『6.午後のスコール(1)』の続きです。未読の方はそちらからお願い致します。
本以外にさしたる興味も無さそうな男―――中禅寺は、直ぐに益田の異変に気づいたようだった。
縋り付くような視線を浴びせる鳥口と、内心どう思っているかは解らないが、感情の無い薄笑いを浮かべている益田を見比べてから、鳥口がそうしたように頬の肉を引っ張った。やはり引き剥がしてみたくなるらしい。
ぎゅう、と音がしそうな程力を込められ、益田は「いたたた」と悲痛な声を上げてはいるが、伸びた皮以外に変化は無い。経緯を知らぬ者が見れば痛みを喜んでいるように見え、さぞ不気味だろう。痩せた指が離れても同様だった。
「脳の具合で表情がぼうっとしちゃう話は聞いた事あるんすけど、薄ら笑いのまま固まっちゃうなんて僕ぁ見た事も聞いた事も無いもんで――吃驚しちゃって。しかも喋った限りでは、益田君の頭の中身はマトモと見える」
「ふぅん」
さわさわと葉ずれの音が、3人が鎮座する部屋まで届いてくる。古書の乾いた匂いと笹の青い匂いが混ざって、ふっと鳥口の顔から力が抜ける。それでも益田の頬は、不自然に強張ったままだ。中禅寺の妻が出してくれた生菓子にも手をつけようとしない。半透明の求肥から、濾した餡が透けて見えている。
「益田君は何時からこの調子なんだい」
「さぁ、僕にはとんと。鏡見て楽しい顔じゃないですしねぇ」
「昨日の夕方、僕と待ち合わせた時には既にこうでした」
益田の軽口を無視し、鳥口が身を乗り出して説明する。長い前髪を揺らして、笑いながらふらりと現れた時から、拭えなかった違和感。それは未だに鳥口の胸の裡にこびり付いている。まるで益田の顔に張り付いた―――
「―――面の様だね」
心を読んだかのように絶妙のタイミングで中禅寺が告げた。鳥口は、はっとして益田を見る。確かに昨夜、鳥口も『笑顔の面のようだ』と思ったのだ。漠然とした印象は、京極堂の茶けたような雰囲気と重なって具体的な像を持ち始める。そして鋭角な輪郭の上に、鳥口は能面を見た。白塗りの女。皇かな瞼の中の瞳は刳り貫かれて、何も無い。ただの穴であるはずなのに、幼い鳥口はいつも面の視線が追いかけてくるような恐怖を感じていた。
熱い茶をひと啜りした中禅寺が、ゆっくりと口を開く。
「肉付きの面というものを知っているか」
「肉付きの、麺?」
「誰が肉うどんの話をしているか。面だよ、それも鬼女の面だ。被った者の顔に付いて、外れなくなる。同様の面の伝承は全国各地にある―――例えば福井県の、吉崎御坊」
福井県、と聞いて鳥口は肩をびくつかせた。自分の故郷では無いか。
「昔、吉崎に女が住んでいた。彼女は夫と我が子に先立たれ、吉崎寺に毎日通い詰め夫と子の霊を弔っていた。信心深い女は性格も良かったのだろうね、村人からも好かれていたのだが――彼女を気に入らない女がひとり居た。彼女と同居していた、姑さ」
鳥口の脳裏に、幼い頃駆け回った野山のイメェジが広がる。街育ちの益田も、何となく想像してみた。稲穂がさんざめく畦道で村人と笑顔で話す若い女と、それを陰から憎憎しげに睨んでいる老女を。
「善人ぶっている嫁にどうにか痛い目を見せてやろうと、姑は一計を案じた。家に伝わっていた鬼女の面を被り、白い帷子を着て、見るも恐ろしい鬼に変装する。そして夜の参拝に出た嫁の前に先回りし、一人になったところを見計らって、躍り出た―――」
「ひゃああ」
益田が身を縮ませたが、相変わらず顔は薄ら笑っている。本当に恐がっているのかふざけているのかは図りかねたが、相手が中禅寺で無ければ真面目に聞けと叱り飛ばされてもおかしくない。
