「魚、祭、り、だァッ!」
益田は思わず後ずさり、首を竦めた。大きな榎木津の声が、扉の外にまで聞こえてきたからだ。一音一音噛み千切るような発声。恐らく大分興奮している。聞かなかった事にしてそっと帰ろうかとも思ったが、どうせ荷物も持って行かなければならない。何かを諦めてノブを回すと、室内からは暖かな空気と共にむせ返るような磯の香りが流れ出てきた。
「うわっ、何だ何だ」
「今頃戻ったかマスヤマ!遅い遅い!全く勿体無い事をしたな」
にやにやと何やら得意げに笑っている榎木津と目が合った。彼が踏ん反り返って座っている応接ソファの目の前には、ずらりと大小の皿が並んでいる。其のどれもが海の幸で満杯だ。蟹、烏賊、雲丹、色とりどりの刺身。なんというか――壮観である。
「な、何ですかこりゃ、何かのお祝いですか?」
温泉旅館の広告でも見かけないような眺めに目を白黒させている益田の横から、大きなタライを抱えた和寅が現れた。
「戻ったのかい。大方支度の終わった今頃戻ってくるとは、間が良いと云うか悪いと云うか」
「何でも鈍間なのだこいつは。見ろ、この魚達を!水に放てばまた泳ぎだすほど元気が良かったのに、最早切り身だ」
榎木津は透けて見えそうな白身を取り、これ見よがしにヒラヒラ躍らせたかと思うと、ぱくりと口に放り込んだ。うはははは、うまぁい、とご機嫌な様子だ。
「ハァ、僕としては生前の姿はむしろ見なくて良かったと云うか……和寅さん、これ全部貴方が?」
「本家からの頂き物さ。千姫を探してくれた礼だそうだよ。御前手づから釣りに行かれたそうだ。捌いたのは私だがね――いやぁ骨が折れた」
「ハァ」
呆然とする益田に、榎木津が箸を突きつける。
「そんなものは口実だ!あの馬鹿親父は生きた蛸が欲しかったのだ!」
「ハァ、たこ、ですか」
「飼ったんだか食ったんだか知らないが、食えないよりは食った方が良いに決まっている!」
榎木津はまともなんだか何なんだか良く判らない事を云い、唇を尖らせたまま味噌汁を啜っている。其れこそ蛸のようだ。
和寅に邪魔だと云わんばかりに脇腹を突かれ、益田は慌てて座る。どかりと置かれたタライの中には水が張ってあり、中にはごろごろと貝が入っていた。
「せめて貝剥きぐらいは手伝っておくれだね?」
「えぇー、僕ァこんなでっかい貝触った事も無いですよ」
「噛みつきゃあしないよ。こう、口の所に刃先を突っ込んで、こう」
和寅の手の中で、握りこぶし大程もある牡蠣がばくりと口を開ける。つやつやの白い身に食欲をそそられていると、和寅が小刀をよこしてきた。
「さ、頼むよ。先生がお待ちかねだ」
「僕ァお預けですかァ?僕だって新鮮な海の幸に預かりたいですよゥ」
「終わったら幾らでも食べると良いよ。働かざる者食うべからず!さぁさぁ」
急かされて、益田はおっかなびっくり刃先を隙間に捻じ込もうとする。
硬く閉じた貝に難儀して、幾度か貝殻を取り落としてしまった。
ごろごろ転がっていくのを慌てて追いかける益田を見て、榎木津がさも楽しげに笑っている。
結局幾らも剥けないまま和寅が殆どやってしまい、2人にからかわれながらも、益田はようやっと食事にありつく事が出来た。
■
もう結構だと云ったのだが、「刺身は足が速いんだから片付けてしまえ」と云う和寅に急かされて、結局皿が空になるまで食べさせられてしまった。確かに美味ではあったが、過ぎた贅沢である。2日はお茶漬けだけで生きていけそうだ。
「どうだった、魚祭りは」
「そ…そりゃあもう大変ご馳走様でしたが…胃が爆発しそうです」
「まだまだだな、精進しなさい」
榎木津などは更に食べていたと思うのだが、涼しい顔で茶など飲んでいる。この身体の何処に入っているのだろう。
改めて感心し其の姿を眺めていると、鳶色の瞳がちらりと益田を見た。薄い瞼がにいと細められたのが、湯気越しにも判る。
「――ふうん」
「な、なんですよ」
榎木津が勢い良く湯飲みを置いたので、たぁん、と高い音が響く。
思わずびくついた腕を榎木津の白い手が掴んだ。長い指、桜色の爪。何かきらりと光るものが見え、確かめてみると透明な鱗だった。
「寝室に行くぞ!」
「えぇぇ!な、なんですよ藪から棒に!」
「何だ貴様、魚が食えて僕は食えないと云うのか!贅沢者!勿体無いお化けに祟られて死んでしまえ!」
「誰もそんな事ぁ云ってないでしょうよ、ていうか大声で何て事を」
慌ててちらりと勝手の方を伺う。台所からはひっきりなしに水音と食器がぶつかる音がしていて、和寅がこちらに気づいた様子は無い。
ほうと胸を撫で下ろした隙を突いて、引き立てられてしまった。ずるりとズボンが下がり、慌てて引っ張り上げようとすると益々防御が疎かになる。榎木津の力に抗えない。
