雨が降る夢を見た。
重く垂れ込める雲から落ちた雫は、地に向けて真っ直ぐに進む。其れは益田の目の前をすり抜けて、一輪の薔薇に受け止められた。雨は白い花弁に触れたことで真珠の如き丸みを帯び、一拍の休息の後、つるりと滑って花弁を束ねる中央へと向かう。水滴を飲み込んだ箇所から、薔薇は吸い上げるように青く染まった。この種の植物が持つ筈も無い、深い海の青だ。
益田は腰を屈め、薔薇の茎に触れる。僅かな棘が益田の指を刺した。痛みは無い、夢の中だからだ。夢ならば、この不思議な薔薇を手折った所で問題はあるまい。益田は指先にぐっと力を込めた。
「僭越だな」
薔薇が喋った。益田は目を瞬かせる。違う、薔薇では無い。睫に溜まった雨粒が散ると共に、青い薔薇は彼の知る男の顔に変わっていた。水を弾かぬ栗毛を伝い、益田の手にぱたぱたと水が落ちる。益田が手をかけているのも瑞々しい花茎ではなく、白い首筋だ。あっと思った時には既に遅く、益田の掌には、ぱきん、という感触が伝わった。
なんと言う事を!益田は夢である事も忘れ、恐慌のままに手を引いた。雨に濡れた大地に、榎木津の首がどさりと落ちた―――と思った。けれど水溜りに広がった波紋の中心には、手折られた白薔薇が横たわっているだけだ。不思議と泥に汚れることも無く、しらりと咲いている。ひっきりなしに注ぐ雨が、花弁を、葉を、折り取られた茎を、濡らしている。花の命の終焉に向けて。
益田は膝を折って、薔薇の前に座り込んだ。直接地に触れているズボンは言うまでもなく、痩せた体躯に纏う綿のシャツにも、棘が突き刺した細い指にも、長く下ろした前髪にも、青白い頬にも、水が伝っている。僅かに暖かい雫は、薔薇を避けて落ち、水溜りに消えた。
「えのきづさん」
雨の音に混じって、薔薇の名を呼ぶ声がぼうと響く。
はっと目を覚まし、寝台の傍らを確認する。
案の定其処は温度も残さず空っぽで、夢の主―――榎木津は後頭部をばりばりと掻いた。夜明け前の寝室は未だ暗い。榎木津は発条人形の勢いで立ち上がり、服も纏わぬまま扉を開けた。寝室と同じ青さの事務所に設えられた長椅子には、矢張り下僕が眠っている。
「起きロッ、バカオロカ!」
「ふぁ」
間抜けな声をあげて、益田は肩を竦ませた。眼をうっすらと開け、きょろきょろと空中を見ている。間もなく榎木津を視認すると、瞼を擦りながら起き上がった。
「な、なんですかぁ…?僕ぁなんか怒られるようなこと………したな…」
寝ぼけた頭でも数時間前の事を思い出し、益田は決まり悪げに外套に顔を埋める。ぴょこりと飛び出している前髪を、榎木津が掴み上げて無理やりに顔を上げさせた。
「痛っ」
「ヘンな夢を見た!」
顕になった額の下で、益田の眉が訝しげに歪んでいる。
「お前が僕を一人にするからだッ!」
「えぇー…いい大人が何言ってるんですか、子供じゃあるまいし。怖い夢くらいで」
「怖い夢じゃない、ヘンな夢だと言ってるだろう!」
「どっちだっていいですけど、まぁ榎木津さんが夜明け前に目を覚ますなんて普通じゃないですよねェ」
「普通じゃないからヘンな夢なんだ、何回言わせるこのネボケヤマ!」
要領を得ない問答が続くフロア内に、明け鳥のさえずりが忍び込んできた。夜明けも近い。
軽い抵抗を見せる益田の髪を握り締めたまま、榎木津は朝日を待っていた。雲が切れ、空の青さをこの目で見るまではこのもやもやとした気分は晴れないと知っている。
灰色の空には、顔を拭う事もせずに自分を見下ろす彼が似合いすぎていた。
雨の夢を見た。泣く男の夢を見た。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
――――
