午睡から覚めたばかりの榎木津の目がきらりと輝いた。
色素の薄い瞳が見つめる先は、積み上げられた古書でも、仏頂面で活字を追いかけている主人でも無い。浅黄色の浴衣に埋もれて眠る飼い猫でも無かった。
赤い実を付けた南天の木陰に、ふくふくと丸く雪のように白い何かが居る。
「――にゃんこだ。白にゃんこがいる!新顔だ!」
期待に溢れた声を聞きとがめ、ようやく中禅寺が顔を上げた。
「最近庭に来る野良ですよ。まだ人に慣れていないから―――」
言いかけた時、其処には既に榎木津の姿は無かった。
がさがさと云う音は庭木の間に男が分け入っているからだろう。時折小枝が折れる音もする。中禅寺はあからさまに眉を顰めた。
程なくして戻ってきた榎木津は、案の定あちらこちらに木の葉や砂をくっつけていた。しかし腕の中は空っぽだ。
「逃げられた」
「人の話は聞くものだよ榎さん」
「煩い、本馬鹿!」
榎木津は憮然とした様子で、畳の上に身を投げた。真冬に戸を開け放っての昼寝は流石に堪えるものがあるが、今日のような小春日和には昼寝も悪くは無い。腹の上にあの柔らかそうな生き物を眠らせる事が出来たら更に良かったのに。
榎木津が一歩近寄った途端、閉じていた目を見開いてさっと逃げていってしまった。
「どいつもこいつも馬鹿ばかりだ」
紙が擦れる乾いた音だけが其の声に答える。
陽だまりの中に投げ出した指先が僅かに動き、何かを撫でる真似をした。
猫の腹を擽ったような、或いは、さらりと指の間をすり抜ける黒髪を掬ったような。何度と無く繰り返した仕草。人の名を覚えぬ榎木津も、此の感触は指先が覚えている。
木陰に一瞬垣間見た緑色の目と、細い瞼の中で揺れる黒い瞳が重なる。似ても似つかない二つに重なる部分があるとすれば、浮かぶ驚愕ないし警戒の色だ。其れを見て榎木津があっと思った時には、もう何処か遠くへ逃げ去ってしまっている。
前髪に絡んだ枯葉を取り除き、ふっと吹いた。水気を無くして茶気た葉は呆気なく宙に舞う。
昼下がりの陽光は暖かい。閉じた瞼越しに、眼の奥まで温めてくれるようだ。けれど榎木津が欲しいのは、太陽が失せた夜のもの。確かに腕に収めた筈なのに、夜が明けると朧月のように消えているもの。明るい所で触ってみると、温もりを知る前に戸惑った視線ばかりが榎木津を刺すのだ。
あれだって温もりが嫌いな訳は無いだろうに。解らない事ばかりだ。
「――機嫌が悪いね」
「べェつに」
榎木津はごろりと身を翻し、縁側に出た。板間には日光が良く当たっていて、頬で直に触ると熱い程だ。閉じかけた瞼をふと上げると、縁石の上に白い背中が見える。腕下ろして指で探ると、柔らかな毛並に埋まった。指の甲でするりと撫でてみても、猫は逃げない。背後で本が閉じる音がして、飼い猫がにゃあと鳴いた。
「気は済んだかい?」
「そんなわけあるか、まだまだ足りない」
掌で尻尾を掬った途端、猫は飛び跳ねるようにして立ち上がり、榎木津の手から離れた。同時に姿も見えなくなる。縁側の下にでも潜ってしまったのだろう。
横になっている理由を失い、榎木津はむくりと起き上がった。
「足りないんだよ」
ぎしぎしと云う板鳴りの音が遠ざかり、中禅寺はだるそうに頭を振った。
膝の上で、猫が眠っている。
―――
じれったい。
色素の薄い瞳が見つめる先は、積み上げられた古書でも、仏頂面で活字を追いかけている主人でも無い。浅黄色の浴衣に埋もれて眠る飼い猫でも無かった。
赤い実を付けた南天の木陰に、ふくふくと丸く雪のように白い何かが居る。
「――にゃんこだ。白にゃんこがいる!新顔だ!」
期待に溢れた声を聞きとがめ、ようやく中禅寺が顔を上げた。
「最近庭に来る野良ですよ。まだ人に慣れていないから―――」
言いかけた時、其処には既に榎木津の姿は無かった。
がさがさと云う音は庭木の間に男が分け入っているからだろう。時折小枝が折れる音もする。中禅寺はあからさまに眉を顰めた。
程なくして戻ってきた榎木津は、案の定あちらこちらに木の葉や砂をくっつけていた。しかし腕の中は空っぽだ。
「逃げられた」
「人の話は聞くものだよ榎さん」
「煩い、本馬鹿!」
榎木津は憮然とした様子で、畳の上に身を投げた。真冬に戸を開け放っての昼寝は流石に堪えるものがあるが、今日のような小春日和には昼寝も悪くは無い。腹の上にあの柔らかそうな生き物を眠らせる事が出来たら更に良かったのに。
榎木津が一歩近寄った途端、閉じていた目を見開いてさっと逃げていってしまった。
「どいつもこいつも馬鹿ばかりだ」
紙が擦れる乾いた音だけが其の声に答える。
陽だまりの中に投げ出した指先が僅かに動き、何かを撫でる真似をした。
猫の腹を擽ったような、或いは、さらりと指の間をすり抜ける黒髪を掬ったような。何度と無く繰り返した仕草。人の名を覚えぬ榎木津も、此の感触は指先が覚えている。
木陰に一瞬垣間見た緑色の目と、細い瞼の中で揺れる黒い瞳が重なる。似ても似つかない二つに重なる部分があるとすれば、浮かぶ驚愕ないし警戒の色だ。其れを見て榎木津があっと思った時には、もう何処か遠くへ逃げ去ってしまっている。
前髪に絡んだ枯葉を取り除き、ふっと吹いた。水気を無くして茶気た葉は呆気なく宙に舞う。
昼下がりの陽光は暖かい。閉じた瞼越しに、眼の奥まで温めてくれるようだ。けれど榎木津が欲しいのは、太陽が失せた夜のもの。確かに腕に収めた筈なのに、夜が明けると朧月のように消えているもの。明るい所で触ってみると、温もりを知る前に戸惑った視線ばかりが榎木津を刺すのだ。
あれだって温もりが嫌いな訳は無いだろうに。解らない事ばかりだ。
「――機嫌が悪いね」
「べェつに」
榎木津はごろりと身を翻し、縁側に出た。板間には日光が良く当たっていて、頬で直に触ると熱い程だ。閉じかけた瞼をふと上げると、縁石の上に白い背中が見える。腕下ろして指で探ると、柔らかな毛並に埋まった。指の甲でするりと撫でてみても、猫は逃げない。背後で本が閉じる音がして、飼い猫がにゃあと鳴いた。
「気は済んだかい?」
「そんなわけあるか、まだまだ足りない」
掌で尻尾を掬った途端、猫は飛び跳ねるようにして立ち上がり、榎木津の手から離れた。同時に姿も見えなくなる。縁側の下にでも潜ってしまったのだろう。
横になっている理由を失い、榎木津はむくりと起き上がった。
「足りないんだよ」
ぎしぎしと云う板鳴りの音が遠ざかり、中禅寺はだるそうに頭を振った。
膝の上で、猫が眠っている。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
―――
じれったい。
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