「ベルトまで緩めてる癖に」
「こ、此れは腹が苦しいからですよ!無理です無理!今の僕を見ないでくださぁい!」
「女の子みたいな事云うな、気色悪い。普段からお前は骨が当たって痛い位なんだから、むしろ丁度良い」
明け透けな言葉に、一瞬で顔まで血が昇る。
「で、でも僕ァ――手が、そう手が磯臭いんですよ。牡蠣触ったから!食事の前に手は洗ってますけど、どうしてもまだ匂いが取れなくて――」
「どれ」
掴まれた手が、大きな瞳の前に晒される。じっと手を見られていると云うのも、何やら居た堪れない気持ちだ。手から汗が滲んできそうで恥ずかしい。
もう離してください、と云う前に、掌を榎木津の舌が這った。
「ヒィッ!」
「煩い」
生温い感触が掌から、指の先まで這う。濡れて敏感になった箇所に榎木津の息が当たり、犬のように匂いを探られている事までも解って泣きそうだ。指先を前歯で確かめるように噛まれ、爪にかつんと軽い衝撃が伝わる。無邪気さと猥雑さの入り混じった光景に、ついに腰が抜けてしまった。
手だけを吊られた状態で座り込んでいる益田を、榎木津が見下ろしている。緊張で息が苦しい。溜まった涙の向こうに光る電燈と榎木津の姿が揺れて、自分が水の底に居るように思えた。
「え、えの、き、づ、さん――」
「泣くな、馬鹿。確かに磯の匂いがするね。ちょっと潮ッ辛い」
消えたい――益田はそう思った。
最後にまた手首を一舐めし、榎木津が哂う。
「だが――ちゃあんとお前の味だ」
瞠目する益田の前に、榎木津が座り込む。栗色の髪に、鳶色の瞳。白い肌が真珠のように輝いている。其の肌に僅かに朱が差しているのが見える。
「あの、えの、榎木津さんッ」
「なんだ?とうとうやる気になったか」
「そ、そりゃあ、もう――そうなんですけど、あの――」
ふらつく身体を飛び込ませるようにして、榎木津にしがみつく。濡れた手で触れる背中が温かい。榎木津の服がべとべとになってしまうけれど、どうせ直ぐに不要になるのだ。
「こ、腰が抜けて――立てません」
榎木津の顔は見えないけれど、耳元で思い切り笑い声が聞こえる。
顔を埋めた首筋からはやはり海の匂いがするけれど、その奥からは彼の気配が香る。
―――
益榎祭開催おめでとうございますえの!
お祭期間も終わりの方ですが、ひっそりと参加させて頂きます。
テーマの「お祭り」はこういうことじゃない、というお叱りの声が聞こえそうですが…
益田と榎木津の幸せを祈っております。
益田は思わず後ずさり、首を竦めた。大きな榎木津の声が、扉の外にまで聞こえてきたからだ。一音一音噛み千切るような発声。恐らく大分興奮している。聞かなかった事にしてそっと帰ろうかとも思ったが、どうせ荷物も持って行かなければならない。何かを諦めてノブを回すと、室内からは暖かな空気と共にむせ返るような磯の香りが流れ出てきた。
「うわっ、何だ何だ」
「今頃戻ったかマスヤマ!遅い遅い!全く勿体無い事をしたな」
にやにやと何やら得意げに笑っている榎木津と目が合った。彼が踏ん反り返って座っている応接ソファの目の前には、ずらりと大小の皿が並んでいる。其のどれもが海の幸で満杯だ。蟹、烏賊、雲丹、色とりどりの刺身。なんというか――壮観である。
「な、何ですかこりゃ、何かのお祝いですか?」
温泉旅館の広告でも見かけないような眺めに目を白黒させている益田の横から、大きなタライを抱えた和寅が現れた。
「戻ったのかい。大方支度の終わった今頃戻ってくるとは、間が良いと云うか悪いと云うか」
「何でも鈍間なのだこいつは。見ろ、この魚達を!水に放てばまた泳ぎだすほど元気が良かったのに、最早切り身だ」
榎木津は透けて見えそうな白身を取り、これ見よがしにヒラヒラ躍らせたかと思うと、ぱくりと口に放り込んだ。うはははは、うまぁい、とご機嫌な様子だ。
「ハァ、僕としては生前の姿はむしろ見なくて良かったと云うか……和寅さん、これ全部貴方が?」
「本家からの頂き物さ。千姫を探してくれた礼だそうだよ。御前手づから釣りに行かれたそうだ。捌いたのは私だがね――いやぁ骨が折れた」
「ハァ」
呆然とする益田に、榎木津が箸を突きつける。
「そんなものは口実だ!あの馬鹿親父は生きた蛸が欲しかったのだ!」
「ハァ、たこ、ですか」
「飼ったんだか食ったんだか知らないが、食えないよりは食った方が良いに決まっている!」
榎木津はまともなんだか何なんだか良く判らない事を云い、唇を尖らせたまま味噌汁を啜っている。其れこそ蛸のようだ。
和寅に邪魔だと云わんばかりに脇腹を突かれ、益田は慌てて座る。どかりと置かれたタライの中には水が張ってあり、中にはごろごろと貝が入っていた。
「せめて貝剥きぐらいは手伝っておくれだね?」
