益田は面食らっていた。
いつもの帰路が、満月に照らされて冴え冴えと明るく、それだけで違う道に見えたからでは無い。
黒い影となった街路樹の下に、人間が蹲っていたからでも無い。
死んでいるのではと不安になり覗き込んだ人間の顔がそれこそ人間離れした整いようだったからでも、自分の顔を睨みつけた瞳が美しい琥珀色で、おまけに驚くほど澄んでいたからでも無いのだ。
「え…と、すみません。今何て」
冴えた月明かりを浴びる髪を蜜色に輝かせながら、路上の麗人は再び口を開く。長い脚はぐったりとした様子で冷たい地面に伸びていたが、両の瞳は爛々と光っており、陶器じみた光を放つ肌の中で唇に刷いたような薄桃は失せていない。
「――だから、血を吸わせろと云った。そうでなきゃあお菓子を出しなさい」
面倒そうに動いた口元からちらりちらりと白い牙のようなものが覗いたのを見て、益田は「嗚呼自分が聞いたのはやはり空耳では無かったのだ」と天を仰いだ。華奢な首が顕わになったのを見て、座り込んでいる男は不機嫌そうに吠えた。
「そんな所で伸び上がったって口が届かないじゃないか。何処まで無能なんだ君は」
「ちょ、そんなつもりでやったわけじゃないですよ!ていうか、貴方がその――吸血鬼だとして、普通血を吸わせろとかそういう類の事って美女に云いません?そりゃ罪もないか弱い女性が血ィ吸われてカラカラになるのは僕だって望みませんけど、貴方みたいな美形が行き倒れてるのなんか見たら女性の方から寄ってくるでしょう」
「それで済むならとっくにそうしてる」
云われて、益田は改めて辺りを見渡した。辺りの人家の明かりは殆ど絶えている。今日は月が出ているからとても明るいが、今は真夜中なのだった。電車もとうに終わっている。若い女性がひとり歩きしていることは先ず無いだろう。女性どころか、此処に居る人間は益田とこの男しか居ない。
「ははぁ……」
溜息混じりに益田は改めて男の姿を眺めた。月光の効果も多少はあろうが、こんなにも肌が白い人物を初めて見た。豊かに波打つ髪の毛と同じ色の濃く長い睫に守られた瞳は強く、魔力めいたものがあると云われても信じられる。崩さぬ不遜な態度を見る限り生命力は強そうだが、やはり血の気の無い肌が気になる。彼が言葉通りに人の血を啜って生きる定めならば、本来食餌の対象にならぬ自分のような者にまで声をかけてくる程だ。余程飢えているのだろう。一応鞄やポケットの中身を探ったが、菓子どころか口に入れられそうなものは何一つ出てこなかった。
「参ったなぁ……」
夜が深まり、月光が冴えを増す度に夜風が冷えていく。毛糸の上着を羽織っていて尚夜気は何処からか忍び込んできて、益田は身震いした。改めて見るに、栗色の髪の男は羽織物すら纏っていない。襟の開いたシャツに、仕立ての良さそうなスラックスに革靴。それだけだ。この男が人ならざるものであろうと無かろうと、このままにしておけばきっと死んでしまうだろう。
鳶色の瞳は何時からか伏せられている。益田を見限ったように、或いは諦めてしまったように。
「……」
益田は男の傍らに膝を折って、力の抜けた片腕を自らの肩に引っ掛け、立ち上がった。
「えっと、歩けますか?」
「なんのまねだ」
「いくらなんでもこんな所で朝まで伸びてたら死んじゃいますよ。僕の家まで来てもらえれば、何がしか食べ物はあると思うんで、とりあえず其処まで」
引きずるつもりで踏み出すと、男は思ったより軽い調子で歩を進めた。省みれば鳶色の瞳があからさまに訝しげな色を乗せている。透明度が高い分、表情も豊かなのだろうか。
「――僕は割と長いこと生きているが、君ほどのバカは見た事が無い!」
「酷いなぁ。僕ぁ貴方の為を思ってですね」
「だが――君は偉いね」
