男か女か良く解らないやつがいるなぁと思っていたのだ。
夜の街に生きる者らしく不自然に白い腕が闇の中から伸びてきて自分の腕を捕らえたかと思えば、色に濁った熱っぽい声で「もう帰っちゃうの?」と囁かれた。もう片方の掌は、何故か尻に添えられている。
其れだけで、気づけば榎木津はその男を殴っていた。蹴ったかもしれないし、或いは両方やったかもしれない。過程はともかく、実際に少年めいた体は軽々と吹っ飛んで、派手な音を立てて飲み屋の看板を薙ぎ倒した。きゃああ、と甲高い悲鳴がネオン街にこだまする。
「…あーあー、やっちゃったよエヅ公」
「五月蝿いっ!あー吃驚した、すごぉく吃驚した!」
いやに耳に絡む粘性の声も、熱の篭った吐息も、男であるのに妙に白粉臭いのも、我慢ならなかった。
その陰間の顔はもう忘れてしまったが、あからさまに邪な期待を込めた誘い文句と、司がげらげら笑っていた事は憶えている。
そんな事もあってか、榎木津は今に至ってもカマが嫌いだ。本人は決して認めないが、トラウマと云っても良いかも知れなかった。
幾らか伸びた陽もいつしか沈み、夜空に丸い月がぽかりと浮かんでいる。
榎木津は珍しく益田を伴って出かけていた。伴って、と云うよりは引き摺って、と云ったほうが大分正しい。朝から京極堂やら関口邸、果ては赤井書房まで用も無く冷やかしに回った。我ながらあちこち行き倒したものだ。
「お腹空いたなぁ」
「お腹空いたどころか喉もカラカラですし、はぁ、僕ぁもう限界です」
乗馬鞭を揺らしながら、ふらふらとした足取りで益田が付いてくる。ようやっと、と云った風情。彼の動きはいつだって妙に芝居がかっていて真剣味に欠けるので、榎木津としても本気で益田が一歩も歩けないなどと思っている訳では無い。けれどもうこれ以上行く場所が無いのも事実だ。丁度目の前に駅も見えている。榎木津はひとつ伸びをした。
「さーて、帰るか」
「えっ」
益田がふと見上げてきたのを感じ、榎木津もつられて、首だけで振り向く。黒い瞳が、僅かに所在なげにゆらめいた。
「もう帰っちゃうんですか?」
(―――もう帰っちゃうの?)
視られない筈の自分の記憶と、目の前に立つ益田の輪郭が僅かに被ったような気がした。異物を追い出すかのようにぱちぱちとしきりに瞼を開閉する榎木津を、薄く口を開けたままの益田が見ている。
「榎木津さん?」
「ん、なんでもない。それより」
踵を軸に、ぐるりと体ごと翻る。背にした駅舎から、神保町に帰る為の電車が出て行った。
「まだ夜はこれからだぞマスカマ、先ずはご飯を食べるのだ!うははは、それから何処に行こうかな!」
「えええ、まだ何処か行くんですか!」
大股で先を行く榎木津の背を追って、下僕の足音が続く。吹き降ろされる夜風が髪を弄り、耳元を擽った。
「吃驚したなぁ、すごぉく吃驚したゾッ」
「吃驚するのはこっちですよもう」
榎木津は未だにカマが嫌いだ。
同じ夜、同じ言葉。違うものは、果たして何か?
――――
榎益は欲目カプだということなので、欲目全開で。
そう云えばなんとなく司初出でした。
夜の街に生きる者らしく不自然に白い腕が闇の中から伸びてきて自分の腕を捕らえたかと思えば、色に濁った熱っぽい声で「もう帰っちゃうの?」と囁かれた。もう片方の掌は、何故か尻に添えられている。
其れだけで、気づけば榎木津はその男を殴っていた。蹴ったかもしれないし、或いは両方やったかもしれない。過程はともかく、実際に少年めいた体は軽々と吹っ飛んで、派手な音を立てて飲み屋の看板を薙ぎ倒した。きゃああ、と甲高い悲鳴がネオン街にこだまする。
「…あーあー、やっちゃったよエヅ公」
「五月蝿いっ!あー吃驚した、すごぉく吃驚した!」
いやに耳に絡む粘性の声も、熱の篭った吐息も、男であるのに妙に白粉臭いのも、我慢ならなかった。
その陰間の顔はもう忘れてしまったが、あからさまに邪な期待を込めた誘い文句と、司がげらげら笑っていた事は憶えている。
そんな事もあってか、榎木津は今に至ってもカマが嫌いだ。本人は決して認めないが、トラウマと云っても良いかも知れなかった。
幾らか伸びた陽もいつしか沈み、夜空に丸い月がぽかりと浮かんでいる。
榎木津は珍しく益田を伴って出かけていた。伴って、と云うよりは引き摺って、と云ったほうが大分正しい。朝から京極堂やら関口邸、果ては赤井書房まで用も無く冷やかしに回った。我ながらあちこち行き倒したものだ。
「お腹空いたなぁ」
「お腹空いたどころか喉もカラカラですし、はぁ、僕ぁもう限界です」
乗馬鞭を揺らしながら、ふらふらとした足取りで益田が付いてくる。ようやっと、と云った風情。彼の動きはいつだって妙に芝居がかっていて真剣味に欠けるので、榎木津としても本気で益田が一歩も歩けないなどと思っている訳では無い。けれどもうこれ以上行く場所が無いのも事実だ。丁度目の前に駅も見えている。榎木津はひとつ伸びをした。
「さーて、帰るか」
「えっ」
益田がふと見上げてきたのを感じ、榎木津もつられて、首だけで振り向く。黒い瞳が、僅かに所在なげにゆらめいた。
「もう帰っちゃうんですか?」
(―――もう帰っちゃうの?)
