良い買い物をした。
階段を踏みしめながら、益田はぶら下げた荷物に目をやる。あまり乱暴に振り回すと中身を壊してしまうかもしれない。けれど、浮かれずにはいられない。
白い紙袋の中には白い紙箱が入っていて、中には洋菓子が入っている。今日終えた仕事の依頼料で買ったものだ。
其の店にはいつも冗談のように長い列が出来ていて、益田は横目で見過ごすだけだった。けれど今日は天気も良く、暇潰しがてらそっと行列に加わってみたのである。まさか最後の一つが買えるとは思わなかった。自分の後ろに並んでいた人々からの不平の声と、羨望の視線を潜り抜け、益田は事務所のドアを開く。からんからん、というご機嫌な音。
誰も居ないかと思われたソファの陰から、栗色の髪がぴょこりと飛び上がった。
「あ、榎木津さん」
「ん」
午睡から覚めた榎木津は、ぺしゃりと潰れた柔らかな髪を手で掻き回している。まだ何処か寝ぼけているようだ。
まどろみを残した半開きの瞳がやがて益田を捉え、二、三度の瞬きの後、にいと笑った。
「気が利くじゃないか」
「え?」
「和寅も居ないし、起きててもしょうがないから寝てたんだけど」
「あ、和寅さん居ないんですか。なあんだ、紅茶煎れて欲しかったのになぁ」
「紅茶なんか腹の足しになるか。僕はお腹がぺこぺこなんだ」
流麗な指先が益田を、いや益田が携えている紙袋を指す。
「美味しそうなシュークリームじゃないか、なぁ益山」
榎木津の瞳が、鼠を狙う猫の如く細められたのを見て、益田は慌てて後ろ手に其れを隠した。
「こ、これは駄目ですよう。僕が労働報酬の一部で、身銭を切って買ったんですから」
「下僕のものは僕のものだ。僕が食べたいと云ったら下僕はハイどうぞと云って差し出せば良い!」
栗色の猫はすくりと立ち上がり、じりじりと益田に迫ってくる。
益田は後ずさりしたが、扉は自分で閉めてしまっていた。ドアノブが腰にぶつかり、カウベルが軽くからりと音を立てる。
益田がうっと思うのと同時に、榎木津の両腕が顔の横に突かれた。閉じ込められた格好だ。腰が引けて、僅かに屈伸した両足を探偵の膝が割る。これでは、へたり込む事も出来ない。鼻先がぶつかりそうなほどに顔を寄せられて、くらくらする。
「獲物」を捕らえた榎木津は、長い黒髪から少しばかり覗く耳殻に、吹き込むように囁いた。
「益山、それ頂戴」
吐息に揺れる髪が、触れ合った体がぞくぞくと震える。
取り落としそうになった紙袋を握る右手にまで、榎木津の指先が這わされた。
ここまでされて諦めない人間が居るのなら、益田はお目にかかりたい。そして、まんまと獲物を取り上げられない方法のひとつもご教授頂きたいところである。
■
空になった紙袋と紙箱を前に、益田は自分で淹れた紅茶を渋面で啜っていた。せめてもの慰めにと思ってやたらに砂糖を入れた所為で、喉に絡みつくような変な味がする。
対面に座っている榎木津は、機嫌良く銀紙を剥がしてその場に捨てた。香ばしく焼きあがった生地にふりかけられた粉糖は白く、やや黄味がかったクリームがちらりと見える様子は、人の手にあると余計旨そうに見える。
「いただきまーす」
榎木津は益田の方を見もせずに、シュークリームに齧り付いた。やや大きめの其れは一口では収まりきらず、受け止め切れなかった柔らかなクリームがだらりと垂れる。手の甲で榎木津が其れを拭うのを見上げながら、敬意も有難みも何も無い食べっぷりに益田は内心嘆息した。
「うん、うん、甘い」
「そりゃあそうでしょうよ、洋菓子なんですから…」
カップの底で溶け残った砂糖が切ない。益田が未練がましく銀匙で其れをかき混ぜていると、榎木津は残ったもう半分もぱくりと口に入れて、やや冷めた紅茶で一気に流し込んでしまった。実質二口だ。握り飯だってもうちょっと時間をかけて食べる。益田の視線を完全に無視したまま、榎木津は大きな欠伸をした。
「うーん、足りないぞ。やっぱりあんなもんじゃあ腹は膨れないね」