「えぇー、僕ァこんなでっかい貝触った事も無いですよ」
「噛みつきゃあしないよ。こう、口の所に刃先を突っ込んで、こう」
和寅の手の中で、握りこぶし大程もある牡蠣がばくりと口を開ける。つやつやの白い身に食欲をそそられていると、和寅が小刀をよこしてきた。
「さ、頼むよ。先生がお待ちかねだ」
「僕ァお預けですかァ?僕だって新鮮な海の幸に預かりたいですよゥ」
「終わったら幾らでも食べると良いよ。働かざる者食うべからず!さぁさぁ」
急かされて、益田はおっかなびっくり刃先を隙間に捻じ込もうとする。
硬く閉じた貝に難儀して、幾度か貝殻を取り落としてしまった。
ごろごろ転がっていくのを慌てて追いかける益田を見て、榎木津がさも楽しげに笑っている。
結局幾らも剥けないまま和寅が殆どやってしまい、2人にからかわれながらも、益田はようやっと食事にありつく事が出来た。
■
もう結構だと云ったのだが、「刺身は足が速いんだから片付けてしまえ」と云う和寅に急かされて、結局皿が空になるまで食べさせられてしまった。確かに美味ではあったが、過ぎた贅沢である。2日はお茶漬けだけで生きていけそうだ。
「どうだった、魚祭りは」
「そ…そりゃあもう大変ご馳走様でしたが…胃が爆発しそうです」
「まだまだだな、精進しなさい」
榎木津などは更に食べていたと思うのだが、涼しい顔で茶など飲んでいる。この身体の何処に入っているのだろう。
改めて感心し其の姿を眺めていると、鳶色の瞳がちらりと益田を見た。薄い瞼がにいと細められたのが、湯気越しにも判る。
「――ふうん」
「な、なんですよ」
榎木津が勢い良く湯飲みを置いたので、たぁん、と高い音が響く。
思わずびくついた腕を榎木津の白い手が掴んだ。長い指、桜色の爪。何かきらりと光るものが見え、確かめてみると透明な鱗だった。
「寝室に行くぞ!」
「えぇぇ!な、なんですよ藪から棒に!」
「何だ貴様、魚が食えて僕は食えないと云うのか!贅沢者!勿体無いお化けに祟られて死んでしまえ!」
「誰もそんな事ぁ云ってないでしょうよ、ていうか大声で何て事を」
慌ててちらりと勝手の方を伺う。台所からはひっきりなしに水音と食器がぶつかる音がしていて、和寅がこちらに気づいた様子は無い。
ほうと胸を撫で下ろした隙を突いて、引き立てられてしまった。ずるりとズボンが下がり、慌てて引っ張り上げようとすると益々防御が疎かになる。榎木津の力に抗えない。
「ベルトまで緩めてる癖に」
「こ、此れは腹が苦しいからですよ!無理です無理!今の僕を見ないでくださぁい!」
「女の子みたいな事云うな、気色悪い。普段からお前は骨が当たって痛い位なんだから、むしろ丁度良い」
明け透けな言葉に、一瞬で顔まで血が昇る。
「で、でも僕ァ――手が、そう手が磯臭いんですよ。牡蠣触ったから!食事の前に手は洗ってますけど、どうしてもまだ匂いが取れなくて――」
「どれ」
掴まれた手が、大きな瞳の前に晒される。じっと手を見られていると云うのも、何やら居た堪れない気持ちだ。手から汗が滲んできそうで恥ずかしい。
もう離してください、と云う前に、掌を榎木津の舌が這った。
「ヒィッ!」
「煩い」
生温い感触が掌から、指の先まで這う。濡れて敏感になった箇所に榎木津の息が当たり、犬のように匂いを探られている事までも解って泣きそうだ。指先を前歯で確かめるように噛まれ、爪にかつんと軽い衝撃が伝わる。無邪気さと猥雑さの入り混じった光景に、ついに腰が抜けてしまった。
手だけを吊られた状態で座り込んでいる益田を、榎木津が見下ろしている。緊張で息が苦しい。溜まった涙の向こうに光る電燈と榎木津の姿が揺れて、自分が水の底に居るように思えた。
「え、えの、き、づ、さん――」
「泣くな、馬鹿。確かに磯の匂いがするね。ちょっと潮ッ辛い」
消えたい――益田はそう思った。
最後にまた手首を一舐めし、榎木津が哂う。
「だが――ちゃあんとお前の味だ」
瞠目する益田の前に、榎木津が座り込む。栗色の髪に、鳶色の瞳。白い肌が真珠のように輝いている。其の肌に僅かに朱が差しているのが見える。
「あの、えの、榎木津さんッ」
「なんだ?とうとうやる気になったか」
「そ、そりゃあ、もう――そうなんですけど、あの――」
ふらつく身体を飛び込ませるようにして、榎木津にしがみつく。濡れた手で触れる背中が温かい。榎木津の服がべとべとになってしまうけれど、どうせ直ぐに不要になるのだ。
「こ、腰が抜けて――立てません」
榎木津の顔は見えないけれど、耳元で思い切り笑い声が聞こえる。
顔を埋めた首筋からはやはり海の匂いがするけれど、その奥からは彼の気配が香る。
―――
益榎祭開催おめでとうございますえの!