視られない筈の自分の記憶と、目の前に立つ益田の輪郭が僅かに被ったような気がした。異物を追い出すかのようにぱちぱちとしきりに瞼を開閉する榎木津を、薄く口を開けたままの益田が見ている。
「榎木津さん?」
「ん、なんでもない。それより」
踵を軸に、ぐるりと体ごと翻る。背にした駅舎から、神保町に帰る為の電車が出て行った。
「まだ夜はこれからだぞマスカマ、先ずはご飯を食べるのだ!うははは、それから何処に行こうかな!」
「えええ、まだ何処か行くんですか!」
大股で先を行く榎木津の背を追って、下僕の足音が続く。吹き降ろされる夜風が髪を弄り、耳元を擽った。
「吃驚したなぁ、すごぉく吃驚したゾッ」
「吃驚するのはこっちですよもう」
榎木津は未だにカマが嫌いだ。
同じ夜、同じ言葉。違うものは、果たして何か?
お題提供:『BALDWIN』様
――――
榎益は欲目カプだということなので、欲目全開で。
そう云えばなんとなく司初出でした。
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五感の全てを疑った。
こんな街中で、焼け焦げるような匂いに噎せそうになるなんて、絶対に信じられない。
見慣れたビルヂングの窓から、もうもうと立ち昇る白い煙。
あまりの光景に取り落とした買い物袋からは、玉葱がころころと転げ出ている。
口の中がカラカラに乾いて、声も出ない。
益田と同じ衝撃を受けているだろう和寅が、無理やりに搾り出した声でこう告げた。
「―――先生が、まだ中に」
益田と和寅を取り囲む雑踏はただ一点を見上げており、その中にはテーラーの主人や、2階のテナントで幾度か見掛けた店子も居た。
同じ建物の中で違った生活をしていた人々が、こんな形でひとところに集まる事になろうとは。だからと云って、どうもとんだ事でなどと挨拶を交わす気にもならない。彼らは、呆然と佇む男2人が煙を吐き出すフロアの従業員である事を知っているらしく、不安げな視線を向けてきた。つい目を伏せる。
2階から下の窓は相変わらず青い空を映していて、それが逆に階上の異常事態を強調している。階下に火は回っていないようだったが、あの煙の勢いでは時間の問題であるように思えた。誰が持ってきたのか、水の入ったバケツが幾つも並べられているが、手をつけられた様子は無い。
酷い煙だ―――消防はまだか―――中に人が居るって―――あれではきっと助かるまい―――人波に紛れて、益田は聞きたくもない声ばかりを聞く。和寅の耳にも其れは届いてしまったようで、耳を塞ぐ姿が痛々しかった。
僅かに留守にしただけだったのに。榎木津の寝顔を、確かめる事すらせずに。
買い物袋の中には、彼に食べさせたいものばかりが詰まっていた。
「……おい、今誰か居たぞ!」
はっとして、白煙の向こうに目をこらす。確かに、ちらりと人影のようなものが揺れた。
和寅が声を上げる。
「先生!」
群集も口々に叫んだ。
生きてるのか。大丈夫か。飛び降りろ。3階だぞ。そこを動くな。てんでバラバラの声は悲鳴と混ざって雑音と化す。音の波に包まれながら、ただ窓辺を見上げる益田の頭は妙に冴えていた。
仕事から戻った益田を近所中に響く声で怒鳴りつけたり、子どものように大きく手を振っていた姿を思い出す。
「―――益田君何処へ行くんだ!先生ならきっと大丈夫だから、消防が来るまで」
「榎木津さんを、迎えに行ってきます」
バケツの一つを引っ繰り返し、頭から勢い良く水を浴びた。濡れた全身に触れた風があまりに冷たかったが、構っていられない。どうせ直ぐに熱くなる。
貼りついた前髪を振り払うと、益田は暗い階段を駆け登った。