瞼がすうと細められると同時に、形の良い唇が笑みの姿を模った。間近で見せられた微笑みがあまりに眩しくて、益田は目を瞬かせる。この男を見つけたのは僅か前の事なのに、何度驚かされたことか。
男はポケットを片手で探り、何かを取り出したかと思うと、「これをあげよう」と云って益田の薄い唇に押し付けてきた。
「わっ、なんですか」
抗議した隙に口内に突っ込まれた物は、一瞬何か判らなかった。軽く、硬い。そして甘い。歯を立てるたびにぼろりと崩れる感触は、どうも焼き目のついた菓子のようだ。
「ビスケット持ってるんじゃないですか」
「おおなんという馬鹿。僕は乾いてるんだ。乾いてる時にこんなもそもそしたもの食べたら乾き死にする!」
乾いているとは思えないほど滑りの良い口で一通り益田を罵倒しながらも、男の視線はじっと益田の横顔に注がれている。長く生きていると云っていたが、興味深げに煌く目は何処か子供のようだ。
「こんなものでも食べてよぉく太るように。そうしたら少しは血を吸いやすくなるだろう」
「えぇッ!や、止めてくださいよぅ!僕なんか骨ばっかだし、食べたって美味しくないですよ」
「その陳腐な台詞を吐いたやつは数え切れないが、僕が血を吸う気になった男はお前が最初だ。光栄に思うが良いよ、バカオロカ」
「バカオロカって何ですか、僕ァ―――」
益田は一瞬言葉を呑んだ。
何時でも自分の首に牙を立てられそうなほど近くに居る彼は、本当に魔物であるらしい。魔物に名前を与えても良いものだろうか。死なない程度の血液ならまだしも、魂まで取られる羽目になっては救われぬ。
「僕ァ―――益田龍一、です」
もう遅いのだ。
彼の微笑みに触れた時、或いは彼に出会ったその瞬間から始まっていたとすれば。
―――
ひとりハロウィン第一夜は吸血鬼榎木津と人間益田でした。
いつもの帰路が、満月に照らされて冴え冴えと明るく、それだけで違う道に見えたからでは無い。
黒い影となった街路樹の下に、人間が蹲っていたからでも無い。
死んでいるのではと不安になり覗き込んだ人間の顔がそれこそ人間離れした整いようだったからでも、自分の顔を睨みつけた瞳が美しい琥珀色で、おまけに驚くほど澄んでいたからでも無いのだ。
「え…と、すみません。今何て」
冴えた月明かりを浴びる髪を蜜色に輝かせながら、路上の麗人は再び口を開く。長い脚はぐったりとした様子で冷たい地面に伸びていたが、両の瞳は爛々と光っており、陶器じみた光を放つ肌の中で唇に刷いたような薄桃は失せていない。
「――だから、血を吸わせろと云った。そうでなきゃあお菓子を出しなさい」
面倒そうに動いた口元からちらりちらりと白い牙のようなものが覗いたのを見て、益田は「嗚呼自分が聞いたのはやはり空耳では無かったのだ」と天を仰いだ。華奢な首が顕わになったのを見て、座り込んでいる男は不機嫌そうに吠えた。
「そんな所で伸び上がったって口が届かないじゃないか。何処まで無能なんだ君は」
「ちょ、そんなつもりでやったわけじゃないですよ!ていうか、貴方がその――吸血鬼だとして、普通血を吸わせろとかそういう類の事って美女に云いません?そりゃ罪もないか弱い女性が血ィ吸われてカラカラになるのは僕だって望みませんけど、貴方みたいな美形が行き倒れてるのなんか見たら女性の方から寄ってくるでしょう」
「それで済むならとっくにそうしてる」
云われて、益田は改めて辺りを見渡した。辺りの人家の明かりは殆ど絶えている。今日は月が出ているからとても明るいが、今は真夜中なのだった。電車もとうに終わっている。若い女性がひとり歩きしていることは先ず無いだろう。女性どころか、此処に居る人間は益田とこの男しか居ない。
「ははぁ……」