お祭期間も終わりの方ですが、ひっそりと参加させて頂きます。
テーマの「お祭り」はこういうことじゃない、というお叱りの声が聞こえそうですが…
益田と榎木津の幸せを祈っております。
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益田は己が目を疑い、次いで掃除を欠かした事が無い自慢の耳をも疑った。
冷たく澄み切った窓の外から其れ以上に透明な冬の冷気が肌に触れる感触すら疑わしかった。
次の瞬間には自分は安下宿の安布団の中で目を覚まし、何時かの目覚めと同じ様に
嗚呼妙な夢を見たなぁと自嘲の笑みなどを浮かべつつ、頭を掻く羽目になっているのではと思ったのだ。
そうでも無ければ、可笑しいではないか。
雪に降り込められた二人きりの事務所で、榎木津が「やる」とだけ云ってぶっきらぼうに手渡してきた紙袋。
中には毛糸で編まれた毛布のようなものが入っている。
こんな事態が益田の潜在意識が都合良く作用する夢で無くて何だと云うのだろう。
数多の先人らがそうしてきたように、益田もまた己の頬を力一杯引っ張ってみた。
「痛ッ」
「何を妙な真似をしている?情けない顔が更にみっともなく見えるだけだぞ。練り途中の麺麭生地だってもうちょっと希望に満ちた格好をしている」
頬に走った痛みよりも榎木津に投げられた雑言を受け止めたことで、益田はようやく現実に辿り着いた。
具合の良い妄想ならば、もっとこう、優しい言葉のひとつも与えられても良い筈だ。
安心したような落胆したような気持ちを胸に抱いたまま、益田はそっと毛糸の塊を取り出した。ふんわりとしていて、大きい。
よく見れば毛布には無い袖口が付いていて、益田は物体が衣服であると理解した。
「榎木津さん―――此れは」
「見て解らんのか。襟刳りの付いた座布団があるものか。細身に合わせて作ってあるから、やせっぽちの益山でもそこそこ着られるだろう」
「はあ―――」
思わず漏れた溜息に似た声には感嘆と歓喜が露骨に滲んでいて、益田は内心で恥じた。
此れからの冷え込みに備えて、わざわざ仕立ててくれたのだろうか。
空気をたっぷりと抱いた洋服は、持っているだけで掌からじわじわと暖かい。
目頭にも同じような熱を感じた益田は、唇を震わせながら榎木津からの贈り物を抱きしめた。
「有難うございます、榎木津さん……本当に僕が頂いても良いんですか」
「別に良いよ。どうせ他に着るやつも居ないんだ」
榎木津はふい、と視線を窓の外に向けた。分厚い灰色の雲から落ちた雪が張り付いては露になって落ちていく。
濃い睫に彩られた瞼が重そうに瞬くのが見えた。
「本当は其れは京極の奴に着せようとしていたんだ」
「え…」
「だがあいつめ、絶対に要らないなんて云ってきた。だから益山にやる」
「そ、そんな――榎木津さんらしくも無い。大体いつもなら無理にでも押し付けるじゃないですか」
「こういうのは義理で着て貰っても嬉しくも楽しくもないからな」
榎木津の寂しげな声が、しんしんと益田の中に積もっていく。
その度に頭の中が真っ白になっていくように感じた。
力の入らない腕の中に辛うじて納まっている服の温もりは変わらないのに、暫く忘れた冬の寒さが襲ってくる。
涙はいつの間にか凍り付いて、目頭の熱も嘘のように失せていた。
じゃあ榎木津さんは――痩せてる男なら、誰でも良かったんですね。
この優しい栗色も、温かみも、何もかも、全部、僕のためじゃあ無かったんですね。
貴方の云う通りだ。なんという馬鹿だ、僕は。
言葉は表に出ず、益田の中で冬の草のように深く根を張っている。
紛れも無く現実だ、しかもこれ以上無い位酷い現実だ。
確かに夢だろうかと疑ったのは自分だが、もう十分解っていたのに。
こんな形で思い知らせる事は無いじゃないか。
ついに両腕はだらりと力を失い、毛糸の衣服は空気を含みながらゆっくりと広がり、床に落ちた。
華奢な作りでありながら、身に纏えば心地良い余裕を持ちそうな長い袖。
襟元には大きな頭巾が縫いつけられていて、多少の雪ならば凌げそうだ。
一番面積の広い身頃は男物だけあってシンプルで、何の模様も付いていない。其れだけに生地の良さが際立っている。
更に其処からは同じ生地のズボンが続いていて、ようやく益田は眉を顰めた。
よく見れば頭巾には小さな鹿の耳と、角を模した飾りが縫い止めてあり、
頭巾の中から真っ赤なゴムボールが飛び出して、床の上を点々と転がっていった。
「―――あの、此れは」
「見て解らんのか。耳と角が付いたセーラー服などあるものか。尻には尻尾まで付いているんだぞ」
榎木津は大きな服を裏返し、得意げに短い尾飾りを示してみせた。
「―――で、此れは」
「おおなんという馬鹿!毛布と洋服の区別も付かないだけじゃなく、人間とトナカイの区別もつかないとは!」
榎木津が肩口を広げて引っ張り上げた衣装は云われて見れば確かにトナカイだ。
着ぐるみ以外の何者でも無い。
