重い衣を脱ぎ去った身に纏う空気すらも軽く、青木は胸の底から息を吐いた。
灰色の雲はいずこかへと去り、頭上には水で刷いたような清々しい青が広がっている。
青木は目を細めた。其の青を切るように伸びるビルヂングの高さを、
柔らかな春の日差しを受けて伸びる影の色を、好ましく思ったからだ。
建物の中に居るうちは此の景色は解るまい。
彼が探偵社の扉を開けたのは、そんなほんの気まぐれに過ぎなかった。
からからん、と心なしか可愛らしい音を立ててドアベルが鳴る。
其の音を聞きつけて、益田が呼ばれるようにぱたぱたとやってきた。
「あれっ、青木さんじゃないですか。お珍しい」
「やぁ――今忙しいの?」
益田も冬の装いを止めて、柔らかそうな白い綿シャツを着ている。
肘まで捲くった袖と、ネクタイも締めずに緩めた襟元がほんの少し寒そうに思えた。
益田は目の前の青木と、室内の何処かをちらちらと忙しなく見比べている。
「いやまぁ、忙しいと云えば忙しいですけど――今ちょっと、和寅さんがお留守なもので」
「おいマスヤマ!」
聞き覚えのある大声と共に、ばぁん、と扉が開いた。青木は面食らい、益田も肩を竦める。
扉の影からにゅうと現れた白い腕を、青木は榎木津のものだと理解した。
榎木津の腕は大きくしなり、何かを投げてよこす。
「忘れ物だぞッ!」
其れは綺麗な放物線を描き、青木の足元に音も無く落ちた。
「忘れ物?」
反射的に腰を折り、拾い上げる。
くしゃくしゃに丸められた布のようなものは、持ち上げた事でぱらりと呆気なく開いた。それこそ、花のように軽く。
「あっ!」
「……あー……」
けれど、其の姿を目の前にした両者の顔は、それほど晴れやかな物では無く。
しばし硬直していたこけし青年は、ようやく人間に戻ると、目の前で器用に赤くなったり蒼くなったりする男に目を向ける。
「益田君……君と云うやつは」
「えっ、違っ… 違うんですよ」
「違うって… 此れ、下穿きじゃない…なんで下着?」
「いや、その、ですから、青木さんが思ってるような事は何も」
「榎木津さんの部屋からなんで君の下着が投げられるんだよ…うわ」
「いつまで持ってるんですか、もう!」
下着を取り返した益田の顔色は、真っ赤に固定されたようだ。
青木は「成程ね」と言いたげに2,3度うなづいて、片手を上げる。
涙目の益田に見せ付けるように、ひらひらと振って見せた。
「どうも――お忙しい所御邪魔したね。じゃあ」
「いや、ですから違うんですよ!和寅さんが出かけてて、僕と榎木津さんで洗濯物の仕分けをですね、待って、本当に待ってくださいよう!」
程なくして榎木津ビルヂングからは、悠々と歩く刑事について、転がるように探偵助手が出てきた。
春の空色と風の温もりに感動する程の心のゆとりは勿論彼には無かったが、
そんな事などお構いなしで、空ではすじ雲がゆるやかに流れている。
―――
生活感萌えです。
灰色の雲はいずこかへと去り、頭上には水で刷いたような清々しい青が広がっている。
青木は目を細めた。其の青を切るように伸びるビルヂングの高さを、
柔らかな春の日差しを受けて伸びる影の色を、好ましく思ったからだ。
建物の中に居るうちは此の景色は解るまい。
彼が探偵社の扉を開けたのは、そんなほんの気まぐれに過ぎなかった。
からからん、と心なしか可愛らしい音を立ててドアベルが鳴る。
其の音を聞きつけて、益田が呼ばれるようにぱたぱたとやってきた。
「あれっ、青木さんじゃないですか。お珍しい」
「やぁ――今忙しいの?」
益田も冬の装いを止めて、柔らかそうな白い綿シャツを着ている。
肘まで捲くった袖と、ネクタイも締めずに緩めた襟元がほんの少し寒そうに思えた。