『1.届かないから憧れて』となんとなく対比。これはひどい雰囲気小説…。
見上げる側はどちらだ。
緑の葉をいっぱいにつけた木が、両翼を広げた鳥のようにわさりと揺れる。青木は群がる子供らを散らすと、木陰に立ち、木の葉から漏れる日光の隙間にちらりと見える影を見上げた。枝に引っかかっている其れは、風で木々がざわめくたびに怯えた声を上げている。子猫のような可愛いものなら良かったのだが。
「益田君、益田君だろう?」
「そうですよう、そういう貴方はどちら様ですか。生憎僕ぁ下を見るのも恐ろしくて」
「君が言ったんじゃないのか、僕を呼んでくれって」
「青木さんですか!良かったぁ来てくれて、助けてくださぁい」
付近をパトロールしていた巡査が、署内で飯を食っていた青木に声をかけたのは数十分前の事だった。その巡査も公園付近で子供に声をかけられたのだと云う。木に知らない大人が登っていて、怖くて遊べないのだと。
巡査は彼らに導かれるがまま、木の上にいる不審な人物に呼びかけた。不審な人物―――前髪をぞろ長く伸ばしている痩せた男に見えた――は先ず此処の住所を尋ねてきた。答えてやると、「ならば青木文蔵という男を呼んでくれ、此処は彼の管轄内であるはずだ」と云ったという。続いて「これを見せたら解る」と樹上から何かを投げ落としてきた。地に倒れた其れを巡査は律儀に持ち帰り、青木の手に渡したのだ。前髪が長くて痩せていて情けない感じの男だというだけでほぼ間違いなく益田だと思ったが、革製の乗馬鞭まで見せられては無視する訳にもいかない。
「何してるんだいこんな所で。覗きと思われても仕様がないぞ」
「それは降りてからゆっくり説明しますから、どうか手を貸してください」
「登れたんだから降りられる筈だろう、子猫じゃあないんだから」
「いやぁそれがですね、登ったときに足場にした枝が」
折れてしまいまして、と弱々しい声が漏らした。見れば足下には若葉をつけたままの一本の枝が落ちている。まだ乾かずに白い断面が痛々しい。益田の態度から安全そうだと見抜いたものか、彼を遊び道具にしていた少年のひとりが枝を拾い上げて走り去った。
その背を何となく見送って、青木はもう一度樹上を見上げる。
「足場が無いんじゃ僕も登れないよ。そんな高さもないし、いっそ飛び降りれば?」
「いやいやいや、木登りをなめたらいけませんよ青木さん!僕ぁ箱根の山で鳥口君が松の木だったか杉の木だったか、まぁとにかく大きな木から落っこちたのを見てるんです。ずうっと尻が痛い尻が痛いと云っていて、それ以来僕ぁ」
強い風がびょうと吹き抜けて、益田の弁明は悲鳴に変わった。やれやれと思いながら、青木は靴先で木の幹をとんと小突く。子供の頃に遊び慣れた山で、こうして虫を捕っていたのを思い出した。
「益田君行くよ、良いね」
「えっ何がですか!?」
青木は左足を振り上げて、軸足に乗せた体重を一息に木にぶつけた。子供らによる遊び半分の行為とは年季が違う一撃は、幹から葉の一枚一枚にまで伝わって、枝に絡まる異物すら削ぎ落とした。
葉と小枝に擦られながら落ちてきた「異物」を、青木は慣れた所作で受け止めた。両腕と膝に衝撃が伝わる。受け止めた其れ――益田は、髪やら肩やらに引っ付いた葉や木片を払うこともせず、呆然としていた。
「やぁ」
「…や、やぁってなんですかあ、もう、何てことを…ハアァ寿命が縮んだ…」
靴先を大地に触れさせると、そのまま益田はへたり込んでしまう。そこそこの重量を支えた腕をぶらぶらさせて、青木は益田を見下ろす。
「で、なんで木登りなんてしてたんだい」
「あぁそうでしたね。ちょっとした捜し物です」
冷や汗を拭いながら、益田は首を反らせて空に目を向けた。雀の群れが羽ばたいている。
