例えば手にしたその箒で、誰よりも高くを飛んでみたくはない?
例えば華奢なその指先に、消えない炎を点してみたくはない?
例えば上滑ってばかりの唇で、誰をも操る言葉を口にしたくは、ないかなぁ?
くらくらと煮える鍋に一滴二滴と雫を垂らすと、鍋の中身はその度に色や匂いを変える。煮立った紫色の波間からひとつ泡が立ち上って消えたのを見計らい、司はコンロの火を消した。粗熱を取って硝子瓶に流し込む動作は果実のジャムを作る様に似ていて、可笑しいと思う。この薬は残念ながらそれほど甘いものでは無いのだ。コルクの栓をしっかり嵌め込み、棚に仕舞う。
「――お待たせ益田ちゃん。ごめんね。あの薬は火加減が大事だからさァ」
「いえそんな、僕こそ急にお邪魔しましてすみません」
ぺこぺこと頭を下げる益田の正面に、司も腰を下ろした。
益田は痩せた肩を竦めて座っていて、横に立て掛けた華奢な箒と兄弟のようで面白い。
「今日は何を教えようか?そうだな、今作った薬を益田ちゃんも作ってみるっていうのはどうかなぁ。アレ一個あると便利なのさ」
「あっ!あの、今日はですね、なんと申しますかその件に関係があるような無いようなあるような」
益田がしどろもどろでそう云うものだから、司はきょとんとしてしまった。益田という若者は此処に来る時はいつも緊張している様子をしているから気が付かなかったが、成程今日は雰囲気がやや違う。
紅茶を啜りながら言葉を待っていると、元通り肩を縮こまらせた益田がぽつりと呟いた。
「魔法使いを……辞めようと思いまして」
「――ふぅん?」
ようやっと益田の姿勢が「申し訳なさそう」だったと云う事に思い至り、司は首を傾げる。目が合った益田は益々居心地悪げに身を固めた。
「その、今まで良くして頂いたのにこんな事云いだして本当」
「ん?イヤイヤ、そりゃあ別に良いんだけどさ。どうしたのさ急に」
そう、如何にも急だ。
益田は目立って魔法の才に富んでいる訳では無い。どう贔屓目に見ても、まぁ良くも悪くも常人程度と云った所だ。話を見聞きするだけで覚えられる程勘も良くなかった。奇声を上げながら転落する彼を掬い上げたのも一度や二度の事では無い。そんな彼が不器用ながらもひとりで空を飛んだり、気配を薄くする力を得られたのは単に彼自身の努力によるものだ。司の所作を視線で追いかけ、真似てみる。彼の熱心な眼差しを色眼鏡越しに
盗み見るのは悪くなかった。
そう、才に欠ける分時間もかかっているのだ。まだささやかな力とは云え、彼の余暇の多くを費やしてやっと得た物を手放そうとする、それだけが不思議でならない。
小さくまとまってしまった身体の中、黒い瞳だけがくるくると泳いでいる。益田は前髪をそっと払い、酷く小さな声で答えた。
「その――ですね、好きな、人が……」
聞いた途端、司は自分の眼が細められるのを自覚した。
いつでも灰白い益田の頬に、僅かな赤みが昇っている。
「ああ、ああ。成程ね。はいはい。セックスすると魔力が消えちゃうって話ね」
「ちょっ、そんな」
明け透けな――そう呟くと、益田は益々顔を真っ赤に染めて項垂れた。面白い子だなァ、と司はいつもそう思う。
司は益田のカップに紅茶のお代わりを注いでやった。澄んだ水面に尖った輪郭が映りこむ。
「うん、まぁ確かに恋人出来たら忙しくなると思うけどさ、またおいでよ。そんな理由なら魔法使いは辞めなくてもいいから」
「えっ」
「迷信だもの。そんな話。それくらいで魔力が消えてちゃあ、今日まで魔法が残ってる訳無いと思わない?」
冷めた紅茶を啜る音だけが室内に響く。
目の前で益田の強張りがゆっくりと解けて行くのが、花が開くようでこれまた面白い。
「えっ、だってそんな、じゃあ司さんは」
「僕が何よ」
「いやっ、その……ははは!何でもありませんけど!」
いつもの彼がする魔女のような甲高い声では無く、乾いた笑い。笑っていない目の中で、瞳が相変わらず落ち着かずに揺れている。
司が卓上に身を乗り出してその漆黒を覗き込むと、解けたばかりの緊張が戻ってきたように益田の身体がぎしりと固まった。
「えぇー、僕童貞に見えた?傷つくなぁ。僕ぁこう見えてなかなかのもんだよ?」
「いやそんな馬鹿な!なんていうかその、見えないだけに、考え込んでしまってしまったりなんかしてしまったりですね」
ああ滑ってる滑ってる。司がくつくつと声を漏らすと、益田は更に動揺を加速させてみせた。泣き出しそうな声で訴える。
「だって司さん、最初僕に云ったじゃないですかァ。魔法使いにならないかって。僕ァてっきり」
「アハハ!別に益田ちゃんが未経験っぽいからって訳じゃないよ。優しい喜久さんはそんな事云わないさぁ。いくら思ってても」
「思ってるんじゃないすか!」
益田が不服げに身を跳ねさせた途端、彼の箒がことりと倒れた。ふらふらと飛んでくる益田の姿は硝子窓からよく見えて、司はその姿を探すのがとても好きだ。
「だってさぁ、益田ちゃんって…」
調子の良い言動と今時の若者らしく重さの無い外見とは裏腹に、驚くほど純粋なものを隠している。
ひとつふたつ注ぐ毎に姿を変えて、揺れてみたり跳ねてみたり、けれど本質は決して揺らがない。
――まるで、魔法のようじゃないか。
―――
第四夜は魔法使い司と見習い魔法使い益田でした。怪に猥談講釈場面が無かったのでかっとなってやった。
例えば華奢なその指先に、消えない炎を点してみたくはない?
例えば上滑ってばかりの唇で、誰をも操る言葉を口にしたくは、ないかなぁ?
くらくらと煮える鍋に一滴二滴と雫を垂らすと、鍋の中身はその度に色や匂いを変える。煮立った紫色の波間からひとつ泡が立ち上って消えたのを見計らい、司はコンロの火を消した。粗熱を取って硝子瓶に流し込む動作は果実のジャムを作る様に似ていて、可笑しいと思う。この薬は残念ながらそれほど甘いものでは無いのだ。コルクの栓をしっかり嵌め込み、棚に仕舞う。
「――お待たせ益田ちゃん。ごめんね。あの薬は火加減が大事だからさァ」
「いえそんな、僕こそ急にお邪魔しましてすみません」
ぺこぺこと頭を下げる益田の正面に、司も腰を下ろした。
益田は痩せた肩を竦めて座っていて、横に立て掛けた華奢な箒と兄弟のようで面白い。
「今日は何を教えようか?そうだな、今作った薬を益田ちゃんも作ってみるっていうのはどうかなぁ。アレ一個あると便利なのさ」
「あっ!あの、今日はですね、なんと申しますかその件に関係があるような無いようなあるような」
益田がしどろもどろでそう云うものだから、司はきょとんとしてしまった。益田という若者は此処に来る時はいつも緊張している様子をしているから気が付かなかったが、成程今日は雰囲気がやや違う。
紅茶を啜りながら言葉を待っていると、元通り肩を縮こまらせた益田がぽつりと呟いた。
「魔法使いを……辞めようと思いまして」
「――ふぅん?」
ようやっと益田の姿勢が「申し訳なさそう」だったと云う事に思い至り、司は首を傾げる。目が合った益田は益々居心地悪げに身を固めた。
「その、今まで良くして頂いたのにこんな事云いだして本当」
「ん?イヤイヤ、そりゃあ別に良いんだけどさ。どうしたのさ急に」
そう、如何にも急だ。
益田は目立って魔法の才に富んでいる訳では無い。どう贔屓目に見ても、まぁ良くも悪くも常人程度と云った所だ。話を見聞きするだけで覚えられる程勘も良くなかった。奇声を上げながら転落する彼を掬い上げたのも一度や二度の事では無い。そんな彼が不器用ながらもひとりで空を飛んだり、気配を薄くする力を得られたのは単に彼自身の努力によるものだ。司の所作を視線で追いかけ、真似てみる。彼の熱心な眼差しを色眼鏡越しに
盗み見るのは悪くなかった。
そう、才に欠ける分時間もかかっているのだ。まだささやかな力とは云え、彼の余暇の多くを費やしてやっと得た物を手放そうとする、それだけが不思議でならない。