益田は目の前の青木と、室内の何処かをちらちらと忙しなく見比べている。
「いやまぁ、忙しいと云えば忙しいですけど――今ちょっと、和寅さんがお留守なもので」
「おいマスヤマ!」
聞き覚えのある大声と共に、ばぁん、と扉が開いた。青木は面食らい、益田も肩を竦める。
扉の影からにゅうと現れた白い腕を、青木は榎木津のものだと理解した。
榎木津の腕は大きくしなり、何かを投げてよこす。
「忘れ物だぞッ!」
其れは綺麗な放物線を描き、青木の足元に音も無く落ちた。
「忘れ物?」
反射的に腰を折り、拾い上げる。
くしゃくしゃに丸められた布のようなものは、持ち上げた事でぱらりと呆気なく開いた。それこそ、花のように軽く。
「あっ!」
「……あー……」
けれど、其の姿を目の前にした両者の顔は、それほど晴れやかな物では無く。
しばし硬直していたこけし青年は、ようやく人間に戻ると、目の前で器用に赤くなったり蒼くなったりする男に目を向ける。
「益田君……君と云うやつは」
「えっ、違っ… 違うんですよ」
「違うって… 此れ、下穿きじゃない…なんで下着?」
「いや、その、ですから、青木さんが思ってるような事は何も」
「榎木津さんの部屋からなんで君の下着が投げられるんだよ…うわ」
「いつまで持ってるんですか、もう!」
下着を取り返した益田の顔色は、真っ赤に固定されたようだ。
青木は「成程ね」と言いたげに2,3度うなづいて、片手を上げる。
涙目の益田に見せ付けるように、ひらひらと振って見せた。
「どうも――お忙しい所御邪魔したね。じゃあ」
「いや、ですから違うんですよ!和寅さんが出かけてて、僕と榎木津さんで洗濯物の仕分けをですね、待って、本当に待ってくださいよう!」
程なくして榎木津ビルヂングからは、悠々と歩く刑事について、転がるように探偵助手が出てきた。
春の空色と風の温もりに感動する程の心のゆとりは勿論彼には無かったが、
そんな事などお構いなしで、空ではすじ雲がゆるやかに流れている。
―――
生活感萌えです。
益田龍一という男を評価する際、「多弁な男だ」という言葉がよく聞かれる。口が軽いと云うわけではないのに、滑りが良く、さらには回る。一旦調子に乗ってしまえばこちらのものだと云わんばかりによく喋る。其の内容の殆どが適当な言い回しであったり、根拠の無い幇間であることもしばしばだけれど。
多弁と云えば例の中野の本屋を思い出す者も多いだろう。彼の弁が最も冴えるのは、やはり憑き物落し。隠れた真実を晒し出す時であろう。対して、追い詰められた時ほどよく喋るのが益田だ。泣いてみせ、おだててみせ、どうにかこうにか煙に巻く。中禅寺の武器が言葉であるのと同じように、益田の防具もまた言葉なのである。
そんな益田が「言葉も無い」と云った表情で、茫然と佇んでいる。
散らかり放題の榎木津の部屋でそんなものを見つけてしまったのは、完全に偶然である。箪笥の中に乱雑に突っ込まれた色とりどりの衣装の中において、白い身頃に濃紺の三角襟は地味すぎて埋没している。箪笥の扉に挟まった赤いスカーフに益田が気づきさえしなければ、この一件は起こらずに済んだ事だ。
榎木津が戦時中海軍に所属していた事は益田も知っている。彼は確か将校だったから実際セーラー服を着て働いていたかどうかは疑問だが、一着位持っていたって可笑しくはない。
だが。
「……いや、スカートは要らないでしょう」
一緒になって出てきた其れが、益田の言葉を根こそぎ奪ったのだ。触れて確かめるまでも無く、見るからに三角襟と揃いの生地。ぴしりと揃った襞は凛とした印象を与えつつも何処か可憐で、とても海上での激務に耐えられそうな代物では無い。海兵時代の制服という線は消えた。蜘蛛の糸のように果敢ない線ではあったけれど。
