良い買い物をした。
階段を踏みしめながら、益田はぶら下げた荷物に目をやる。あまり乱暴に振り回すと中身を壊してしまうかもしれない。けれど、浮かれずにはいられない。
白い紙袋の中には白い紙箱が入っていて、中には洋菓子が入っている。今日終えた仕事の依頼料で買ったものだ。
其の店にはいつも冗談のように長い列が出来ていて、益田は横目で見過ごすだけだった。けれど今日は天気も良く、暇潰しがてらそっと行列に加わってみたのである。まさか最後の一つが買えるとは思わなかった。自分の後ろに並んでいた人々からの不平の声と、羨望の視線を潜り抜け、益田は事務所のドアを開く。からんからん、というご機嫌な音。
誰も居ないかと思われたソファの陰から、栗色の髪がぴょこりと飛び上がった。
「あ、榎木津さん」
「ん」
午睡から覚めた榎木津は、ぺしゃりと潰れた柔らかな髪を手で掻き回している。まだ何処か寝ぼけているようだ。
まどろみを残した半開きの瞳がやがて益田を捉え、二、三度の瞬きの後、にいと笑った。
「気が利くじゃないか」
「え?」
「和寅も居ないし、起きててもしょうがないから寝てたんだけど」
「あ、和寅さん居ないんですか。なあんだ、紅茶煎れて欲しかったのになぁ」
「紅茶なんか腹の足しになるか。僕はお腹がぺこぺこなんだ」
流麗な指先が益田を、いや益田が携えている紙袋を指す。
「美味しそうなシュークリームじゃないか、なぁ益山」
榎木津の瞳が、鼠を狙う猫の如く細められたのを見て、益田は慌てて後ろ手に其れを隠した。
「こ、これは駄目ですよう。僕が労働報酬の一部で、身銭を切って買ったんですから」
「下僕のものは僕のものだ。僕が食べたいと云ったら下僕はハイどうぞと云って差し出せば良い!」
栗色の猫はすくりと立ち上がり、じりじりと益田に迫ってくる。
益田は後ずさりしたが、扉は自分で閉めてしまっていた。ドアノブが腰にぶつかり、カウベルが軽くからりと音を立てる。
益田がうっと思うのと同時に、榎木津の両腕が顔の横に突かれた。閉じ込められた格好だ。腰が引けて、僅かに屈伸した両足を探偵の膝が割る。これでは、へたり込む事も出来ない。鼻先がぶつかりそうなほどに顔を寄せられて、くらくらする。
「獲物」を捕らえた榎木津は、長い黒髪から少しばかり覗く耳殻に、吹き込むように囁いた。
「益山、それ頂戴」
吐息に揺れる髪が、触れ合った体がぞくぞくと震える。
取り落としそうになった紙袋を握る右手にまで、榎木津の指先が這わされた。
ここまでされて諦めない人間が居るのなら、益田はお目にかかりたい。そして、まんまと獲物を取り上げられない方法のひとつもご教授頂きたいところである。
■
空になった紙袋と紙箱を前に、益田は自分で淹れた紅茶を渋面で啜っていた。せめてもの慰めにと思ってやたらに砂糖を入れた所為で、喉に絡みつくような変な味がする。
対面に座っている榎木津は、機嫌良く銀紙を剥がしてその場に捨てた。香ばしく焼きあがった生地にふりかけられた粉糖は白く、やや黄味がかったクリームがちらりと見える様子は、人の手にあると余計旨そうに見える。
「いただきまーす」
榎木津は益田の方を見もせずに、シュークリームに齧り付いた。やや大きめの其れは一口では収まりきらず、受け止め切れなかった柔らかなクリームがだらりと垂れる。手の甲で榎木津が其れを拭うのを見上げながら、敬意も有難みも何も無い食べっぷりに益田は内心嘆息した。
「うん、うん、甘い」
「そりゃあそうでしょうよ、洋菓子なんですから…」
カップの底で溶け残った砂糖が切ない。益田が未練がましく銀匙で其れをかき混ぜていると、榎木津は残ったもう半分もぱくりと口に入れて、やや冷めた紅茶で一気に流し込んでしまった。実質二口だ。握り飯だってもうちょっと時間をかけて食べる。益田の視線を完全に無視したまま、榎木津は大きな欠伸をした。
「うーん、足りないぞ。やっぱりあんなもんじゃあ腹は膨れないね」
「贅沢云わんでくださいよ!僕が浮かばれないじゃないですか」
もはや涙目になっている益田の顔に、ふと榎木津の手が触れた。はっと目を瞬かせると、応接テーブルに乗り上げた榎木津がいる。頬をなぞる親指にざらりとした感触を感じ、彼の指に残った粉糖だとなんとなく理解した。
「甘い物のあとは、しょっぱいものが食べたい」
先程益田の荷物を狙った時と同じ瞳をしている。ただ対象が益田本人に変わっただけだ。
獲物の頬から手を放さずに、ティーセットを押し退けながら進んでくる捕食者に、益田の喉から引きつった悲鳴が漏れる。
「えのきづさ」
「ただいま戻りましたよ」
からからん、とドアベルが鳴った。
■
「僕ぁですね、ほんともう、今日ほど和寅さんに感謝したことは無いです」
「いつも感謝してくれよ。大の大人が2人も居て飯の用意も出来ないのかい」
和寅が作ってくれた茶漬けが臓腑に染み渡る。白飯の上にちょんと乗った刻み昆布の塩気が嬉しくて、益田はほっと胸をなでおろした。
目の前では、乱暴に箸と茶碗が打ち付けあう音が引っ切り無しに響いている。直ぐに空になった茶碗をずいと突き出す榎木津の眉はぎゅっと寄せられていた。
「おかわり!」
「もう3杯目ですぜ先生、そんなにお腹空いてたんですか、悪い事をしましたなあ」
「良かったですね榎木津さん、しょっぱいもの作ってもらって…」
鳶色の瞳に睨まれて、益田は言葉を止めた。
3杯目の茶漬けを掻き込みながらも榎木津の視線がずっと自分を射ているのが恐ろしい。
狩りの邪魔をされた動物がどんな行動に出るのか益田は知らなかったので、逃げるべきか逃げないべきかも解らぬままに、僅かにこびり付いていた粉糖をそっと拭った。
――――
あははははは…あーあ…。
「意味もなくエロい」榎木津に挑戦しましたが、本当に何の意味もありませんでした。
階段を踏みしめながら、益田はぶら下げた荷物に目をやる。あまり乱暴に振り回すと中身を壊してしまうかもしれない。けれど、浮かれずにはいられない。
白い紙袋の中には白い紙箱が入っていて、中には洋菓子が入っている。今日終えた仕事の依頼料で買ったものだ。
