「魚、祭、り、だァッ!」
益田は思わず後ずさり、首を竦めた。大きな榎木津の声が、扉の外にまで聞こえてきたからだ。一音一音噛み千切るような発声。恐らく大分興奮している。聞かなかった事にしてそっと帰ろうかとも思ったが、どうせ荷物も持って行かなければならない。何かを諦めてノブを回すと、室内からは暖かな空気と共にむせ返るような磯の香りが流れ出てきた。
「うわっ、何だ何だ」
「今頃戻ったかマスヤマ!遅い遅い!全く勿体無い事をしたな」
にやにやと何やら得意げに笑っている榎木津と目が合った。彼が踏ん反り返って座っている応接ソファの目の前には、ずらりと大小の皿が並んでいる。其のどれもが海の幸で満杯だ。蟹、烏賊、雲丹、色とりどりの刺身。なんというか――壮観である。
「な、何ですかこりゃ、何かのお祝いですか?」
温泉旅館の広告でも見かけないような眺めに目を白黒させている益田の横から、大きなタライを抱えた和寅が現れた。
「戻ったのかい。大方支度の終わった今頃戻ってくるとは、間が良いと云うか悪いと云うか」
「何でも鈍間なのだこいつは。見ろ、この魚達を!水に放てばまた泳ぎだすほど元気が良かったのに、最早切り身だ」
榎木津は透けて見えそうな白身を取り、これ見よがしにヒラヒラ躍らせたかと思うと、ぱくりと口に放り込んだ。うはははは、うまぁい、とご機嫌な様子だ。
「ハァ、僕としては生前の姿はむしろ見なくて良かったと云うか……和寅さん、これ全部貴方が?」
「本家からの頂き物さ。千姫を探してくれた礼だそうだよ。御前手づから釣りに行かれたそうだ。捌いたのは私だがね――いやぁ骨が折れた」
「ハァ」
呆然とする益田に、榎木津が箸を突きつける。
「そんなものは口実だ!あの馬鹿親父は生きた蛸が欲しかったのだ!」
「ハァ、たこ、ですか」
「飼ったんだか食ったんだか知らないが、食えないよりは食った方が良いに決まっている!」
榎木津はまともなんだか何なんだか良く判らない事を云い、唇を尖らせたまま味噌汁を啜っている。其れこそ蛸のようだ。
和寅に邪魔だと云わんばかりに脇腹を突かれ、益田は慌てて座る。どかりと置かれたタライの中には水が張ってあり、中にはごろごろと貝が入っていた。
「せめて貝剥きぐらいは手伝っておくれだね?」
「えぇー、僕ァこんなでっかい貝触った事も無いですよ」
「噛みつきゃあしないよ。こう、口の所に刃先を突っ込んで、こう」
和寅の手の中で、握りこぶし大程もある牡蠣がばくりと口を開ける。つやつやの白い身に食欲をそそられていると、和寅が小刀をよこしてきた。
「さ、頼むよ。先生がお待ちかねだ」
「僕ァお預けですかァ?僕だって新鮮な海の幸に預かりたいですよゥ」
「終わったら幾らでも食べると良いよ。働かざる者食うべからず!さぁさぁ」
急かされて、益田はおっかなびっくり刃先を隙間に捻じ込もうとする。
硬く閉じた貝に難儀して、幾度か貝殻を取り落としてしまった。
ごろごろ転がっていくのを慌てて追いかける益田を見て、榎木津がさも楽しげに笑っている。
結局幾らも剥けないまま和寅が殆どやってしまい、2人にからかわれながらも、益田はようやっと食事にありつく事が出来た。
■
もう結構だと云ったのだが、「刺身は足が速いんだから片付けてしまえ」と云う和寅に急かされて、結局皿が空になるまで食べさせられてしまった。確かに美味ではあったが、過ぎた贅沢である。2日はお茶漬けだけで生きていけそうだ。
「どうだった、魚祭りは」