階段に火の手は無かったが、探偵社へ続く踊り場で流石に一旦足が止まった。雲の如く厚い白煙に覆われて、金のドアノブも擦り硝子も見えない。幾度と無く行き来した階段が、死へと述べられた道のようだ。
「こんな煙…榎木津さんは」
一瞬脳裏を過ぎった最悪のイメージを振り払い、階段を駆け上がる。不思議と熱さは感じなかった。ぶつかるように扉を開け、転がり込んだ事務所の中は、一面煙と嫌な匂いが充満している。強い刺激で気管が言う事を聞かず、益田は咳き込んだ。目を開けていられない程だ。だが目を閉じる訳には行かないのだ。
「ゲホッ…榎木津さん!」
がむしゃらに腕を振り回して、煙を払う。一瞬切れた視界の向こうに、栗色の髪が見えた。白い世界の中に浮かび上がる影を、必死に追いかける。
辿り着いたのは探偵机の前で、鳶色の瞳を丸くした榎木津がしゃがみこんでいた。ほっとする以前に、益田の頭を占めたのは焦りだった。榎木津の周囲は煙が一際濃かったのだ。炎が直ぐ近くに迫っているに違いない―――びしょ濡れの額に、さらに冷や汗が伝う。
「益、」
考えている暇は無い。
何か言いかけた榎木津の頭から、益田はバケツの水を浴びせかけた。
「うわっ」
榎木津の声に混じって、じゅうう、と長い音が響いた。何かが燃え尽きるような音。空になったバケツをかなぐり捨てて、益田が榎木津の手を引く。
「なんだ今の音、火、消えたのかな…いやでも、安心出来ないぞ。榎木津さん、直ぐに逃げ」
次いで事務所内に鳴り渡ったのは、意外にも派手な打音であった。益田が握っていないほうの手で、榎木津が彼の頬を打ち据えた音。
「なにをするんだ、バカオロカ!」
「なにをするんだって…あっこの手ですか、照れてる時じゃないでしょう!さぁ早く」
益田が言い切る前に、返す手の甲がもう片方の頬を張る。
事態が飲み込めず、じんじんと痛む頬を押さえて呆然としている益田の目の前で、榎木津が吼えた。
「夕食のおかずが台無しじゃないかぁ!」
急速に薄れていく煙の中から、ゆっくりと、事の元凶―――水浸しの七輪が姿を現した。
今やしんと静まり返ったフロア内には、2人から落ちる水滴がぽつぽつと床を打つ音ばかりがしている。
「―――え、榎木津さん、魚焼いてて火事出しちゃったんですか」
「火事になんかなるものか!」
「ですけど、凄い煙が外にまで…ビルヂングの人も避難して、近所中が見物に」
「凄い煙が出たから窓全部開けて焼いてたのに、だぁれも気づかなかったのか。皆そろってバカオロカじゃないか!」
濡れた髪を振り乱しながら、榎木津が「火元」を示す。3人分の焼き魚は大量の水に洗われて、何の魚かも解らない。水溜りの中でくすぶる七輪は、京極堂の庭で見た事がある気がする。益田の実家でも七輪は使っていたが、これは水で濡らすと灰が詰まってしまって掃除が大変面倒なのだ。ましてこの七輪は土製だ。熱くなっている所に思い切り水を浴びせたのだ、最悪割れてしまったかもしれない。
持ち主の地獄の釜を開けてしまったような仏頂面と、先程までの必死な自分が交互に現れては消え、青くなったり赤くなったりしている益田の耳に、近づいてくるサイレンの音が聞こえてきた。
「…あぁあ!消防!ど、どうするんですか榎木津さん!きっと凄く怒られますよ!」
「消防より僕に怒られる心配をしたらどうだ、オロカ者!」
握ったままの手を引かれる。煙に燻されたソファに投げ出され、益田は目を瞬かせた。逃げていった煙の向こうに、暮れかけた空が見える。
「何が榎木津さぁん、だ。僕が死ぬわけないじゃないか」
室内に未だ残る焼け焦げた匂いをかき消すように榎木津の吐息が吹き込まれ、煙を浴びた時よりももっともっと泣けた。
これはお題がもったいない!!