「贅沢云わんでくださいよ!僕が浮かばれないじゃないですか」
もはや涙目になっている益田の顔に、ふと榎木津の手が触れた。はっと目を瞬かせると、応接テーブルに乗り上げた榎木津がいる。頬をなぞる親指にざらりとした感触を感じ、彼の指に残った粉糖だとなんとなく理解した。
「甘い物のあとは、しょっぱいものが食べたい」
先程益田の荷物を狙った時と同じ瞳をしている。ただ対象が益田本人に変わっただけだ。
獲物の頬から手を放さずに、ティーセットを押し退けながら進んでくる捕食者に、益田の喉から引きつった悲鳴が漏れる。
「えのきづさ」
「ただいま戻りましたよ」
からからん、とドアベルが鳴った。
■
「僕ぁですね、ほんともう、今日ほど和寅さんに感謝したことは無いです」
「いつも感謝してくれよ。大の大人が2人も居て飯の用意も出来ないのかい」
和寅が作ってくれた茶漬けが臓腑に染み渡る。白飯の上にちょんと乗った刻み昆布の塩気が嬉しくて、益田はほっと胸をなでおろした。
目の前では、乱暴に箸と茶碗が打ち付けあう音が引っ切り無しに響いている。直ぐに空になった茶碗をずいと突き出す榎木津の眉はぎゅっと寄せられていた。
「おかわり!」
「もう3杯目ですぜ先生、そんなにお腹空いてたんですか、悪い事をしましたなあ」
「良かったですね榎木津さん、しょっぱいもの作ってもらって…」
鳶色の瞳に睨まれて、益田は言葉を止めた。
3杯目の茶漬けを掻き込みながらも榎木津の視線がずっと自分を射ているのが恐ろしい。
狩りの邪魔をされた動物がどんな行動に出るのか益田は知らなかったので、逃げるべきか逃げないべきかも解らぬままに、僅かにこびり付いていた粉糖をそっと拭った。
――――
あははははは…あーあ…。
「意味もなくエロい」榎木津に挑戦しましたが、本当に何の意味もありませんでした。
階段を踏みしめながら、益田はぶら下げた荷物に目をやる。あまり乱暴に振り回すと中身を壊してしまうかもしれない。けれど、浮かれずにはいられない。
白い紙袋の中には白い紙箱が入っていて、中には洋菓子が入っている。今日終えた仕事の依頼料で買ったものだ。
其の店にはいつも冗談のように長い列が出来ていて、益田は横目で見過ごすだけだった。けれど今日は天気も良く、暇潰しがてらそっと行列に加わってみたのである。まさか最後の一つが買えるとは思わなかった。自分の後ろに並んでいた人々からの不平の声と、羨望の視線を潜り抜け、益田は事務所のドアを開く。からんからん、というご機嫌な音。
誰も居ないかと思われたソファの陰から、栗色の髪がぴょこりと飛び上がった。
「あ、榎木津さん」
「ん」
午睡から覚めた榎木津は、ぺしゃりと潰れた柔らかな髪を手で掻き回している。まだ何処か寝ぼけているようだ。
まどろみを残した半開きの瞳がやがて益田を捉え、二、三度の瞬きの後、にいと笑った。
「気が利くじゃないか」
「え?」
「和寅も居ないし、起きててもしょうがないから寝てたんだけど」
「あ、和寅さん居ないんですか。なあんだ、紅茶煎れて欲しかったのになぁ」
「紅茶なんか腹の足しになるか。僕はお腹がぺこぺこなんだ」
流麗な指先が益田を、いや益田が携えている紙袋を指す。
「美味しそうなシュークリームじゃないか、なぁ益山」
榎木津の瞳が、鼠を狙う猫の如く細められたのを見て、益田は慌てて後ろ手に其れを隠した。
「こ、これは駄目ですよう。僕が労働報酬の一部で、身銭を切って買ったんですから」
「下僕のものは僕のものだ。僕が食べたいと云ったら下僕はハイどうぞと云って差し出せば良い!」
栗色の猫はすくりと立ち上がり、じりじりと益田に迫ってくる。
益田は後ずさりしたが、扉は自分で閉めてしまっていた。ドアノブが腰にぶつかり、カウベルが軽くからりと音を立てる。
益田がうっと思うのと同時に、榎木津の両腕が顔の横に突かれた。閉じ込められた格好だ。腰が引けて、僅かに屈伸した両足を探偵の膝が割る。これでは、へたり込む事も出来ない。鼻先がぶつかりそうなほどに顔を寄せられて、くらくらする。