「迷い犬や迷い猫ならともかく、迷い鳥を探すのは、いやぁ骨が折れる」
「榎木津さんとこに依頼が来たからには飼い鳥だろう、翼切ってなかったの?」
「雛の時から飼ってて、慣れた鳥だったんですって。部屋の中に放しても肩に止まってるくらいで。でもこの所風が強かったでしょう、小屋掃除するのに開けてた窓から風に乗って、どうやらこう、ぱたぱたっと」
益田は手首をひらひらさせて、小鳥の真似をしてみせた。その手に乗馬鞭を返してやると、へらりと笑って話を続ける。
「そう遠くには行けないだろうと踏んで、依頼人の家の界隈を探してみたんですわ。そしたらこの木の梢でそれらしい姿を」
見かけたんです――益田が指さした先は、先ほどまで彼がしがみついていた太い枝だ。
「それで、捕まえられたのかい――そうは見えないけど」
「そうなんですよう、僕の姿を見るや否やふらふらぁと飛んでっちゃったんです!あっと思ったときに足場の枝を踏み抜いてしまってですね」
こうしちゃいられない、また追いかけなくちゃ。
聞いてもいないことまで喋っておいて勝手に話を切り上げた益田は、立ち上がった。青木に「じゃあどうも」とだけ云って立ち去りかける。どうやら助けられたという意識は無いらしい。
「飼い主の所に戻ってたりして。あるだろう、そういう御伽噺」
「うーん、残念ですけど僕が探してるのは金糸雀なんです」
甲高く歌う金色の鳥を追って、益田は公園を後にした。梢を震わせる木の下には、青木ひとりだけが立っている。
彼もまた踵を返して歩き出した。彼自身の帰る場所を目指して。腕の中に落ちてきた痩せた背中を思い出した。
そういえば彼の背には翼は無かったな、とらしくもない事を思った。
――――
あおいろお題なので久々に青木。
2度目に生まれた場所は、海の中だった。
漂っているのか、沈んでいくのかすら判然としない。水面も水底も遠く、濃紺の世界に取り残される。
2度目に生まれた場所は、あるいは空の上だった。
舞い上がるように墜落し、それでも浮遊している。いつも見上げた青が視界一杯に広がった。
どちらにしても、益田の居る場所はとても寒かった。呼吸が上手く出来ない。上か下か、右か左かも解らない世界で、益田は探した。胸を一杯に膨らませられて、暖かい場所をだ。
今まで乗っていた足場は全て崩れてしまった。違うやり方で探さなければならない。益田は、懸命に腕を伸ばした。泳いだものか飛んだものかも知らない。もう一度生まれたとはいえ、益田は依然つまらない人間のままであり、魚でも鳥でも無かったからだ。
益田は追った。僅かに差し込む光の線を、忘れがたい温もりを。
彼は生まれたばかりであったので、天空に燦然と輝く光球の名も知らなければ、無闇に近づいた者がどうなる定めかも知らなかった。ただ目指した。
鱗も翼も持たぬまま、ひとりの人間のままで。
■
「おお、赤ちゃんだ!赤ちゃんが通るぞ」
いつも通り退屈げに窓の外を見下ろしていた榎木津が叫んだ。つられて覗き込むと、はるか眼下を赤ん坊を抱いた母親が通り過ぎるところだった。横を見れば、榎木津が笑いながら手を振っている。数人の通行人が何事かと見上げてきたが、肝心の母子は全く気づかずに行ってしまった。榎木津はつまらなそうに窓から身を引く。
「榎木津さんホントに赤ん坊好きですねぇ」
「うふふ」
榎木津は含み笑いをして、探偵椅子に腰掛けた。左手で頬杖をついて、右手で空中を撫でている。其処に赤子の丸い頭があるかのようだ。林檎色をしたやわやわの頬、まだ生えはじめの頼りない髪。榎木津は赤ん坊のそんな部位をことさら好んだ。益田も子供は嫌いではないが、榎木津の溺愛ぶりは様子が可笑しいと思う。ただでさえ物騒な世の中で、子攫い人も横行しているという。人好きする美形であることはこんな部分でも得をするものか、と益田は内心溜息を吐いた。
