「はぁ、それがとんとご無沙汰で。何せ自分の食べる分はまさに自分で稼がなきゃいけないような状態なので、女の子と出かける暇もないですよ」
「またまた、出かけるような女の子の知り合い居ないでしょう。居ない女の子は振れない、ッてね」
いつもの酒場に、いつもの顔ぶれである。
薔薇十字団とは随分大仰な名だし、「下品な団」とは中禅寺の弁であるが、日頃のしがらみを一時忘れて、愚痴り合ったり下らない話をし合う時間が全員それなりに気に入っていた。
構成員は若い男子であるからして、酒の力も手伝って話がそちら側に転がることも珍しいことではない。あちこちのテーブルで聞こえる談笑やグラスがぶつかる音、行き交う店員の足音などが益々彼らを調子に乗らせていた。
興に乗りつつも和やかに進んでいた会談は、突然燃え上がる。原因は益田が口を滑らせたことだった。
「えぇぇぇええ!?益田君、まだなんですか!?」
「ちょ、鳥口君声が大きいですよ!」
「へぇー、意外…でもないか」
「やっぱり大将の言う通り、こっちなんですかね」
「笑えない冗談はやめてくださいよぅ」
しなを作ってみせる鳥口に、益田は泣きそうな顔で反論する。それを見ながら、青木は枡からちびりと日本酒を啜りつつ言った。
「いや益田君は軽薄ぶっちゃあいるがね、結構真面目な所もあるんだよ。これと決めた人に操立てをしてるつもりなんだろうさ」
「いやいや勝手に想像しないでくださいよ。僕ぁこう見えてロマンチストなんですから、初めての夜の段取りまでもう長年考えていてですね」
「つまり妄想にこだわりすぎて機会を逃してたって意味だろう」
「それじゃあまさかこっちの方もまだだったりして」
鳥口は軽く唇を突き出す。ちゅ、と顔に似合わず可愛らしい音がした。それを見た青木は顔を顰め、益田は肩を竦める。
「そりゃあ、まぁ…それなりには…」
目が泳いでいる。頬が赤いのは酔いのせいばかりではあるまい。そんな益田を挟んだ2人は、顔を見合わせた後、したり顔で笑いあった。
「いやいや気にすることはないよ益田君。今時立派なことだと思うよ」
「そうそう、適当な相手と適当に済ますより良いことですって。よく言うでしょう、溢した水は地面に染み込むって」
「覆水盆に返らずって言いたいんですか?全然違うし、用法も怪しいような」
益田のグラスに、左右から新たな酒が注がれる。
「このことは僕らだけの秘密にしておこうじゃないか。薔薇十字団の明日のために」
「そうそう、僕ら薔薇十字団は一蓮托生ですとも」
今にも溢れそうなほどの透明な酒に満たされたグラスを仕方なく持つ益田の肩を、鳥口と青木がぽんぽんと叩く。
その夜、確かに彼らの絆はまた一つ強固に結ばれたと言っていいだろう。
ところが、どういう道順〈ルート〉でだか、絆を繋ぐはずの益田の秘密が榎木津に洩れてしまったのだった。
(口外無用じゃなかったんですか…!)