「折角サンタの衣装を新調したついでにサンタにはトナカイだと思って作ってやったのに、京極のやつ豪雪で正月が中止になったような顔をした」
「そりゃあまぁ、あの人は着ないでしょうねぇ…」
途端益田にふわりと着ぐるみが覆いかぶさり、慌てて取り除けた所で鼻先に先程のゴムボールが押し付けられて間抜けな音を立てた。
「さぁさぁ益山準備をしなさい!僕のためにソリを引くのだ。と云ってもお前が引いてたんじゃいつまでたっても角の交差点までも行けなそうだから車を出しなさい。暗い夜道はピカピカのお前の鼻が役に立つのだ!」
鳶色の瞳が楽しげに爛々と光っている。
其の笑顔を見る度に、益田は何度でもつられて笑ってしまうのだ。
―――
執拗いようですがコスプレ好きなので某フェアに光明を見ました。ありがとう公式。
冷たく澄み切った窓の外から其れ以上に透明な冬の冷気が肌に触れる感触すら疑わしかった。
次の瞬間には自分は安下宿の安布団の中で目を覚まし、何時かの目覚めと同じ様に
嗚呼妙な夢を見たなぁと自嘲の笑みなどを浮かべつつ、頭を掻く羽目になっているのではと思ったのだ。
そうでも無ければ、可笑しいではないか。
雪に降り込められた二人きりの事務所で、榎木津が「やる」とだけ云ってぶっきらぼうに手渡してきた紙袋。
中には毛糸で編まれた毛布のようなものが入っている。
こんな事態が益田の潜在意識が都合良く作用する夢で無くて何だと云うのだろう。
数多の先人らがそうしてきたように、益田もまた己の頬を力一杯引っ張ってみた。
「痛ッ」
「何を妙な真似をしている?情けない顔が更にみっともなく見えるだけだぞ。練り途中の麺麭生地だってもうちょっと希望に満ちた格好をしている」
頬に走った痛みよりも榎木津に投げられた雑言を受け止めたことで、益田はようやく現実に辿り着いた。
具合の良い妄想ならば、もっとこう、優しい言葉のひとつも与えられても良い筈だ。
安心したような落胆したような気持ちを胸に抱いたまま、益田はそっと毛糸の塊を取り出した。ふんわりとしていて、大きい。
よく見れば毛布には無い袖口が付いていて、益田は物体が衣服であると理解した。
「榎木津さん―――此れは」
「見て解らんのか。襟刳りの付いた座布団があるものか。細身に合わせて作ってあるから、やせっぽちの益山でもそこそこ着られるだろう」
「はあ―――」
思わず漏れた溜息に似た声には感嘆と歓喜が露骨に滲んでいて、益田は内心で恥じた。
此れからの冷え込みに備えて、わざわざ仕立ててくれたのだろうか。
空気をたっぷりと抱いた洋服は、持っているだけで掌からじわじわと暖かい。
目頭にも同じような熱を感じた益田は、唇を震わせながら榎木津からの贈り物を抱きしめた。
「有難うございます、榎木津さん……本当に僕が頂いても良いんですか」
「別に良いよ。どうせ他に着るやつも居ないんだ」
榎木津はふい、と視線を窓の外に向けた。分厚い灰色の雲から落ちた雪が張り付いては露になって落ちていく。
濃い睫に彩られた瞼が重そうに瞬くのが見えた。
「本当は其れは京極の奴に着せようとしていたんだ」
「え…」
「だがあいつめ、絶対に要らないなんて云ってきた。だから益山にやる」
「そ、そんな――榎木津さんらしくも無い。大体いつもなら無理にでも押し付けるじゃないですか」
「こういうのは義理で着て貰っても嬉しくも楽しくもないからな」
榎木津の寂しげな声が、しんしんと益田の中に積もっていく。
その度に頭の中が真っ白になっていくように感じた。
力の入らない腕の中に辛うじて納まっている服の温もりは変わらないのに、暫く忘れた冬の寒さが襲ってくる。
涙はいつの間にか凍り付いて、目頭の熱も嘘のように失せていた。
じゃあ榎木津さんは――痩せてる男なら、誰でも良かったんですね。
この優しい栗色も、温かみも、何もかも、全部、僕のためじゃあ無かったんですね。
貴方の云う通りだ。なんという馬鹿だ、僕は。
言葉は表に出ず、益田の中で冬の草のように深く根を張っている。
紛れも無く現実だ、しかもこれ以上無い位酷い現実だ。
確かに夢だろうかと疑ったのは自分だが、もう十分解っていたのに。
こんな形で思い知らせる事は無いじゃないか。
ついに両腕はだらりと力を失い、毛糸の衣服は空気を含みながらゆっくりと広がり、床に落ちた。
華奢な作りでありながら、身に纏えば心地良い余裕を持ちそうな長い袖。
襟元には大きな頭巾が縫いつけられていて、多少の雪ならば凌げそうだ。
一番面積の広い身頃は男物だけあってシンプルで、何の模様も付いていない。其れだけに生地の良さが際立っている。
更に其処からは同じ生地のズボンが続いていて、ようやく益田は眉を顰めた。
よく見れば頭巾には小さな鹿の耳と、角を模した飾りが縫い止めてあり、
頭巾の中から真っ赤なゴムボールが飛び出して、床の上を点々と転がっていった。
「―――あの、此れは」