案の定中禅寺は、益田の奇声を黙殺して話を続けた。
「鬼は云う、義母の言葉を良く聞いて改心せねば、取って食うてしまうぞ、と。云われた女はそれは驚いた、驚いたものの、両手を合わせ念仏を――食まば食め、喰わば喰らえ金剛の、他力の信はよもや食むまじ――こう唱えた。女がこんな調子なものだから、姑はかっとなり女を崖下に突き落とした。しかし仏の加護か、女は怪我ひとつしなかった。姑は家にとって返し、苛立ちながら帷子を脱ぎ捨て、面を外そうとしたが―――」
「外れなかったんですね」
「その通り。顔の一部になってしまったかのような面は、無理に引っ張れば肉ごと削げ落ちてしまうほどしっかりと姑の顔に食いついてしまったんだ」
「うへえ…。考えただけで顔が痒くなる。しかし何で、面が外れなくなったんでしょうかね。糊ででも着けてたのかな」
「まぁこの手の説話で、原因となれば一つと決まっているだろう。姑は仏の怒りを買ったのだ。そして」
―――天罰が下ったのさ。
今度は益田の肩が竦む番だった。隣に座っている益田がびくんと跳ね、鳥口は反射的にそちらを見る。顔は笑ったままなのに、畳んだ膝の上で、握った拳が震えている。神に不貞を働いた手。
益田に代わって、鳥口が中禅寺に詰め寄った。
「そ、それで。その姑は。面は外れたんですか」
「帰ってきた女はたまげた。先ほど自分を驚かせた鬼女が家に居るんだからね。しかし鬼女が姑と解ると、彼女は鬼女に心から念仏を唱えるようにと勧めるんだ。姑が涙ながらに南無阿弥陀仏、と唱えると面は呆気なく外れた。そうして姑は改心し、2人揃って熱心に仏に信心するようになったという話だ」
鳥口と益田は、ほうと胸を撫で下ろす。
「じゃあ益田君のこれも、仏に許されればころりと治るという事ですな」
「さて、そう簡単に行くかな?」
「へ」
「僕は面の「ようだ」と云ったんだ。面そのものでは無い。どう見たってそれは益田君の素顔だろう。それとも何かい、鳥口君には彼が鬼女にでも見えるのかね?」
鳥口は目をぱちくりさせ、再び益田を見やった。先程は確かに彼の顔に能面のイメェジがはっきりと重なったはずだが、云われてみるとやはり、細い目も尖った鼻も、薄い唇に至るまで鳥口の知る益田そのものだ。念の為にぺたりと頬に手を当ててみたが、ひたりとした皮膚の感触があるだけだった。
唖然としている鳥口と益田に、中禅寺がさらに告げる。
「面が付いているとすれば、内側だ。表情筋を制御する神経に、なんらか異常が起こっているんだろう。感情に伴って稼働する筈の表情が、逆に感情を制御しようとしているんだ」
「感情を、制御?」
「鬼の面を着ければ人は鬼になり、翁の面を着ければ翁になる。泣き真似をしていた子どもが、いつしか本当に泣いてしまうのを見た事は無いか?怒った振りをしていただけの筈が、段々本当に気持ちがささくれて来た事は?」
益田の顔は、笑っている。当人のあらゆる感情を無視して。と云う事は―――
「泣いたり怒ったりしてはいけないと、益田君の内側は指令している。内側の事は厄介だぞ。外側から無理に取り出そうとすれば―――」
和服から伸びる骨ばった腕が、手付かずの和菓子を手に取った。滑らかな表面に爪を立て、びっと引っ張る。繊細な生地には呆気無く穴が開き、粉を吹いた赤褐色が露出した。
「―――破れる。こんな風にね」
呆然と見守る若者2人の前で、趣味の悪い古書店主は、涼しい顔で形の崩れた菓子を頬張った。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