其の店にはいつも冗談のように長い列が出来ていて、益田は横目で見過ごすだけだった。けれど今日は天気も良く、暇潰しがてらそっと行列に加わってみたのである。まさか最後の一つが買えるとは思わなかった。自分の後ろに並んでいた人々からの不平の声と、羨望の視線を潜り抜け、益田は事務所のドアを開く。からんからん、というご機嫌な音。
誰も居ないかと思われたソファの陰から、栗色の髪がぴょこりと飛び上がった。
「あ、榎木津さん」
「ん」
午睡から覚めた榎木津は、ぺしゃりと潰れた柔らかな髪を手で掻き回している。まだ何処か寝ぼけているようだ。
まどろみを残した半開きの瞳がやがて益田を捉え、二、三度の瞬きの後、にいと笑った。
「気が利くじゃないか」
「え?」
「和寅も居ないし、起きててもしょうがないから寝てたんだけど」
「あ、和寅さん居ないんですか。なあんだ、紅茶煎れて欲しかったのになぁ」
「紅茶なんか腹の足しになるか。僕はお腹がぺこぺこなんだ」
流麗な指先が益田を、いや益田が携えている紙袋を指す。
「美味しそうなシュークリームじゃないか、なぁ益山」
榎木津の瞳が、鼠を狙う猫の如く細められたのを見て、益田は慌てて後ろ手に其れを隠した。
「こ、これは駄目ですよう。僕が労働報酬の一部で、身銭を切って買ったんですから」
「下僕のものは僕のものだ。僕が食べたいと云ったら下僕はハイどうぞと云って差し出せば良い!」
栗色の猫はすくりと立ち上がり、じりじりと益田に迫ってくる。
益田は後ずさりしたが、扉は自分で閉めてしまっていた。ドアノブが腰にぶつかり、カウベルが軽くからりと音を立てる。
益田がうっと思うのと同時に、榎木津の両腕が顔の横に突かれた。閉じ込められた格好だ。腰が引けて、僅かに屈伸した両足を探偵の膝が割る。これでは、へたり込む事も出来ない。鼻先がぶつかりそうなほどに顔を寄せられて、くらくらする。
「獲物」を捕らえた榎木津は、長い黒髪から少しばかり覗く耳殻に、吹き込むように囁いた。
「益山、それ頂戴」
吐息に揺れる髪が、触れ合った体がぞくぞくと震える。
取り落としそうになった紙袋を握る右手にまで、榎木津の指先が這わされた。
ここまでされて諦めない人間が居るのなら、益田はお目にかかりたい。そして、まんまと獲物を取り上げられない方法のひとつもご教授頂きたいところである。
■
空になった紙袋と紙箱を前に、益田は自分で淹れた紅茶を渋面で啜っていた。せめてもの慰めにと思ってやたらに砂糖を入れた所為で、喉に絡みつくような変な味がする。
対面に座っている榎木津は、機嫌良く銀紙を剥がしてその場に捨てた。香ばしく焼きあがった生地にふりかけられた粉糖は白く、やや黄味がかったクリームがちらりと見える様子は、人の手にあると余計旨そうに見える。
「いただきまーす」
榎木津は益田の方を見もせずに、シュークリームに齧り付いた。やや大きめの其れは一口では収まりきらず、受け止め切れなかった柔らかなクリームがだらりと垂れる。手の甲で榎木津が其れを拭うのを見上げながら、敬意も有難みも何も無い食べっぷりに益田は内心嘆息した。
「うん、うん、甘い」
「そりゃあそうでしょうよ、洋菓子なんですから…」
カップの底で溶け残った砂糖が切ない。益田が未練がましく銀匙で其れをかき混ぜていると、榎木津は残ったもう半分もぱくりと口に入れて、やや冷めた紅茶で一気に流し込んでしまった。実質二口だ。握り飯だってもうちょっと時間をかけて食べる。益田の視線を完全に無視したまま、榎木津は大きな欠伸をした。
「うーん、足りないぞ。やっぱりあんなもんじゃあ腹は膨れないね」
「贅沢云わんでくださいよ!僕が浮かばれないじゃないですか」
もはや涙目になっている益田の顔に、ふと榎木津の手が触れた。はっと目を瞬かせると、応接テーブルに乗り上げた榎木津がいる。頬をなぞる親指にざらりとした感触を感じ、彼の指に残った粉糖だとなんとなく理解した。
「甘い物のあとは、しょっぱいものが食べたい」
先程益田の荷物を狙った時と同じ瞳をしている。ただ対象が益田本人に変わっただけだ。
獲物の頬から手を放さずに、ティーセットを押し退けながら進んでくる捕食者に、益田の喉から引きつった悲鳴が漏れる。
「えのきづさ」
「ただいま戻りましたよ」
からからん、とドアベルが鳴った。
■
「僕ぁですね、ほんともう、今日ほど和寅さんに感謝したことは無いです」
「いつも感謝してくれよ。大の大人が2人も居て飯の用意も出来ないのかい」
和寅が作ってくれた茶漬けが臓腑に染み渡る。白飯の上にちょんと乗った刻み昆布の塩気が嬉しくて、益田はほっと胸をなでおろした。
目の前では、乱暴に箸と茶碗が打ち付けあう音が引っ切り無しに響いている。直ぐに空になった茶碗をずいと突き出す榎木津の眉はぎゅっと寄せられていた。
「おかわり!」
「もう3杯目ですぜ先生、そんなにお腹空いてたんですか、悪い事をしましたなあ」
「良かったですね榎木津さん、しょっぱいもの作ってもらって…」
鳶色の瞳に睨まれて、益田は言葉を止めた。
3杯目の茶漬けを掻き込みながらも榎木津の視線がずっと自分を射ているのが恐ろしい。
狩りの邪魔をされた動物がどんな行動に出るのか益田は知らなかったので、逃げるべきか逃げないべきかも解らぬままに、僅かにこびり付いていた粉糖をそっと拭った。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――
あははははは…あーあ…。
「意味もなくエロい」榎木津に挑戦しましたが、本当に何の意味もありませんでした。
PR
榎木津探偵が結婚するらしい」と云う噂を聞いた。
そんな訳で、せめて祝いの花束でも贈ろうかと思った益田である。
花屋で作ってもらったブーケは、大輪の薔薇や可憐なかすみ草の他にも益田が名前も知らないような花々で出来ていた。
その全てが純白で、束ねるサテンのリボンも純白。抱える益田の顔も心なしか蒼白だ。溜息を溢す度に花弁が幸せそうに揺れる。
榎木津が過去に幾人もの女性との付き合いがあったことは知っている。
天職だと云って探偵業なぞに身をやつしてはいるが、彼は名家の次男坊で、是非にと望む淑女が後を絶たないことも知っている。
