「惜しいことをしたな」
大きな机から声がして、益田は顔を上げた。眠そうに半分目を閉じた榎木津が、三角錐の先端を白い指でつついている。
「惜しい、って何がでしょう」
「ジャズバンドに入るつもりだったんだろ」
ああ、と益田は納得した。確かに最初に此処に来た時、そんな事を云った気がする。
なんだかんだ云って無事に探偵助手―――見習い―――下僕―――になってからは生活ががらりと変わってしまい、そんな事を思い出す暇も無かった。
榎木津は三角錐から指を離して、空中でひらひらと振った。鍵盤をかき鳴らす仕草を模しているらしい。せわしなく動く指の隙間から暖かい日差しが差し込んで、綺麗だと思う。
音は聴いたことはないが、とぽつりと呟き、鳶色の瞳が益田を見た。
「手つきは悪くなかったぞ」
そう云われて、益田もつられて両手を構える。少し指先を丸めた、慣れた形。中指を軽く弾ませると、爪の先が木に当たってこつりと鳴った。この指は、しばらく鍵盤に触れていないことを思い出す。乗馬鞭の質感に慣れた手には、今は白弦が少し重く感じるかもしれない。かつて演奏前にしていたように、両手を軽く結んでは開いた。
「それで、何が惜しいんです?」
眼下に広がる町並みを見下ろしていた榎木津は、椅子ごとぐるんと回転して再び益田の方に向き直った。その目は相変わらず半分閉じられているが、少しだけ笑みの形をしている。
「お得意になってやったかもしれないのに」
「お得意に、ですかあ…」
榎木津自身ジャズクラブでギターを弾いていたこともあるくらいだから、演奏を聴きに行くこともあるのだろう。
薄暗いステージの上で、鍵盤の前に座り込む自分を想像した。グランドピアノでも、エレクトーンでも良い。スポットライトに照らされながら2色の弦を奏でる。一心不乱に、テーブルについた客たちを見ることもなく。
拍手と共に人々がくれる歓喜の視線に、愛しい飴色が含まれるのかすらも知らない。
益田はゆっくりと頭を振った。
「弟子が、いいです」
ふぅん、とだけ云った榎木津は、うとうとと目を閉じている。
窓から吹き込む風は、懐かしい春の匂い。
これが、あの日の僕が選んだ未来の形だ。
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益田が探偵助手になったのが3月だと思い出したので、忘れないうちに書いてみた。
Web拍手お返事です。ありがとうございます。
>いか様
はじめましてこんばんは、ハム星です。拍手ありがとうございます。
私もいか様のサイトに不審者の如く通い、日記などで原稿などの進行状況を拝見しつつ
「断片だけでこんなに可愛いのに漫画見たらどんなにか」とワクワクしておりました。
榎益榎が増えますように、と祈っているのは私も同じですので、拙文がお腹の足しになっておりましたらこれ程の喜びはありません。
榎益・益榎両A面が大丈夫とのこと、伺って安心致しました。艶文少ないですが、今後は「好物と言う方もいる」と少し自信を持って書けそうです。
春のお祭りはもう直ぐです。いか様もお体に気をつけて、いってらっしゃいませ。ありがとうございました。
叩いてくださった方も、ありがとうございました。
お返事結構です、と仰ってくださった方もありがとうございます。頑張ります。
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『葛葉ライドウ対アバドン王』というゲームがあります。
舞台は大正十二年の帝都で、主人公である十四代目デビルサマナー葛葉ライドウが探偵見習いとして頑張る話です。
ライドウに「益田龍一」と名づけて遊び始めたのですが、益田が悪魔を使役するだけでなく自ら刀や拳銃を振るって勇ましく戦うので解ってはいたものの凄い違和感を憶えています。逃げたり隠れたり、探偵に蹴られたりしてほしい…。
私の中でのベスト・オブ・益田ゲームはPS2で昔出た『チュウリップ』です。
榎木津の心に届く男になり、あわよくばチュウをするために益田が頑張って街中で人々の心を幸せにし、チュウしていくゲーム…バカゲーっぽいですが、深いです。
榎木津は家を飛び出して空き地の土管に三毛猫と一緒に住んでおり、益田が証拠品を見せると感想を述べたり、夜行くと星を眺めています。
