恋は人を変える。そんな事を最初に云ったのは誰だったか。
噂には聞いた事があるし、実際自分も恋とか云うものをしたことがある。あった筈だ。あったと思う。
ただ恋をした事で何か変わったか、と云われるとそんな事も無い。例えば学生の時分、可愛いあの子を見て可愛いなァ好きだなァと思ってもそれを態度で表した事は一度だって有りはしなかった。何処かに居る冷静な自分がいつも一段高い所から見下ろしていて、その冷めた視線を気にしてばかりで何か変わる事も出来なかった。いつもそうだ。きっとこれが自分の性分と云うもので、変えられないものなのだろう。
――あるいは。
自分はこれまで恋などしてみた事も無くて、むしろ――
「…熱っつ!」
指を炙った熱に強制的に意識を引き戻され、益田は反射的に手を引いた。甲にぶつかった容器が卵液を撒き散らしながら落下していく。なすすべも無く床に落ちると同時に、くわぁん、と間抜けながらも大きな音が響いた。
「あっちゃあ……」
どうしたものか一瞬考えて、膝を折り引っくり返った調理器具に手を伸ばす。湾曲した銀色の表面に、うっかり焼いてしまった指先と自分の顔が歪んで映っている。容器を狭い流し台に置き、卵液を雑巾で拭いながら益田は幾度目かの溜息を落とした。
火を扱っている時に考え事に耽ってしまった己の粗忽ぶりを憂いているのでは無い――否、それも同じ理由に端を発するものだからやはり含めてしまっても良いだろう――自分の飢えを満たすためでは無く、誰かのために調理場に立つなどという自分の行為が未だに信じられないのだ。
申し訳程度に設えられた小さな台所にはアルマイトの弁当箱に詰められた何品かの惣菜と、別の容器におざなりに取り分けられた同じ料理が居座っている。茹ですぎてぐったりしてしまった青物やほぼ炭化してしまった焼き魚は、益田が夕食として己の悲哀と共に噛み締める予定だ。弁当箱に詰められたものはどうにか食品としての体を成していて、見るからに食欲を削ぐという程では無い、と云うのは益田自身の見解だ。
「空腹は最大の調味料って云うし、大丈夫大丈夫、うん」
そう云うと益田は改めて自らの仕事ぶりを眺めた。確かにいつも相伴に預かっている寅吉の料理に比べると一段も二段も見劣りするものの、仕方が無い。寅吉は今朝の始発で榎木津家に向かってしまったはずだ。一日がかりの用事だから、明日の昼まで戻らないと聞いている。明日の昼まで、寅吉が食事を作ってくれる事は無い。
榎木津もその事は知っているはずだから、何も無ければ勝手に食べに行くはずだ――とは思うのだが。
寝室から飛び出してくるなり腹が減ったと云う榎木津だから、食べ物が用意してあれば出掛ける手間が省けて良いだろう。出来合いの惣菜を買い揃えるより幾らか経済的だ。弁当の形にしておけば、不規則な目覚めにも対応出来る。持ち歩きも簡単だ。色々なものが小さく入っているから、飽きっぽい彼でも食べてくれるかもしれない。もし食べて貰えなくても、自分用の昼食だったと思えば胸も痛まないし、
「…誰に言い訳してるんだ僕ぁ…」
益田は両手で顔を覆った。触れた頬が酷く熱い。先程火傷した指より余程熱い。
―――
少女漫画といえば手料理という発想の者です。お誕生日おめでとうございます!
噂には聞いた事があるし、実際自分も恋とか云うものをしたことがある。あった筈だ。あったと思う。
ただ恋をした事で何か変わったか、と云われるとそんな事も無い。例えば学生の時分、可愛いあの子を見て可愛いなァ好きだなァと思ってもそれを態度で表した事は一度だって有りはしなかった。何処かに居る冷静な自分がいつも一段高い所から見下ろしていて、その冷めた視線を気にしてばかりで何か変わる事も出来なかった。いつもそうだ。きっとこれが自分の性分と云うもので、変えられないものなのだろう。
――あるいは。
自分はこれまで恋などしてみた事も無くて、むしろ――
「…熱っつ!」
指を炙った熱に強制的に意識を引き戻され、益田は反射的に手を引いた。甲にぶつかった容器が卵液を撒き散らしながら落下していく。なすすべも無く床に落ちると同時に、くわぁん、と間抜けながらも大きな音が響いた。
「あっちゃあ……」
どうしたものか一瞬考えて、膝を折り引っくり返った調理器具に手を伸ばす。湾曲した銀色の表面に、うっかり焼いてしまった指先と自分の顔が歪んで映っている。容器を狭い流し台に置き、卵液を雑巾で拭いながら益田は幾度目かの溜息を落とした。
火を扱っている時に考え事に耽ってしまった己の粗忽ぶりを憂いているのでは無い――否、それも同じ理由に端を発するものだからやはり含めてしまっても良いだろう――自分の飢えを満たすためでは無く、誰かのために調理場に立つなどという自分の行為が未だに信じられないのだ。
申し訳程度に設えられた小さな台所にはアルマイトの弁当箱に詰められた何品かの惣菜と、別の容器におざなりに取り分けられた同じ料理が居座っている。茹ですぎてぐったりしてしまった青物やほぼ炭化してしまった焼き魚は、益田が夕食として己の悲哀と共に噛み締める予定だ。弁当箱に詰められたものはどうにか食品としての体を成していて、見るからに食欲を削ぐという程では無い、と云うのは益田自身の見解だ。
「空腹は最大の調味料って云うし、大丈夫大丈夫、うん」
そう云うと益田は改めて自らの仕事ぶりを眺めた。確かにいつも相伴に預かっている寅吉の料理に比べると一段も二段も見劣りするものの、仕方が無い。寅吉は今朝の始発で榎木津家に向かってしまったはずだ。一日がかりの用事だから、明日の昼まで戻らないと聞いている。明日の昼まで、寅吉が食事を作ってくれる事は無い。
榎木津もその事は知っているはずだから、何も無ければ勝手に食べに行くはずだ――とは思うのだが。
寝室から飛び出してくるなり腹が減ったと云う榎木津だから、食べ物が用意してあれば出掛ける手間が省けて良いだろう。出来合いの惣菜を買い揃えるより幾らか経済的だ。弁当の形にしておけば、不規則な目覚めにも対応出来る。持ち歩きも簡単だ。色々なものが小さく入っているから、飽きっぽい彼でも食べてくれるかもしれない。もし食べて貰えなくても、自分用の昼食だったと思えば胸も痛まないし、
「…誰に言い訳してるんだ僕ぁ…」
益田は両手で顔を覆った。触れた頬が酷く熱い。先程火傷した指より余程熱い。
―――
少女漫画といえば手料理という発想の者です。お誕生日おめでとうございます!
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