最近益田の乙女が過ぎるので男を見せて欲しかったんです、と意味不明の供述を続けています。
こんな街中で、焼け焦げるような匂いに噎せそうになるなんて、絶対に信じられない。
見慣れたビルヂングの窓から、もうもうと立ち昇る白い煙。
あまりの光景に取り落とした買い物袋からは、玉葱がころころと転げ出ている。
口の中がカラカラに乾いて、声も出ない。
益田と同じ衝撃を受けているだろう和寅が、無理やりに搾り出した声でこう告げた。
「―――先生が、まだ中に」
益田と和寅を取り囲む雑踏はただ一点を見上げており、その中にはテーラーの主人や、2階のテナントで幾度か見掛けた店子も居た。
同じ建物の中で違った生活をしていた人々が、こんな形でひとところに集まる事になろうとは。だからと云って、どうもとんだ事でなどと挨拶を交わす気にもならない。彼らは、呆然と佇む男2人が煙を吐き出すフロアの従業員である事を知っているらしく、不安げな視線を向けてきた。つい目を伏せる。
2階から下の窓は相変わらず青い空を映していて、それが逆に階上の異常事態を強調している。階下に火は回っていないようだったが、あの煙の勢いでは時間の問題であるように思えた。誰が持ってきたのか、水の入ったバケツが幾つも並べられているが、手をつけられた様子は無い。
酷い煙だ―――消防はまだか―――中に人が居るって―――あれではきっと助かるまい―――人波に紛れて、益田は聞きたくもない声ばかりを聞く。和寅の耳にも其れは届いてしまったようで、耳を塞ぐ姿が痛々しかった。
僅かに留守にしただけだったのに。榎木津の寝顔を、確かめる事すらせずに。
買い物袋の中には、彼に食べさせたいものばかりが詰まっていた。
「……おい、今誰か居たぞ!」
はっとして、白煙の向こうに目をこらす。確かに、ちらりと人影のようなものが揺れた。
和寅が声を上げる。
「先生!」
群集も口々に叫んだ。
生きてるのか。大丈夫か。飛び降りろ。3階だぞ。そこを動くな。てんでバラバラの声は悲鳴と混ざって雑音と化す。音の波に包まれながら、ただ窓辺を見上げる益田の頭は妙に冴えていた。
仕事から戻った益田を近所中に響く声で怒鳴りつけたり、子どものように大きく手を振っていた姿を思い出す。
「―――益田君何処へ行くんだ!先生ならきっと大丈夫だから、消防が来るまで」
「榎木津さんを、迎えに行ってきます」
バケツの一つを引っ繰り返し、頭から勢い良く水を浴びた。濡れた全身に触れた風があまりに冷たかったが、構っていられない。どうせ直ぐに熱くなる。
貼りついた前髪を振り払うと、益田は暗い階段を駆け登った。
階段に火の手は無かったが、探偵社へ続く踊り場で流石に一旦足が止まった。雲の如く厚い白煙に覆われて、金のドアノブも擦り硝子も見えない。幾度と無く行き来した階段が、死へと述べられた道のようだ。
「こんな煙…榎木津さんは」
一瞬脳裏を過ぎった最悪のイメージを振り払い、階段を駆け上がる。不思議と熱さは感じなかった。ぶつかるように扉を開け、転がり込んだ事務所の中は、一面煙と嫌な匂いが充満している。強い刺激で気管が言う事を聞かず、益田は咳き込んだ。目を開けていられない程だ。だが目を閉じる訳には行かないのだ。
「ゲホッ…榎木津さん!」
がむしゃらに腕を振り回して、煙を払う。一瞬切れた視界の向こうに、栗色の髪が見えた。白い世界の中に浮かび上がる影を、必死に追いかける。
辿り着いたのは探偵机の前で、鳶色の瞳を丸くした榎木津がしゃがみこんでいた。ほっとする以前に、益田の頭を占めたのは焦りだった。榎木津の周囲は煙が一際濃かったのだ。炎が直ぐ近くに迫っているに違いない―――びしょ濡れの額に、さらに冷や汗が伝う。
「益、」
考えている暇は無い。
何か言いかけた榎木津の頭から、益田はバケツの水を浴びせかけた。
「うわっ」
榎木津の声に混じって、じゅうう、と長い音が響いた。何かが燃え尽きるような音。空になったバケツをかなぐり捨てて、益田が榎木津の手を引く。
「なんだ今の音、火、消えたのかな…いやでも、安心出来ないぞ。榎木津さん、直ぐに逃げ」
次いで事務所内に鳴り渡ったのは、意外にも派手な打音であった。益田が握っていないほうの手で、榎木津が彼の頬を打ち据えた音。
「なにをするんだ、バカオロカ!」
「なにをするんだって…あっこの手ですか、照れてる時じゃないでしょう!さぁ早く」
益田が言い切る前に、返す手の甲がもう片方の頬を張る。
事態が飲み込めず、じんじんと痛む頬を押さえて呆然としている益田の目の前で、榎木津が吼えた。
「夕食のおかずが台無しじゃないかぁ!」
急速に薄れていく煙の中から、ゆっくりと、事の元凶―――水浸しの七輪が姿を現した。
今やしんと静まり返ったフロア内には、2人から落ちる水滴がぽつぽつと床を打つ音ばかりがしている。
「―――え、榎木津さん、魚焼いてて火事出しちゃったんですか」
「火事になんかなるものか!」
「ですけど、凄い煙が外にまで…ビルヂングの人も避難して、近所中が見物に」
「凄い煙が出たから窓全部開けて焼いてたのに、だぁれも気づかなかったのか。皆そろってバカオロカじゃないか!」
濡れた髪を振り乱しながら、榎木津が「火元」を示す。3人分の焼き魚は大量の水に洗われて、何の魚かも解らない。水溜りの中でくすぶる七輪は、京極堂の庭で見た事がある気がする。益田の実家でも七輪は使っていたが、これは水で濡らすと灰が詰まってしまって掃除が大変面倒なのだ。ましてこの七輪は土製だ。熱くなっている所に思い切り水を浴びせたのだ、最悪割れてしまったかもしれない。
持ち主の地獄の釜を開けてしまったような仏頂面と、先程までの必死な自分が交互に現れては消え、青くなったり赤くなったりしている益田の耳に、近づいてくるサイレンの音が聞こえてきた。
「…あぁあ!消防!ど、どうするんですか榎木津さん!きっと凄く怒られますよ!」
「消防より僕に怒られる心配をしたらどうだ、オロカ者!」
握ったままの手を引かれる。煙に燻されたソファに投げ出され、益田は目を瞬かせた。逃げていった煙の向こうに、暮れかけた空が見える。
「何が榎木津さぁん、だ。僕が死ぬわけないじゃないか」
室内に未だ残る焼け焦げた匂いをかき消すように榎木津の吐息が吹き込まれ、煙を浴びた時よりももっともっと泣けた。
お題提供:『BALDWIN』様
――――これはお題がもったいない!!