其のどれもが、益田には全く無縁の世界の話だということも、勿論知っている。
頭で解ってはいるが、心が追いつかない。あの滅茶苦茶な人物を一生面倒見る女性が現れてくれたならば、めでたいことに違いないのに。
こんなに早く、結婚だなんて。
「…いつの間に…」
すれ違う人々のざわめきも気に留めず、花束を胸に抱いて歩く益田の呟きは宙に溶けて消えた。
「えと、おめでとうございます」
わさっ、と差し出された花束に、榎木津は眉をすがめた。
「…なにこれ」
「なにこれって、お祝いです」
見上げてくる鳶色の瞳が綺麗で、益田は涙が出そうになった。もう直ぐ彼の傍らには益田の知らない女性が立つのだ。
手が震えてしまい、触れ合う葉や茎がかさかさと鳴る。窓から吹き込んだ薄い薄い色の花弁が、益田の涙をさらった。
「けっ、けっ、けっこ、け」
「コケッコ?ニワトリか」
「ご、ご結婚、おめでとうございます!」
更に突き出された白い花々と益田とを、榎木津がじろじろと見比べている。
「結婚?誰が」
「榎木津さんが」
「誰と」
「いやそこまでは知りませんけど、どうせ麗しいお嬢様なんでしょう、羨ましいです」
「何時」
「何時でも予定空けますから、結婚式には呼んでくださいねぇ」
「何処で」
「もうやめてくださいよぅ、悲しいじゃないですか」
間の抜けた質問攻めに少し乾いた涙を拭えば、相変わらずの丸い瞳が其処にあった。
立ち上がった榎木津と、花束を挟んで対峙する。花の匂いに混じって馴染んだ神の気配が香る。
「マスヤマ今おめでとうって云ったじゃないか、おめでとうっていうのは嬉しい時に云うんだぞ、何故泣く!」
「さぁ、何ででしょう。僕にもとんと」
「解らないことでメソメソしない!こんなもん要らないから、返すぞカマヤマ早とちりオロカ」
押し返された花束を抱いて、益田は呆然としてしまった。
早とちり、今彼はそう云ったか。ならば自分の動揺は、衝撃は、喪失感は。
霧散した其れらを埋めるように、じわじわと安堵が込み上げて益田は笑った。
「なんだぁ、良かったぁ…」
「おめでたくなかったんじゃないか。だったらおめでとうなんて云うな、吃驚するだろうスーペリアバカオロカめ」
「もう原型とどめてないじゃないですかぁ、僕は益田ですって」
「榎木津にしてやろうか」
「え」
返事は出来なかった。唇で唇を塞がれたからだ。
春風をはらんだ薄手のカーテンがふわりと覆いかぶさり、神聖な光景のようですらある。
互いの胸の間で白い花たちが舞い、祝福の鐘のようにカウベルが鳴り、不幸にも戻ってきた和寅の悲鳴が響き渡った。
「榎木津探偵が結婚するらしい、どうやら相手は助手らしい」と云う噂が立った。
其れが中野の古書店にまで届いたのは4月も半ば過ぎのことで、
店の周辺だけで不機嫌極まる様相の冬将軍を見たものが居たとか、居なかったとか。
――――
ハッピーエイプリルフール!1コマ目でオチがバレバレです。
そんな訳で、せめて祝いの花束でも贈ろうかと思った益田である。
花屋で作ってもらったブーケは、大輪の薔薇や可憐なかすみ草の他にも益田が名前も知らないような花々で出来ていた。
その全てが純白で、束ねるサテンのリボンも純白。抱える益田の顔も心なしか蒼白だ。溜息を溢す度に花弁が幸せそうに揺れる。
榎木津が過去に幾人もの女性との付き合いがあったことは知っている。
天職だと云って探偵業なぞに身をやつしてはいるが、彼は名家の次男坊で、是非にと望む淑女が後を絶たないことも知っている。
其のどれもが、益田には全く無縁の世界の話だということも、勿論知っている。
頭で解ってはいるが、心が追いつかない。あの滅茶苦茶な人物を一生面倒見る女性が現れてくれたならば、めでたいことに違いないのに。
こんなに早く、結婚だなんて。
「…いつの間に…」
すれ違う人々のざわめきも気に留めず、花束を胸に抱いて歩く益田の呟きは宙に溶けて消えた。
「えと、おめでとうございます」
わさっ、と差し出された花束に、榎木津は眉をすがめた。
「…なにこれ」
「なにこれって、お祝いです」
見上げてくる鳶色の瞳が綺麗で、益田は涙が出そうになった。もう直ぐ彼の傍らには益田の知らない女性が立つのだ。
手が震えてしまい、触れ合う葉や茎がかさかさと鳴る。窓から吹き込んだ薄い薄い色の花弁が、益田の涙をさらった。
「けっ、けっ、けっこ、け」
「コケッコ?ニワトリか」
「ご、ご結婚、おめでとうございます!」
更に突き出された白い花々と益田とを、榎木津がじろじろと見比べている。
「結婚?誰が」
「榎木津さんが」
「誰と」
「いやそこまでは知りませんけど、どうせ麗しいお嬢様なんでしょう、羨ましいです」
「何時」
「何時でも予定空けますから、結婚式には呼んでくださいねぇ」
「何処で」
「もうやめてくださいよぅ、悲しいじゃないですか」
間の抜けた質問攻めに少し乾いた涙を拭えば、相変わらずの丸い瞳が其処にあった。
立ち上がった榎木津と、花束を挟んで対峙する。花の匂いに混じって馴染んだ神の気配が香る。
「マスヤマ今おめでとうって云ったじゃないか、おめでとうっていうのは嬉しい時に云うんだぞ、何故泣く!」
「さぁ、何ででしょう。僕にもとんと」
「解らないことでメソメソしない!こんなもん要らないから、返すぞカマヤマ早とちりオロカ」
押し返された花束を抱いて、益田は呆然としてしまった。
早とちり、今彼はそう云ったか。ならば自分の動揺は、衝撃は、喪失感は。
霧散した其れらを埋めるように、じわじわと安堵が込み上げて益田は笑った。
「なんだぁ、良かったぁ…」
「おめでたくなかったんじゃないか。だったらおめでとうなんて云うな、吃驚するだろうスーペリアバカオロカめ」
「もう原型とどめてないじゃないですかぁ、僕は益田ですって」
「榎木津にしてやろうか」
「え」
返事は出来なかった。唇で唇を塞がれたからだ。
春風をはらんだ薄手のカーテンがふわりと覆いかぶさり、神聖な光景のようですらある。
互いの胸の間で白い花たちが舞い、祝福の鐘のようにカウベルが鳴り、不幸にも戻ってきた和寅の悲鳴が響き渡った。