小さくまとまってしまった身体の中、黒い瞳だけがくるくると泳いでいる。益田は前髪をそっと払い、酷く小さな声で答えた。
「その――ですね、好きな、人が……」
聞いた途端、司は自分の眼が細められるのを自覚した。
いつでも灰白い益田の頬に、僅かな赤みが昇っている。
「ああ、ああ。成程ね。はいはい。セックスすると魔力が消えちゃうって話ね」
「ちょっ、そんな」
明け透けな――そう呟くと、益田は益々顔を真っ赤に染めて項垂れた。面白い子だなァ、と司はいつもそう思う。
司は益田のカップに紅茶のお代わりを注いでやった。澄んだ水面に尖った輪郭が映りこむ。
「うん、まぁ確かに恋人出来たら忙しくなると思うけどさ、またおいでよ。そんな理由なら魔法使いは辞めなくてもいいから」
「えっ」
「迷信だもの。そんな話。それくらいで魔力が消えてちゃあ、今日まで魔法が残ってる訳無いと思わない?」
冷めた紅茶を啜る音だけが室内に響く。
目の前で益田の強張りがゆっくりと解けて行くのが、花が開くようでこれまた面白い。
「えっ、だってそんな、じゃあ司さんは」
「僕が何よ」
「いやっ、その……ははは!何でもありませんけど!」
いつもの彼がする魔女のような甲高い声では無く、乾いた笑い。笑っていない目の中で、瞳が相変わらず落ち着かずに揺れている。
司が卓上に身を乗り出してその漆黒を覗き込むと、解けたばかりの緊張が戻ってきたように益田の身体がぎしりと固まった。
「えぇー、僕童貞に見えた?傷つくなぁ。僕ぁこう見えてなかなかのもんだよ?」
「いやそんな馬鹿な!なんていうかその、見えないだけに、考え込んでしまってしまったりなんかしてしまったりですね」
ああ滑ってる滑ってる。司がくつくつと声を漏らすと、益田は更に動揺を加速させてみせた。泣き出しそうな声で訴える。
「だって司さん、最初僕に云ったじゃないですかァ。魔法使いにならないかって。僕ァてっきり」
「アハハ!別に益田ちゃんが未経験っぽいからって訳じゃないよ。優しい喜久さんはそんな事云わないさぁ。いくら思ってても」
「思ってるんじゃないすか!」
益田が不服げに身を跳ねさせた途端、彼の箒がことりと倒れた。ふらふらと飛んでくる益田の姿は硝子窓からよく見えて、司はその姿を探すのがとても好きだ。
「だってさぁ、益田ちゃんって…」
調子の良い言動と今時の若者らしく重さの無い外見とは裏腹に、驚くほど純粋なものを隠している。
ひとつふたつ注ぐ毎に姿を変えて、揺れてみたり跳ねてみたり、けれど本質は決して揺らがない。
――まるで、魔法のようじゃないか。
―――
第四夜は魔法使い司と見習い魔法使い益田でした。怪に猥談講釈場面が無かったのでかっとなってやった。
PR
「おいテメェ、青木、大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫です。法具も、先輩の教えも、忘れてません」
「これまで俺が育ててやったんだ、霊なんぞに付け込まれるような事ァ無ぇとは思うが――テメェは情がありすぎんだよ。生きた人間にしか見えない奴も居やがる、そんな連中程祓い屋を騙す技を心得てるもんだ」
情が深すぎる点については木場も人の事は云えないと思ったが、黙っていた。厳つく骨ばった木場の顔に、いつもと違う心配の色が乗っていた事を青木は解っている。今日は青木にとって一種の卒業試験であり、祓い屋としての初めての実戦なのだから、むしろ心配して貰えて有難かったと云うものだ。
お守り代わりにとぶっきらぼうな手付きで預けられた数珠をスーツの手首に隠して、青木は夜の道を歩いている。出来合いのスーツは青木を何の力も無い青年にしか見せないが、この衣装を着ている目的は達成されている。最近は霊も随分利口になって、祓い屋でござい、と云わんばかりの格好で歩いていては姿を見せないのだと云う。仕事終わりの会社員の振りをして、何でも無い顔で青木は木場に告げられた場所へと向かった。
川の上を渡る、木組みの小さな橋。橋の中央で急流を見下ろしている男の幽霊を祓う。
それが今夜の青木に課せられた仕事だった。
真下の川に飛び込んだ男は、溺れて死んだのでは無い。見た目より浅い川の底に頭をぶつけて死んだのだ。あっと云う間すぎて、自分が死んだ事に気づけなかったようだ。肉体を失った今になっても、何度でも川に飛び込んで見せては往来の人間を驚かせているのだそうだ。頓馬な野郎だ、と木場は云っていた。
「…あれ、かな…」
気づけば往来する人波を外れ、ざあざあと流れる川の音が五月蝿い程だ。
木製の橋に足を掛けた青木は、直ぐに気が付いた。橋の中央に誰か居る。欄干に上体をもたれさせて、うつむいて流れる川を見ている。聞いた通りだ。青木が何気なく歩み寄るうち、段々幽霊の姿形が見えてきた。長い前髪が覆いかぶさって顔は解らないが、若い男のようだ。
「――こんばんは」
青木がそう呼びかけると、幽霊は顔を上げた。青褪めた細面の中、目尻だけが不思議に紅い。幽霊は青木の姿を認めると、腫らした目を丸くして驚いたように云った。
「あの――貴方、僕が見えるんですか」
「はい――何故?」
「いやお恥ずかしい話なんですけど、僕ぁずっと此処で泣いてたんです。時々人が後ろを通るんですが、声をかけてくれたのは貴方が初めてで。僕は誰にも見えないものになったんじゃないかって、ちょっと心配してたんですよね」
目を手の甲で擦りながら、幽霊は笑った。青木は口元に拳を当ててつられ笑いをする振りをしながら、男の姿を確かめる。命が無いとは思えぬほどの実体感だ。足も在る。成程、これでは騙されてしまうかもしれない――そう思った。隠した数珠を握り込む。
「どうして泣いているのか、伺っても良いですか」
「えっそんな、話す程の事も無いですし」
「此処で会ったのも何かの縁です。話す事で少しは楽になるかも知れない。勿論貴方さえ良ければ――ですが」
青木はさりげなく距離を詰め、自分も欄干に身体を預けた。見下ろす川は黒く、轟音を立てて流れている。
ともかく気づかれず横に立つ事に成功した。青木はそっとポケットに手を差し込み、一枚の紙片を引き出す。只の紙片では無い。魔力を込めた護符は、命無き者に貼り付ける事で妄執ごとこの世から引き剥がす事が出来る。いつもは先輩が作った物を使っていたが、今回は青木が自ら念を込め、作り上げた物だ。
護符を隠した青木の掌が、霊の背中にそっと触れた。
「元気を出してください。こんな処に留まっていても、貴方の為にならない」
「…はい、有難うございます」
男は護符を背中に貼り付けたまま、すんと鼻を鳴らしながらも微笑を浮かべている。
護符は力無く剥がれ落ち、音も無く宙を滑って濁流の中へと消えていった。
「………あれ?」
「どうしましたか」
「いや、何でも」
護符が効かない。青木は内心の動揺を抑えつつ、何でも無いような顔を作って闇の中を見つめた。
作り方を間違えただろうか。いや、それは無い。何度も確かめた。木場が大雑把に書き上げた護符が幾人もの霊を昇天させたのも見ている。幽霊は相変わらず、時折鼻を啜りながら隣に立っている。この実体感だ、見た目によらず大分強い霊という事なのだろう。自分の未熟な法力では相手にならなかったという話か。
落ち込んでいる場合では無い。青木は鞄の中から水筒を抜き取った。
「泣いたら喉が渇いたでしょう。酒でも如何ですか」
「なんでお酒なんか持って歩いてるんですよ。貴方真面目そうな顔して、中々悪い人ですねェ」
そう云いながらも、彼はけらけらと嬉しそうに笑っている。青木も今度はつられてでは無く、本当に笑えた。
(笑う幽霊なんか、初めて見たな)
木場に付き従っていた時は、大概は俯いて誰に聞かせるでもない恨み言を呟いているか、牙を剥いて襲い掛かってくるような連中ばかり見ていた。泣き腫らした目を細めて楽しげに笑う彼も、自分が祓い屋であると知った途端、同じようになるのだろうか。そんな姿は見たくない。青木は水筒を手渡した。