最近益田の乙女が過ぎるので男を見せて欲しかったんです、と意味不明の供述を続けています。
「逃げないな」
痩せた体躯を寝台に縫い止めたまま、榎木津がぽつりと呟いた。
掴んだ両の手首も、未だ自由な両足も、じっと動かない。俎上の鯉とは云うが、これでは死んだ魚も同然だ。
鱗のような鈍い光を宿した瞳が揺れる。
「逃げたって、どうもならないでしょうに…」
ふっと伏せられた視線を追って、榎木津は鼻を鳴らす。逃げてみたことも無い癖に。
生意気だ、と呟いて、襟元から伸びる生白い首に歯を立てた。ようやく益田の体が弾み、僅かに気を良くする。とは言え、無抵抗を気取っている態度が気に食わない。かっちり着込んだベストや肩口で袖を止めているバンドは無視し、いきなりズボンを引き抜いた。曲線に乏しい、云ってしまえば棒切れの様な両脚が顕わになる。足の甲に浮き出た骨はいかにも細く、榎木津がその気になれば容易く砕いてしまえそうだった。けれどそうする必要も無い程に、下僕は薙いだシーツの波に伸びたままだ。
よくもこんな脚で此処まで来られたものだと思う。
2本の脚の他にも、彼を支えている軸が何処かにきっとある筈なのに。
ほぼ失った視界の代わりに、良く視えるようになった記憶野の世界を覗き込む。こんなものでは視えはしないのだと、薄々気づいてはいたけれど。
(僕が居るな)
雪原に立つ、栗色の髪。
手を伸ばせば触れられそうな程近くに視える世界に飛び込んで、新雪を踏み荒らしてしまいたい。衝動は叫びとなって、益田目掛けて降り注いだ。
「僕は此処に居るじゃないか!」
伏せられた黒い睫が、何かを言いたげに震えている。
あまりにもささやかなサインは、榎木津の目に届く事は無い。
足をください。
此処を離れて、全て置いて、あの人の処へ行く為の足をください。
足をあげよう。
近づく度に、刃を踏み締める程痛む足をあげよう。
自分の立場を、物語の結末を、決して忘れてしまわぬように。
その代わり―――お前の声を貰うよ。
折角ロマンチックなお題なので、最後くらいは…と思ったんですが…
間違った方向に自分を律する益田が好きです。
痩せた体躯を寝台に縫い止めたまま、榎木津がぽつりと呟いた。
掴んだ両の手首も、未だ自由な両足も、じっと動かない。俎上の鯉とは云うが、これでは死んだ魚も同然だ。
鱗のような鈍い光を宿した瞳が揺れる。
「逃げたって、どうもならないでしょうに…」
ふっと伏せられた視線を追って、榎木津は鼻を鳴らす。逃げてみたことも無い癖に。
生意気だ、と呟いて、襟元から伸びる生白い首に歯を立てた。ようやく益田の体が弾み、僅かに気を良くする。とは言え、無抵抗を気取っている態度が気に食わない。かっちり着込んだベストや肩口で袖を止めているバンドは無視し、いきなりズボンを引き抜いた。曲線に乏しい、云ってしまえば棒切れの様な両脚が顕わになる。足の甲に浮き出た骨はいかにも細く、榎木津がその気になれば容易く砕いてしまえそうだった。けれどそうする必要も無い程に、下僕は薙いだシーツの波に伸びたままだ。
よくもこんな脚で此処まで来られたものだと思う。
2本の脚の他にも、彼を支えている軸が何処かにきっとある筈なのに。
ほぼ失った視界の代わりに、良く視えるようになった記憶野の世界を覗き込む。こんなものでは視えはしないのだと、薄々気づいてはいたけれど。
(僕が居るな)
雪原に立つ、栗色の髪。
手を伸ばせば触れられそうな程近くに視える世界に飛び込んで、新雪を踏み荒らしてしまいたい。衝動は叫びとなって、益田目掛けて降り注いだ。
「僕は此処に居るじゃないか!」
伏せられた黒い睫が、何かを言いたげに震えている。
あまりにもささやかなサインは、榎木津の目に届く事は無い。
足をください。
此処を離れて、全て置いて、あの人の処へ行く為の足をください。
足をあげよう。
近づく度に、刃を踏み締める程痛む足をあげよう。
自分の立場を、物語の結末を、決して忘れてしまわぬように。
その代わり―――お前の声を貰うよ。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――折角ロマンチックなお題なので、最後くらいは…と思ったんですが…
間違った方向に自分を律する益田が好きです。
連日の雨の後は、うだるような暑さが待っていた。