「そ…そりゃあもう大変ご馳走様でしたが…胃が爆発しそうです」
「まだまだだな、精進しなさい」
榎木津などは更に食べていたと思うのだが、涼しい顔で茶など飲んでいる。この身体の何処に入っているのだろう。
改めて感心し其の姿を眺めていると、鳶色の瞳がちらりと益田を見た。薄い瞼がにいと細められたのが、湯気越しにも判る。
「――ふうん」
「な、なんですよ」
榎木津が勢い良く湯飲みを置いたので、たぁん、と高い音が響く。
思わずびくついた腕を榎木津の白い手が掴んだ。長い指、桜色の爪。何かきらりと光るものが見え、確かめてみると透明な鱗だった。
「寝室に行くぞ!」
「えぇぇ!な、なんですよ藪から棒に!」
「何だ貴様、魚が食えて僕は食えないと云うのか!贅沢者!勿体無いお化けに祟られて死んでしまえ!」
「誰もそんな事ぁ云ってないでしょうよ、ていうか大声で何て事を」
慌ててちらりと勝手の方を伺う。台所からはひっきりなしに水音と食器がぶつかる音がしていて、和寅がこちらに気づいた様子は無い。
ほうと胸を撫で下ろした隙を突いて、引き立てられてしまった。ずるりとズボンが下がり、慌てて引っ張り上げようとすると益々防御が疎かになる。榎木津の力に抗えない。
「ベルトまで緩めてる癖に」
「こ、此れは腹が苦しいからですよ!無理です無理!今の僕を見ないでくださぁい!」
「女の子みたいな事云うな、気色悪い。普段からお前は骨が当たって痛い位なんだから、むしろ丁度良い」
明け透けな言葉に、一瞬で顔まで血が昇る。
「で、でも僕ァ――手が、そう手が磯臭いんですよ。牡蠣触ったから!食事の前に手は洗ってますけど、どうしてもまだ匂いが取れなくて――」
「どれ」
掴まれた手が、大きな瞳の前に晒される。じっと手を見られていると云うのも、何やら居た堪れない気持ちだ。手から汗が滲んできそうで恥ずかしい。
もう離してください、と云う前に、掌を榎木津の舌が這った。
「ヒィッ!」
「煩い」
生温い感触が掌から、指の先まで這う。濡れて敏感になった箇所に榎木津の息が当たり、犬のように匂いを探られている事までも解って泣きそうだ。指先を前歯で確かめるように噛まれ、爪にかつんと軽い衝撃が伝わる。無邪気さと猥雑さの入り混じった光景に、ついに腰が抜けてしまった。
手だけを吊られた状態で座り込んでいる益田を、榎木津が見下ろしている。緊張で息が苦しい。溜まった涙の向こうに光る電燈と榎木津の姿が揺れて、自分が水の底に居るように思えた。
「え、えの、き、づ、さん――」
「泣くな、馬鹿。確かに磯の匂いがするね。ちょっと潮ッ辛い」
消えたい――益田はそう思った。
最後にまた手首を一舐めし、榎木津が哂う。
「だが――ちゃあんとお前の味だ」
瞠目する益田の前に、榎木津が座り込む。栗色の髪に、鳶色の瞳。白い肌が真珠のように輝いている。其の肌に僅かに朱が差しているのが見える。
「あの、えの、榎木津さんッ」
「なんだ?とうとうやる気になったか」
「そ、そりゃあ、もう――そうなんですけど、あの――」
ふらつく身体を飛び込ませるようにして、榎木津にしがみつく。濡れた手で触れる背中が温かい。榎木津の服がべとべとになってしまうけれど、どうせ直ぐに不要になるのだ。
「こ、腰が抜けて――立てません」
榎木津の顔は見えないけれど、耳元で思い切り笑い声が聞こえる。
顔を埋めた首筋からはやはり海の匂いがするけれど、その奥からは彼の気配が香る。
―――
益榎祭開催おめでとうございますえの!