益田はちらりと背後に目をやった。寝台の上には、昼寝している榎木津が居る。巨大すぎると思われた寝台も、榎木津が長い手足を思い切り投げだせばちょうど良いくらいだ。そっと傍に近寄って、揃いの制服を合わせてみる。腰から合わせたスカートの丈は長身の榎木津にぴったりと添うくらいだった。こんな巨大な女学生が居るなら、お目にかかってみたいものだ。益田はほっと胸を撫で下ろす。榎木津が過去に女学生と交際していた可能性自体を否定する気は毛頭ないが、持ち物を後生大事に持っていられる方が胸が痛い。彼本人に女装趣味があるほうが何倍もマシである。今更其れ位の事で揺らぐほど、益田の恋心、もとい忠心は柔なものでは無いのだから。
益田はしげしげとセーラー服を眺める。スカート回りの長さを手で測ってみれば、思いのほか細かった。
「こんな服が着られるなんて、榎木津さん、思ったより…」
状況妄想嗜好者の悲しさで、益田の頭の中には、セーラー服を纏った榎木津が既に浮かんでしまっている。清楚な三つ折り靴下が一緒に出てきたわけではない。完全に益田の趣味である。
栗色の髪を風に遊ばせながら、榎木津が振り向いて微笑む。
『マスヤマ!どうだ、似合うだろう!』
ええ、可憐です。守ってあげたくなっちゃいます。
『コラ、僭越だぞ!下僕の分際で!お前に守られる程僕は弱くない!』
ええ、本当にそうです。榎木津さんは凄く強い。こんな細い身体の何処にそんな力があるんですか?
『あっ、こ、コラ!誰が触っていいって云った!このバカオロカめっ』
すみません、でも、触っちゃいけないとも仰ってないですよね?
「榎木津さん…!」
益田は思わず、空っぽのセーラー服を抱きしめた。衣紋掛けが外れて床に落ち、中身の無い洋服が腕をまわされた場所からぐったりと折れ曲がる。
其れでも制服の胸元から香る榎木津の移り香は、益田を十分に満足させた。
実の所、益田の鼻を擽る匂いは移り香でもなんでもなく、舶来物の洗剤の匂いであったのだが、誰も益田を責める事は出来ない。彼は榎木津の匂いが解る程近くに寄ってみた事も無いし、服を脱がせて腰回りの寸法を確かめた事も勿論無いのだから。
将来的に益田は、此の制服に榎木津が袖を通した事など無い事と、此れが「榎木津が初めて用意した下僕への誕生日祝い」だと云う事を知らされる。
其の時の彼の絶望や落胆を思えば、何も今此処で彼を糾弾する事は無いのではないだろうか。
―――
拍手とかぶってるんですけどーーーーーー!(バターーン)
多弁と云えば例の中野の本屋を思い出す者も多いだろう。彼の弁が最も冴えるのは、やはり憑き物落し。隠れた真実を晒し出す時であろう。対して、追い詰められた時ほどよく喋るのが益田だ。泣いてみせ、おだててみせ、どうにかこうにか煙に巻く。中禅寺の武器が言葉であるのと同じように、益田の防具もまた言葉なのである。
そんな益田が「言葉も無い」と云った表情で、茫然と佇んでいる。
散らかり放題の榎木津の部屋でそんなものを見つけてしまったのは、完全に偶然である。箪笥の中に乱雑に突っ込まれた色とりどりの衣装の中において、白い身頃に濃紺の三角襟は地味すぎて埋没している。箪笥の扉に挟まった赤いスカーフに益田が気づきさえしなければ、この一件は起こらずに済んだ事だ。
榎木津が戦時中海軍に所属していた事は益田も知っている。彼は確か将校だったから実際セーラー服を着て働いていたかどうかは疑問だが、一着位持っていたって可笑しくはない。
だが。
「……いや、スカートは要らないでしょう」
一緒になって出てきた其れが、益田の言葉を根こそぎ奪ったのだ。触れて確かめるまでも無く、見るからに三角襟と揃いの生地。ぴしりと揃った襞は凛とした印象を与えつつも何処か可憐で、とても海上での激務に耐えられそうな代物では無い。海兵時代の制服という線は消えた。蜘蛛の糸のように果敢ない線ではあったけれど。