本格的な夏の前に訪れた暑さは、湿気が腕や顔に絡むようで気分が悪い。纏わりつく不快感ごと、青木は剥き出しの腕で顔を拭った。後から後から湧き出す汗で張り付いた髪が滑る。
なにぶん急な気温の変化で、彼の職場である署内も対応しきれていない。扇風機は倉庫の奥深くだ。警官らが老いも若きも寿司詰め状態で、どこもかしこも蒸し風呂の如きである。服を着ないでいい分だけ、蒸し風呂の方がまだ爽やかだとも云える。ぐったりとした男どもの中で、立ち上がって吠えたのは木場だった。汗みずくの腕が、小銭の入った財布を投げつけてくる。
「青木!お前ちょっと出て、なんか冷たいもん買ってこい!」
―――そんな訳で、現在青木は太陽を避けつつ商店の軒下を覗き込んで歩いている。
冷たいもの、と云われても選択の幅は広い。かちわりの氷を入れたコーヒー、駄菓子屋の軒先できらきらと輝く瓶入りのラムネ。氷水の中にぷかぷか浮かぶわらび餅。アイスクリームなど買って帰ったら「餓鬼の使いか」と怒られるだろうか。いや、ああ見えて彼は喜んで食べてくれるかもしれない。
「あっ青木さんだ!青木さーん!」
何処かから名を呼ぶ声がして、俯き加減だった青木は顔を上げる。並木の下に落ちた濃い影の中で、ぶんぶんと手を振るシルエット。もう嫌な予感しかしなかったが、見てしまった以上無視するわけにもいかない。立ち上がった影法師に近寄れば、其れは八重歯を剥き出しにしてけけけと笑った。
「青木さんがサボタージュなんて珍しいですねぇ」
「決め付けてくれるなよ。僕のはおつかい。益田君こそこんな所で何してるんだい」
「良くぞ聞いてくれましたっ!」
木陰の中でも解るほど、黒い瞳が輝いている。前髪が汗でやや湿っているせいか、いつもより顔がよく見えた。
「僕はこれから榎木津さんと、氷を食べるんですよ!」
「へぇ、そうなんだ。氷も良いな、有難う参考にするよ。じゃあ」
「待ってくださいよう!」
ネクタイをがしりと掴まれて、青木はやれやれと項垂れた。嫌な予感というのは当たるものだ。
「榎木津さんが「暑いから氷が食べたい、氷イチゴだっ!」って仰ってですね、でも僕ぁ依頼人と約束があったので先に出なきゃいけなかったんです。そしたら榎木津さん、なんて仰ったと思います?」
「さあ…」
「僕も後から行くから、氷屋の前で待っていなさい!ですって!この暑いのに外で待たせるなんて、しょうがないお人ですよねほんとに!」
口ぶりの割に上機嫌な益田にネクタイを揺さぶられて、青木の首がぐらぐらと揺れる。この暑さでのぼせあがっているとしか思えない浮かれようだ。どうにか益田の手からネクタイを奪い取る。ただでさえ湿っていたのにぎゅうと握り締められて形が崩れてしまった。
そんな事には全く構わず、益田は夢見るような表情で遠くを見ている。
「待ち合わせして氷菓子ですよ…デートみたいじゃないですか、ねぇ」
なにぶん浮かれているので、炎天下の待ちぼうけにも全く堪えていないと見える。女学生でもしないようなポーズではしゃぐ益田を呆然と見つめていた青木だが、ふと肩口に揺れるものを見つけた。益田が跳ねるたびに、其れもゆらゆらと揺れる。
「益田君、何かついてるよ」
軽く引っ張ってみたが、取れない。よく見れば、益田のシャツの襟刳りから飛び出した木綿糸だった。縫い目がほつれてしまったらしい。
益田も気づいて引っ張ってはみたが、縫い目が引き攣れるばかりで全く切れる様子が無い。それどころか、ますます解けて長く伸びているようだった。
「もう触らない方が良いよ、切った方が良い」
「こういうのって一回気にすると気になっちゃうんですよねぇ。こんなに伸びちゃって参ったなぁ。青木さん何とかしてくださいよう」
「何で僕が何とかしなきゃいけないんだよ、糸切り鋏なんて持ってないよ?」
「青木さんが教えてくれたんじゃないですか、これから榎木津さんと会うのに、こんな状態で恥ずかしいですっ」
ふざけているのか、本気なのか。どちらにしても、青木を軽い苛立ちが襲った。只でさえ暑いのに、暑苦しい小ネタを挟まないで欲しい。
ともかく季節外れの熱は青木の頭をも逆上せさせたようで、気づけば益田の襟首を掴み上げていた。目をぱちくりさせている益田を、じとりと睨みつける。
「じっとして」
襟元に顔を寄せると、汗の匂いと、僅かに洗濯石鹸の香りがした。
青木は木綿糸を口に含み、きりと歯を立てる。犬歯に挟んだ白糸はあっけなく切れ、唖然としている益田の目の前で、舌の上に残った糸の端を出してやった。