お祭期間も終わりの方ですが、ひっそりと参加させて頂きます。
テーマの「お祭り」はこういうことじゃない、というお叱りの声が聞こえそうですが…
益田と榎木津の幸せを祈っております。
益田は思わず後ずさり、首を竦めた。大きな榎木津の声が、扉の外にまで聞こえてきたからだ。一音一音噛み千切るような発声。恐らく大分興奮している。聞かなかった事にしてそっと帰ろうかとも思ったが、どうせ荷物も持って行かなければならない。何かを諦めてノブを回すと、室内からは暖かな空気と共にむせ返るような磯の香りが流れ出てきた。
「うわっ、何だ何だ」
「今頃戻ったかマスヤマ!遅い遅い!全く勿体無い事をしたな」
にやにやと何やら得意げに笑っている榎木津と目が合った。彼が踏ん反り返って座っている応接ソファの目の前には、ずらりと大小の皿が並んでいる。其のどれもが海の幸で満杯だ。蟹、烏賊、雲丹、色とりどりの刺身。なんというか――壮観である。
「な、何ですかこりゃ、何かのお祝いですか?」
温泉旅館の広告でも見かけないような眺めに目を白黒させている益田の横から、大きなタライを抱えた和寅が現れた。
「戻ったのかい。大方支度の終わった今頃戻ってくるとは、間が良いと云うか悪いと云うか」
「何でも鈍間なのだこいつは。見ろ、この魚達を!水に放てばまた泳ぎだすほど元気が良かったのに、最早切り身だ」
榎木津は透けて見えそうな白身を取り、これ見よがしにヒラヒラ躍らせたかと思うと、ぱくりと口に放り込んだ。うはははは、うまぁい、とご機嫌な様子だ。
「ハァ、僕としては生前の姿はむしろ見なくて良かったと云うか……和寅さん、これ全部貴方が?」
「本家からの頂き物さ。千姫を探してくれた礼だそうだよ。御前手づから釣りに行かれたそうだ。捌いたのは私だがね――いやぁ骨が折れた」
「ハァ」
呆然とする益田に、榎木津が箸を突きつける。
「そんなものは口実だ!あの馬鹿親父は生きた蛸が欲しかったのだ!」
「ハァ、たこ、ですか」
「飼ったんだか食ったんだか知らないが、食えないよりは食った方が良いに決まっている!」
榎木津はまともなんだか何なんだか良く判らない事を云い、唇を尖らせたまま味噌汁を啜っている。其れこそ蛸のようだ。
和寅に邪魔だと云わんばかりに脇腹を突かれ、益田は慌てて座る。どかりと置かれたタライの中には水が張ってあり、中にはごろごろと貝が入っていた。
「せめて貝剥きぐらいは手伝っておくれだね?」
「えぇー、僕ァこんなでっかい貝触った事も無いですよ」
「噛みつきゃあしないよ。こう、口の所に刃先を突っ込んで、こう」
和寅の手の中で、握りこぶし大程もある牡蠣がばくりと口を開ける。つやつやの白い身に食欲をそそられていると、和寅が小刀をよこしてきた。
「さ、頼むよ。先生がお待ちかねだ」
「僕ァお預けですかァ?僕だって新鮮な海の幸に預かりたいですよゥ」
「終わったら幾らでも食べると良いよ。働かざる者食うべからず!さぁさぁ」
急かされて、益田はおっかなびっくり刃先を隙間に捻じ込もうとする。
硬く閉じた貝に難儀して、幾度か貝殻を取り落としてしまった。
ごろごろ転がっていくのを慌てて追いかける益田を見て、榎木津がさも楽しげに笑っている。
結局幾らも剥けないまま和寅が殆どやってしまい、2人にからかわれながらも、益田はようやっと食事にありつく事が出来た。
■
もう結構だと云ったのだが、「刺身は足が速いんだから片付けてしまえ」と云う和寅に急かされて、結局皿が空になるまで食べさせられてしまった。確かに美味ではあったが、過ぎた贅沢である。2日はお茶漬けだけで生きていけそうだ。
「どうだった、魚祭りは」
「そ…そりゃあもう大変ご馳走様でしたが…胃が爆発しそうです」