何故か床に座らされている益田は、榎木津の視線を一身に浴びながら2人を恨んだ。
別にあえて隠していたわけではないが、口伝えに榎木津の耳に入ったとしたら最悪である。鳥口か青木が直接密告したならまだしも、木場か中禅寺を介してだったとしたらと考えるだけで、冷や汗がどっと込み上げてくる。
榎木津は記憶を視ているのだろうか。過去にあったあんな事やこんな事が、考えるまいと思うほど次々に思い出されてしまい、益田は無駄とは分かっていながらも頭の上を隠すように手を伸ばした。
「勘弁してくださいよぅ榎木津さん、悪趣味ですって」
「アクシュミ?なんの話だ」
「僕の記憶なんか見たってなんにもないですよ。なんにもないからこそのこの結果なんですから」
榎木津はふん、と鼻を鳴らしますます胸を張る。
「ぼくはお前の昔のことなんかどうだっていいんだ、この自意識過剰オロカめ」
「ふぇ」
「今マスヤマの頭の中なんか視ても面白くもなんともないッ。今ぼくは考え事をしていたのだ」
「はぁ」
間の抜けた返事しか出来なかった。
榎木津に過去を探られていたわけではないのは有難い神の慈悲として受け取っておくとしても、ならば何故自分は床に直接正座して反省の姿勢を取らされているのだろうか。そろそろ足も痺れてきた。
「考え事って、何を考えておいでなんですか」
「ここに誰も食べてない羊羹があるとする」
「ハァ?」
なぜ急に羊羹が出てくるのか。榎木津の考えることは凡夫たる自分には計り知れない。
榎木津は神妙な顔で空中に指先で四角をなぞっている。羊羹のつもりだろうか。
「ぼくは別にお腹が空いているわけじゃないが、羊羹は好きだ。ここに羊羹を置いておくと、誰かが来てぼくの羊羹を食べてしまうかもしれないのだ」
「はぁ、それは一大事ですねェ」
「仕舞っておいてもしょうがない、美味しく食べてこその羊羹だ」
「それはそうでしょう、いくら日持ちがするって言っても所詮羊羹ですよ。忘れて悪くなっちゃってもさっぱりです。まぁ一口分でも切って味見程度して、お気に召したら名前でも書いておけば」
「ほう」
榎木津の目がキラリと輝く。適当な返事をした筈が、予想外の好反応に益田はたじろいだ。
ずいっと近づけられたその瞳は、呆れるほど大きい。
「言ったなマス羊羹。ならばぼくはもう遠慮しないぞ」
「マス羊羹!? えっまさか、羊羹って」
僕ですか、という声は互いの唇の間に飲み込まれた。唇を合わせられている、と益田が気づくのに時間を要した。
あまりに榎木津の顔が近く、焦点が合わない。けれど彼が瞼を閉じていることはわかり、安心した。本当に綺麗な顔だと、言っても仕方がないことをぼんやりと思う。そんな益田を目覚めさせたのは、歯列を割って進入してきた榎木津の舌だった。
(う、わ)
未知の体験に身体が動かない。突然の出来事にショックを受けているのか、榎木津に気圧されているのか、それ以外の何かなのか、それを判断するには、悲しいかな圧倒的に経験が不足していた。唾液が唇の端から流れ落ちるのに背中が震える。
「…ふ…う…ッ」
吐息までもが零れ落ち、益田の動揺は最高潮に達した。こんな声をあげたら、また榎木津にカマだのなんだのと罵られる。逃げる舌を追われた上に執拗に上顎を嬲られて、後ろめたいこそばゆさで目尻には涙が滲んだ。
上手く息が継げず、苦しい。溺れている様だ。ここはいつもと変わりない、薔薇十字探偵社の筈なのに。
益田にとって何時間にも思えた口付けは、最初と同じように唐突に終わった。
離れていく榎木津の唇が濡れて光っているのが、艶かしくて動悸がする。
その唇を舌で拭ったかと思うと、榎木津はすくりと背筋を伸ばした。
「…薄荷くさいぞお前。ドロップスでも食べたのか?」
「いやそれはきっと歯磨き粉の味で… って、何するんですかぁぁぁ!」
ほらこれだ。と榎木津は言う。出来の悪い下僕を見る時の目だ。
「懐に入られたら全然ダメじゃないか。ぼくがこうしておかなければ、どうなってたかわかったもんじゃない」
どうなってたもこうなってたもない。益田は男だし、榎木津も男だ。
榎木津の行動が突拍子もないとは知っているが、ここまでするとは思わなかった。