水筒の中には、神の前に供える霊酒が入っている。力で祓うのでは無く、内側から鎮めてやれば苦痛を与えずに逝かせる事が出来るはずだ。その笑顔を損なわせることも無く。
「酒席で飲みきれなくて、持ち帰ってきたんです。そんなに無いですから全部飲んでしまってください」
「そうですか?じゃあ遠慮なく」
幽霊は透明な酒を口に含み、一息に飲み干した。酒に溶け込んだ霊力はきっと彼を輪廻の輪に戻すだろう。
と、思っていたのだが。
「ああこりゃあいいお酒ですねェ。いい心持ちだなァ」
「…………あれ?」
「何か?あれ、本当に全部飲んじゃったんですけど、不味かったですか」
「いや……」
返された水筒を改めても、本当に中は空っぽだ。僅かに残った水滴からも迸るほど強い力を持っていたはずなのに。
霊は相変わらず平然として、それどころか幾分元気になったようだ。見上げてくる黒い瞳には親愛の情すら芽生え始めている。
真っ白になりかけた頭に、木場の言葉が蘇ってきた。
『いいかお前、護符だの神酒だのってモンは所詮オマケよ。俺達の仕事で最後にモノ云うのは足と、コレだ』
『コレ?』
『現場百辺って前も云ったろうが。何度でも会って、話聞いてやれ。襲い掛かってくるような奴ァどうしようもねぇが、ぽつんと取り残されてるようなやつには何か理由ってモンがあんだよ』
『情を移すなって云ったの先輩じゃないですか』
『だから、そう云う話じゃねんだよ。本当にテメェは―――』
冷たい風が吹き抜けて、傍らに立つ幽霊の前髪を浚う。まともに顕わになった顔は、物云わぬ青木を不思議そうに見ている。青木は口を開いた。
「――名前を」
「は、はい?」
「いつまでも貴方貴方では変でしょう。貴方の名前を聞かせてください」
「えぇ、何ですよ藪から棒に。いいじゃないですかそんなの、僕らァ所詮行きずりの仲で」
「確かにそうでした――今までは」
所在無げに欄干に乗っていた手を取ると、幽霊の身体がびくついた。実体感にふさわしくしっかりと握る事が出来たが、やはり酷く冷たい。その事が青木にとって妙に哀しい。
「僕は仕事で此処に来たんです。貴方に声を掛けたのも、本当は偶然じゃない――謝ります」
「そんな、謝るなんて。僕こそ何ていうか有難かったと云うか、その」
「貴方が泣かずに良くなるまで、僕は何度でも此処に来ます。ですから、名前を教えてください。貴方が僕の事を忘れてしまわないように」
「そんな――」
「僕は青木と云います。貴方は?」
見据えた瞳が、水を湛えている。眼下を流れる川のように深い漆黒。けれどその涙は、流れ落ちてしまえば透明な雫になるのだろう。
幽霊は唇を震わせながら、零すように答えた。
「ますだ――益田です」
「益田君」
青木は手を強く握り締めた。
この男がこれ以上、望まぬ死を選ばぬようにしなければならない。酒を勧めた時に見せてくれた笑顔を、曇らせないようにしなければ。
それはもはや職務を超えたところにある目標のような気もする。
そう思うだけで、握りこんだ手に熱が宿るような感じがして、青木は益々強く益田を見つめた。
■
今にも崩れそうな丸木橋の上で、男の怒号が響き渡る。
「青木の野郎、どこで油売ってやがんだ!」
木場はそう吠えると、力を放出し終わった護符を力任せに投げ出した。
いつまで経っても戻ってこないので探しに行ってみれば、橋から身を投げようとしている初老の男に出くわした。止めに入ってみればその身体はするりと木場をすり抜けた。条件反射的に祓ってしまってから、青木が祓うべき霊だったと云うことに気が付いた。
結果的に試験を邪魔してしまった事を謝り、ついでに遅刻に対して叱ってやろうとずっと待っているのだが、依然青木は姿を見せない。
「まだまだ卒業させられそうに無ぇな……っぐしっ!」
盛大なくしゃみが夜闇にこだまする。木場は鼻を啜り上げた。
「チキショウ、こんな夜中に外に何時間も立たせやがって」
すっかり手が冷えちまった。
木場は自分の大きな両手を擦り合わせながら、闇の中を睨み続けている。
―――
第3夜は新米祓い屋青木と結局人間だった益田でした。内容が無い話で…すみません…。
「大丈夫です。法具も、先輩の教えも、忘れてません」
「これまで俺が育ててやったんだ、霊なんぞに付け込まれるような事ァ無ぇとは思うが――テメェは情がありすぎんだよ。生きた人間にしか見えない奴も居やがる、そんな連中程祓い屋を騙す技を心得てるもんだ」
情が深すぎる点については木場も人の事は云えないと思ったが、黙っていた。厳つく骨ばった木場の顔に、いつもと違う心配の色が乗っていた事を青木は解っている。今日は青木にとって一種の卒業試験であり、祓い屋としての初めての実戦なのだから、むしろ心配して貰えて有難かったと云うものだ。
お守り代わりにとぶっきらぼうな手付きで預けられた数珠をスーツの手首に隠して、青木は夜の道を歩いている。出来合いのスーツは青木を何の力も無い青年にしか見せないが、この衣装を着ている目的は達成されている。最近は霊も随分利口になって、祓い屋でござい、と云わんばかりの格好で歩いていては姿を見せないのだと云う。仕事終わりの会社員の振りをして、何でも無い顔で青木は木場に告げられた場所へと向かった。
川の上を渡る、木組みの小さな橋。橋の中央で急流を見下ろしている男の幽霊を祓う。
それが今夜の青木に課せられた仕事だった。
真下の川に飛び込んだ男は、溺れて死んだのでは無い。見た目より浅い川の底に頭をぶつけて死んだのだ。あっと云う間すぎて、自分が死んだ事に気づけなかったようだ。肉体を失った今になっても、何度でも川に飛び込んで見せては往来の人間を驚かせているのだそうだ。頓馬な野郎だ、と木場は云っていた。
「…あれ、かな…」
気づけば往来する人波を外れ、ざあざあと流れる川の音が五月蝿い程だ。
木製の橋に足を掛けた青木は、直ぐに気が付いた。橋の中央に誰か居る。欄干に上体をもたれさせて、うつむいて流れる川を見ている。聞いた通りだ。青木が何気なく歩み寄るうち、段々幽霊の姿形が見えてきた。長い前髪が覆いかぶさって顔は解らないが、若い男のようだ。
「――こんばんは」
青木がそう呼びかけると、幽霊は顔を上げた。青褪めた細面の中、目尻だけが不思議に紅い。幽霊は青木の姿を認めると、腫らした目を丸くして驚いたように云った。
「あの――貴方、僕が見えるんですか」
「はい――何故?」
「いやお恥ずかしい話なんですけど、僕ぁずっと此処で泣いてたんです。時々人が後ろを通るんですが、声をかけてくれたのは貴方が初めてで。僕は誰にも見えないものになったんじゃないかって、ちょっと心配してたんですよね」
目を手の甲で擦りながら、幽霊は笑った。青木は口元に拳を当ててつられ笑いをする振りをしながら、男の姿を確かめる。命が無いとは思えぬほどの実体感だ。足も在る。成程、これでは騙されてしまうかもしれない――そう思った。隠した数珠を握り込む。
「どうして泣いているのか、伺っても良いですか」
「えっそんな、話す程の事も無いですし」
「此処で会ったのも何かの縁です。話す事で少しは楽になるかも知れない。勿論貴方さえ良ければ――ですが」
青木はさりげなく距離を詰め、自分も欄干に身体を預けた。見下ろす川は黒く、轟音を立てて流れている。
ともかく気づかれず横に立つ事に成功した。青木はそっとポケットに手を差し込み、一枚の紙片を引き出す。只の紙片では無い。魔力を込めた護符は、命無き者に貼り付ける事で妄執ごとこの世から引き剥がす事が出来る。いつもは先輩が作った物を使っていたが、今回は青木が自ら念を込め、作り上げた物だ。
護符を隠した青木の掌が、霊の背中にそっと触れた。
「元気を出してください。こんな処に留まっていても、貴方の為にならない」
「…はい、有難うございます」
男は護符を背中に貼り付けたまま、すんと鼻を鳴らしながらも微笑を浮かべている。