益田はちらりと背後に目をやった。寝台の上には、昼寝している榎木津が居る。巨大すぎると思われた寝台も、榎木津が長い手足を思い切り投げだせばちょうど良いくらいだ。そっと傍に近寄って、揃いの制服を合わせてみる。腰から合わせたスカートの丈は長身の榎木津にぴったりと添うくらいだった。こんな巨大な女学生が居るなら、お目にかかってみたいものだ。益田はほっと胸を撫で下ろす。榎木津が過去に女学生と交際していた可能性自体を否定する気は毛頭ないが、持ち物を後生大事に持っていられる方が胸が痛い。彼本人に女装趣味があるほうが何倍もマシである。今更其れ位の事で揺らぐほど、益田の恋心、もとい忠心は柔なものでは無いのだから。
益田はしげしげとセーラー服を眺める。スカート回りの長さを手で測ってみれば、思いのほか細かった。
「こんな服が着られるなんて、榎木津さん、思ったより…」
状況妄想嗜好者の悲しさで、益田の頭の中には、セーラー服を纏った榎木津が既に浮かんでしまっている。清楚な三つ折り靴下が一緒に出てきたわけではない。完全に益田の趣味である。
栗色の髪を風に遊ばせながら、榎木津が振り向いて微笑む。
『マスヤマ!どうだ、似合うだろう!』
ええ、可憐です。守ってあげたくなっちゃいます。
『コラ、僭越だぞ!下僕の分際で!お前に守られる程僕は弱くない!』
ええ、本当にそうです。榎木津さんは凄く強い。こんな細い身体の何処にそんな力があるんですか?
『あっ、こ、コラ!誰が触っていいって云った!このバカオロカめっ』
すみません、でも、触っちゃいけないとも仰ってないですよね?
「榎木津さん…!」
益田は思わず、空っぽのセーラー服を抱きしめた。衣紋掛けが外れて床に落ち、中身の無い洋服が腕をまわされた場所からぐったりと折れ曲がる。
其れでも制服の胸元から香る榎木津の移り香は、益田を十分に満足させた。
実の所、益田の鼻を擽る匂いは移り香でもなんでもなく、舶来物の洗剤の匂いであったのだが、誰も益田を責める事は出来ない。彼は榎木津の匂いが解る程近くに寄ってみた事も無いし、服を脱がせて腰回りの寸法を確かめた事も勿論無いのだから。
将来的に益田は、此の制服に榎木津が袖を通した事など無い事と、此れが「榎木津が初めて用意した下僕への誕生日祝い」だと云う事を知らされる。
其の時の彼の絶望や落胆を思えば、何も今此処で彼を糾弾する事は無いのではないだろうか。
―――
拍手とかぶってるんですけどーーーーーー!(バターーン)
「清貧、貞潔、従順ですよ」
益田が歌うように諳んじてみせたのを聞いて、青木は返事の代わりに瞬きをした。応接机を挟んで向かい合う益田の顔は黒いフードに覆われていて、其処だけ白く浮かび上がっているように見える。
「益田君が云うと、なんだか笑えますね」
「笑わないでくださいよう」
そう云う益田こそ、引き攣ったような声をあげて笑っている。貞潔な修道女はけけけとは笑わないだろう、と思ったが黙っていた。そもそも彼は修道「女」ではない。かと云って、修道士でも無い。
ただ彼の神に仕え、そして崇める、ひとりの人間だ。
黒衣を纏った棒きれのような腕と細い指先がひらひらと踊る様は、夜空を舞う蝶々に似ている。
「そんな事より青木さん、喋ってないで食べちゃってくださいよ。大量に焼いちゃったんですから」
蝶がそう急かし、示すのは、山と積まれた狐色の焼き菓子だ。子供の手のひらくらいの大きさで、指先で摘むと
まだ仄かに暖かい。
「なんでクッキーなんか焼いたの」
「それっぽくないです?」
「やってみたかっただけなのかい」