まだレベルが低いのにチュウしようとすると張り倒されますが、土管に腰掛けているときにチュウしようとすると「とどかないよーだ」と可愛いことを言ってくれる、そんなゲームです。
「よく続いてる方じゃねェか」
木場が突然そう切り出したので、榎木津は顔を上げた。場末のおでん屋台では、眉目秀麗な探偵と筋骨隆々とした刑事の組み合わせは妙に浮いている。
指の形からして全く違う2人のグラスは、同じ酒で満たされていた。それをぐいと煽った木場が、箸先を榎木津に突きつける。
「お前んとこの小僧だよ、何だあの、ヘラヘラした、太鼓持ちみてェな」
「ああ、マスヤマか」
「上司の出鱈目に愛想尽かしする頃じゃねェのか」
榎木津は味噌のかかった大根をつついていた。マスヤマ――益田は、榎木津の出掛けに何かごそごそやっていたので恫喝の上蹴飛ばしてやった。けしからん事に、また何か内緒で仕事を請けて来たらしい。散らばった紙片を慌てて掻き集めていたが、無視して出てきたのだ。
思い出したら苛苛してきた。榎木津の箸が、大根にぐさりと突き刺さる。良く染み込んだ出汁がほとばしった。
「出鱈目なのはバカオロカだ。何度云っても憶え悪く変なコソコソした泥棒みたいな事ばーっかりする。探偵になりたいとか云っていたのに何の心算だか」
「何の心算って、探偵の心算だろうがよ」
「そんなだから殴られて帰ってきたりするんだ」
本当にバカだ、と付け足す。
口端に傷を作って帰った益田にそう云ってやった時、「酷いですよ榎木津さん、僕ぁ一生懸命」と半べそをかいていた。
「この通り、証拠も持ち帰りましたから」と写真機を掲げてへらりと笑う。切れた唇の紅さと八重歯の白さが印象に残った。
木場が見るのは、酒に唇をつけてぶくぶくと吹いている榎木津の不機嫌そうな横顔。
しばし眺めた後、大きな掌で榎木津の背中をばすばすと叩いた。
「何をする、馬鹿修」
「テメェにも並みの人間らしい部分があるんじゃねェか」
「豆腐が人間を語るな」
悪口の応酬にも木場は動じず、強面一杯に笑顔を浮かべている。何か秘密の宝物を見つけた子供のように。
押し殺せない笑いを零しながら、硝子球の瞳を向けている榎木津に云う。
「そのマスヤマとか云う小僧に、何か思う処が在るんだろ」
「バカ。すごい愚か者。すぐ泣く。」
ああ今日は目出度ェな、親父酒。と言い置いて、木場はこうも云った。
「そのバカで愚かですぐ泣く手下を―――憎からず思ってやがるな」
「…修ちゃん酔ってるのか?」
云っている意味が解らない。
マスヤマが何だって?
憎からず、と云われれば憎くない。憎かったら傍に置いてない。時々途方もなく苛苛させられる。目の届かない処で勝手なことをしている時。勝手に傷を作った時。僕の云う事を、全く判っていない時。
これは当たり前の所有欲ではないのか。
ということは、ぼくはマスヤマを所有したいのか?
逃げも隠れもするが、自分を探して来た時と同じに、最後は必ず戻ってくる彼を、今以上に。
「結構じゃあねぇか、偶にはお前も振り回されろ!」
ざまぁみやがれ、とでも言いたげに笑い続ける木場の大きな背中を、革靴が踏みつける。榎木津の右足だ。
思わぬ攻撃にテーブルへ倒され、衝撃に耐えかねた酒瓶がごろごろと転がっていく。「テメェ何しやがる!」と木場は喚いたが、榎木津は聞いていなかった。
靴底越しに伝わる背中の筋肉は分厚く、堅い。違うな、と思った。彼の背中はもっと薄い。感触はどうだったろうか。綿のシャツに隠されたその背に触れさせろと云ったら、また泣くだろうか。
(マスヤマめ)
伸びかけの前髪の隙間からちらちらと覗く黒い瞳を思い出す。自分から此処に来たくせに、弟子でいいと云ったくせに、本意ではないと諦めて流される風な色をしている。
なのにそれは何時もほんの少し、期待を帯びていて。
だから彼の眼を見ると、蹴飛ばしてやりたいような、期待に応えてやりたいような、妙な気分にさせられる。
他の誰でもない、馬鹿で愚かですぐに泣く、あの男の前だけだ。後にも、きっと先にも。
「―――生意気ダ!」
発言とは裏腹に、その口元は楽しげに持ち上がっている。
下僕なんかに惹かれている事、木場修なんかに気づかされた事、腹が立つ事は幾らもあるが―――
(こんなに愉快な気分なのはどうしてだ!)
精々、振り回してもらおうじゃないか。
うふふ、という含み笑いが、やがて大きなものになっていく。
色を変えた夜の闇を、神の高笑いが引き裂いた。
お題提供:『ペトルーシュカ』様