護符は力無く剥がれ落ち、音も無く宙を滑って濁流の中へと消えていった。
「………あれ?」
「どうしましたか」
「いや、何でも」
護符が効かない。青木は内心の動揺を抑えつつ、何でも無いような顔を作って闇の中を見つめた。
作り方を間違えただろうか。いや、それは無い。何度も確かめた。木場が大雑把に書き上げた護符が幾人もの霊を昇天させたのも見ている。幽霊は相変わらず、時折鼻を啜りながら隣に立っている。この実体感だ、見た目によらず大分強い霊という事なのだろう。自分の未熟な法力では相手にならなかったという話か。
落ち込んでいる場合では無い。青木は鞄の中から水筒を抜き取った。
「泣いたら喉が渇いたでしょう。酒でも如何ですか」
「なんでお酒なんか持って歩いてるんですよ。貴方真面目そうな顔して、中々悪い人ですねェ」
そう云いながらも、彼はけらけらと嬉しそうに笑っている。青木も今度はつられてでは無く、本当に笑えた。
(笑う幽霊なんか、初めて見たな)
木場に付き従っていた時は、大概は俯いて誰に聞かせるでもない恨み言を呟いているか、牙を剥いて襲い掛かってくるような連中ばかり見ていた。泣き腫らした目を細めて楽しげに笑う彼も、自分が祓い屋であると知った途端、同じようになるのだろうか。そんな姿は見たくない。青木は水筒を手渡した。
水筒の中には、神の前に供える霊酒が入っている。力で祓うのでは無く、内側から鎮めてやれば苦痛を与えずに逝かせる事が出来るはずだ。その笑顔を損なわせることも無く。
「酒席で飲みきれなくて、持ち帰ってきたんです。そんなに無いですから全部飲んでしまってください」
「そうですか?じゃあ遠慮なく」
幽霊は透明な酒を口に含み、一息に飲み干した。酒に溶け込んだ霊力はきっと彼を輪廻の輪に戻すだろう。
と、思っていたのだが。
「ああこりゃあいいお酒ですねェ。いい心持ちだなァ」
「…………あれ?」
「何か?あれ、本当に全部飲んじゃったんですけど、不味かったですか」
「いや……」
返された水筒を改めても、本当に中は空っぽだ。僅かに残った水滴からも迸るほど強い力を持っていたはずなのに。
霊は相変わらず平然として、それどころか幾分元気になったようだ。見上げてくる黒い瞳には親愛の情すら芽生え始めている。
真っ白になりかけた頭に、木場の言葉が蘇ってきた。
『いいかお前、護符だの神酒だのってモンは所詮オマケよ。俺達の仕事で最後にモノ云うのは足と、コレだ』
『コレ?』
『現場百辺って前も云ったろうが。何度でも会って、話聞いてやれ。襲い掛かってくるような奴ァどうしようもねぇが、ぽつんと取り残されてるようなやつには何か理由ってモンがあんだよ』
『情を移すなって云ったの先輩じゃないですか』
『だから、そう云う話じゃねんだよ。本当にテメェは―――』
冷たい風が吹き抜けて、傍らに立つ幽霊の前髪を浚う。まともに顕わになった顔は、物云わぬ青木を不思議そうに見ている。青木は口を開いた。
「――名前を」
「は、はい?」
「いつまでも貴方貴方では変でしょう。貴方の名前を聞かせてください」
「えぇ、何ですよ藪から棒に。いいじゃないですかそんなの、僕らァ所詮行きずりの仲で」
「確かにそうでした――今までは」
所在無げに欄干に乗っていた手を取ると、幽霊の身体がびくついた。実体感にふさわしくしっかりと握る事が出来たが、やはり酷く冷たい。その事が青木にとって妙に哀しい。
「僕は仕事で此処に来たんです。貴方に声を掛けたのも、本当は偶然じゃない――謝ります」
「そんな、謝るなんて。僕こそ何ていうか有難かったと云うか、その」
「貴方が泣かずに良くなるまで、僕は何度でも此処に来ます。ですから、名前を教えてください。貴方が僕の事を忘れてしまわないように」
「そんな――」
「僕は青木と云います。貴方は?」
見据えた瞳が、水を湛えている。眼下を流れる川のように深い漆黒。けれどその涙は、流れ落ちてしまえば透明な雫になるのだろう。
幽霊は唇を震わせながら、零すように答えた。
「ますだ――益田です」
「益田君」
青木は手を強く握り締めた。
この男がこれ以上、望まぬ死を選ばぬようにしなければならない。酒を勧めた時に見せてくれた笑顔を、曇らせないようにしなければ。
それはもはや職務を超えたところにある目標のような気もする。
そう思うだけで、握りこんだ手に熱が宿るような感じがして、青木は益々強く益田を見つめた。
■
今にも崩れそうな丸木橋の上で、男の怒号が響き渡る。
「青木の野郎、どこで油売ってやがんだ!」
木場はそう吠えると、力を放出し終わった護符を力任せに投げ出した。
いつまで経っても戻ってこないので探しに行ってみれば、橋から身を投げようとしている初老の男に出くわした。止めに入ってみればその身体はするりと木場をすり抜けた。条件反射的に祓ってしまってから、青木が祓うべき霊だったと云うことに気が付いた。
結果的に試験を邪魔してしまった事を謝り、ついでに遅刻に対して叱ってやろうとずっと待っているのだが、依然青木は姿を見せない。
「まだまだ卒業させられそうに無ぇな……っぐしっ!」
盛大なくしゃみが夜闇にこだまする。木場は鼻を啜り上げた。
「チキショウ、こんな夜中に外に何時間も立たせやがって」
すっかり手が冷えちまった。
木場は自分の大きな両手を擦り合わせながら、闇の中を睨み続けている。
―――
第3夜は新米祓い屋青木と結局人間だった益田でした。内容が無い話で…すみません…。
足首に食い込む刃が、鈍い光を放っている。痛みによって罠の存在に気づいた時にはもっとぎらぎらと光っていたように思うが、滲み出た彼自分の血で雲ってしまったのか、それとも目の前が朦朧としているだけなのか。傷口を見ていると痛みが蘇ってきそうで、僕は目を細めてそっぽを向いた。
身体が半ば雪に埋もれていることで、良かったことと悪かったことがある。良かったことは、傷口の痛みが麻痺してもうそんなに痛くはないということ。悪かったことは、もうとにかく寒くて寒くて仕方が無いということだ。四肢の先端は冷たいを通り越してただじんじんと痺れているし、腹も冷えている。腹どころか内臓も冷えている。これは物凄く――危ないと思う。何せまだ短い人生、こんな危機に直面したことが無かったので、何がどう危ないのかは具体的には知らない。ただ、この雪深い箱根山で二度と出会う事の無かった仲間たちの行方と何か関係があるように思えて、寒さとは関係無く身が震えた。
尖った鼻先を天に向けると、葉の落ちた木々の隙間から明るい月が見下ろしているのが見えた。月はいくら明るくとも、太陽のように暖めてくれる訳ではない。悲しげな声を上げて鼻を鳴らしても、誰も助けてくれない。
(僕ぁこのまま此処で終わるのかなぁ――)
漠然とそう考えていると、突然茂みががさがさと蠢き、僕は咄嗟に身を起こした。飛び散った雪の塊の向こうに、なにやら大きな影が見える。
(えっ)
片足は鎖に繋がれていて、おまけに刃物が食い込んでいる。一応足を引いてみたが、抉られた傷口が悲鳴を上げるばかりで。逃げる事は不可能だ。仲間のものよりもずっと大きな気配は、近づいてきている。
(狼!? いやまさか…クマ!? いやいやまさか…)
身動きが取れない中、頭だけが必死に回っているのを感じる。この深い雪の中にあっては、狼も熊も等しく飢えているに違いない。きっと血の匂いを嗅ぎ付けてやってきたのだ。
しかし今頭の中を占めているのは、もっと違う生き物だった。この罠を仕掛けた、得体の知れない何か。母親のその母親の母親から、ずっと伝え続けられていた事を今更思い出していた。
―アレに捕まったら、死ぬより恐ろしい目に遭わされるのだよ―
そして遂に姿を現した『アレ』を目の当たりにした僕は、凍りついたように全ての思考が止まってしまうのを感じた。
「――おお、こんな所に何か居るじゃないか!」
(嗚呼――!)