青木は苦笑し云った。軽いからかいのつもりで。
まさかこの程度の会話で、益田の顔が曇るなど思わないでは無いか。表情豊かに動いていた両手が所在無げに組み合わせされ、ゆっくりと膝の上に落ちる。目を伏せて俯いた益田の肩から、フードがばさりと落ちた。
水が零れるように流れた前髪は、黒衣の頭巾より余程益田の顔を隠してしまう。
「だって、和寅さんが居なくて――僕、知らなくて」
――嗚呼、始まったな。
青木はクッキーを口に含み、噛む。砂糖とバター位しか入れていないであろう生地は甘さをまきちらしながら、口の中の水分を奪う。
自然光だけで照らされた室内に、さくりさくりというクッキーを噛む音と、懺悔のような独白が交互に積もっていく。
微かに震える益田の両手が、今にも命が絶えそうな蝶に酷く似て。水をやらねばと思った途端、ぽつりと水滴が落ちるのが見えた。
清貧など気取らないで、欲しいだけ求めてしまえば良いのに。
貞潔など忘れてしまって、貪欲になれば良いのに。
従順に振る舞う事を諦めれば――
「・・・・・・もう1枚、貰うよ」
文字通り砂を噛むような心地で、青木は焼菓子を食み、歯を立て、飲み込み続ける。求められない答えと共に。
―――
普通の榎益榎として成立する話を目指しましたが、益田が女装してる段階で完全アウト。
益田が歌うように諳んじてみせたのを聞いて、青木は返事の代わりに瞬きをした。応接机を挟んで向かい合う益田の顔は黒いフードに覆われていて、其処だけ白く浮かび上がっているように見える。
「益田君が云うと、なんだか笑えますね」
「笑わないでくださいよう」
そう云う益田こそ、引き攣ったような声をあげて笑っている。貞潔な修道女はけけけとは笑わないだろう、と思ったが黙っていた。そもそも彼は修道「女」ではない。かと云って、修道士でも無い。
ただ彼の神に仕え、そして崇める、ひとりの人間だ。
黒衣を纏った棒きれのような腕と細い指先がひらひらと踊る様は、夜空を舞う蝶々に似ている。
「そんな事より青木さん、喋ってないで食べちゃってくださいよ。大量に焼いちゃったんですから」
蝶がそう急かし、示すのは、山と積まれた狐色の焼き菓子だ。子供の手のひらくらいの大きさで、指先で摘むと
まだ仄かに暖かい。
「なんでクッキーなんか焼いたの」
「それっぽくないです?」
「やってみたかっただけなのかい」
青木は苦笑し云った。軽いからかいのつもりで。
まさかこの程度の会話で、益田の顔が曇るなど思わないでは無いか。表情豊かに動いていた両手が所在無げに組み合わせされ、ゆっくりと膝の上に落ちる。目を伏せて俯いた益田の肩から、フードがばさりと落ちた。
水が零れるように流れた前髪は、黒衣の頭巾より余程益田の顔を隠してしまう。
「だって、和寅さんが居なくて――僕、知らなくて」
――嗚呼、始まったな。
青木はクッキーを口に含み、噛む。砂糖とバター位しか入れていないであろう生地は甘さをまきちらしながら、口の中の水分を奪う。
自然光だけで照らされた室内に、さくりさくりというクッキーを噛む音と、懺悔のような独白が交互に積もっていく。
微かに震える益田の両手が、今にも命が絶えそうな蝶に酷く似て。水をやらねばと思った途端、ぽつりと水滴が落ちるのが見えた。
清貧など気取らないで、欲しいだけ求めてしまえば良いのに。
貞潔など忘れてしまって、貪欲になれば良いのに。
従順に振る舞う事を諦めれば――
「・・・・・・もう1枚、貰うよ」
文字通り砂を噛むような心地で、青木は焼菓子を食み、歯を立て、飲み込み続ける。求められない答えと共に。
―――
普通の榎益榎として成立する話を目指しましたが、益田が女装してる段階で完全アウト。