榎木津は横目でじとりと益田を見つめ、「初めてにしては面白い反応だったが、芸がない。あと八重歯が邪魔」などと勝手な批評をはじめる始末だ。
「そりゃあ男とはないですよ!普通」
「ほう!珍しいな、カマの癖に」
「だから僕ぁカマじゃないですって…」
脱力する益田の額に、再び榎木津の唇が触れる。
見上げたその顔ははじけるような笑顔だ。
こういう時の彼は、どうしようもないほど眩しいと益田は知っている。
「良い機会だ、覚えておくといい。これがぼくのやり方だ!」
榎木津はご機嫌で何処かにいってしまった。後には呆然とした益田だけが残される。
(…マス羊羹って…)
今自分は「味見」をされたのか。とすると、残りの部分―今は考えたくない―も、いつかは食べられてしまう気がする。今のが一口分なら、食べ進められるうちにどうにかなってしまいそうだ。期待交じりの快感に震えながらも、美味しくなかった、と言って余所にやられてしまわないことだけを願う。
薄い唇を噛み締める振りをして、軽く舐めた。当然ながら何の味もしない。けれど、強烈な体験は記憶となって唇に焼き付いてしまったようだ。いつか再び彼と唇を合わせることがあったなら、あのやり方を写してみれば少しは意趣返しになるだろうか。
(参ったなァ)
味を占めてしまいそうだ。
――――
童貞なのは鉄板(京極先生に足向けて寝られない)ですがキスもまだだったらちょっと凄いと思い、本来の目的「益田開発」に立ち返ってみた。
その結果「味覚」というお題からは逸れてしまったため、最後の一文で無理やり軌道修正。
2月17日 06:25の方
五感お題と拍手SSを読んでくださってありがとうございます。
あと3題も、惚れた弱みに翻弄される益田の開発を進めたいです。何故か(?)性的な方向には一向に進みませんが…そういったものにご期待いただいていたらすみません。
榎木津と益田を2人きりにするために和寅が出掛けてしまう事が多いので、拍手では和寅を中心にしてみました。気に入ってもらえたら嬉しいです。
邪魅が益田サービスタイムだったので鵺では出番減るんじゃないかと心配です。でももう益田が息災ならそれでいい!
叩いてくださった方もありがとうございます。
榎木津と益田のテーマソングを集めたCDを作りたいです。コンピレーション薔薇十字。
そしてそれを聴きながら薔薇十字小説を書く。夢です。
昔こどものうたであった『恋するニワトリ』とか、とても榎木津←益田だなぁと思います。
皆さんもテーマソングお持ちだったら是非教えてください。
更新速度が我ながら生き急ぎすぎ。
きゅるる、と胃が鳴る音がして益田は手を止めた。時刻は午後3時。少々小腹が空いてくる時間である。
いつもなら和寅に言えば、自分は先生の秘書であって給仕ではないとかなんとか文句を言いつつも、蒸した芋だの貰い物の菓子(大概は榎木津が絶対に食べない落雁の類だ)などを出して貰えるのだが、生憎今は不在だった。本家に何やら付け届けがあるというので、益田は事務所の留守番をもついでに任されている。外に買い物に行くわけにも行かない。
空腹というのは意識すると得てして強まるものである。とは言え若干大袈裟に、益田は応接机に上半身を投げ出した。
「参ったなぁ~…和寅さん何時帰ってくるのかなー…」
茶でもがぶ飲みして空腹を紛らわせられればいいのだが、そのためには勝手場に入って湯を沸かさなければいけない。給仕じゃないと言っている割に、台所を弄られると和寅はえらく怒るのだ。
またきゅる、と胃が鳴り、益田は情けない声をあげた。
「嗚呼もう駄目だ、和寅さんすみませーん、後で洗い物でも何でもしますから勘弁してください」
益田は力なく立ち上がり、歩を進める。何か駄菓子の類でもあればしめたものだ。
勝手場は薄暗く、ひんやりとしていた。逆さまに伏せられている薬缶を取り、水を注ぐ。益田は鼻歌交じりにその水面を眺めていた。そう言えば茶葉は上の棚だったと思い出し、上体を反らして手を伸ばす。
「それは苦いから嫌だ、右のがいい」
「え!? うわああああ」