中禅寺を書ける方を尊敬しながら、続きます。
縋り付くような視線を浴びせる鳥口と、内心どう思っているかは解らないが、感情の無い薄笑いを浮かべている益田を見比べてから、鳥口がそうしたように頬の肉を引っ張った。やはり引き剥がしてみたくなるらしい。
ぎゅう、と音がしそうな程力を込められ、益田は「いたたた」と悲痛な声を上げてはいるが、伸びた皮以外に変化は無い。経緯を知らぬ者が見れば痛みを喜んでいるように見え、さぞ不気味だろう。痩せた指が離れても同様だった。
「脳の具合で表情がぼうっとしちゃう話は聞いた事あるんすけど、薄ら笑いのまま固まっちゃうなんて僕ぁ見た事も聞いた事も無いもんで――吃驚しちゃって。しかも喋った限りでは、益田君の頭の中身はマトモと見える」
「ふぅん」
さわさわと葉ずれの音が、3人が鎮座する部屋まで届いてくる。古書の乾いた匂いと笹の青い匂いが混ざって、ふっと鳥口の顔から力が抜ける。それでも益田の頬は、不自然に強張ったままだ。中禅寺の妻が出してくれた生菓子にも手をつけようとしない。半透明の求肥から、濾した餡が透けて見えている。
「益田君は何時からこの調子なんだい」
「さぁ、僕にはとんと。鏡見て楽しい顔じゃないですしねぇ」
「昨日の夕方、僕と待ち合わせた時には既にこうでした」
益田の軽口を無視し、鳥口が身を乗り出して説明する。長い前髪を揺らして、笑いながらふらりと現れた時から、拭えなかった違和感。それは未だに鳥口の胸の裡にこびり付いている。まるで益田の顔に張り付いた―――
「―――面の様だね」
心を読んだかのように絶妙のタイミングで中禅寺が告げた。鳥口は、はっとして益田を見る。確かに昨夜、鳥口も『笑顔の面のようだ』と思ったのだ。漠然とした印象は、京極堂の茶けたような雰囲気と重なって具体的な像を持ち始める。そして鋭角な輪郭の上に、鳥口は能面を見た。白塗りの女。皇かな瞼の中の瞳は刳り貫かれて、何も無い。ただの穴であるはずなのに、幼い鳥口はいつも面の視線が追いかけてくるような恐怖を感じていた。
熱い茶をひと啜りした中禅寺が、ゆっくりと口を開く。
「肉付きの面というものを知っているか」
「肉付きの、麺?」
「誰が肉うどんの話をしているか。面だよ、それも鬼女の面だ。被った者の顔に付いて、外れなくなる。同様の面の伝承は全国各地にある―――例えば福井県の、吉崎御坊」
福井県、と聞いて鳥口は肩をびくつかせた。自分の故郷では無いか。
「昔、吉崎に女が住んでいた。彼女は夫と我が子に先立たれ、吉崎寺に毎日通い詰め夫と子の霊を弔っていた。信心深い女は性格も良かったのだろうね、村人からも好かれていたのだが――彼女を気に入らない女がひとり居た。彼女と同居していた、姑さ」
鳥口の脳裏に、幼い頃駆け回った野山のイメェジが広がる。街育ちの益田も、何となく想像してみた。稲穂がさんざめく畦道で村人と笑顔で話す若い女と、それを陰から憎憎しげに睨んでいる老女を。
「善人ぶっている嫁にどうにか痛い目を見せてやろうと、姑は一計を案じた。家に伝わっていた鬼女の面を被り、白い帷子を着て、見るも恐ろしい鬼に変装する。そして夜の参拝に出た嫁の前に先回りし、一人になったところを見計らって、躍り出た―――」
「ひゃああ」
益田が身を縮ませたが、相変わらず顔は薄ら笑っている。本当に恐がっているのかふざけているのかは図りかねたが、相手が中禅寺で無ければ真面目に聞けと叱り飛ばされてもおかしくない。
案の定中禅寺は、益田の奇声を黙殺して話を続けた。