「はい、切れた」
「あ、ど、どうも」
乱暴に手を放せば、益田がふらふらと地に立った。千切れた糸を捨てれば、直ぐに日光に紛れて見えなくなる。影の角度が少し変わったのを感じ、青木は本来の目的を思い出した。茹で蛸になった先輩が、彼の帰りを待っているのだ。
軽くでも別れを告げようと益田に目をやると、ふと違和感を憶える。まだ日は高く、依然として青木の背を汗が流れて行くというのに、益田の顔は何故か蒼白だ。凍りついたその視線は、青木の肩越しに集中している。
「益田君?」
「え、え、え、榎木津さん……?」
青木が振り向くと、ぎらぎらと照りつける太陽光線をものともせずに、仁王立ちしている榎木津が居た。眩しい日光にもひるまぬ美貌は、不機嫌を通り越して明らかに怒りに満ちている。
「待っててやったのに、コケシ君と遊んでいたのか!」
「いや、その、違いますよ。青木さんとはここで偶然会って、ねぇ青木さん」
「え、あ」
眉をぎゅっと寄せた榎木津としどろもどろの益田に挟まれて、青木は狼狽する。どう云ったものか。証拠の木綿糸は捨ててしまったし、榎木津にかかってはあんなものが証拠になるかどうかすらも怪しいものだ。くるりと背を向けて帰ろうとした榎木津を、涙目になった益田が引き止めた。
「いやああ榎木津さん待ってください!青木さんもほら、止めて!」
炎天下で、それも男3人の愁嘆場を演じるのはご免だったが、どうも帰れそうな雰囲気でも無い。入る筈だった氷屋の客は、色とりどりの氷山をつつきながら突如始まった修羅場を興味深げに見つめている。
暑さに参りながらも戻らぬ青木を引き取りに来た木場と、参考人を渡さぬと云った榎木津が殴るわ蹴るわで揉めたりと、不意に訪れた夏日は正しく青木の周囲を焼き尽くすに至って。
此処まで含めての『嫌な予感』だったとは流石に気づかなかったと思う青木の背と濡れたシャツの隙間とを、幾分冷えた風が擦り抜けた。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――
いかさんが青木と益田書いてくださったので嬉しくなってつい…。
お題…どっか行った…。
本格的な夏の前に訪れた暑さは、湿気が腕や顔に絡むようで気分が悪い。纏わりつく不快感ごと、青木は剥き出しの腕で顔を拭った。後から後から湧き出す汗で張り付いた髪が滑る。
なにぶん急な気温の変化で、彼の職場である署内も対応しきれていない。扇風機は倉庫の奥深くだ。警官らが老いも若きも寿司詰め状態で、どこもかしこも蒸し風呂の如きである。服を着ないでいい分だけ、蒸し風呂の方がまだ爽やかだとも云える。ぐったりとした男どもの中で、立ち上がって吠えたのは木場だった。汗みずくの腕が、小銭の入った財布を投げつけてくる。
「青木!お前ちょっと出て、なんか冷たいもん買ってこい!」
―――そんな訳で、現在青木は太陽を避けつつ商店の軒下を覗き込んで歩いている。
冷たいもの、と云われても選択の幅は広い。かちわりの氷を入れたコーヒー、駄菓子屋の軒先できらきらと輝く瓶入りのラムネ。氷水の中にぷかぷか浮かぶわらび餅。アイスクリームなど買って帰ったら「餓鬼の使いか」と怒られるだろうか。いや、ああ見えて彼は喜んで食べてくれるかもしれない。
「あっ青木さんだ!青木さーん!」
何処かから名を呼ぶ声がして、俯き加減だった青木は顔を上げる。並木の下に落ちた濃い影の中で、ぶんぶんと手を振るシルエット。もう嫌な予感しかしなかったが、見てしまった以上無視するわけにもいかない。立ち上がった影法師に近寄れば、其れは八重歯を剥き出しにしてけけけと笑った。
「青木さんがサボタージュなんて珍しいですねぇ」
「決め付けてくれるなよ。僕のはおつかい。益田君こそこんな所で何してるんだい」
「良くぞ聞いてくれましたっ!」
木陰の中でも解るほど、黒い瞳が輝いている。前髪が汗でやや湿っているせいか、いつもより顔がよく見えた。
「僕はこれから榎木津さんと、氷を食べるんですよ!」
「へぇ、そうなんだ。氷も良いな、有難う参考にするよ。じゃあ」
「待ってくださいよう!」
ネクタイをがしりと掴まれて、青木はやれやれと項垂れた。嫌な予感というのは当たるものだ。
「榎木津さんが「暑いから氷が食べたい、氷イチゴだっ!」って仰ってですね、でも僕ぁ依頼人と約束があったので先に出なきゃいけなかったんです。そしたら榎木津さん、なんて仰ったと思います?」