其処へ箒を引き摺った和寅が現れた。掃除をしながらも、榎木津の狂態を見ていたらしい。
「そんなに赤ん坊がお好きなら、ご自分でお作りになればいいのに」
からかうような発言。きょとんとした榎木津を、益田は横目でちらりと見た。艶やかで柔らかそうな栗毛に、同じ質感の長い睫が飾る色素の薄い瞳。日本人離れした容貌に、透けるような白い肌。そうは見えないとは言え、30代も半ばの中年男だ。実際の子供ならば、どれほど愛らしいか知れない。益田はうっとりと目を細めた。
「和寅さん上手いこと仰いますねぇ。榎木津さんのお子さんならきっと可愛いですよ。男子でも榎木津さん似の男前になるでしょうけど、女児は男親に似るって云うし、女の子だったらいいなぁ、仏蘭西人形みたいなお嬢さんになりますよ」
薄桃色のドレスを身に纏い、榎木津から受け継いだ美しい髪をリボンでまとめて、花畑を駆け回る少女を想像する。乗馬鞭を両手で握り締めて何処か遠くを見る益田は、どう見ても遠くの世界に行ってしまっていた。
「長じて口が利けるようになったら、マスヤマ馬になりなさーい、なんて言ったりするのかなぁ。大きくなったらマスヤマとけっこんするーなんて云われちゃったりして、困るなぁ」
想像の中ですら「マスヤマ」なのが悲しい。
ともかく夢想に耽っていた益田を引き摺り戻したのは案の定榎木津で、未発達な顎骨から頬骨までに張り付いた薄い肉を左右に伸ばすことで成された。
「ひででっ」
口の端を引っ張られているので、変な声が出てしまった。八重歯が剥き出しになる。
益田の頬をぎゅうと抓んだまま、榎木津はじとりと黒い瞳を睨みつけた。
「そんなつまらない事考えてるから、お前は可愛くないんだ。バカオロカ」
「つ、つまらないことってなんですかぁ」
ぎりぎりと引き絞られる理不尽な痛みに耐えながら、益田はもがくばかりだった。
■
かくして目指す場所に辿り着いた益田を待っていたのは、薄氷を融かし尽くして尚余りある熱量だった。
其処はやはり物凄く眩しくて、益田の目を射抜き、吸い込む息は胸を焼いた。
けれど益田はただの人間であったので、乾いて剥がれてしまう鱗も、焼け焦げてしまう翼も持ち合わせてはいなかったから。
目を細めながらも、胸を痛めながらも、どうにかこうして触れられる。
シロさんにアドバイス頂いて書きました。全然違う内容になってしまいましたが…
いつもありがとうございます。
依頼人の待ち合わせまではまだ長い。思いのほか時間が余ってしまった。
見渡す街は、煉瓦造りの建物が軒を連ね、通行人も心なしかハイソサエティな気配がする。益田が住む界隈とも、慣れた中野・神保町界隈とも全く違う雰囲気だ。うかつに喫茶店など入ってうっかり予定外の出費をするのは益田にとって喜ばしい事ではなかった。
「しょうがないなぁ、ちょっとうろうろ…おっ」
見渡す視界を過ぎったウィンドウの中で、きらりと光る何かがかすめた気がして益田はふらふらと歩を進める。
益田が足を止めたのは、街並と同じく赤煉瓦でくみ上げられた建物の軒先だ。申し訳程度に立て掛けられた看板を覗き込むと、西洋骨董品らしかった。ウインドウは傷のような汚れのような白ぐすみで曇り、店内は薄暗い。益田は少し逡巡してから、木の扉を潜った。
外の光があまり届いてない所為か、室内は肌寒さを感じさせる。客はひとりも居ない。客どころか、店員も居ない。
こつこつと足音を響かせながら歩く益田は、木製テーブルに並べられた銀の匙を何気無く拾い上げて、軽く裏も眺めた後元の位置にそっと戻した。事務所で紅茶を混ぜるのに使っているものと、さしたる違いがないように思えたからだ。