『アレ』は二人居た。一人は、寒そうに背を丸めて立っている。その顔は山の中でも良く見かける猿を大きくしたようなもので、話に聞くよりも恐ろしくは無い。もう一人は罠の傍らにしゃがみ込んで、大きな瞳でまじまじと眺めている。こっちの方は想像してみたことも無い姿かたちをしていたので、恐ろしがれば良いのか違うのかも良く判らなかった。
二人の『人間』は僕を真ん中に据えて、何やら話し合っている。
「これは酷い。綺麗な脚が真っ赤っ赤になってしまっているじゃないか!よおし痛いだろう。直ぐに外してやるぞ」
「良いのかい?その罠を仕掛けたのはきっと地元の猟師だろう。獲物を勝手に逃がしてしまって…」
「猟師と云うからには猟をするのが仕事のはずだぞ。鉄砲やら弓矢やら持って追いかけてバンとやるのが猟だ。こんな所にトラバサミなんか仕掛けて放っといて自分は家の中でぬくぬく眠っているのなんか猟じゃない!大体トラバサミというなら虎を取れば良い。これはどう見たって虎じゃないだろう」
「そりゃあまぁ、虎では無いけども」
「虎じゃないんだから釣りで云うなら外道だ。外道は逃がすものだ。そうでなくたって僕のする事に文句云えるやつなんか居ない!」
バチン、と音を立てて刃が口を開いた。固まっている僕を無視し、白い手は真新しい傷口にぐるぐると何か布を巻きつけた。痛みが全く治まったとは云わないまでも、仲間のもとまでは歩いていけそうだ。
「そうら、これで良い。行きなさい」
ぽん、と背を叩かれ、僕は雪原へと駆け出した。茂みの中に飛び込んで、そっと様子を伺う。二人の人間は足跡を残して元来た道を引き返していく所だった。
(あれが、人間かぁ――)
乾いた血がこびり付いているからっぽの罠が、月光に照らされている。
少し考えてから、雪面に残った二つの足跡を追いかけた。小さな足跡が点々と続いていく。
恩を返したい。というか、自分もあんな風になりたい。なってみたい。
まだ痛む後足を引きずりながら、僕――若い狐は強く思っていた。
■
どうにか転がり込んだあの時の人間――榎木津さんの居室の窓から往来を見下ろしながら、そんな事を思い出していた。いやぁ人間やる気になれば何でも出来るもんだなぁ、僕ぁ厳密には人間じゃないけど――などと考えていると、背後で扉が開く気配がした。
「益田君、益田君」
「あぁはい和寅さん、なんでしょう」
呼ばれて振り向けば、そこにはぶすくれた顔をした和寅さんが立っている。和寅さんは大股でずかずかと近づいてくると、手にした箒で僕の尻を小突いてきた。
「尻尾!出てる!」
云われてみると確かに、毛足の長い山吹色の尻尾がゆらゆら揺れている。自慢の尻尾だけれど、この姿で尻尾を生やしていたら変態以外の何者でもないとここ数ヶ月の生活で僕は学んでいた。いつも持ち歩いている木の葉を頭に乗せて秘伝の呪文を唱えれば、嘘のように尻尾はかき消える。
「いやぁどうもどうも、気が緩んじゃってつい」
「どうもどうもじゃないよ。何処に人の目があるか解らないんだからそんな事じゃあ此処じゃあ生きて行けないんだ」
「この身体が心許ないんですよう。足だって二本しか無いし、尻尾でも出しとかないとバランス取れないじゃないすか。耳もこんな小さいし変な所についてるから聞こえが悪いし。まぁそこは毎日の耳掃除で何とかフォローしてるんですけどね?」
「そんな事は承知の上で人里に降りてきたんだろう。文句があるなら山に帰るがいいですぜ。止めやしないから」
和寅さんは良い先輩なのだが、偶にこうしてお小言を云ってくるから参る。僕は調子よく笑って、誤魔化しの体勢に入った。
「ありゃりゃ手厳しい。生憎ですけどね、僕ぁ此処で仕事続けますよ。和寅さんこそ偶には実家の山に帰って尻尾の虫干しでもすればいいんですよ」
和寅さんの丸い頬がぷうと膨れたので、僕は一瞬正体を明かしたのかと思ってしまった。けれど僕より少し年上の彼はそんな事くらいでは文字通り尻尾を出したりはしないらしい。
「私の家は代々榎木津家の裏山に住まわせて頂いてるんだ。ご奉公させて貰わないと」
はぁそりゃ大変だ、と適当な事を云って僕は再び窓の外に視線を投げた。大小の人間が蟻のように行き交っている。誰一人尻尾をくっつけている者は居ない。
「こうして見てると誰が人間で誰がキツネかなんて解らないですよねぇ」
和寅さんも僕の横から顔を出してきた。やはり彼からは獣のにおいがする。僕と似ているようで、全然違うにおいだ。近づいて慎重にかぎわけなければ解らない程微かなものだから、此処に飛び込んできて直ぐ和寅さんに呼び止められて「君、狐だろう」と云われた時は面食らってしまった。そんな僕を落ち着かせるように茶色くてふくふくした丸い尻尾を見せてくれた優しさは幻でしたとでも云うように、冷たい眼差しが僕を射る。
「君が化けるのが下手なんだ。化かすつもりならもう少し上手くやりたまえよ」
「ひっどいなぁ。僕ぁ上手く化けてるつもりですよ?そりゃあまだまだ美女に化けてお侍の馬を掠め取るなんて芸当は無理ですけどね。電車乗ってここまで来るまで誰にも気づかれなかったし」
呆れた溜息を吐いて、和寅さんは窓にもたれて遠くを見ている。空は青いが、ほんの少し煙っている。人が沢山居る場所では仕方ないのだと教えてくれたのも彼だった。
人間は不思議だ。あんなに沢山居て、街は危険な事ばかりなのに、群れを作らないなんて。そのくせ探偵助手である僕の所には「彼女が居なければ生きていけない」とか「彼無しには居られない」という人がしばしばやって来る。
でも僕は、榎木津さんがそんな事を云っているのを聞いたことが無い。
「不思議だなぁ、榎木津さんって」
「なんだね今更」
「榎木津さんは、もし僕が狐だって知っても追い出したりしないですかね」
「うちの先生はそんな事じゃあ追い出したりしないよ。追い出されるとしたらそりゃあ、君が何かやらかした時だろうな」
「ちょっと、止めてくださいよ!縁起が悪いなぁ」
「イヤならせめて私の仕事を手伝いたまえよ。猫の手も借りたい程忙しいんだから、油売ってる暇なんか無いよ」
「はァいお貸ししますよう。狐の手でよければ」
両手の先を丸めてふざけてみせると、和寅さんは大げさに肩を竦めた。手渡された箒を受け取る時に、僅かに掠めた指先が知らない体温を知覚する。――ああそうか。これが人の身体というものか。
その考えは唐突ではあったものの、既に用意されていた場所があるように、すとんと僕の、見せ掛けの身体の中に落ちてきた。
―――
第二夜はキツネ益田とタヌキ和寅でした。もうハロウィンじゃない。
身体が半ば雪に埋もれていることで、良かったことと悪かったことがある。良かったことは、傷口の痛みが麻痺してもうそんなに痛くはないということ。悪かったことは、もうとにかく寒くて寒くて仕方が無いということだ。四肢の先端は冷たいを通り越してただじんじんと痺れているし、腹も冷えている。腹どころか内臓も冷えている。これは物凄く――危ないと思う。何せまだ短い人生、こんな危機に直面したことが無かったので、何がどう危ないのかは具体的には知らない。ただ、この雪深い箱根山で二度と出会う事の無かった仲間たちの行方と何か関係があるように思えて、寒さとは関係無く身が震えた。
尖った鼻先を天に向けると、葉の落ちた木々の隙間から明るい月が見下ろしているのが見えた。月はいくら明るくとも、太陽のように暖めてくれる訳ではない。悲しげな声を上げて鼻を鳴らしても、誰も助けてくれない。
(僕ぁこのまま此処で終わるのかなぁ――)
漠然とそう考えていると、突然茂みががさがさと蠢き、僕は咄嗟に身を起こした。飛び散った雪の塊の向こうに、なにやら大きな影が見える。
(えっ)
片足は鎖に繋がれていて、おまけに刃物が食い込んでいる。一応足を引いてみたが、抉られた傷口が悲鳴を上げるばかりで。逃げる事は不可能だ。仲間のものよりもずっと大きな気配は、近づいてきている。
(狼!? いやまさか…クマ!? いやいやまさか…)
身動きが取れない中、頭だけが必死に回っているのを感じる。この深い雪の中にあっては、狼も熊も等しく飢えているに違いない。きっと血の匂いを嗅ぎ付けてやってきたのだ。
しかし今頭の中を占めているのは、もっと違う生き物だった。この罠を仕掛けた、得体の知れない何か。母親のその母親の母親から、ずっと伝え続けられていた事を今更思い出していた。
―アレに捕まったら、死ぬより恐ろしい目に遭わされるのだよ―
そして遂に姿を現した『アレ』を目の当たりにした僕は、凍りついたように全ての思考が止まってしまうのを感じた。
「――おお、こんな所に何か居るじゃないか!」
(嗚呼――!)