「獲物」を捕らえた榎木津は、長い黒髪から少しばかり覗く耳殻に、吹き込むように囁いた。
「益山、それ頂戴」
吐息に揺れる髪が、触れ合った体がぞくぞくと震える。
取り落としそうになった紙袋を握る右手にまで、榎木津の指先が這わされた。
ここまでされて諦めない人間が居るのなら、益田はお目にかかりたい。そして、まんまと獲物を取り上げられない方法のひとつもご教授頂きたいところである。
■
空になった紙袋と紙箱を前に、益田は自分で淹れた紅茶を渋面で啜っていた。せめてもの慰めにと思ってやたらに砂糖を入れた所為で、喉に絡みつくような変な味がする。
対面に座っている榎木津は、機嫌良く銀紙を剥がしてその場に捨てた。香ばしく焼きあがった生地にふりかけられた粉糖は白く、やや黄味がかったクリームがちらりと見える様子は、人の手にあると余計旨そうに見える。
「いただきまーす」
榎木津は益田の方を見もせずに、シュークリームに齧り付いた。やや大きめの其れは一口では収まりきらず、受け止め切れなかった柔らかなクリームがだらりと垂れる。手の甲で榎木津が其れを拭うのを見上げながら、敬意も有難みも何も無い食べっぷりに益田は内心嘆息した。
「うん、うん、甘い」
「そりゃあそうでしょうよ、洋菓子なんですから…」
カップの底で溶け残った砂糖が切ない。益田が未練がましく銀匙で其れをかき混ぜていると、榎木津は残ったもう半分もぱくりと口に入れて、やや冷めた紅茶で一気に流し込んでしまった。実質二口だ。握り飯だってもうちょっと時間をかけて食べる。益田の視線を完全に無視したまま、榎木津は大きな欠伸をした。
「うーん、足りないぞ。やっぱりあんなもんじゃあ腹は膨れないね」
「贅沢云わんでくださいよ!僕が浮かばれないじゃないですか」
もはや涙目になっている益田の顔に、ふと榎木津の手が触れた。はっと目を瞬かせると、応接テーブルに乗り上げた榎木津がいる。頬をなぞる親指にざらりとした感触を感じ、彼の指に残った粉糖だとなんとなく理解した。
「甘い物のあとは、しょっぱいものが食べたい」
先程益田の荷物を狙った時と同じ瞳をしている。ただ対象が益田本人に変わっただけだ。
獲物の頬から手を放さずに、ティーセットを押し退けながら進んでくる捕食者に、益田の喉から引きつった悲鳴が漏れる。
「えのきづさ」
「ただいま戻りましたよ」
からからん、とドアベルが鳴った。
■
「僕ぁですね、ほんともう、今日ほど和寅さんに感謝したことは無いです」
「いつも感謝してくれよ。大の大人が2人も居て飯の用意も出来ないのかい」
和寅が作ってくれた茶漬けが臓腑に染み渡る。白飯の上にちょんと乗った刻み昆布の塩気が嬉しくて、益田はほっと胸をなでおろした。
目の前では、乱暴に箸と茶碗が打ち付けあう音が引っ切り無しに響いている。直ぐに空になった茶碗をずいと突き出す榎木津の眉はぎゅっと寄せられていた。
「おかわり!」
「もう3杯目ですぜ先生、そんなにお腹空いてたんですか、悪い事をしましたなあ」
「良かったですね榎木津さん、しょっぱいもの作ってもらって…」
鳶色の瞳に睨まれて、益田は言葉を止めた。
3杯目の茶漬けを掻き込みながらも榎木津の視線がずっと自分を射ているのが恐ろしい。
狩りの邪魔をされた動物がどんな行動に出るのか益田は知らなかったので、逃げるべきか逃げないべきかも解らぬままに、僅かにこびり付いていた粉糖をそっと拭った。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
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あははははは…あーあ…。
「意味もなくエロい」榎木津に挑戦しましたが、本当に何の意味もありませんでした。
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