「まだまだだな、精進しなさい」
榎木津などは更に食べていたと思うのだが、涼しい顔で茶など飲んでいる。この身体の何処に入っているのだろう。
改めて感心し其の姿を眺めていると、鳶色の瞳がちらりと益田を見た。薄い瞼がにいと細められたのが、湯気越しにも判る。
「――ふうん」
「な、なんですよ」
榎木津が勢い良く湯飲みを置いたので、たぁん、と高い音が響く。
思わずびくついた腕を榎木津の白い手が掴んだ。長い指、桜色の爪。何かきらりと光るものが見え、確かめてみると透明な鱗だった。
「寝室に行くぞ!」
「えぇぇ!な、なんですよ藪から棒に!」
「何だ貴様、魚が食えて僕は食えないと云うのか!贅沢者!勿体無いお化けに祟られて死んでしまえ!」
「誰もそんな事ぁ云ってないでしょうよ、ていうか大声で何て事を」
慌ててちらりと勝手の方を伺う。台所からはひっきりなしに水音と食器がぶつかる音がしていて、和寅がこちらに気づいた様子は無い。
ほうと胸を撫で下ろした隙を突いて、引き立てられてしまった。ずるりとズボンが下がり、慌てて引っ張り上げようとすると益々防御が疎かになる。榎木津の力に抗えない。
「ベルトまで緩めてる癖に」
「こ、此れは腹が苦しいからですよ!無理です無理!今の僕を見ないでくださぁい!」
「女の子みたいな事云うな、気色悪い。普段からお前は骨が当たって痛い位なんだから、むしろ丁度良い」
明け透けな言葉に、一瞬で顔まで血が昇る。
「で、でも僕ァ――手が、そう手が磯臭いんですよ。牡蠣触ったから!食事の前に手は洗ってますけど、どうしてもまだ匂いが取れなくて――」
「どれ」
掴まれた手が、大きな瞳の前に晒される。じっと手を見られていると云うのも、何やら居た堪れない気持ちだ。手から汗が滲んできそうで恥ずかしい。
もう離してください、と云う前に、掌を榎木津の舌が這った。
「ヒィッ!」
「煩い」
生温い感触が掌から、指の先まで這う。濡れて敏感になった箇所に榎木津の息が当たり、犬のように匂いを探られている事までも解って泣きそうだ。指先を前歯で確かめるように噛まれ、爪にかつんと軽い衝撃が伝わる。無邪気さと猥雑さの入り混じった光景に、ついに腰が抜けてしまった。
手だけを吊られた状態で座り込んでいる益田を、榎木津が見下ろしている。緊張で息が苦しい。溜まった涙の向こうに光る電燈と榎木津の姿が揺れて、自分が水の底に居るように思えた。
「え、えの、き、づ、さん――」
「泣くな、馬鹿。確かに磯の匂いがするね。ちょっと潮ッ辛い」
消えたい――益田はそう思った。
最後にまた手首を一舐めし、榎木津が哂う。
「だが――ちゃあんとお前の味だ」
瞠目する益田の前に、榎木津が座り込む。栗色の髪に、鳶色の瞳。白い肌が真珠のように輝いている。其の肌に僅かに朱が差しているのが見える。
「あの、えの、榎木津さんッ」
「なんだ?とうとうやる気になったか」
「そ、そりゃあ、もう――そうなんですけど、あの――」
ふらつく身体を飛び込ませるようにして、榎木津にしがみつく。濡れた手で触れる背中が温かい。榎木津の服がべとべとになってしまうけれど、どうせ直ぐに不要になるのだ。
「こ、腰が抜けて――立てません」
榎木津の顔は見えないけれど、耳元で思い切り笑い声が聞こえる。
顔を埋めた首筋からはやはり海の匂いがするけれど、その奥からは彼の気配が香る。
―――
益榎祭開催おめでとうございますえの!
お祭期間も終わりの方ですが、ひっそりと参加させて頂きます。
テーマの「お祭り」はこういうことじゃない、というお叱りの声が聞こえそうですが…
益田と榎木津の幸せを祈っております。
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