余計に濃い。大きくは無い瞳の中に、不安げな自分の輪郭がぼんやりと映っている。
見た、とも見なかった、とも云えず、益田はただ中禅寺の眼ばかりを見ていた。
頭の中を真っ赤に燃える鬼火が流れて、そして何処かへと消えていった。
―――
第六夜は中禅寺と益田とジャックランタンの話。パラレルのようなそうでもないような。
「益田君」
「あれっ中禅寺さん、珍しいですねお見送りなんて」
痩せた身体に紫紺を纏った中禅寺が益田を見下ろしている。中禅寺は益田の声には答えず、身を屈めると下駄箱から何かを取り出した。金属製で、本来透明であるはずの硝子質は使い込まれて薄く曇っている。益田がそれが古めかしいカンテラであると気が付いたのは、中禅寺が慣れた手つきで火を入れてからだった。
「外はもう暗い。持って行くと良い」
「えっ、結構ですよ。暗いって云ったってちょっと行ったらまだ人の往来もありますし、第一若い娘さんじゃあ無いんですから」
益田は笑ってみせたが、中禅寺は相変わらずの仏頂面を崩す事無くカンテラを差し出している。細かな傷がついた硝子球の中で、蝋燭の炎がゆらめいた。
「良いから、持っていきたまえ。君は明るい所へ引っ張られやすい。光が必ずしも安全であるとは限らないのだよ」
薄暗い廊下でカンテラの明かりに照らされる中禅寺の顔は、いつもと違った意味で否を許さないと云っているような気がして、益田は逡巡しつつも受け取った。カンテラの中で炎は絶えず揺れていて、ぼんやりと魅入る。益田は挨拶もそこそこに京極堂を後にした。貧相な竹薮が巨大な影法師となって群青の空を目指して伸び上がっている。
眩暈坂を一歩一歩歩く毎に、石ころや土塊が益田の靴に蹴られて丸い光の中をころころと転がっていくのが見える。灯が届く範囲を超えた途端それらは地面と同化して解らなくなってしまった。柔らかな明かりは益田の歩調に合わせてふらふらと踊る。
「中禅寺さんも随分過保護な事するよなぁ……あれ?」
益田は顔を上げた。
真っ暗な坂の下に、もう一つ小さな明かりが見える。人家のものにしては小さく、赤々と燃えているような色だ。ゆらめきながら近づいてくる。誰かが手に明かりを携えて登ってくるのだろう。丁度今の益田と同じように。益田はそっと顔の横にカンテラを翳した。
ゆらゆら、ゆらゆら。真っ赤な火が揺れている。
ぼうっと見蕩れていた益田は、自らの背を冷たい汗が伝うのを感じた。
あの灯は、誰が持っているのだろう。
そして何処に行くのだろう。
――確かに激しく燃えているのに、晴れない闇を引き連れて。
「…ヒッ…!」
灯と擦れ違う瞬間、息を呑んだ。
明かりの持ち主はカンテラの光が届かない範囲をすり抜け、益田を追い越していく。視界の端から赤い炎が消えた瞬間、益田は駆け出した。振り向くどころか、手にした明かりを差し出す事すら出来なかった。預かった灯火の中に何かとてつもないものが映ったら――否、『何も映らなかったら』己の正気を保つ自信が無い。不安定な足元で靴と地面が擦れる音と、カシャカシャと騒ぐカンテラ、自分の呼気が五月蝿い程だ。
坂が終わり、街の明かりが見える頃、ようやく益田は足を止め、坂を振り仰ぐ事が出来た。当然ながら坂の終わりは闇に隠れて何も見えず、散々振り回したカンテラの中の蝋燭も消えていた。
■
翌日、益田は再び京極堂を訪れた。気持ち程度の菓子と、空になったカンテラを手に。
相変わらず中禅寺は静かな座敷で本に囲まれて座っている。
「中禅寺さん、明かり有難うございました」
痩せた手はカンテラと菓子の入った袋をおざなりに引き寄せ、傍らに置く。益田は一瞬唇を噛み締め、意を決して口を開いた。
「中禅寺さん、あの」
「云わなくて良いよ」
「えっ」
「見なかったのだろう?君は、何も」
中禅寺の黒い瞳が、いつの間にか活字を離れて益田を見ている。益田も黒い目をしているが、中禅寺の瞳はより多くのものを見、溶かし込んでいる所為か余計に濃い。大きくは無い瞳の中に、不安げな自分の輪郭がぼんやりと映っている。
見た、とも見なかった、とも云えず、益田はただ中禅寺の眼ばかりを見ていた。
頭の中を真っ赤に燃える鬼火が流れて、そして何処かへと消えていった。
―――
第六夜は中禅寺と益田とジャックランタンの話。パラレルのようなそうでもないような。