「榎木津探偵が結婚するらしい、どうやら相手は助手らしい」と云う噂が立った。
其れが中野の古書店にまで届いたのは4月も半ば過ぎのことで、
店の周辺だけで不機嫌極まる様相の冬将軍を見たものが居たとか、居なかったとか。
――――
ハッピーエイプリルフール!1コマ目でオチがバレバレです。
朝起きた時から予感はあったのだ。
妙に空気が肌に絡み、薄汚れた窓から見上げた空には重そうな雲が垂れ込めて、太陽を覆い隠している。
なるほどな、と思った益田は、下駄箱から一本の傘を引きずり出した。何の変哲も無い蝙蝠傘は、神奈川から連れてきた荷物のひとつだ。大分年季が入ったそれは骨が2,3本曲がっており不格好ではあったが、多少の雨を凌ぐには十分だ。益田はいつもの鞄に、くたびれた傘を携えて事務所へ向かった。すれ違う人々も同様で、それぞれに長短の傘を連れている。
益田の予感は実際当たり、午後にはぽつりぽつりと雫が落ち始め、夕方には大雨となった。ひっきりなしに窓硝子を叩く雨の音を聞き、仕事を終えた益田は立ち上がる。外套を羽織り、玄関脇に手を伸ばしたところで、はたと気がついた。
「あれ?」
無い。無くなっている。
立てかけていた黒い傘が、何処にも見あたらない。
益田はきょろきょろと周囲を見渡し、念のために廊下まで覗き込んでみる。益田の傘は無かったが、階段を上ってきていた和寅と出くわした。藍染めの着物と揃いの傘から、水が滴り落ちている。
「和寅さん、僕の傘持って行ってませんよね?」
「いいや知らないよ。この通り、私が持っているのは自前さ。どんな傘だね」
「骨が何本か折れてますが、普通の黒い傘ですよ。出社した時このへんに立てといたんですけどねぇ」
扉の裏側まで回り込んでみたが、やはり見つからない。
階段を上り終えた和寅が、床を衝いて水滴を払いながら顔を上げた。
「その傘なら見たな」
「本当ですか!嗚呼良かった。すみません、何処に仕舞ってくださったんですかねぇ」
「先生が差してお出かけになったよ。さっき下ですれ違ったんだが、気づかなかったのかい?」
「えぇぇぇえぇ?」
そう云えば、傘と同じく榎木津の姿も無かった。仕事に集中していて気がつかなかったのだろうか。益田は慌てて窓に張り付き、3階下の道を見下ろす。赤や黄といった色とりどりの傘が行き交っているが、生憎既に黒い傘は何処かに行ってしまった後のようだった。降り続く雨が窓を流れていく。
「榎木津さぁん」
「ちゃんと仕舞っておかないからだよ。走って帰るんだね」
「そんなぁ。こんな雨ですよ、ていうか和寅さんの傘貸してくださいよ!」
「あれはここの備品だからなぁ、買い出しには使うけれど君が持って行っていいかまでは先生に聞かなきゃわからんね」
「そんなバカな、僕をからかって」
「まぁ濡れて帰るのが嫌なら、先生を待っても良いと思うね。今から夕食の支度をするし、食べてる間にお戻りになればいいんだが」
和寅は益田につきあうのを止めて、勝手場に引っ込んでしまった。ひとりになった部屋の中には、雨の音がやたら大きく聞こえる。
益田はしょんぼりと肩を落とし、窓の外を見やった。雨が止む気配はまだ無い。
「まいったなぁ」
益田は着こんだ外套を、もう一度衣紋掛けに着せる。建物全体を濡らす水の所為か、僅かに肌寒さを憶えた。
骨だけになった焼き魚や、僅かな飯粒が付いた茶碗がテーブルの上に並んでいる。
くちた腹を撫でていた益田は、ふと辺りが静かになった事に気づいた。洗われた窓硝子の外には、どんよりと曇った夜空が広がっている。窓を開けて手を伸ばしたが、霧雨すらも感じられない。益田の顔がぱっと晴れた。
「あ、止んでる!良かったぁ、待った甲斐があったなぁ」
「飯に夢中で忘れていた癖に。食後の茶まで要求して、図々しいというか何というか」
和寅のぼやきは無視し、益田はいそいそと帰り支度を始めた。雲は未だに重く垂れ込めていて、すぐにも再び降り出しそうだ。急いで帰るに越した事は無い。上着に袖を通したところで、カウベルがからからと鳴った。
「帰ったぞ!」
扉から顔を出したのは、やはり榎木津である。栗色の髪に白皙の美貌は良いのだが、幼児が着る様な真っ黄色のレインコートが異様すぎる。こういった衣服にも大人用があるということを、益田は初めて知った。唖然と見守る益田と、慣れているのか片付けの手を止めない和寅の前で、榎木津はフードを脱ぎ去りふるふると頭を振った。犬に似ている。
「うはは、よく降ってた。おーい和寅、ご飯にして」
放り捨てたレインコートが益田に当たり、顔に飛沫がかかる。思わず「うわっ」と悲鳴が漏れたが榎木津はお構い無しで、既に席についている。益田は前髪を払いながらも、戸口を見渡し、改めて眉を顰めた。
「あれ?榎木津さん、僕の傘は?」
「カサ?」
「僕の傘持って行ってたんでしょ、黒い、骨が折れてるやつですよ。――ま、まさか」
「うん、そのまさか。珍しく察しが良いな」
榎木津は事も無げにそう云って、和寅は飯櫃から白米をよそっている。益田ばかりが悲しい声を上げた。
「ええぇぇぇ!置い、置いてきちゃったんですか!?」
「晴れてるし、邪魔になったし、いらないだろ。和寅、醤油取って」
「何処に置いてきたんですかぁ!」
益田の叫びには答えず、榎木津は味噌汁を啜っている。あったまるなぁ、と満面の笑みだ。花が咲いたような表情に一瞬ほだされそうになるが、ぐっと飲み込んだ。小走りで出入り口に向かい、ノブを引く。
「と、とにかくもう今日は帰りますけど、明日探しに」
カウベルの音はかき消された。どざぁっ、という轟音と、ばしばしばし、と硝子を叩く音に。
3人が見つめる窓は波紋に覆われてしまい何も見えないが、凄まじい豪雨が再び始まった事だけは誰の目にも明らかで。
「――あの、今日やっぱり泊まり」
「ばいばい」
「詰ったりしてすみませんでした!もう調子に乗りませんから、泊めてください!」
勢いよく頭を下げた益田の頭上で、雨音と呼ぶには酷すぎる其れに交じった「おかわり」という声に続き、「はいはい」という答えが返る。
上目遣いで榎木津を見上げると、湯気の向こうで彼はにやにやと笑っていた。
「すごぉく帰りたいみたいだし、いつでも帰って良いよ。今帰ると良いよ。すぐ帰ると良いよ」