溜息混じりに益田は改めて男の姿を眺めた。月光の効果も多少はあろうが、こんなにも肌が白い人物を初めて見た。豊かに波打つ髪の毛と同じ色の濃く長い睫に守られた瞳は強く、魔力めいたものがあると云われても信じられる。崩さぬ不遜な態度を見る限り生命力は強そうだが、やはり血の気の無い肌が気になる。彼が言葉通りに人の血を啜って生きる定めならば、本来食餌の対象にならぬ自分のような者にまで声をかけてくる程だ。余程飢えているのだろう。一応鞄やポケットの中身を探ったが、菓子どころか口に入れられそうなものは何一つ出てこなかった。
「参ったなぁ……」
夜が深まり、月光が冴えを増す度に夜風が冷えていく。毛糸の上着を羽織っていて尚夜気は何処からか忍び込んできて、益田は身震いした。改めて見るに、栗色の髪の男は羽織物すら纏っていない。襟の開いたシャツに、仕立ての良さそうなスラックスに革靴。それだけだ。この男が人ならざるものであろうと無かろうと、このままにしておけばきっと死んでしまうだろう。
鳶色の瞳は何時からか伏せられている。益田を見限ったように、或いは諦めてしまったように。
「……」
益田は男の傍らに膝を折って、力の抜けた片腕を自らの肩に引っ掛け、立ち上がった。
「えっと、歩けますか?」
「なんのまねだ」
「いくらなんでもこんな所で朝まで伸びてたら死んじゃいますよ。僕の家まで来てもらえれば、何がしか食べ物はあると思うんで、とりあえず其処まで」
引きずるつもりで踏み出すと、男は思ったより軽い調子で歩を進めた。省みれば鳶色の瞳があからさまに訝しげな色を乗せている。透明度が高い分、表情も豊かなのだろうか。
「――僕は割と長いこと生きているが、君ほどのバカは見た事が無い!」
「酷いなぁ。僕ぁ貴方の為を思ってですね」
「だが――君は偉いね」
瞼がすうと細められると同時に、形の良い唇が笑みの姿を模った。間近で見せられた微笑みがあまりに眩しくて、益田は目を瞬かせる。この男を見つけたのは僅か前の事なのに、何度驚かされたことか。
男はポケットを片手で探り、何かを取り出したかと思うと、「これをあげよう」と云って益田の薄い唇に押し付けてきた。
「わっ、なんですか」
抗議した隙に口内に突っ込まれた物は、一瞬何か判らなかった。軽く、硬い。そして甘い。歯を立てるたびにぼろりと崩れる感触は、どうも焼き目のついた菓子のようだ。
「ビスケット持ってるんじゃないですか」
「おおなんという馬鹿。僕は乾いてるんだ。乾いてる時にこんなもそもそしたもの食べたら乾き死にする!」
乾いているとは思えないほど滑りの良い口で一通り益田を罵倒しながらも、男の視線はじっと益田の横顔に注がれている。長く生きていると云っていたが、興味深げに煌く目は何処か子供のようだ。
「こんなものでも食べてよぉく太るように。そうしたら少しは血を吸いやすくなるだろう」
「えぇッ!や、止めてくださいよぅ!僕なんか骨ばっかだし、食べたって美味しくないですよ」
「その陳腐な台詞を吐いたやつは数え切れないが、僕が血を吸う気になった男はお前が最初だ。光栄に思うが良いよ、バカオロカ」
「バカオロカって何ですか、僕ァ―――」
益田は一瞬言葉を呑んだ。
何時でも自分の首に牙を立てられそうなほど近くに居る彼は、本当に魔物であるらしい。魔物に名前を与えても良いものだろうか。死なない程度の血液ならまだしも、魂まで取られる羽目になっては救われぬ。
「僕ァ―――益田龍一、です」
もう遅いのだ。
彼の微笑みに触れた時、或いは彼に出会ったその瞬間から始まっていたとすれば。
―――
ひとりハロウィン第一夜は吸血鬼榎木津と人間益田でした。
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