「見て解らんのか。耳と角が付いたセーラー服などあるものか。尻には尻尾まで付いているんだぞ」
榎木津は大きな服を裏返し、得意げに短い尾飾りを示してみせた。
「―――で、此れは」
「おおなんという馬鹿!毛布と洋服の区別も付かないだけじゃなく、人間とトナカイの区別もつかないとは!」
榎木津が肩口を広げて引っ張り上げた衣装は云われて見れば確かにトナカイだ。
着ぐるみ以外の何者でも無い。
「折角サンタの衣装を新調したついでにサンタにはトナカイだと思って作ってやったのに、京極のやつ豪雪で正月が中止になったような顔をした」
「そりゃあまぁ、あの人は着ないでしょうねぇ…」
途端益田にふわりと着ぐるみが覆いかぶさり、慌てて取り除けた所で鼻先に先程のゴムボールが押し付けられて間抜けな音を立てた。
「さぁさぁ益山準備をしなさい!僕のためにソリを引くのだ。と云ってもお前が引いてたんじゃいつまでたっても角の交差点までも行けなそうだから車を出しなさい。暗い夜道はピカピカのお前の鼻が役に立つのだ!」
鳶色の瞳が楽しげに爛々と光っている。
其の笑顔を見る度に、益田は何度でもつられて笑ってしまうのだ。
―――
執拗いようですがコスプレ好きなので某フェアに光明を見ました。ありがとう公式。
2010年に入ってから頂いた拍手お返事です。
荒野の砂漠水一滴も無し(懐かしいフレーズ)状態のブログになって久しいですが、こうして拍手を頂けて有難い限りです。
>林檎様
あけましておめでとうござい益田!(挨拶)
冬コミでは遊びに来てくださって有難うございました。午前と午後に両方いらしてくださったようで、お会いできて良かったです。
合同誌・個人誌もお楽しみ頂けましたら幸いです。今年も一年宜しくお願い致します。
>萩中様
あけましておめでとうございます!
冬コミへのお言葉も有難うございます。お蔭様で楽しく過ごす事が出来ました。
年始は休みすぎて1週間で2キロ体重が増加するというファインプレーを見せ付けております。増えた脂肪をどうにか活動に還元したい所ですね。
今年もまた萩中様とお話させて頂きたいです。有難うございました!
>ホリ様
あけましておめでとうございます!
お正月早々ホリ様のサイトが可愛く更新されていて、見習いたい所存です。今年も益田共々(?)宜しくお願い致します。
通販のお問い合わせも有難うございました!改めて要綱を記載したメールを送らせて頂きます。
叩いてくださった方も、ありがとうございました。
もうあの冬コミから一週間以上が経つわけで、新年早々時の流れの速さにビクビクしております。
京極でコミケに参加するのは初めてで、今回はシロさんとの合同スペースだったわけですが、私の段取りの悪さとうっかり加減でシロさんを初め、お隣だったいかさんや他の皆様にも大分ご迷惑をおかけしてしまうという楽しいながらも反省点の多いイベントになりました。
まず朝からして寝すぎて予定の電車が出る時間の30分後に目を覚まし、心で悲鳴をあげながら身支度をするような状態でした。駅で電車に乗るために久々に全力疾走した際、最初の20メートルくらいは軽快に走れて「何だ私の体力もまだ捨てたもんじゃないな!いける!」と思ったのも束の間上りエスカレーターで力尽き、ホームに上がった瞬間転びました。財布にしまう時間も惜しかったため手に握っていた切符を買った時のお釣りがコロコローと転がっていくのがやけにゆっくりと見えましたが、眺めてる場合じゃありません。ホームには電車が既に居て、中から人も降りてきている状態です。早朝なので本数も少なく、乗らないと!と思って立ち上がりましたがやっぱり下半身がついてこずにまた転びました。通算2回転びました。もう車掌さんも乗客の皆さんも大きな荷物を持ってのた打ち回る何かの存在に釘付けです。多分。あぶあぶになりながらもどうにか這うようにして乗車は出来、国際展示場駅でいかさん達に再会する事が出来ました。
その後も私がタイムテーブルを誤解していた為に普通しないミスを連発します。私の迷惑の歴史を仔細に渡って記述するのも憚られますので、身をもって理解した教訓をひとつ。
寝起き30分でダッシュすると転びます!(カッ)
その後は別に転ぶこともなく、スペースでシロさんと交代したのは午後でした。西は割と人が少なくまったりとしていて、遮るものが無い所為か海風が割とダイレクトに吹き付けてきて少々寒かったです。ですがスペースにお越し頂いた方々とお話している最中は寒さを忘れる事が出来ました。差し入れも沢山頂けて、それぞれの美味しさに笑みがこぼれます。有難うございました!
京極スペースに居ると云う現実に興奮して、いかさんのスペースにいらっしゃった方にちょっかいをかけてすみませんでした(いかさんの日記をご参照ください)。「益田も好きなんですけど、実は~」と仰っていて、奥ゆかしい方だなと思いました。ご覧にはなっていないと思いますが、一応此処からも謝罪。びっくりさせてすみませんでした!