『アレ』は二人居た。一人は、寒そうに背を丸めて立っている。その顔は山の中でも良く見かける猿を大きくしたようなもので、話に聞くよりも恐ろしくは無い。もう一人は罠の傍らにしゃがみ込んで、大きな瞳でまじまじと眺めている。こっちの方は想像してみたことも無い姿かたちをしていたので、恐ろしがれば良いのか違うのかも良く判らなかった。
二人の『人間』は僕を真ん中に据えて、何やら話し合っている。
「これは酷い。綺麗な脚が真っ赤っ赤になってしまっているじゃないか!よおし痛いだろう。直ぐに外してやるぞ」
「良いのかい?その罠を仕掛けたのはきっと地元の猟師だろう。獲物を勝手に逃がしてしまって…」
「猟師と云うからには猟をするのが仕事のはずだぞ。鉄砲やら弓矢やら持って追いかけてバンとやるのが猟だ。こんな所にトラバサミなんか仕掛けて放っといて自分は家の中でぬくぬく眠っているのなんか猟じゃない!大体トラバサミというなら虎を取れば良い。これはどう見たって虎じゃないだろう」
「そりゃあまぁ、虎では無いけども」
「虎じゃないんだから釣りで云うなら外道だ。外道は逃がすものだ。そうでなくたって僕のする事に文句云えるやつなんか居ない!」
バチン、と音を立てて刃が口を開いた。固まっている僕を無視し、白い手は真新しい傷口にぐるぐると何か布を巻きつけた。痛みが全く治まったとは云わないまでも、仲間のもとまでは歩いていけそうだ。
「そうら、これで良い。行きなさい」
ぽん、と背を叩かれ、僕は雪原へと駆け出した。茂みの中に飛び込んで、そっと様子を伺う。二人の人間は足跡を残して元来た道を引き返していく所だった。
(あれが、人間かぁ――)
乾いた血がこびり付いているからっぽの罠が、月光に照らされている。
少し考えてから、雪面に残った二つの足跡を追いかけた。小さな足跡が点々と続いていく。
恩を返したい。というか、自分もあんな風になりたい。なってみたい。
まだ痛む後足を引きずりながら、僕――若い狐は強く思っていた。
■
どうにか転がり込んだあの時の人間――榎木津さんの居室の窓から往来を見下ろしながら、そんな事を思い出していた。いやぁ人間やる気になれば何でも出来るもんだなぁ、僕ぁ厳密には人間じゃないけど――などと考えていると、背後で扉が開く気配がした。
「益田君、益田君」
「あぁはい和寅さん、なんでしょう」
呼ばれて振り向けば、そこにはぶすくれた顔をした和寅さんが立っている。和寅さんは大股でずかずかと近づいてくると、手にした箒で僕の尻を小突いてきた。
「尻尾!出てる!」
云われてみると確かに、毛足の長い山吹色の尻尾がゆらゆら揺れている。自慢の尻尾だけれど、この姿で尻尾を生やしていたら変態以外の何者でもないとここ数ヶ月の生活で僕は学んでいた。いつも持ち歩いている木の葉を頭に乗せて秘伝の呪文を唱えれば、嘘のように尻尾はかき消える。
「いやぁどうもどうも、気が緩んじゃってつい」
「どうもどうもじゃないよ。何処に人の目があるか解らないんだからそんな事じゃあ此処じゃあ生きて行けないんだ」
「この身体が心許ないんですよう。足だって二本しか無いし、尻尾でも出しとかないとバランス取れないじゃないすか。耳もこんな小さいし変な所についてるから聞こえが悪いし。まぁそこは毎日の耳掃除で何とかフォローしてるんですけどね?」
「そんな事は承知の上で人里に降りてきたんだろう。文句があるなら山に帰るがいいですぜ。止めやしないから」
和寅さんは良い先輩なのだが、偶にこうしてお小言を云ってくるから参る。僕は調子よく笑って、誤魔化しの体勢に入った。
「ありゃりゃ手厳しい。生憎ですけどね、僕ぁ此処で仕事続けますよ。和寅さんこそ偶には実家の山に帰って尻尾の虫干しでもすればいいんですよ」
和寅さんの丸い頬がぷうと膨れたので、僕は一瞬正体を明かしたのかと思ってしまった。けれど僕より少し年上の彼はそんな事くらいでは文字通り尻尾を出したりはしないらしい。
「私の家は代々榎木津家の裏山に住まわせて頂いてるんだ。ご奉公させて貰わないと」
はぁそりゃ大変だ、と適当な事を云って僕は再び窓の外に視線を投げた。大小の人間が蟻のように行き交っている。誰一人尻尾をくっつけている者は居ない。
「こうして見てると誰が人間で誰がキツネかなんて解らないですよねぇ」
和寅さんも僕の横から顔を出してきた。やはり彼からは獣のにおいがする。僕と似ているようで、全然違うにおいだ。近づいて慎重にかぎわけなければ解らない程微かなものだから、此処に飛び込んできて直ぐ和寅さんに呼び止められて「君、狐だろう」と云われた時は面食らってしまった。そんな僕を落ち着かせるように茶色くてふくふくした丸い尻尾を見せてくれた優しさは幻でしたとでも云うように、冷たい眼差しが僕を射る。
「君が化けるのが下手なんだ。化かすつもりならもう少し上手くやりたまえよ」
「ひっどいなぁ。僕ぁ上手く化けてるつもりですよ?そりゃあまだまだ美女に化けてお侍の馬を掠め取るなんて芸当は無理ですけどね。電車乗ってここまで来るまで誰にも気づかれなかったし」
呆れた溜息を吐いて、和寅さんは窓にもたれて遠くを見ている。空は青いが、ほんの少し煙っている。人が沢山居る場所では仕方ないのだと教えてくれたのも彼だった。
人間は不思議だ。あんなに沢山居て、街は危険な事ばかりなのに、群れを作らないなんて。そのくせ探偵助手である僕の所には「彼女が居なければ生きていけない」とか「彼無しには居られない」という人がしばしばやって来る。
でも僕は、榎木津さんがそんな事を云っているのを聞いたことが無い。
「不思議だなぁ、榎木津さんって」
「なんだね今更」
「榎木津さんは、もし僕が狐だって知っても追い出したりしないですかね」
「うちの先生はそんな事じゃあ追い出したりしないよ。追い出されるとしたらそりゃあ、君が何かやらかした時だろうな」
「ちょっと、止めてくださいよ!縁起が悪いなぁ」
「イヤならせめて私の仕事を手伝いたまえよ。猫の手も借りたい程忙しいんだから、油売ってる暇なんか無いよ」
「はァいお貸ししますよう。狐の手でよければ」
両手の先を丸めてふざけてみせると、和寅さんは大げさに肩を竦めた。手渡された箒を受け取る時に、僅かに掠めた指先が知らない体温を知覚する。――ああそうか。これが人の身体というものか。
その考えは唐突ではあったものの、既に用意されていた場所があるように、すとんと僕の、見せ掛けの身体の中に落ちてきた。
―――
第二夜はキツネ益田とタヌキ和寅でした。もうハロウィンじゃない。
益田は面食らっていた。
いつもの帰路が、満月に照らされて冴え冴えと明るく、それだけで違う道に見えたからでは無い。
黒い影となった街路樹の下に、人間が蹲っていたからでも無い。
死んでいるのではと不安になり覗き込んだ人間の顔がそれこそ人間離れした整いようだったからでも、自分の顔を睨みつけた瞳が美しい琥珀色で、おまけに驚くほど澄んでいたからでも無いのだ。
「え…と、すみません。今何て」
冴えた月明かりを浴びる髪を蜜色に輝かせながら、路上の麗人は再び口を開く。長い脚はぐったりとした様子で冷たい地面に伸びていたが、両の瞳は爛々と光っており、陶器じみた光を放つ肌の中で唇に刷いたような薄桃は失せていない。
「――だから、血を吸わせろと云った。そうでなきゃあお菓子を出しなさい」
面倒そうに動いた口元からちらりちらりと白い牙のようなものが覗いたのを見て、益田は「嗚呼自分が聞いたのはやはり空耳では無かったのだ」と天を仰いだ。華奢な首が顕わになったのを見て、座り込んでいる男は不機嫌そうに吠えた。
「そんな所で伸び上がったって口が届かないじゃないか。何処まで無能なんだ君は」
「ちょ、そんなつもりでやったわけじゃないですよ!ていうか、貴方がその――吸血鬼だとして、普通血を吸わせろとかそういう類の事って美女に云いません?そりゃ罪もないか弱い女性が血ィ吸われてカラカラになるのは僕だって望みませんけど、貴方みたいな美形が行き倒れてるのなんか見たら女性の方から寄ってくるでしょう」
「それで済むならとっくにそうしてる」
云われて、益田は改めて辺りを見渡した。辺りの人家の明かりは殆ど絶えている。今日は月が出ているからとても明るいが、今は真夜中なのだった。電車もとうに終わっている。若い女性がひとり歩きしていることは先ず無いだろう。女性どころか、此処に居る人間は益田とこの男しか居ない。
「ははぁ……」
溜息混じりに益田は改めて男の姿を眺めた。月光の効果も多少はあろうが、こんなにも肌が白い人物を初めて見た。豊かに波打つ髪の毛と同じ色の濃く長い睫に守られた瞳は強く、魔力めいたものがあると云われても信じられる。崩さぬ不遜な態度を見る限り生命力は強そうだが、やはり血の気の無い肌が気になる。彼が言葉通りに人の血を啜って生きる定めならば、本来食餌の対象にならぬ自分のような者にまで声をかけてくる程だ。余程飢えているのだろう。一応鞄やポケットの中身を探ったが、菓子どころか口に入れられそうなものは何一つ出てこなかった。