「そんなぁ!いくら最近あったかいって云っても風邪ひいちゃいますよう」
「バカオロカは風邪ひかないから大丈夫。そんなに濡れるのが嫌なら、それを着て帰りなさい」
塗りの箸先が示したのは、濡れたまま床に打ち捨てられている雨用外套だった。夜目にも目立つ、真っ黄色の。益田は思わず後ずさったが、広がった水が靴の裏にまで着いてくる。
「それを着て、帰りなさい」
空になった茶碗を、榎木津の箸が合図のようにちん、と鳴らした。
「うはははは、面白いなぁ」
ビルヂングの中から、黄色い人影がゆっくりと出てきたのを見つけ、榎木津は指を差して笑った。奇妙なてるてる坊主のようになった益田が、雨の中からこちらを見上げ、榎木津が見ている事に気づいたのか慌てて走り去る。
眩しいまでに明るい其れは道の彼方まで良く見えていたが、やがて角を曲がって消えた。榎木津も満足して身を引く。目を閉じれば、世界を打ち鳴らす雨音が心地良い。和寅が煎れた珈琲の香りが、鼻腔を擽る。
「面白かったですが、似合ってませんでしたなぁ」
益田が立っていた場所には、水溜まりが出来ていた。大きなフードの中で、泣くわけにも怒るわけにもいかず、仕方なしに笑っていた表情を思い出すだけで、榎木津の口端にはこらえきれない笑いが浮かぶ。雨など構わず今すぐ外に飛び出して、黄色い背中を捕まえたいほどだ。
「あの服はマスヤマにあげようっと。面白いから」
――――
益田黄色似合わないだろうなぁーと思って。
妙に空気が肌に絡み、薄汚れた窓から見上げた空には重そうな雲が垂れ込めて、太陽を覆い隠している。
なるほどな、と思った益田は、下駄箱から一本の傘を引きずり出した。何の変哲も無い蝙蝠傘は、神奈川から連れてきた荷物のひとつだ。大分年季が入ったそれは骨が2,3本曲がっており不格好ではあったが、多少の雨を凌ぐには十分だ。益田はいつもの鞄に、くたびれた傘を携えて事務所へ向かった。すれ違う人々も同様で、それぞれに長短の傘を連れている。
益田の予感は実際当たり、午後にはぽつりぽつりと雫が落ち始め、夕方には大雨となった。ひっきりなしに窓硝子を叩く雨の音を聞き、仕事を終えた益田は立ち上がる。外套を羽織り、玄関脇に手を伸ばしたところで、はたと気がついた。
「あれ?」
無い。無くなっている。
立てかけていた黒い傘が、何処にも見あたらない。
益田はきょろきょろと周囲を見渡し、念のために廊下まで覗き込んでみる。益田の傘は無かったが、階段を上ってきていた和寅と出くわした。藍染めの着物と揃いの傘から、水が滴り落ちている。
「和寅さん、僕の傘持って行ってませんよね?」
「いいや知らないよ。この通り、私が持っているのは自前さ。どんな傘だね」
「骨が何本か折れてますが、普通の黒い傘ですよ。出社した時このへんに立てといたんですけどねぇ」
扉の裏側まで回り込んでみたが、やはり見つからない。
階段を上り終えた和寅が、床を衝いて水滴を払いながら顔を上げた。
「その傘なら見たな」
「本当ですか!嗚呼良かった。すみません、何処に仕舞ってくださったんですかねぇ」
「先生が差してお出かけになったよ。さっき下ですれ違ったんだが、気づかなかったのかい?」
「えぇぇぇえぇ?」
そう云えば、傘と同じく榎木津の姿も無かった。仕事に集中していて気がつかなかったのだろうか。益田は慌てて窓に張り付き、3階下の道を見下ろす。赤や黄といった色とりどりの傘が行き交っているが、生憎既に黒い傘は何処かに行ってしまった後のようだった。降り続く雨が窓を流れていく。
「榎木津さぁん」
「ちゃんと仕舞っておかないからだよ。走って帰るんだね」
「そんなぁ。こんな雨ですよ、ていうか和寅さんの傘貸してくださいよ!」
「あれはここの備品だからなぁ、買い出しには使うけれど君が持って行っていいかまでは先生に聞かなきゃわからんね」
「そんなバカな、僕をからかって」
「まぁ濡れて帰るのが嫌なら、先生を待っても良いと思うね。今から夕食の支度をするし、食べてる間にお戻りになればいいんだが」
和寅は益田につきあうのを止めて、勝手場に引っ込んでしまった。ひとりになった部屋の中には、雨の音がやたら大きく聞こえる。
益田はしょんぼりと肩を落とし、窓の外を見やった。雨が止む気配はまだ無い。
「まいったなぁ」
益田は着こんだ外套を、もう一度衣紋掛けに着せる。建物全体を濡らす水の所為か、僅かに肌寒さを憶えた。
骨だけになった焼き魚や、僅かな飯粒が付いた茶碗がテーブルの上に並んでいる。
くちた腹を撫でていた益田は、ふと辺りが静かになった事に気づいた。洗われた窓硝子の外には、どんよりと曇った夜空が広がっている。窓を開けて手を伸ばしたが、霧雨すらも感じられない。益田の顔がぱっと晴れた。
「あ、止んでる!良かったぁ、待った甲斐があったなぁ」
「飯に夢中で忘れていた癖に。食後の茶まで要求して、図々しいというか何というか」
和寅のぼやきは無視し、益田はいそいそと帰り支度を始めた。雲は未だに重く垂れ込めていて、すぐにも再び降り出しそうだ。急いで帰るに越した事は無い。上着に袖を通したところで、カウベルがからからと鳴った。
「帰ったぞ!」
扉から顔を出したのは、やはり榎木津である。栗色の髪に白皙の美貌は良いのだが、幼児が着る様な真っ黄色のレインコートが異様すぎる。こういった衣服にも大人用があるということを、益田は初めて知った。唖然と見守る益田と、慣れているのか片付けの手を止めない和寅の前で、榎木津はフードを脱ぎ去りふるふると頭を振った。犬に似ている。
「うはは、よく降ってた。おーい和寅、ご飯にして」
放り捨てたレインコートが益田に当たり、顔に飛沫がかかる。思わず「うわっ」と悲鳴が漏れたが榎木津はお構い無しで、既に席についている。益田は前髪を払いながらも、戸口を見渡し、改めて眉を顰めた。
「あれ?榎木津さん、僕の傘は?」
「カサ?」
「僕の傘持って行ってたんでしょ、黒い、骨が折れてるやつですよ。――ま、まさか」
「うん、そのまさか。珍しく察しが良いな」
榎木津は事も無げにそう云って、和寅は飯櫃から白米をよそっている。益田ばかりが悲しい声を上げた。
