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2024/11/23 03:32 |
5.また、明日
「あぁやっと出てきた、先生おはようございます」

割烹着姿の給仕の背中越しに見える空は、既に青色を失い夜の色に染まりつつある。榎木津は重そうにかぶりを振って、それから片手で乱雑に髪を掻き回した。道理で妙に腹が空いている。

「どうします?夕食、召し上がりますかね。一応鯖なんか用意してあるんですが」
「食べる」
「はいはい」

いそいそと勝手場に消えていく寅吉と入れ替わるように、榎木津はソファに腰を下ろした。散々眠ったのに、どうにも瞼が重い。頭も重い。中に霧がかかっているようだ。見るからにだるそうにしていた所為だろう、盆の上に食器を載せて戻ってきた寅吉が見下ろしてきた。

「先生、大丈夫ですかい?寝すぎも良くないんすよ」
「ずっと寝てた訳じゃない、何回か起きた」
「おや、なら出て来てくれたら良かったのに。そうしたら先生の部屋のお掃除もしたものを」

洗濯物だけ出しておいてくださいよ、と秘書らしくは無いが彼らしい言葉を残して、再び寅吉は背を向ける。返事代わりに欠伸をしたが、慣れたもので振り向きもしない。
なんだか今日は一日中眠たかった。夢と現の間を幾度となく彷徨って、瞬きの間にやたら長い時間が流れるような気がしていた。目を開けるたびに見えるものはいつも同じで、敷布の上にだらりと伸びた自分の腕だけだ。何処にもぶつからず、触れる寝台は暖かくも冷たくも無い。そんな事は当たり前だと思うと同時に、苛立ちやら空虚感やらを覚えてしまう事がまた面倒臭い。自分以外のもののために心を動かしたり砕いたりするのは酷く疲れるので、眠くなってしまっただけだ。
それもこれも全部、今は此処に居ない、あの―――

「バカオロカめっ」

振り上げた足が天板を蹴り上げ、並んでいた食器が僅かに跳ねる。いつの間にか戻ってきていた寅吉が面食らった顔をして榎木津を見ていた。

「む、居たのかゴキブリ男。カサコソ動き回るんじゃない、うっとおしいぞ。ゴキブリならゴキブリらしくもっと音も無く物陰を動かないと叩き潰されても仕方ない」
「私に当たらんでくださいよ。何があったか知りませんが、益田君なら帰りましたよ」
「何?」

云われて見下ろした卓上は、なるほど二人分の準備しかされていない。自分の箸と、寅吉の箸。下僕が勝手に座っているはずの席は空っぽで、代わりに空の盆が立てかけられている。飯櫃の中に残っている米はいつもより多い。
ほんの数ヶ月前までは当たり前の事だったにも関わらず、辺の埋まらない卓は奇妙にすかすかとして見えたが、榎木津は其れを思い出す前に白飯を掻き込んだ。
ご機嫌斜めですなぁ、と溜息を吐きながら寅吉も茶碗を手に取る。飯を口に入れる前に、榎木津に向き直って云った。

「何があったか知りませんが、お叱りなら明日ですな」
「あした」
「そりゃ明日でしょう。寝に帰るとか云ってたからもう寝てるかも判りませんな」
「ふぅん…明日」

その言葉に妙に感慨深げなものを感じて寅吉は顔を上げたが、当の榎木津は何でも無さそうに鯖の白い肌に箸を突き立てている所だったので、何も云わずに目を伏せた。







目の前に並んだ全ての食器が空になると同時に、榎木津はすくりと立ち上がった。

「あっ、先生どこへ」
「寝る」
「えぇっ、本気ですかい。私ゃ今日先生と二時間も顔を合わせちゃいませんよ」

壁掛け時計が示す時刻は確かに榎木津が事務所に出てきてから幾らも経っておらず、一般的な下僕の常識に照らし合わせれば寝るには早すぎるのだろう。榎木津は少し考えて、それから満たされた腹を撫でた。

「…じゃあ風呂でも入って、それから寝る」
「結局寝るんですな」

猫じゃあないんだから、と寅吉は呆れたような感心したような声を上げた。盆の上に空の器を器用に積み上げ、片腕で支えたまま立ち上がる。

「じゃあ私は片付けして自室に引っ込ませて頂きますんで、何かあったら呼んでくださいよ」
「何も無いよ、寝るだけだもの」

榎木津は割烹着の後姿を少し眺め、思いついたように呼び止めた。

「おい和寅!」
「はいはい、何ですか」
「マスヤマは明日来るんだな?」

寅吉は少し濃い眉を顰めた。聞き慣れない質問だったからだ。けれどそう答えに窮する質問でも無い。振り向いた拍子に崩れかけた食器の塔を直しつつ答える。

「さあぁ…本人から直接聞いた訳じゃあありませんが…来るんじゃあないですかね。本人がこれで良いっていうから好きにさせてましたけど長椅子に毛布一枚じゃ疲れが取れる筈も無い。案外元気になって来るかもしれませんな」
「そうか」

それならそれで良い。
居ないものを夢の中に探すより、眠れば訪れる現実の方がずっと榎木津は好きだ。

「和寅ァ!」
「今度は何ですか」

榎木津は今日初めて、にっと歯を見せて笑って見せた。

「また、明日」


―――
『4.今だけでも逢えたら』の同日です。
果報は寝て待つタイプ。



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2009/10/22 21:19 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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