「さあ…」
「僕も後から行くから、氷屋の前で待っていなさい!ですって!この暑いのに外で待たせるなんて、しょうがないお人ですよねほんとに!」
口ぶりの割に上機嫌な益田にネクタイを揺さぶられて、青木の首がぐらぐらと揺れる。この暑さでのぼせあがっているとしか思えない浮かれようだ。どうにか益田の手からネクタイを奪い取る。ただでさえ湿っていたのにぎゅうと握り締められて形が崩れてしまった。
そんな事には全く構わず、益田は夢見るような表情で遠くを見ている。
「待ち合わせして氷菓子ですよ…デートみたいじゃないですか、ねぇ」
なにぶん浮かれているので、炎天下の待ちぼうけにも全く堪えていないと見える。女学生でもしないようなポーズではしゃぐ益田を呆然と見つめていた青木だが、ふと肩口に揺れるものを見つけた。益田が跳ねるたびに、其れもゆらゆらと揺れる。
「益田君、何かついてるよ」
軽く引っ張ってみたが、取れない。よく見れば、益田のシャツの襟刳りから飛び出した木綿糸だった。縫い目がほつれてしまったらしい。
益田も気づいて引っ張ってはみたが、縫い目が引き攣れるばかりで全く切れる様子が無い。それどころか、ますます解けて長く伸びているようだった。
「もう触らない方が良いよ、切った方が良い」
「こういうのって一回気にすると気になっちゃうんですよねぇ。こんなに伸びちゃって参ったなぁ。青木さん何とかしてくださいよう」
「何で僕が何とかしなきゃいけないんだよ、糸切り鋏なんて持ってないよ?」
「青木さんが教えてくれたんじゃないですか、これから榎木津さんと会うのに、こんな状態で恥ずかしいですっ」
ふざけているのか、本気なのか。どちらにしても、青木を軽い苛立ちが襲った。只でさえ暑いのに、暑苦しい小ネタを挟まないで欲しい。
ともかく季節外れの熱は青木の頭をも逆上せさせたようで、気づけば益田の襟首を掴み上げていた。目をぱちくりさせている益田を、じとりと睨みつける。
「じっとして」
襟元に顔を寄せると、汗の匂いと、僅かに洗濯石鹸の香りがした。
青木は木綿糸を口に含み、きりと歯を立てる。犬歯に挟んだ白糸はあっけなく切れ、唖然としている益田の目の前で、舌の上に残った糸の端を出してやった。
「はい、切れた」
「あ、ど、どうも」
乱暴に手を放せば、益田がふらふらと地に立った。千切れた糸を捨てれば、直ぐに日光に紛れて見えなくなる。影の角度が少し変わったのを感じ、青木は本来の目的を思い出した。茹で蛸になった先輩が、彼の帰りを待っているのだ。
軽くでも別れを告げようと益田に目をやると、ふと違和感を憶える。まだ日は高く、依然として青木の背を汗が流れて行くというのに、益田の顔は何故か蒼白だ。凍りついたその視線は、青木の肩越しに集中している。
「益田君?」
「え、え、え、榎木津さん……?」
青木が振り向くと、ぎらぎらと照りつける太陽光線をものともせずに、仁王立ちしている榎木津が居た。眩しい日光にもひるまぬ美貌は、不機嫌を通り越して明らかに怒りに満ちている。
「待っててやったのに、コケシ君と遊んでいたのか!」
「いや、その、違いますよ。青木さんとはここで偶然会って、ねぇ青木さん」
「え、あ」
眉をぎゅっと寄せた榎木津としどろもどろの益田に挟まれて、青木は狼狽する。どう云ったものか。証拠の木綿糸は捨ててしまったし、榎木津にかかってはあんなものが証拠になるかどうかすらも怪しいものだ。くるりと背を向けて帰ろうとした榎木津を、涙目になった益田が引き止めた。
「いやああ榎木津さん待ってください!青木さんもほら、止めて!」
炎天下で、それも男3人の愁嘆場を演じるのはご免だったが、どうも帰れそうな雰囲気でも無い。入る筈だった氷屋の客は、色とりどりの氷山をつつきながら突如始まった修羅場を興味深げに見つめている。
暑さに参りながらも戻らぬ青木を引き取りに来た木場と、参考人を渡さぬと云った榎木津が殴るわ蹴るわで揉めたりと、不意に訪れた夏日は正しく青木の周囲を焼き尽くすに至って。
此処まで含めての『嫌な予感』だったとは流石に気づかなかったと思う青木の背と濡れたシャツの隙間とを、幾分冷えた風が擦り抜けた。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――
いかさんが青木と益田書いてくださったので嬉しくなってつい…。
お題…どっか行った…。