「ええぇぇぇ!置い、置いてきちゃったんですか!?」
「晴れてるし、邪魔になったし、いらないだろ。和寅、醤油取って」
「何処に置いてきたんですかぁ!」
益田の叫びには答えず、榎木津は味噌汁を啜っている。あったまるなぁ、と満面の笑みだ。花が咲いたような表情に一瞬ほだされそうになるが、ぐっと飲み込んだ。小走りで出入り口に向かい、ノブを引く。
「と、とにかくもう今日は帰りますけど、明日探しに」
カウベルの音はかき消された。どざぁっ、という轟音と、ばしばしばし、と硝子を叩く音に。
3人が見つめる窓は波紋に覆われてしまい何も見えないが、凄まじい豪雨が再び始まった事だけは誰の目にも明らかで。
「――あの、今日やっぱり泊まり」
「ばいばい」
「詰ったりしてすみませんでした!もう調子に乗りませんから、泊めてください!」
勢いよく頭を下げた益田の頭上で、雨音と呼ぶには酷すぎる其れに交じった「おかわり」という声に続き、「はいはい」という答えが返る。
上目遣いで榎木津を見上げると、湯気の向こうで彼はにやにやと笑っていた。
「すごぉく帰りたいみたいだし、いつでも帰って良いよ。今帰ると良いよ。すぐ帰ると良いよ」
「そんなぁ!いくら最近あったかいって云っても風邪ひいちゃいますよう」
「バカオロカは風邪ひかないから大丈夫。そんなに濡れるのが嫌なら、それを着て帰りなさい」
塗りの箸先が示したのは、濡れたまま床に打ち捨てられている雨用外套だった。夜目にも目立つ、真っ黄色の。益田は思わず後ずさったが、広がった水が靴の裏にまで着いてくる。
「それを着て、帰りなさい」
空になった茶碗を、榎木津の箸が合図のようにちん、と鳴らした。
「うはははは、面白いなぁ」
ビルヂングの中から、黄色い人影がゆっくりと出てきたのを見つけ、榎木津は指を差して笑った。奇妙なてるてる坊主のようになった益田が、雨の中からこちらを見上げ、榎木津が見ている事に気づいたのか慌てて走り去る。
眩しいまでに明るい其れは道の彼方まで良く見えていたが、やがて角を曲がって消えた。榎木津も満足して身を引く。目を閉じれば、世界を打ち鳴らす雨音が心地良い。和寅が煎れた珈琲の香りが、鼻腔を擽る。
「面白かったですが、似合ってませんでしたなぁ」
益田が立っていた場所には、水溜まりが出来ていた。大きなフードの中で、泣くわけにも怒るわけにもいかず、仕方なしに笑っていた表情を思い出すだけで、榎木津の口端にはこらえきれない笑いが浮かぶ。雨など構わず今すぐ外に飛び出して、黄色い背中を捕まえたいほどだ。
「あの服はマスヤマにあげようっと。面白いから」
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――
益田黄色似合わないだろうなぁーと思って。
「マスヤマは僕のこと好きだろう」
秘書に買い出しを言いつけるのと同じ気安さで、榎木津がとんでもない事を言い放ったので、益田は唖然としてしまった。堂々と仁王立ちの榎木津は、石の如く硬直した益田に構わず矢継ぎ早に続ける。
「好きなんだろう、好きだな、好きに違いない!好きなものは好きだから」
「ちょちょちょちょ、何を仰ってるんですか」
形の良い唇は止まらず、たまらなくなった益田はようやっと榎木津の制止にかかった。ソファから立ち上がり、榎木津の丸い肩を押さえる。形のいい唇は開いたまま止まり、鳶色の瞳が益田を見下ろしている。近づいても尚、作り物めいた白い肌。
「――好きだな?」
「やめてくださいよぅ。そりゃ嫌いだったら態々弟子入りなんてしませんて」
「嫌いじゃないかなんて聞いてなぁい。というか、マスヤマの話なんか最初からどうでもいいよ。もう僕には解ってるんだからな」
自信満々に胸を張る榎木津が滑稽で、益田は肩を落とす。今度は何の遊びだろうか。榎木津の目が面白そうにきらきらと輝いている意味を汲みかねて、結局益田は視線を外してしまった。
カマだなんだと言ってくるのは、やはり彼の思い違いから来るものだったのか。今の益田にしてみれば、実に心外な話である。
「ですから、僕ぁカマじゃないって云って」
「マスヤマがマスカマになったのは最近じゃないか!その前からお前は、ずうっと僕のことを好きだったんだ」
「はぁ、じゃあ何ですか。僕ぁ榎木津さんに恋慕して、職を辞してまではるばる追いかけてきたって云うんですか。そんな男いたらよっぽどの熱情家か、でなきゃ変態ですよ。よくそんな恐ろしいこと仰いますねェ。僕なら一秒だってそんな男側に置いとかないですよ、気味悪い」
「神は心が広いから置いといてやるんだ。バカオロカの尺度で小さく測ってるから解らないんだな」
益田は唇に乾いた笑みを乗せたが、榎木津の口元は笑っていなかった。俯いた目の前に、均整のとれた顎から続く喉仏と首筋が見える。益田は何処を見て良いか解らず、結局手慰みの振りで垂れ下がった前髪を額の前でばらけさせて隠れてしまった。
けれどその努力も空しく、尖った顎を榎木津の指が掬う。ぐいと上を向かされて、勢いで前髪が顔の横に流れる。
「――そろそろ出来上がった頃かと思うんだけどなぁ」
「な、何がですよ。ていうか近いです、座って話しましょうよ」
「知ってるか?真珠は、貝殻の中に入ったものを貝がゆっくりゆっくり包んで作るんだぞ。チクチクして嫌だからって云って丸いきれいなものにしちゃうんだ。利口だなぁ貝は」
「なんで急に貝の話なんですか、話が飛びすぎですよぅ」
榎木津はにぃ、と笑って腰を折り、更に益田に顔を寄せる。異質な2種の髪が混ざり合って、鼻骨までもが触れあった。
益田の視界を埋め尽くすのは、まさに真珠のような肌。
「吐き出しちゃったりしないで、丸く丸く包んだって、消えちゃったわけじゃないんだからな」
シャツ越しに榎木津の掌が、益田の胸板に触れる。心臓の辺りを彷徨う其れは、益田が飲み込んだ異物を探し出しているようだった。益田の中に飛び込んだか、混ざり込んだか、それとも自然に芽生えたものか。何時からか益田を内側から苛んだ、知らない感情。
其れを尊敬であるとか、目標であるとか、慣れたものばかりで包み込み、覆い被せて。