翌日はいかさんや真宏さんと打ち上げというか忘年会というかの予定でしたが、またしても寝坊して後から参加しました。毎度毎度すみません。カラオケの部屋の扉を開けた瞬間いかさんがラーメンか何かを召し上がっているところとバッチリ目が合ってしまいました。間の悪さに定評のあるハム星。
差し入れを山分けしたり、買った本のやりとりをしたり、思いがけず安東さんとお会いして貴重なお話を聞く事が出来たりと、有意義な年の終わりとなりました。
今年はなるたけ人に迷惑をかけず、自分の出来る事をひとつひとつ確実にこなしていきたいなぁと思っております。
旧年中にお世話になった皆様、本当に有難うございました!不束者ですが今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
人に言われて気がついたのですが、あと一月程度でこのブログも一周年です。初心を思い出してまたマスヤマの幸せを考えていきたい感じなので、お暇な時には覗いてやってくださいませ。
荒野の砂漠水一滴も無し(懐かしいフレーズ)状態のブログになって久しいですが、こうして拍手を頂けて有難い限りです。
>林檎様
あけましておめでとうござい益田!(挨拶)
冬コミでは遊びに来てくださって有難うございました。午前と午後に両方いらしてくださったようで、お会いできて良かったです。
合同誌・個人誌もお楽しみ頂けましたら幸いです。今年も一年宜しくお願い致します。
>萩中様
あけましておめでとうございます!
冬コミへのお言葉も有難うございます。お蔭様で楽しく過ごす事が出来ました。
年始は休みすぎて1週間で2キロ体重が増加するというファインプレーを見せ付けております。増えた脂肪をどうにか活動に還元したい所ですね。
今年もまた萩中様とお話させて頂きたいです。有難うございました!
>ホリ様
あけましておめでとうございます!
お正月早々ホリ様のサイトが可愛く更新されていて、見習いたい所存です。今年も益田共々(?)宜しくお願い致します。
通販のお問い合わせも有難うございました!改めて要綱を記載したメールを送らせて頂きます。
叩いてくださった方も、ありがとうございました。
もうあの冬コミから一週間以上が経つわけで、新年早々時の流れの速さにビクビクしております。
京極でコミケに参加するのは初めてで、今回はシロさんとの合同スペースだったわけですが、私の段取りの悪さとうっかり加減でシロさんを初め、お隣だったいかさんや他の皆様にも大分ご迷惑をおかけしてしまうという楽しいながらも反省点の多いイベントになりました。
まず朝からして寝すぎて予定の電車が出る時間の30分後に目を覚まし、心で悲鳴をあげながら身支度をするような状態でした。駅で電車に乗るために久々に全力疾走した際、最初の20メートルくらいは軽快に走れて「何だ私の体力もまだ捨てたもんじゃないな!いける!」と思ったのも束の間上りエスカレーターで力尽き、ホームに上がった瞬間転びました。財布にしまう時間も惜しかったため手に握っていた切符を買った時のお釣りがコロコローと転がっていくのがやけにゆっくりと見えましたが、眺めてる場合じゃありません。ホームには電車が既に居て、中から人も降りてきている状態です。早朝なので本数も少なく、乗らないと!と思って立ち上がりましたがやっぱり下半身がついてこずにまた転びました。通算2回転びました。もう車掌さんも乗客の皆さんも大きな荷物を持ってのた打ち回る何かの存在に釘付けです。多分。あぶあぶになりながらもどうにか這うようにして乗車は出来、国際展示場駅でいかさん達に再会する事が出来ました。
その後も私がタイムテーブルを誤解していた為に普通しないミスを連発します。私の迷惑の歴史を仔細に渡って記述するのも憚られますので、身をもって理解した教訓をひとつ。
寝起き30分でダッシュすると転びます!(カッ)
その後は別に転ぶこともなく、スペースでシロさんと交代したのは午後でした。西は割と人が少なくまったりとしていて、遮るものが無い所為か海風が割とダイレクトに吹き付けてきて少々寒かったです。ですがスペースにお越し頂いた方々とお話している最中は寒さを忘れる事が出来ました。差し入れも沢山頂けて、それぞれの美味しさに笑みがこぼれます。有難うございました!
京極スペースに居ると云う現実に興奮して、いかさんのスペースにいらっしゃった方にちょっかいをかけてすみませんでした(いかさんの日記をご参照ください)。「益田も好きなんですけど、実は~」と仰っていて、奥ゆかしい方だなと思いました。ご覧にはなっていないと思いますが、一応此処からも謝罪。びっくりさせてすみませんでした!
翌日はいかさんや真宏さんと打ち上げというか忘年会というかの予定でしたが、またしても寝坊して後から参加しました。毎度毎度すみません。カラオケの部屋の扉を開けた瞬間いかさんがラーメンか何かを召し上がっているところとバッチリ目が合ってしまいました。間の悪さに定評のあるハム星。
差し入れを山分けしたり、買った本のやりとりをしたり、思いがけず安東さんとお会いして貴重なお話を聞く事が出来たりと、有意義な年の終わりとなりました。
今年はなるたけ人に迷惑をかけず、自分の出来る事をひとつひとつ確実にこなしていきたいなぁと思っております。
旧年中にお世話になった皆様、本当に有難うございました!不束者ですが今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
人に言われて気がついたのですが、あと一月程度でこのブログも一周年です。初心を思い出してまたマスヤマの幸せを考えていきたい感じなので、お暇な時には覗いてやってくださいませ。
あけましておめでとうございます!