額の怪我は、程度の割に大事に見えるから困る。
益田は鏡に映る自分の顔――額に刻まれた擦り傷を見てげんなりしている顔だ――を前に、もう一つ溜息を吐いた。長く伸ばした前髪は、理不尽な暴力を未然に防ぐには役に立つのかもしれない。が、実際のダメージを軽減するには何の役にも立たない。殴られ蹴られしたならともかく、自分で転んでしたたかに額を擦ってしまったのだから救いが無い。傷口を洗うついでに顔ごと水を浴び、手拭で水滴を拭う。傷口に触れた箇所は血で赤く染まり、益田の気鬱は益々高まった。
傷口は顔のど真ん中ではなく、どちらかと云うと側頭部寄りだ。前髪で十分に覆える。
「大丈夫かなぁ此れ…黴菌入ったりしないかな」
濡れて束になった前髪を無理矢理広げて傷を隠してみれば、黒髪の隙間からちらちらと固まり切らない鮮血が覗いた。痛みと熱を思い出させるような、生々しい赤。
「一応消毒しとこ」
ひょこひょこ、とでも表現したくなるような動きで洗面台を後にした益田は、薬箱を開く。生傷が絶えない榎木津のために寅吉が用意している常備薬や包帯が入っている筈の場所には、ぽっかりと穴が開いていた。只の空間では無い、正しく収まっていたものを抜き取った穴である。益田は首を傾げた。
「あれ?誰か持ち出してるのかな」
「お探しのものは此処だぞ、バカオロカ!」
姿を見なくとも、聞き違える筈も無い。榎木津の声だ。それもどうも、背後に立っているようだ。
返してもらおうと振り向いた益田は、「返してください」を含む全ての言葉を一瞬忘れた。其の中には、「何やってんですか」「何ですよ」「どうしたんですか」と云った常套句も含まれる。
榎木津の姿が「何やってんですか」であり「何ですよ」であり「どうしたんですか」であるにもかかわらず。
「どうだ!白衣の神だぞ、白衣の天使の五万倍は徳が高い!」
からからと笑う榎木津の様子は、いつにも増して突飛で、奇異で、奇矯であった。首から上はいつもの榎木津であるのに、首から下は女物の白衣を着ている。男用に作られた女物の白衣では無く、本当に女物の白衣なのだろう、肩から胸は中身が詰まりすぎて真横に皺が走っているし、寸も足りていない。何せ振り向いた益田が最初に見たものは、剥き出しの腿だったのだ。布製のサンダルの踵は無残に踏み潰され、此れならスリッパでも履いていたほうが余程動き易いだろうにと、益田は見当違いの感想を抱いた。
当の榎木津は益田の言葉を待たず、手の中で転がしていた包帯を巻き取る。懇切丁寧に手当をするというよりも、今から縄で泥棒を縛り上げると云ったほうがまだ納得出来る様な手つきだった。
「さ、頭を出しなさい。巻いてあげよう」
榎木津が膝を付き、鳶色の瞳が目の前まで降りてくる。きらめくような栗色の髪に、小さな看護婦帽がちょこんと乗っている事に初めて気づいた益田は、遂に気を失ってしまった。際どい丈の衣装に覆われた――厳密には覆われていない――膝に倒れこんだ所為で、怪我が増える事が無かった事が、唯一の幸いであろうか。
小一時間後益田が目を覚ました時には、額の傷はすっかり塞がっていた。頭の血が下がった所為か、いつの間にか帰ってきていた和寅の手当が良かったのか、白衣の天使の5万倍の加護のおかげかは誰にも解らない。
何にせよ突然気を失い、看護の腕を奮う機会を奪った益田に対して榎木津は大変立腹していた。
彼の説教を受けた益田は、冠のように頭上に飾られた帽子を見て「嗚呼首から上も榎木津さんじゃなくなってしまった」と思って気が失せてしまった――と涙ながらに語ったと云う。
お題提供:『Artificial Diamond』様
―――
榎木津さん女装頂きましたー。
なんか意外にも女装榎木津の方が描く機会多い気がします。巻き返したいです。