骨董というだけあって、値は張るものかもしれないが益田の興味を引くものはなかなか見当たらない。複雑な色模様が散りばめられた壺や、傘に透かし彫りが施されており明かりもないのにぼんやりと発光するような不思議な洋燈。実用品というより美術品めいた其れらの値札を見ては、大袈裟に驚いて身を引く動きで暇を潰していた益田の目は、一点の箱に吸い寄せられた。箱に、というよりは中身にだ。
ちらと光って自分を誘ったのはこいつだと、益田は直感的に思った。埃を被らないようにと硝子のケースに収められた其れ。少し塵が乗った面をそっと払えば、中身の美しさは益々際立って見えた。外界とを隔てる透明な境界にじっと益田を見上げる貌に、しばし見惚れる。
「―――良いでしょう、其の磁器人形」
はっと振り向くと、暗闇のようだった店の奥から、硬い音を響かせながら一人の男が現れた。白い髭をたくわえて、木製の杖で曲がった腰を支えている。恐らく店主であろう。
「あっこりゃどうも、勝手に入ってきちゃってすみません」
「良いでしょう、其の磁器人形」
後頭部に手をやって軽く会釈をする益田に、しわがれた声がもう一度同じ事を言った。聞こえていないと思ったのかも知れない。益田が軽くうなづくと、枯れ枝のような手が硝子の箱をそっと取り去った。
現れたのは、美しい陶器の肌を持つ人形であった。作られた年代のものだろうか、如何にも時代がかった服装をしている。繊細に彫り込まれた顔は整い、微笑みを浮かべる口元。丸い頭に植えられた髪はつやつやとしていて、僅かな光を集めては発散している。
「こういう人形は普通女性か子供の姿をしているんだけどねぇ、珍しいでしょう、男の人形なんて」
益田は「はぁ」と聞いているのだかいないのだか解らない返事をした。絹だろうか、しっとりとした光を放つ袖の先からは顔と同じく素焼きの陶器で出来た手が覗いていた。硬質だが、造詣が良いので今にも動き出しそうだ。金糸のような栗色のような人工の髪は、品良く切り揃えられていた。
「こいつの良いところはそれだけじゃないんだよ、ほら見て」
店主が示すまでもなく、益田もまたその部位を見つめていた。この人形をさらに美しく、さらに人形たらしめる装飾のひとつだ。老いた店主は皺と髭に埋もれたような顔でにぃと笑ってみせた。
「どうだい兄さん、こいつを買わないかい。久々のお客さんだ、値段は相談するよ」
老人の腕が人形を抱き上げ、足に結び付けられていた値札が人形についてだらりとぶら下がっている。益田は其れを見ることなく、両手を胸の前でひらひらと振った。
「いやいや、結構です。僕の下宿にそんな立派な人形合いません、店子の身分でそんなもん持ってたら大家さんに怒られちゃいますよう。土産に貰った伊豆の踊子の人形すら持て余してる位なんですから―――其れに」
相変わらず微笑を称えたまま益田を見上げる、作り物の美貌に嵌め込まれた一対の石。
其れは海の如く澄んだ濃紺を湛えた宝石であった。
「目が全然違うんです」
「そうかぁ。この目が良いと思うんだがなぁ」
老人は人形の頭をそっと撫でると、また硝子の箱に仕舞いこんだ。益田はもう一度人形の顔を覗き込んだが、彼はもう益田に興味を失ったかのように、光を放つのを止めていた。
柱時計が打ち、益田は顔を上げた。待ち合わせの時間だ。益田は店主に礼を言い、木の扉を開く。時計台の下ではどうも其れらしい人物が待っていて、益田は慌てて小走りで向かった。この仕事が終わらなければ事務所に帰れない。
白亜のビルヂングにおわす鳶色の宝石は、大人しく箱になど入っている筈もないのだし。
――――
益田と磁器人形と榎木津。そこはかとなく益榎(当社比)