「鬼は云う、義母の言葉を良く聞いて改心せねば、取って食うてしまうぞ、と。云われた女はそれは驚いた、驚いたものの、両手を合わせ念仏を――食まば食め、喰わば喰らえ金剛の、他力の信はよもや食むまじ――こう唱えた。女がこんな調子なものだから、姑はかっとなり女を崖下に突き落とした。しかし仏の加護か、女は怪我ひとつしなかった。姑は家にとって返し、苛立ちながら帷子を脱ぎ捨て、面を外そうとしたが―――」
「外れなかったんですね」
「その通り。顔の一部になってしまったかのような面は、無理に引っ張れば肉ごと削げ落ちてしまうほどしっかりと姑の顔に食いついてしまったんだ」
「うへえ…。考えただけで顔が痒くなる。しかし何で、面が外れなくなったんでしょうかね。糊ででも着けてたのかな」
「まぁこの手の説話で、原因となれば一つと決まっているだろう。姑は仏の怒りを買ったのだ。そして」
―――天罰が下ったのさ。
今度は益田の肩が竦む番だった。隣に座っている益田がびくんと跳ね、鳥口は反射的にそちらを見る。顔は笑ったままなのに、畳んだ膝の上で、握った拳が震えている。神に不貞を働いた手。
益田に代わって、鳥口が中禅寺に詰め寄った。
「そ、それで。その姑は。面は外れたんですか」
「帰ってきた女はたまげた。先ほど自分を驚かせた鬼女が家に居るんだからね。しかし鬼女が姑と解ると、彼女は鬼女に心から念仏を唱えるようにと勧めるんだ。姑が涙ながらに南無阿弥陀仏、と唱えると面は呆気なく外れた。そうして姑は改心し、2人揃って熱心に仏に信心するようになったという話だ」
鳥口と益田は、ほうと胸を撫で下ろす。
「じゃあ益田君のこれも、仏に許されればころりと治るという事ですな」
「さて、そう簡単に行くかな?」
「へ」
「僕は面の「ようだ」と云ったんだ。面そのものでは無い。どう見たってそれは益田君の素顔だろう。それとも何かい、鳥口君には彼が鬼女にでも見えるのかね?」
鳥口は目をぱちくりさせ、再び益田を見やった。先程は確かに彼の顔に能面のイメェジがはっきりと重なったはずだが、云われてみるとやはり、細い目も尖った鼻も、薄い唇に至るまで鳥口の知る益田そのものだ。念の為にぺたりと頬に手を当ててみたが、ひたりとした皮膚の感触があるだけだった。
唖然としている鳥口と益田に、中禅寺がさらに告げる。
「面が付いているとすれば、内側だ。表情筋を制御する神経に、なんらか異常が起こっているんだろう。感情に伴って稼働する筈の表情が、逆に感情を制御しようとしているんだ」
「感情を、制御?」
「鬼の面を着ければ人は鬼になり、翁の面を着ければ翁になる。泣き真似をしていた子どもが、いつしか本当に泣いてしまうのを見た事は無いか?怒った振りをしていただけの筈が、段々本当に気持ちがささくれて来た事は?」
益田の顔は、笑っている。当人のあらゆる感情を無視して。と云う事は―――
「泣いたり怒ったりしてはいけないと、益田君の内側は指令している。内側の事は厄介だぞ。外側から無理に取り出そうとすれば―――」
和服から伸びる骨ばった腕が、手付かずの和菓子を手に取った。滑らかな表面に爪を立て、びっと引っ張る。繊細な生地には呆気無く穴が開き、粉を吹いた赤褐色が露出した。
「―――破れる。こんな風にね」
呆然と見守る若者2人の前で、趣味の悪い古書店主は、涼しい顔で形の崩れた菓子を頬張った。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
中禅寺を書ける方を尊敬しながら、続きます。
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