益田は自らすら騙し続けていたのだ。
「僕に見せなさい」
最後の外殻が剥がれ、剥き出しになった心の一部は、益田の瞳から溢れ出した。透明な丸い粒が、青白い頬を伝い、顎を掴んだままの榎木津の指に落ちる。
「見ぃつけた」
宝物を見つけ出した子供のような表情。
其れこそが宝玉のようであると、益田は無垢な心のままに考えた。
――――
益田の外殻を壊して壊して壊して引っ張り出す榎木津。なんか電波。
益田はあこや貝だって云いたかっただけです…。
秘書に買い出しを言いつけるのと同じ気安さで、榎木津がとんでもない事を言い放ったので、益田は唖然としてしまった。堂々と仁王立ちの榎木津は、石の如く硬直した益田に構わず矢継ぎ早に続ける。
「好きなんだろう、好きだな、好きに違いない!好きなものは好きだから」
「ちょちょちょちょ、何を仰ってるんですか」
形の良い唇は止まらず、たまらなくなった益田はようやっと榎木津の制止にかかった。ソファから立ち上がり、榎木津の丸い肩を押さえる。形のいい唇は開いたまま止まり、鳶色の瞳が益田を見下ろしている。近づいても尚、作り物めいた白い肌。
「――好きだな?」
「やめてくださいよぅ。そりゃ嫌いだったら態々弟子入りなんてしませんて」
「嫌いじゃないかなんて聞いてなぁい。というか、マスヤマの話なんか最初からどうでもいいよ。もう僕には解ってるんだからな」
自信満々に胸を張る榎木津が滑稽で、益田は肩を落とす。今度は何の遊びだろうか。榎木津の目が面白そうにきらきらと輝いている意味を汲みかねて、結局益田は視線を外してしまった。
カマだなんだと言ってくるのは、やはり彼の思い違いから来るものだったのか。今の益田にしてみれば、実に心外な話である。
「ですから、僕ぁカマじゃないって云って」
「マスヤマがマスカマになったのは最近じゃないか!その前からお前は、ずうっと僕のことを好きだったんだ」
「はぁ、じゃあ何ですか。僕ぁ榎木津さんに恋慕して、職を辞してまではるばる追いかけてきたって云うんですか。そんな男いたらよっぽどの熱情家か、でなきゃ変態ですよ。よくそんな恐ろしいこと仰いますねェ。僕なら一秒だってそんな男側に置いとかないですよ、気味悪い」
「神は心が広いから置いといてやるんだ。バカオロカの尺度で小さく測ってるから解らないんだな」
益田は唇に乾いた笑みを乗せたが、榎木津の口元は笑っていなかった。俯いた目の前に、均整のとれた顎から続く喉仏と首筋が見える。益田は何処を見て良いか解らず、結局手慰みの振りで垂れ下がった前髪を額の前でばらけさせて隠れてしまった。
けれどその努力も空しく、尖った顎を榎木津の指が掬う。ぐいと上を向かされて、勢いで前髪が顔の横に流れる。
「――そろそろ出来上がった頃かと思うんだけどなぁ」
「な、何がですよ。ていうか近いです、座って話しましょうよ」
「知ってるか?真珠は、貝殻の中に入ったものを貝がゆっくりゆっくり包んで作るんだぞ。チクチクして嫌だからって云って丸いきれいなものにしちゃうんだ。利口だなぁ貝は」
「なんで急に貝の話なんですか、話が飛びすぎですよぅ」
榎木津はにぃ、と笑って腰を折り、更に益田に顔を寄せる。異質な2種の髪が混ざり合って、鼻骨までもが触れあった。
益田の視界を埋め尽くすのは、まさに真珠のような肌。
「吐き出しちゃったりしないで、丸く丸く包んだって、消えちゃったわけじゃないんだからな」
シャツ越しに榎木津の掌が、益田の胸板に触れる。心臓の辺りを彷徨う其れは、益田が飲み込んだ異物を探し出しているようだった。益田の中に飛び込んだか、混ざり込んだか、それとも自然に芽生えたものか。何時からか益田を内側から苛んだ、知らない感情。
其れを尊敬であるとか、目標であるとか、慣れたものばかりで包み込み、覆い被せて。
益田は自らすら騙し続けていたのだ。
「僕に見せなさい」
最後の外殻が剥がれ、剥き出しになった心の一部は、益田の瞳から溢れ出した。透明な丸い粒が、青白い頬を伝い、顎を掴んだままの榎木津の指に落ちる。
「見ぃつけた」
宝物を見つけ出した子供のような表情。
其れこそが宝玉のようであると、益田は無垢な心のままに考えた。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――
益田の外殻を壊して壊して壊して引っ張り出す榎木津。なんか電波。
益田はあこや貝だって云いたかっただけです…。
冒険の果てに、主人公は見事金銀財宝を見つけ出しました。
高い塔に幽閉された美しい姫君を救い出しました。
悪政で民を苦しめる悪い王を打ち倒しました。
世に物語は数あれど、結びの言葉は大抵決まっている。それはある意味では、最も望まれる展開へと帰結するための、魔法の呪文とも云えた。
わずか一行で物語に幕を下ろし、見えない未来までも保証する。
―――彼らはいつまでもいつまでもしあわせにくらしました。めでたしめでたし。
益田もまた、電車に乗って上京してきた程度の『冒険』の果てに、神保町界隈で一番『高い塔』で眠っていた男のもとに辿り着いたものであるので、もしかしたら幸福な呪文の恩恵を受けることも可能であったかもしれない。
しかし益田の物語はまだ終わっていない。ハッピーエンドどころか、やっとスタートラインに辿り着いたところだった。20余年にわたる前書きを終えたばかりの彼には、毎日が激動過ぎて終わりどころか明日も見えない有様であった。金銀財宝に勝るとも劣らない男を目の前にして、自分などやはり脇役に過ぎないのだと益田は思う。
普段は思い出されることすらないその意識は、時折表層に浮上しては、益田を背景の一部に溶け込ませるような気持ちにさせる。例えば、中禅寺の憑物落としに立ち会った時などがそうだ。物語は彼らを中心にして一挙に収束し、ある一点の「終わり」へと駆け抜けて行く。それが幸福な終わりであろうとそうでなかろうと、多くは益田の人生に繋がるものでは無かったし、現に幾つもの「終わり」を見送りながら益田の物語は続いている。