「参ったなぁ……」
夜が深まり、月光が冴えを増す度に夜風が冷えていく。毛糸の上着を羽織っていて尚夜気は何処からか忍び込んできて、益田は身震いした。改めて見るに、栗色の髪の男は羽織物すら纏っていない。襟の開いたシャツに、仕立ての良さそうなスラックスに革靴。それだけだ。この男が人ならざるものであろうと無かろうと、このままにしておけばきっと死んでしまうだろう。
鳶色の瞳は何時からか伏せられている。益田を見限ったように、或いは諦めてしまったように。
「……」
益田は男の傍らに膝を折って、力の抜けた片腕を自らの肩に引っ掛け、立ち上がった。
「えっと、歩けますか?」
「なんのまねだ」
「いくらなんでもこんな所で朝まで伸びてたら死んじゃいますよ。僕の家まで来てもらえれば、何がしか食べ物はあると思うんで、とりあえず其処まで」
引きずるつもりで踏み出すと、男は思ったより軽い調子で歩を進めた。省みれば鳶色の瞳があからさまに訝しげな色を乗せている。透明度が高い分、表情も豊かなのだろうか。
「――僕は割と長いこと生きているが、君ほどのバカは見た事が無い!」
「酷いなぁ。僕ぁ貴方の為を思ってですね」
「だが――君は偉いね」
瞼がすうと細められると同時に、形の良い唇が笑みの姿を模った。間近で見せられた微笑みがあまりに眩しくて、益田は目を瞬かせる。この男を見つけたのは僅か前の事なのに、何度驚かされたことか。
男はポケットを片手で探り、何かを取り出したかと思うと、「これをあげよう」と云って益田の薄い唇に押し付けてきた。
「わっ、なんですか」
抗議した隙に口内に突っ込まれた物は、一瞬何か判らなかった。軽く、硬い。そして甘い。歯を立てるたびにぼろりと崩れる感触は、どうも焼き目のついた菓子のようだ。
「ビスケット持ってるんじゃないですか」
「おおなんという馬鹿。僕は乾いてるんだ。乾いてる時にこんなもそもそしたもの食べたら乾き死にする!」
乾いているとは思えないほど滑りの良い口で一通り益田を罵倒しながらも、男の視線はじっと益田の横顔に注がれている。長く生きていると云っていたが、興味深げに煌く目は何処か子供のようだ。
「こんなものでも食べてよぉく太るように。そうしたら少しは血を吸いやすくなるだろう」
「えぇッ!や、止めてくださいよぅ!僕なんか骨ばっかだし、食べたって美味しくないですよ」
「その陳腐な台詞を吐いたやつは数え切れないが、僕が血を吸う気になった男はお前が最初だ。光栄に思うが良いよ、バカオロカ」
「バカオロカって何ですか、僕ァ―――」
益田は一瞬言葉を呑んだ。
何時でも自分の首に牙を立てられそうなほど近くに居る彼は、本当に魔物であるらしい。魔物に名前を与えても良いものだろうか。死なない程度の血液ならまだしも、魂まで取られる羽目になっては救われぬ。
「僕ァ―――益田龍一、です」
もう遅いのだ。
彼の微笑みに触れた時、或いは彼に出会ったその瞬間から始まっていたとすれば。
―――
ひとりハロウィン第一夜は吸血鬼榎木津と人間益田でした。
いつもの帰路が、満月に照らされて冴え冴えと明るく、それだけで違う道に見えたからでは無い。
黒い影となった街路樹の下に、人間が蹲っていたからでも無い。
死んでいるのではと不安になり覗き込んだ人間の顔がそれこそ人間離れした整いようだったからでも、自分の顔を睨みつけた瞳が美しい琥珀色で、おまけに驚くほど澄んでいたからでも無いのだ。
「え…と、すみません。今何て」
冴えた月明かりを浴びる髪を蜜色に輝かせながら、路上の麗人は再び口を開く。長い脚はぐったりとした様子で冷たい地面に伸びていたが、両の瞳は爛々と光っており、陶器じみた光を放つ肌の中で唇に刷いたような薄桃は失せていない。
「――だから、血を吸わせろと云った。そうでなきゃあお菓子を出しなさい」
面倒そうに動いた口元からちらりちらりと白い牙のようなものが覗いたのを見て、益田は「嗚呼自分が聞いたのはやはり空耳では無かったのだ」と天を仰いだ。華奢な首が顕わになったのを見て、座り込んでいる男は不機嫌そうに吠えた。
「そんな所で伸び上がったって口が届かないじゃないか。何処まで無能なんだ君は」
「ちょ、そんなつもりでやったわけじゃないですよ!ていうか、貴方がその――吸血鬼だとして、普通血を吸わせろとかそういう類の事って美女に云いません?そりゃ罪もないか弱い女性が血ィ吸われてカラカラになるのは僕だって望みませんけど、貴方みたいな美形が行き倒れてるのなんか見たら女性の方から寄ってくるでしょう」
「それで済むならとっくにそうしてる」
云われて、益田は改めて辺りを見渡した。辺りの人家の明かりは殆ど絶えている。今日は月が出ているからとても明るいが、今は真夜中なのだった。電車もとうに終わっている。若い女性がひとり歩きしていることは先ず無いだろう。女性どころか、此処に居る人間は益田とこの男しか居ない。
「ははぁ……」
溜息混じりに益田は改めて男の姿を眺めた。月光の効果も多少はあろうが、こんなにも肌が白い人物を初めて見た。豊かに波打つ髪の毛と同じ色の濃く長い睫に守られた瞳は強く、魔力めいたものがあると云われても信じられる。崩さぬ不遜な態度を見る限り生命力は強そうだが、やはり血の気の無い肌が気になる。彼が言葉通りに人の血を啜って生きる定めならば、本来食餌の対象にならぬ自分のような者にまで声をかけてくる程だ。余程飢えているのだろう。一応鞄やポケットの中身を探ったが、菓子どころか口に入れられそうなものは何一つ出てこなかった。
「参ったなぁ……」
夜が深まり、月光が冴えを増す度に夜風が冷えていく。毛糸の上着を羽織っていて尚夜気は何処からか忍び込んできて、益田は身震いした。改めて見るに、栗色の髪の男は羽織物すら纏っていない。襟の開いたシャツに、仕立ての良さそうなスラックスに革靴。それだけだ。この男が人ならざるものであろうと無かろうと、このままにしておけばきっと死んでしまうだろう。
鳶色の瞳は何時からか伏せられている。益田を見限ったように、或いは諦めてしまったように。
「……」
益田は男の傍らに膝を折って、力の抜けた片腕を自らの肩に引っ掛け、立ち上がった。
「えっと、歩けますか?」
「なんのまねだ」
「いくらなんでもこんな所で朝まで伸びてたら死んじゃいますよ。僕の家まで来てもらえれば、何がしか食べ物はあると思うんで、とりあえず其処まで」
引きずるつもりで踏み出すと、男は思ったより軽い調子で歩を進めた。省みれば鳶色の瞳があからさまに訝しげな色を乗せている。透明度が高い分、表情も豊かなのだろうか。
「――僕は割と長いこと生きているが、君ほどのバカは見た事が無い!」
「酷いなぁ。僕ぁ貴方の為を思ってですね」
「だが――君は偉いね」
瞼がすうと細められると同時に、形の良い唇が笑みの姿を模った。間近で見せられた微笑みがあまりに眩しくて、益田は目を瞬かせる。この男を見つけたのは僅か前の事なのに、何度驚かされたことか。
男はポケットを片手で探り、何かを取り出したかと思うと、「これをあげよう」と云って益田の薄い唇に押し付けてきた。
「わっ、なんですか」
抗議した隙に口内に突っ込まれた物は、一瞬何か判らなかった。軽く、硬い。そして甘い。歯を立てるたびにぼろりと崩れる感触は、どうも焼き目のついた菓子のようだ。
「ビスケット持ってるんじゃないですか」
「おおなんという馬鹿。僕は乾いてるんだ。乾いてる時にこんなもそもそしたもの食べたら乾き死にする!」
乾いているとは思えないほど滑りの良い口で一通り益田を罵倒しながらも、男の視線はじっと益田の横顔に注がれている。長く生きていると云っていたが、興味深げに煌く目は何処か子供のようだ。
「こんなものでも食べてよぉく太るように。そうしたら少しは血を吸いやすくなるだろう」
「えぇッ!や、止めてくださいよぅ!僕なんか骨ばっかだし、食べたって美味しくないですよ」
「その陳腐な台詞を吐いたやつは数え切れないが、僕が血を吸う気になった男はお前が最初だ。光栄に思うが良いよ、バカオロカ」
「バカオロカって何ですか、僕ァ―――」
益田は一瞬言葉を呑んだ。
何時でも自分の首に牙を立てられそうなほど近くに居る彼は、本当に魔物であるらしい。魔物に名前を与えても良いものだろうか。死なない程度の血液ならまだしも、魂まで取られる羽目になっては救われぬ。
「僕ァ―――益田龍一、です」
もう遅いのだ。
彼の微笑みに触れた時、或いは彼に出会ったその瞬間から始まっていたとすれば。
―――
ひとりハロウィン第一夜は吸血鬼榎木津と人間益田でした。
「あぁやっと出てきた、先生おはようございます」
割烹着姿の給仕の背中越しに見える空は、既に青色を失い夜の色に染まりつつある。榎木津は重そうにかぶりを振って、それから片手で乱雑に髪を掻き回した。道理で妙に腹が空いている。
「どうします?夕食、召し上がりますかね。一応鯖なんか用意してあるんですが」
「食べる」
「はいはい」