益田は鏡に映る自分の顔――額に刻まれた擦り傷を見てげんなりしている顔だ――を前に、もう一つ溜息を吐いた。長く伸ばした前髪は、理不尽な暴力を未然に防ぐには役に立つのかもしれない。が、実際のダメージを軽減するには何の役にも立たない。殴られ蹴られしたならともかく、自分で転んでしたたかに額を擦ってしまったのだから救いが無い。傷口を洗うついでに顔ごと水を浴び、手拭で水滴を拭う。傷口に触れた箇所は血で赤く染まり、益田の気鬱は益々高まった。
傷口は顔のど真ん中ではなく、どちらかと云うと側頭部寄りだ。前髪で十分に覆える。
「大丈夫かなぁ此れ…黴菌入ったりしないかな」
濡れて束になった前髪を無理矢理広げて傷を隠してみれば、黒髪の隙間からちらちらと固まり切らない鮮血が覗いた。痛みと熱を思い出させるような、生々しい赤。
「一応消毒しとこ」
ひょこひょこ、とでも表現したくなるような動きで洗面台を後にした益田は、薬箱を開く。生傷が絶えない榎木津のために寅吉が用意している常備薬や包帯が入っている筈の場所には、ぽっかりと穴が開いていた。只の空間では無い、正しく収まっていたものを抜き取った穴である。益田は首を傾げた。
「あれ?誰か持ち出してるのかな」
「お探しのものは此処だぞ、バカオロカ!」
姿を見なくとも、聞き違える筈も無い。榎木津の声だ。それもどうも、背後に立っているようだ。
返してもらおうと振り向いた益田は、「返してください」を含む全ての言葉を一瞬忘れた。其の中には、「何やってんですか」「何ですよ」「どうしたんですか」と云った常套句も含まれる。
榎木津の姿が「何やってんですか」であり「何ですよ」であり「どうしたんですか」であるにもかかわらず。
「どうだ!白衣の神だぞ、白衣の天使の五万倍は徳が高い!」
からからと笑う榎木津の様子は、いつにも増して突飛で、奇異で、奇矯であった。首から上はいつもの榎木津であるのに、首から下は女物の白衣を着ている。男用に作られた女物の白衣では無く、本当に女物の白衣なのだろう、肩から胸は中身が詰まりすぎて真横に皺が走っているし、寸も足りていない。何せ振り向いた益田が最初に見たものは、剥き出しの腿だったのだ。布製のサンダルの踵は無残に踏み潰され、此れならスリッパでも履いていたほうが余程動き易いだろうにと、益田は見当違いの感想を抱いた。
当の榎木津は益田の言葉を待たず、手の中で転がしていた包帯を巻き取る。懇切丁寧に手当をするというよりも、今から縄で泥棒を縛り上げると云ったほうがまだ納得出来る様な手つきだった。
「さ、頭を出しなさい。巻いてあげよう」
榎木津が膝を付き、鳶色の瞳が目の前まで降りてくる。きらめくような栗色の髪に、小さな看護婦帽がちょこんと乗っている事に初めて気づいた益田は、遂に気を失ってしまった。際どい丈の衣装に覆われた――厳密には覆われていない――膝に倒れこんだ所為で、怪我が増える事が無かった事が、唯一の幸いであろうか。
小一時間後益田が目を覚ました時には、額の傷はすっかり塞がっていた。頭の血が下がった所為か、いつの間にか帰ってきていた和寅の手当が良かったのか、白衣の天使の5万倍の加護のおかげかは誰にも解らない。
何にせよ突然気を失い、看護の腕を奮う機会を奪った益田に対して榎木津は大変立腹していた。
彼の説教を受けた益田は、冠のように頭上に飾られた帽子を見て「嗚呼首から上も榎木津さんじゃなくなってしまった」と思って気が失せてしまった――と涙ながらに語ったと云う。
お題提供:『Artificial Diamond』様
―――
榎木津さん女装頂きましたー。
なんか意外にも女装榎木津の方が描く機会多い気がします。巻き返したいです。