物語は時に探偵小説であったり、時に馬鹿馬鹿しい喜劇であったが、時折どうしようもない悲劇に立たされる場合があった。云うなれば、秘書も寝静まった事務所の長椅子で、頬やら額やらに榎木津の無邪気な唇を受けている現在。
暖かく心地よいのは一瞬のことで、唇が離れるたびに皮膚は外気に触れ、触れる以前よりもはっきりと冷たさを憶える。それが益田にとっては悲劇だった。どのような形かなど知らないが、確実に迫る離別の時を想起させる。榎木津の気紛れが終わるのが先か、榎木津に触れるたびに暴走して制御が効かない感情によって益田が限界に達するのが先か。どちらにしても、砂時計の中身は確実に目減りしていっている。警察を辞めてまで頁を進めたのは他ならぬ益田自身なので、誰を恨む事も出来ない。
啄む合間に、榎木津がふと益田の瞳を覗き込む。暗がりの中、鳶色の瞳に自分の情けない顔が映っているのを見つけ、益田は前髪の陰に視線を隠した。
「びくびくするなよ」
「び、びくびくなんかしてませんよ。僕ぁもう榎木津さんの出鱈目な言動には慣れちゃいましたから」
榎木津にとって、益田の見え見えの虚勢には興味も無い。
ただ、黒い瞳が時折何処か遠くを彷徨うのが気に食わず、唇を瞼に落とした。やや乱暴な仕草に、尖った肩がびくつく。
目が開かない程度に微妙な距離をとって、榎木津は「マスヤマ」と呼んだ。
「今の事だって満足に視えていない癖に、先の事なんか視えるわけないじゃないか。バカだなぁ」
「見える見えないじゃないですよ。なんだって期待したらバカを見るのは世の常人の常です。僕ぁ未来に傷つかないように心の準備をしてるだけなんです」
ですからもう、焦らさないでください。
そう云うと益田は、榎木津の肩に縋る振りをして唇から離れた。怯える子供の所作そのものだ。
ならばと、榎木津は益田の頭を抱え込む。つまらない過去から引き離すように、望まぬ未来が彼を浚わぬように。
「口答えをした罰だ。神たる探偵に仕えたバカでオロカでカマな男は、幸せな人生を送ったと未来永劫語り継いでやる」
ぎゅうと抱き込んだ腕の中で「勘弁してくださいよう」と答えた声は、それでも僅かに希望を宿していた。
――――
久しぶりなので短め…って最近いつも久しぶりなので申し訳ないです。
久々ついでに榎→益団の活動を。
高い塔に幽閉された美しい姫君を救い出しました。
悪政で民を苦しめる悪い王を打ち倒しました。
世に物語は数あれど、結びの言葉は大抵決まっている。それはある意味では、最も望まれる展開へと帰結するための、魔法の呪文とも云えた。
わずか一行で物語に幕を下ろし、見えない未来までも保証する。
―――彼らはいつまでもいつまでもしあわせにくらしました。めでたしめでたし。
益田もまた、電車に乗って上京してきた程度の『冒険』の果てに、神保町界隈で一番『高い塔』で眠っていた男のもとに辿り着いたものであるので、もしかしたら幸福な呪文の恩恵を受けることも可能であったかもしれない。
しかし益田の物語はまだ終わっていない。ハッピーエンドどころか、やっとスタートラインに辿り着いたところだった。20余年にわたる前書きを終えたばかりの彼には、毎日が激動過ぎて終わりどころか明日も見えない有様であった。金銀財宝に勝るとも劣らない男を目の前にして、自分などやはり脇役に過ぎないのだと益田は思う。
普段は思い出されることすらないその意識は、時折表層に浮上しては、益田を背景の一部に溶け込ませるような気持ちにさせる。例えば、中禅寺の憑物落としに立ち会った時などがそうだ。物語は彼らを中心にして一挙に収束し、ある一点の「終わり」へと駆け抜けて行く。それが幸福な終わりであろうとそうでなかろうと、多くは益田の人生に繋がるものでは無かったし、現に幾つもの「終わり」を見送りながら益田の物語は続いている。
物語は時に探偵小説であったり、時に馬鹿馬鹿しい喜劇であったが、時折どうしようもない悲劇に立たされる場合があった。云うなれば、秘書も寝静まった事務所の長椅子で、頬やら額やらに榎木津の無邪気な唇を受けている現在。
暖かく心地よいのは一瞬のことで、唇が離れるたびに皮膚は外気に触れ、触れる以前よりもはっきりと冷たさを憶える。それが益田にとっては悲劇だった。どのような形かなど知らないが、確実に迫る離別の時を想起させる。榎木津の気紛れが終わるのが先か、榎木津に触れるたびに暴走して制御が効かない感情によって益田が限界に達するのが先か。どちらにしても、砂時計の中身は確実に目減りしていっている。警察を辞めてまで頁を進めたのは他ならぬ益田自身なので、誰を恨む事も出来ない。
啄む合間に、榎木津がふと益田の瞳を覗き込む。暗がりの中、鳶色の瞳に自分の情けない顔が映っているのを見つけ、益田は前髪の陰に視線を隠した。
「びくびくするなよ」
「び、びくびくなんかしてませんよ。僕ぁもう榎木津さんの出鱈目な言動には慣れちゃいましたから」
榎木津にとって、益田の見え見えの虚勢には興味も無い。
ただ、黒い瞳が時折何処か遠くを彷徨うのが気に食わず、唇を瞼に落とした。やや乱暴な仕草に、尖った肩がびくつく。
目が開かない程度に微妙な距離をとって、榎木津は「マスヤマ」と呼んだ。
「今の事だって満足に視えていない癖に、先の事なんか視えるわけないじゃないか。バカだなぁ」
「見える見えないじゃないですよ。なんだって期待したらバカを見るのは世の常人の常です。僕ぁ未来に傷つかないように心の準備をしてるだけなんです」
ですからもう、焦らさないでください。
そう云うと益田は、榎木津の肩に縋る振りをして唇から離れた。怯える子供の所作そのものだ。
ならばと、榎木津は益田の頭を抱え込む。つまらない過去から引き離すように、望まぬ未来が彼を浚わぬように。
「口答えをした罰だ。神たる探偵に仕えたバカでオロカでカマな男は、幸せな人生を送ったと未来永劫語り継いでやる」
ぎゅうと抱き込んだ腕の中で「勘弁してくださいよう」と答えた声は、それでも僅かに希望を宿していた。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――
久しぶりなので短め…って最近いつも久しぶりなので申し訳ないです。
久々ついでに榎→益団の活動を。