音もなく現れた背後の気配に驚いて、戸棚に詰まった荷物が崩れそうになった。慌てて両手で支え、首だけで振り向くと、思いのほか近くに榎木津が立っていた。着ているシャツはいつもより柔らかそうな生地だ。よれよれで、皺が寄っているので余計にそう見える。栗毛の髪はぼさぼさで、目は据わっている。如何にも寝起きの様相である。
「榎木津さん、今起きたんですか。台所入ってきたら和寅さんに怒られますよ」
「ぼくはお腹がぺこぺこなんだ。マスカマこそ何でここにいる。鍋釜に挨拶か?」
「鍋釜に親戚はいませんよゥ。でも奇遇ですねェ、僕もお腹空いたんですけど和寅さん出掛けてて。仕様がないのでお茶でも飲もうか、と」
益田はぐいぐいと荷物を持ち上げ、無理やりに棚を閉めた。次に誰かが棚を開けたら、確実に雪崩が起きる。これは絶対に怒られるなァ、と思ったものの先ずは榎木津の機嫌をとらねばなるまい。榎木津はというと、何やら棚の影でごそごそやっている。ぺーこぺこ、とかなんとか謎の節も聞こえてきた。歌だろうか。益田もつられてしゃがみこむ。
「何探してるんですか」
「食べ物に決まっているだろう。和寅の奴、菓子の類はこの辺に隠しているのだ」
「ぼそぼそしないもんが残ってるといいですねェ」
薄暗がりの中、大の男2人が菓子を漁っている。益田はなんとなく可笑しさを感じると同時に、ふと自分が榎木津と2人きりだということに気づいた。
彼が菓子を見つけ出したらお茶を淹れよう、榎木津さんに文句を言われながらでもお茶が出来るなら少し幸せだ。近い未来の光景を想い、益田は膝を抱えなおした。
そんなささやかな空想を破ったのは、カウベルの音。あれは事務所のドアのものに間違いない。
「只今帰りましたよー、なんだ益田君いなくなってるじゃないか」
「げっ、和寅さんだ!」
台所でコソコソ盗み食いしようとしてるところを押さえられたら現行犯だ。益田は立ち上がろうとした、が、突然襟首をぐいと引かれて、ぺたんと座り込む羽目になった。
「え、榎木津さ」
「シーッ、静かに」
そのままずるずると引き上げられ、背後から榎木津に抱き込まれる形になる。2人の姿は食器棚の陰に隠れ、入り口から一見した位では見つけることは出来ないだろう。だが台所は和寅の領域なのだ。きっと早晩発見され、しかもその時には自分は榎木津に熊の縫い包みか何かのように抱えられている。盗み食いは不問になるかもしれないが、この状況は笑い話にもならない。
ちゃんと留守番を頼んだのに、とぼやく和寅の声と、紙袋をがさがさする音が聞こえてくる。それらが遠くに思えるほど、心臓の音ばかりが耳の中でばくばくと響いている。
必死に息を殺す益田の背中に、どさりと覆いかぶさる体温。それ――榎木津は耳元に顔を近づけてきた。
「益山静かに。かくれんぼは終わってないぞ」
「へっ!?」
驚きのあまり甲高い声が出てしまい、慌てて両手で口を覆う。目を丸くしている榎木津に、益田は涙目で囁き返した。
「す、すみません。僕ぁ耳ダメなんですよ、急に声かけられて吃驚しちゃって」
「ふぅん?」
「今何て仰ったんですかね」
榎木津は目を細め、「じゃあもう一回だけ言ってやる。耳を貸せ」と顔を寄せた。
益田も恐る恐る耳をそちらに向けた。意識を集中しすぎたせいか、榎木津の前髪が後頭部に触れる感触すら感じられる。今度は聞き逃さぬよう、目を閉じて榎木津の声をより拾おうとした。そのせいで、榎木津の口元がにやりと歪められたのに、不幸にも気づくことが出来なかったのだ。
…ふっ。
「うひゃぁぁぅ!!」
「何ですか、誰かそこにいるのかね」
悲鳴を聞きつけて入ってきた和寅が見たのは、耳を押さえて這いつくばっている益田だった。口元は何か言いたげに開閉してはいるが、その顔は熟した林檎のようだ。
「益田君、台所をあちこち触ったらいかんと言ってあるじゃないか」
「み、みみみ…耳ッ… 息ッ… 息が…!」
「うはははは、女の子みたいな声をあげたな!さすがカマ!」
「あっ先生まで。何やってんですかそんなところで」
あーあ見つかった、と言いながら榎木津は立ち上がった。
「おやつを探していたんだ。お前も出かけるなら出かけるで握り飯の一つも置いていけ!ぼくが起きた時が朝なんだから、朝ごはんが食べたい」
「嗚呼それは気がつきませんですみません。今作りますから外で待っててください」