いそいそと勝手場に消えていく寅吉と入れ替わるように、榎木津はソファに腰を下ろした。散々眠ったのに、どうにも瞼が重い。頭も重い。中に霧がかかっているようだ。見るからにだるそうにしていた所為だろう、盆の上に食器を載せて戻ってきた寅吉が見下ろしてきた。
「先生、大丈夫ですかい?寝すぎも良くないんすよ」
「ずっと寝てた訳じゃない、何回か起きた」
「おや、なら出て来てくれたら良かったのに。そうしたら先生の部屋のお掃除もしたものを」
洗濯物だけ出しておいてくださいよ、と秘書らしくは無いが彼らしい言葉を残して、再び寅吉は背を向ける。返事代わりに欠伸をしたが、慣れたもので振り向きもしない。
なんだか今日は一日中眠たかった。夢と現の間を幾度となく彷徨って、瞬きの間にやたら長い時間が流れるような気がしていた。目を開けるたびに見えるものはいつも同じで、敷布の上にだらりと伸びた自分の腕だけだ。何処にもぶつからず、触れる寝台は暖かくも冷たくも無い。そんな事は当たり前だと思うと同時に、苛立ちやら空虚感やらを覚えてしまう事がまた面倒臭い。自分以外のもののために心を動かしたり砕いたりするのは酷く疲れるので、眠くなってしまっただけだ。
それもこれも全部、今は此処に居ない、あの―――
「バカオロカめっ」
振り上げた足が天板を蹴り上げ、並んでいた食器が僅かに跳ねる。いつの間にか戻ってきていた寅吉が面食らった顔をして榎木津を見ていた。
「む、居たのかゴキブリ男。カサコソ動き回るんじゃない、うっとおしいぞ。ゴキブリならゴキブリらしくもっと音も無く物陰を動かないと叩き潰されても仕方ない」
「私に当たらんでくださいよ。何があったか知りませんが、益田君なら帰りましたよ」
「何?」
云われて見下ろした卓上は、なるほど二人分の準備しかされていない。自分の箸と、寅吉の箸。下僕が勝手に座っているはずの席は空っぽで、代わりに空の盆が立てかけられている。飯櫃の中に残っている米はいつもより多い。
ほんの数ヶ月前までは当たり前の事だったにも関わらず、辺の埋まらない卓は奇妙にすかすかとして見えたが、榎木津は其れを思い出す前に白飯を掻き込んだ。
ご機嫌斜めですなぁ、と溜息を吐きながら寅吉も茶碗を手に取る。飯を口に入れる前に、榎木津に向き直って云った。
「何があったか知りませんが、お叱りなら明日ですな」
「あした」
「そりゃ明日でしょう。寝に帰るとか云ってたからもう寝てるかも判りませんな」
「ふぅん…明日」
その言葉に妙に感慨深げなものを感じて寅吉は顔を上げたが、当の榎木津は何でも無さそうに鯖の白い肌に箸を突き立てている所だったので、何も云わずに目を伏せた。
■
目の前に並んだ全ての食器が空になると同時に、榎木津はすくりと立ち上がった。
「あっ、先生どこへ」
「寝る」
「えぇっ、本気ですかい。私ゃ今日先生と二時間も顔を合わせちゃいませんよ」
壁掛け時計が示す時刻は確かに榎木津が事務所に出てきてから幾らも経っておらず、一般的な下僕の常識に照らし合わせれば寝るには早すぎるのだろう。榎木津は少し考えて、それから満たされた腹を撫でた。
「…じゃあ風呂でも入って、それから寝る」
「結局寝るんですな」
猫じゃあないんだから、と寅吉は呆れたような感心したような声を上げた。盆の上に空の器を器用に積み上げ、片腕で支えたまま立ち上がる。
「じゃあ私は片付けして自室に引っ込ませて頂きますんで、何かあったら呼んでくださいよ」
「何も無いよ、寝るだけだもの」
榎木津は割烹着の後姿を少し眺め、思いついたように呼び止めた。
「おい和寅!」
「はいはい、何ですか」
「マスヤマは明日来るんだな?」
寅吉は少し濃い眉を顰めた。聞き慣れない質問だったからだ。けれどそう答えに窮する質問でも無い。振り向いた拍子に崩れかけた食器の塔を直しつつ答える。
「さあぁ…本人から直接聞いた訳じゃあありませんが…来るんじゃあないですかね。本人がこれで良いっていうから好きにさせてましたけど長椅子に毛布一枚じゃ疲れが取れる筈も無い。案外元気になって来るかもしれませんな」
「そうか」
それならそれで良い。
居ないものを夢の中に探すより、眠れば訪れる現実の方がずっと榎木津は好きだ。
「和寅ァ!」
「今度は何ですか」
榎木津は今日初めて、にっと歯を見せて笑って見せた。
「また、明日」
―――
『4.今だけでも逢えたら』の同日です。
果報は寝て待つタイプ。
割烹着姿の給仕の背中越しに見える空は、既に青色を失い夜の色に染まりつつある。榎木津は重そうにかぶりを振って、それから片手で乱雑に髪を掻き回した。道理で妙に腹が空いている。
「どうします?夕食、召し上がりますかね。一応鯖なんか用意してあるんですが」
「食べる」
「はいはい」
いそいそと勝手場に消えていく寅吉と入れ替わるように、榎木津はソファに腰を下ろした。散々眠ったのに、どうにも瞼が重い。頭も重い。中に霧がかかっているようだ。見るからにだるそうにしていた所為だろう、盆の上に食器を載せて戻ってきた寅吉が見下ろしてきた。
「先生、大丈夫ですかい?寝すぎも良くないんすよ」
「ずっと寝てた訳じゃない、何回か起きた」
「おや、なら出て来てくれたら良かったのに。そうしたら先生の部屋のお掃除もしたものを」
洗濯物だけ出しておいてくださいよ、と秘書らしくは無いが彼らしい言葉を残して、再び寅吉は背を向ける。返事代わりに欠伸をしたが、慣れたもので振り向きもしない。
なんだか今日は一日中眠たかった。夢と現の間を幾度となく彷徨って、瞬きの間にやたら長い時間が流れるような気がしていた。目を開けるたびに見えるものはいつも同じで、敷布の上にだらりと伸びた自分の腕だけだ。何処にもぶつからず、触れる寝台は暖かくも冷たくも無い。そんな事は当たり前だと思うと同時に、苛立ちやら空虚感やらを覚えてしまう事がまた面倒臭い。自分以外のもののために心を動かしたり砕いたりするのは酷く疲れるので、眠くなってしまっただけだ。
それもこれも全部、今は此処に居ない、あの―――
「バカオロカめっ」
振り上げた足が天板を蹴り上げ、並んでいた食器が僅かに跳ねる。いつの間にか戻ってきていた寅吉が面食らった顔をして榎木津を見ていた。
「む、居たのかゴキブリ男。カサコソ動き回るんじゃない、うっとおしいぞ。ゴキブリならゴキブリらしくもっと音も無く物陰を動かないと叩き潰されても仕方ない」
「私に当たらんでくださいよ。何があったか知りませんが、益田君なら帰りましたよ」
「何?」
云われて見下ろした卓上は、なるほど二人分の準備しかされていない。自分の箸と、寅吉の箸。下僕が勝手に座っているはずの席は空っぽで、代わりに空の盆が立てかけられている。飯櫃の中に残っている米はいつもより多い。
ほんの数ヶ月前までは当たり前の事だったにも関わらず、辺の埋まらない卓は奇妙にすかすかとして見えたが、榎木津は其れを思い出す前に白飯を掻き込んだ。
ご機嫌斜めですなぁ、と溜息を吐きながら寅吉も茶碗を手に取る。飯を口に入れる前に、榎木津に向き直って云った。
「何があったか知りませんが、お叱りなら明日ですな」
「あした」
「そりゃ明日でしょう。寝に帰るとか云ってたからもう寝てるかも判りませんな」
「ふぅん…明日」
その言葉に妙に感慨深げなものを感じて寅吉は顔を上げたが、当の榎木津は何でも無さそうに鯖の白い肌に箸を突き立てている所だったので、何も云わずに目を伏せた。
■
目の前に並んだ全ての食器が空になると同時に、榎木津はすくりと立ち上がった。
「あっ、先生どこへ」
「寝る」
「えぇっ、本気ですかい。私ゃ今日先生と二時間も顔を合わせちゃいませんよ」
壁掛け時計が示す時刻は確かに榎木津が事務所に出てきてから幾らも経っておらず、一般的な下僕の常識に照らし合わせれば寝るには早すぎるのだろう。榎木津は少し考えて、それから満たされた腹を撫でた。
「…じゃあ風呂でも入って、それから寝る」
「結局寝るんですな」
猫じゃあないんだから、と寅吉は呆れたような感心したような声を上げた。盆の上に空の器を器用に積み上げ、片腕で支えたまま立ち上がる。
「じゃあ私は片付けして自室に引っ込ませて頂きますんで、何かあったら呼んでくださいよ」
「何も無いよ、寝るだけだもの」
榎木津は割烹着の後姿を少し眺め、思いついたように呼び止めた。
「おい和寅!」
「はいはい、何ですか」
「マスヤマは明日来るんだな?」
寅吉は少し濃い眉を顰めた。聞き慣れない質問だったからだ。けれどそう答えに窮する質問でも無い。振り向いた拍子に崩れかけた食器の塔を直しつつ答える。
「さあぁ…本人から直接聞いた訳じゃあありませんが…来るんじゃあないですかね。本人がこれで良いっていうから好きにさせてましたけど長椅子に毛布一枚じゃ疲れが取れる筈も無い。案外元気になって来るかもしれませんな」
「そうか」
それならそれで良い。
居ないものを夢の中に探すより、眠れば訪れる現実の方がずっと榎木津は好きだ。
「和寅ァ!」
「今度は何ですか」
榎木津は今日初めて、にっと歯を見せて笑って見せた。
「また、明日」
―――
『4.今だけでも逢えたら』の同日です。
果報は寝て待つタイプ。