今?というくらい年始の挨拶が遅れてしまいました…。いつも遊びに来て頂いてる皆様、申し訳ございません。そして有難うございます。
2010年に入って最初の更新は拍手お返事です。沢山溜めてしまいましたので、2009年に頂いたものと今年に入ってから頂いたものを分けております。
一番お待たせした拍手は10月末のものです…本当にごめんなさい!
精一杯の感謝を込めてお返事させて頂きます。お心当たりの方は是非ご一読ください。
今?というくらい年始の挨拶が遅れてしまいました…。いつも遊びに来て頂いてる皆様、申し訳ございません。そして有難うございます。
2010年に入って最初の更新は拍手お返事です。沢山溜めてしまいましたので、2009年に頂いたものと今年に入ってから頂いたものを分けております。
一番お待たせした拍手は10月末のものです…本当にごめんなさい!
精一杯の感謝を込めてお返事させて頂きます。お心当たりの方は是非ご一読ください。
視界の端を鮮やかな紅が横切ったのを感じ、益田は振り向いた。
両親に手を引かれて歩く少女の後姿が見える。緋色の振袖に、踊る飾り帯。
もう顔は見えないけれど、きっとその頬は林檎色で、笑顔に満ちているのだろう。
「そっか、七五三か」
益田が見送っている事も知らず、幸せそうな親子は交差点を曲がって消えた。
益田もビルヂングの入り口を潜り、階段を昇っていく。
あの華やかな赤を見て、自分まで何だか浮かれた気分になっていた。
昇り調子の心地もそのままに、扉を押し開けてドアベルを鳴らした。
「ただい―――わぁ……」
「ム、バカオロカ」
果たして其処に居たのは榎木津で、色素の薄い瞳がぎゅっと益田を捉える。
長い脚を探偵机の上に投げ出して、両腕を頭の後ろに回して。其処までは良いのだが。
「もう襦袢一枚じゃ寒いでしょう…」
真っ赤な襦袢と黒い革張りの椅子の対照が目に痛い程だ。
榎木津が立ち上がると襦袢の裾もふわりと流れ、水中を舞う金魚の尾にも見える。
今しがた見かけた少女の面影を思い出し、益田は思わずくすりと笑った。
「お前も食べるか、千歳飴」
突如剣のように突き出された長細い飴を前に、益田の目が白黒する。
「ちょっと、これ何処から出てきたんですよ」
「此処」
榎木津は机の引き出しを引っ張って見せた。
本来書類や文具が入っている筈の其処には、代わりに紅白の飴がぎっしり詰まっている。
「そういう事云ってるんじゃないんですけど…」
「食べるのか、食べないのか、ハッキリしロ!」
そう云う榎木津は既に白い飴に歯を立てている。
益田もつられて口内に飴を含み、そっと舐めてみた。懐かしい甘さだ。
抜けるように青い空は、様々な色を抱きかかえながら、今日も澄んでいる。
―――
35歳児の七五三。
両親に手を引かれて歩く少女の後姿が見える。緋色の振袖に、踊る飾り帯。
もう顔は見えないけれど、きっとその頬は林檎色で、笑顔に満ちているのだろう。
「そっか、七五三か」
益田が見送っている事も知らず、幸せそうな親子は交差点を曲がって消えた。
益田もビルヂングの入り口を潜り、階段を昇っていく。
あの華やかな赤を見て、自分まで何だか浮かれた気分になっていた。
昇り調子の心地もそのままに、扉を押し開けてドアベルを鳴らした。
「ただい―――わぁ……」
「ム、バカオロカ」
果たして其処に居たのは榎木津で、色素の薄い瞳がぎゅっと益田を捉える。
長い脚を探偵机の上に投げ出して、両腕を頭の後ろに回して。其処までは良いのだが。
「もう襦袢一枚じゃ寒いでしょう…」
真っ赤な襦袢と黒い革張りの椅子の対照が目に痛い程だ。
榎木津が立ち上がると襦袢の裾もふわりと流れ、水中を舞う金魚の尾にも見える。
今しがた見かけた少女の面影を思い出し、益田は思わずくすりと笑った。
「お前も食べるか、千歳飴」
突如剣のように突き出された長細い飴を前に、益田の目が白黒する。
「ちょっと、これ何処から出てきたんですよ」
「此処」
榎木津は机の引き出しを引っ張って見せた。
本来書類や文具が入っている筈の其処には、代わりに紅白の飴がぎっしり詰まっている。
「そういう事云ってるんじゃないんですけど…」
「食べるのか、食べないのか、ハッキリしロ!」
そう云う榎木津は既に白い飴に歯を立てている。
益田もつられて口内に飴を含み、そっと舐めてみた。懐かしい甘さだ。
抜けるように青い空は、様々な色を抱きかかえながら、今日も澄んでいる。
―――
35歳児の七五三。