益田君そこにいたら邪魔だよ、と掃きだされるように追い出された。未だに腰に力が入らず、這う様にして外に出る。榎木津も長い脚で益田をひょいとまたいでいった。
「おやつは見つからなかったな!実に残念だがまぁいいか、面白いものが見つかった」
にやにやと見下ろしてくる榎木津を、益田は恨めしげに見上げる。下僕としてはお楽しみ頂けて光栄ですとでも言うべきか、実際明日からは耳当てをして通勤すべきなのか。
榎木津は身を屈め、へたりこんだままの益田の耳を引っ張った。笑い交じりのその声は震え、鼓膜ごと脳を揺らす。
「ぼくの弱いところも探してみるといい」
お盆に茶と握り飯を乗せて出てこようとした和寅に、「だから邪魔だと言ってるじゃないか」と小突かれるまで、益田はその場を動くことが出来なかった。
――――
『YES YOU CHANGE THE WORLD!』様の「榎木津と益田語り場」よりイメェジを拝借しました。
本当にお言葉に甘えるやつがあるかと。
因みに2月15日付けの絵をお借りしています。全然違う何かになって申し訳ないことしきり。
背筋がそそけ立つこの感覚を、僕は確かに知っている。
「根念寺―――薬石茶寮のことじゃないんですか」
「コンネン?」
榎木津の視線が外され、益田は全身の力が抜けるのを感じた。
話題の中心はもう別のことに移っている。榎木津の意識もだ。
助かった―――。益田はぼんやりとした頭をゆっくり振った。今更掌にはじっとりと汗をかいていることに気づき、気づかれないようにズボンで拭う。突然緊張を強いられたせいか、座っていただけなのに息があがりそうだ。場違いな声が漏れてしまいそうなのを、必死に飲み込む。
今榎木津は、言葉を使って益田の記憶を引き出し、それらを検分していたのだ。殆ど見えないという片目は、代わりに人智を超えた領域を視ているという。榎木津が見る世界の色はどんなものか、益田は少し考えてやめてしまった。一介の人間が踏み入れば、きっと心を壊される。
榎木津に記憶を探られている間、益田はどうすることもできなかった。逃げることも、目をそらすことも。ただ彼の言葉に鸚鵡返しで、望む記憶の像を引き出されただけだ。けれど震える両目は、異常に近くにあった榎木津の顔の部品を追っていた。面食らいつつも、彼の顔を合法的に見つめる機会を見逃さなかった自分の意地汚さに、益田は自嘲する。
眉骨の上に正確に乗った眉は、榎木津の感情に連動して自由に角度を変え、作り物のような貌に表情という彩を添える。
切り込んだようにはっきりとした二重瞼を飾る睫は、量こそ多いが鳥の羽のような曲線を描いて持ち上がっており、榎木津の瞳を隠すことはない。
すっと伸びた鼻梁は少しの狂いもなく、人工物のようですらあると思う。
唇の隙間からは狂いなく並ぶ歯列と、益田を追い詰めるたびに動く舌が見えていた。
これが自分の限界の距離だと益田は感じた。蝋燭を前にした虫のようだ。近づけば羽根を焼かれ、全身を焼かれる。それでも近づかずにはいられない。焼かれない程度に炎の温もりを感じられるギリギリの距離を知っている、自分の卑怯さを知る。これほど離れていれば、小さな自分が見えることはない。ないけれど。
指一本すら触れていないのに、翻弄される。
自分はこのままだとどうなってしまうのだろうか。益田はそれが恐ろしくもあり、喜ばしくもあった。益田を変えるのは、今までもこれからも、榎木津の存在だけだ。
それを思うと、背骨を何かが駆け上がるような感じを憶える。
益田はこの感覚を知っていた。これはきっと。確かに―――
「…尖っているぞ!ヤマアラシだなッ!」
大声にはっと我に帰ると、いつの間にか話は終わっていた。
榎木津の大きな瞳はこうしちゃいられないとばかりに力を漲らせている。
大股ですたすた歩き出す彼を先頭に、ぞろぞろと関口や本島も続く。益田も慌てて立ち上がり、彼らについていこうとした。
「あ、そうそう、マスヤマ」
「はい」
振り向いた榎木津は、無表情のままで益田を見ていた。
「お前視られるだけでそれか。安上がりなやつめ」
その目は益田の記憶ではなく、益田自身を注視している。
拭ったばかりの汗が、また噴きだすのを感じた。
――――
益田殺すにゃ刃物は要らぬ。